Execute.01:少年、ゼロの狭間に揺蕩う -Days of Lies-
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「――――零士、零士ってば!」
柔な昼下がりの日差しが差し込む、窓際列の最後尾の席。そんな教室の隅で読書に耽り、活字の海に意識を投げ込んでいた
「……小雪か」
ぱたん、と零士が栞を挟んだ本を閉じ、声のした方に振り向くと。そこに……零士のすぐ傍に立ち尽くし、腕なんか組んで見下ろす少女の顔が視界に飛び込んでくる。
何となく不機嫌そうな表情と目付きで零士を見下ろす彼女は、
「もうとっくに授業も、帰りのホームルームも終わっちゃったよ?」
「そうなのか?」
「あー……そうだとは思ったけどさ。零士、やっぱり気付いてなかったか」
あちゃー、と片手で頭なんか抑えつつ、小雪は呆れるみたいな仕草を大仰にしてみせる。
「零士ってば、読み出すとホントいつもこれだからねぇ。授業サボるのを私がどうこう言う気はないけどさ、流石にホームルーム終わったのまで気付かないのは、どうかと思うなー?」
「……悪かったよ、以後気を付けるとする」
「それ、今年に入って聞くの二十回目ぐらいなんだけど」
「俺の記憶には無い、つまりノーカウントだ」
「ちょっ、暴論!?」
ぎょっと大袈裟に驚く小雪に、零士はニヤリと微かな笑みを返し。そうすれば手に持ったままだった本を机の上に置き、うーんと軽く伸びをしてみる。凝り固まった身体がポキポキと音を立てれば、何だか少しだけ解れたような気にもなった。
今さっき小雪が言った通り、授業をサボって読書に耽るのが、零士にとって専らの学生生活というものだった。つまらなく、そう大して役にも立たない授業を一時間近くも聞いているよりは、本の世界に飛び込んでいる方がずっと良い。そんな――ある意味で超・独善的な判断から、零士は大抵の授業を、こうして読書に耽ることで時間潰しとしていた。
とはいえ、授業どころか帰りのホームルームが終わったことにすら気付かなかったのは、我ながら呆れてしまう。さっき小雪に言われた通り、読書に夢中で、終わったことに気付かないまま放課後を迎えた回数は、二年に上がってからの回数だけでも計り知れない。その度にこうして小雪の手で現実に引き戻されているのだが、本当に我ながらどうかしているとしか思えない。
思えないのだが、こればかりは性分なのでどうしようもないと零士は思っている。一応改善しようと努力はしてみているものの、それが無駄であることは零士自身、そして彼のサルベージ役を毎回買って出てくれる小雪ですらも分かりきっていることだった。
「ところで、今日は何読んでたのさ?」
「……ん、これだ」
後ろで両手を組み、腰を折って覗き込んでくる小雪に、零士はそっと机の上の本を見せてやる。
本のタイトルは『長いお別れ』。洒落た風に言い換えれば『ロング・グッドバイ』。1950年代の米国人作家、レイモンド・チャンドラー作の、ハードボイルドの草分け的な小説シリーズの一つだ。主人公の私立探偵フィリップ・マーロウは、今やハードボイルドそのものの象徴と言っても過言ではない。最近では村上春樹の新訳版が広く流通しているが、零士が持っているのはそれより少し古い、清水俊二が翻訳したものだった。
「うーん、相変わらず硬っ苦しいの読んでるなぁ」
「チャンドラー、知らないか?」
「私が知るわけないじゃんって」
微妙な顔で苦笑いをしつつ、小雪が顔の前で小さく仰ぐように手を横に振る。
「もう少し柔らかいっていうか、言い方が思い付かないけれど……。そういうのは零士、読まないの?」
「娯楽小説とか、ライトノベルの類も読むぞ? あまり選り好みはしないんだ。面白いものは面白いし、そうじゃないのはそうじゃない」
そう言いながら、零士は小雪に見せてやっていた本を傍らのスクールバッグに、机の中に仕舞われていた教科書類と一緒に放り込む。
「というか、小雪こそ本は読んだ方が良いぞ」
「あはは……私はなんか、文字を延々と追いかけるのが苦手だから。遠慮しておこうかな」
「なるほど、通りで現代文の成績がズタボロなはずだぜ」
「いっ!? や、やめてよ零士っ! 痛いところ突くってレベルじゃないって!」
焦る小雪に「ふははは」なんてわざとらしく笑って追い打ちを掛けてやりながら、零士はさっさと帰り支度を済ませてしまった。随分と重くなったスクールバッグが、ドンッと重い音を立てて零士の机に置かれる。
「というかさ零士、この後って何か用事入ってるのかな、かな?」
そうしていれば、少しばかり唐突なことを小雪に訊かれて。零士は怪訝に思い首を傾げつつ、
「別に、取り立てては無い」
と、それに答えた。
「……まさか、また連れ回されるのか?」
そうやって答えた直後、何となく小雪の言いたいことの見当が付いてしまい。零士が少しばかり顔を青ざめさせながら訊いてみると、しかし小雪から帰ってきたのは「ぴんぽーんっ♪」とご機嫌な、しかし零士にとってはあまり歓迎しがたい回答だった。
「だいせいかーいっ! 今日も付き合ってよ、零士っ!」
「俺はタクシー代わりかよ……」
「むふふ、良いではないか良いではないか。いいじゃんさ、いつものことだしー? 折角
零士が参った顔で溜息をついていれば、そんな零士の腕に絡みつくようにして、悪代官の如き笑みを湛えた小雪がそう、誘いかけてくる。
こうなってしまえば、小雪はもう零士の手じゃ止められない。活発で脳天気、それでいて強引なところも持ち合わせているのが小雪の良さで、そして厄介な部分でもあるのだ。そんな彼女に詰め寄られてしまえば、腐れ縁に等しい零士にとって、彼女のこれに抵抗する手段は最早存在しないも同然なのだ。
「分かったよ、俺の負けだ」
なので、割に早く零士は折れた。離れた小雪が「やったぁー♪」と、ぴょんぴょん飛び跳ねんぐらいの調子で喜んでいるのが横目に映る。
こんな子供っぽい仕草でも、小雪だと妙に画になるのだから卑怯だ。一五〇センチ後半の小柄な体格が嬉しそうに動き、それと連動して黒いポニーテールの尾までもがゆらゆらと揺れていれば、見ているこっちまで何だか嬉しくなってきてしまう。周囲の人間に否応なく幸福感を振り撒く、それがもしかしたら、小雪が生まれ持った
「ささ、そうと決まれば! 早く行こうよ、零士っ!」
「おわっ、引っ張るなって! まだ荷物あるから!」
「早く早くっ! 善は急げ、思い立ったが吉日って奴だしさっ!」
「後半は何か違う気がするが……まあいいか!」
小雪にぐいぐいと引っ張られるのに抵抗しつつ、何とか自分のスクールバッグを肩に掛け。そうして零士は小雪の手に引かれるがまま、二年A組のがらんとした教室を出て行った。
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