背中

 軍隊で学ぶ徒手格闘が、なぜ組み打ちばかりになるのかというのは、軍人なら誰でも一度は考えることだろう。イングが持つ贈物ギフト拳闘ボクシングは強力な武器ではあるが、戦場ではみな鎧を着ているので、拳の打撃力では十分な効果を得ることができない。たとえ拳を強化するような武器を使ったとしたとしても、相手の得物の長さのぶん不利になる。結局、戦場での拳闘ボクシングは微妙なものにならざるを得ない。

 目の前に立つ男は、自分の贈物ギフトの使い方を間違ったのだ。戦場ではなく、街で若者に拳闘ボクシングを教えるようなことをしていれば、今頃左うちわで暮らしていただろう。せめて、無手であることをいかせる密偵のような任務ならば、拳闘ボクシングは役に立っただろう。普通の兵士となること以上の誤った選択はない。

 月明かりに浮かびあがるイングの姿には、十年前の精悍さも、若者特有の刺々とげとげしさもなかった。

 大部隊同士の戦いならば、斜面の上から攻撃することは有利であるといわれるが、素手の戦いでは必ずしもそういうわけではない。慎重に距離をとりながら斜面をくだり、イングのほうに向き直る。

 戦いを待っていたのは、イングだけではない。私も、いつかあのときの借りを返すことを夢見ていたのだ。あの時、どうすれば勝てたのか。何度も何度も頭の中で考え、軍でも名の知れた拳闘家や、格闘の達人に教えを乞うた。拳闘ボクシングでは勝ち目がないのはわかっているから、別の技術が必要になる。そこで、相撲レスリング贈物ギフトを持つビュアという士官に、対拳闘ボクシングへの対策を徹底的に教わったのだ。

「イング君。もう一度戦いたかったのは、私も同じだ。君にどうすれば勝てたのか、なぜあの時負けたのか。ずっとその理由を考えていた。この出会いは、私にとっても過去の過ちを正すことができるかもしれないという意味で、本当にうれしいものだ」

 そう告げると、私は両手を前に突き出し、腰を低く構えた。

 イングは左肩を前にして半身に構えていたが、その左手はだらりと垂れ下がったままだった。

 稲妻のような左のパンチも、今の状態な打てないだろう。それとも、本当はそこまでの痛みはないのに、こちらを油断させようとしているのか。

 どちらでも構わない。軽いパンチでは、止めることができないはずだ。右の拳から打ちだされる全身全霊のパンチだけを警戒すればいい。

 低い姿勢から、踏み込むかのような動きで何度かイングを牽制する。足首が痛いからか、すばやい足さばきこそは見えないが、こちらの意図を察したのか小刻みに体を動かして隙がない。

 業を煮やした私は、一歩後ろに下がるとすっくと背筋を伸ばす。低い姿勢からの組みつきを予想していたイングは、その行動に一瞬だけ集中を途切れさせた。

 はじめから、低い姿勢からの諸手刈もろてがりしか考えていない。

 その隙を見逃さず、私は前に体を倒れこませて地面を蹴る。

 低く、低く、相手の足首を狙うような心構えで。

 ビュアという相撲レスリングの名人は、後頭部にタンコブひとつもらう覚悟があれば、絶対に負けないといっていた。相手が一流であれば、こちらが諸手刈もろてがりをきめる前に、どうしても一撃をくらってしまう。だが、その覚悟さえあれば耐えられるはずだというのが、ビュアの説明だった。そして、相手を転がしてしまえば、負けることはありえない。

 何度も何度も、身を低くしてからの踏み込みを繰り返したのだ。

 私がイングの足を掴んだ瞬間、背中に激しい痛みを感じる。

 思わずニヤリと笑ってしまう。

 後頭部への一撃なら意識を失ったかもしれないが、背中なら耐えられる。

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