第9話
ひとしきり落ち着いたエリンは、私の背に隠れているゼルに視線を向けて呆れたように言った。
「しかしまあ、気付かないわけです。性別が変わってるなんて思いませんでした」
・・・・・・なんて?
エリンの言葉にビクリと動いたのは私とゼルのどちらだったか。
ゼルは少し首をひねり、私に耳打ちしてきた。
「生まれはちゃんと女だからね」
「え、え?」
混乱する私を見て、エリンが補足する。
十年前に霊人国と魔人国が講和を結んだ時、会談の席を設けたのはバイエル家なんですよ。その時に、ゼルマ様のことは遠くから拝見したことがあるんです」
十年前か。エリンは出席しなかったにしても、それならニアミスしていてもおかしくはない。
流石にそれだけ昔では、どちらにしろ気付くのは難しいとは思うのだが。
そしてその席では、ゼルは男だった・・・・・・という話だろうか?
「魂魄に関する呪術のエキスパートがうちに居たんだよ。それでちょっとした性転換もどきができるって言うから、その時期に一度男になってた。1年前辺りに戻したけどね」
背後のゼルから説明が入る。そんなトンデモ呪術があったというのはちょっと信じがたいが、特に嘘を言っている様子もない。
「全然知らなかったんだけど」
「男のほうがよかった?」
いやそうじゃなくて。
でももし男だったら・・・・・・えっと。
「・・・・・・・・・・・・別に」
「間が長い。まあいいや、その辺の話は今度ちゃんとするよ」
如何ともし難いもやもやした気分になりつつ、私はため息をついた。
「じゃあ、レナーテさん。お願いします」
話が一段落したと見たエリンが、居住まいを正して私を見つめてくる。
ゼルは様付けで私はさんなのか、と一瞬思ったが、勇者というのは役職上の権威は特にないので何もおかしくはなかった。そもそも、すぐ忘れてしまいそうになるがこのエリンもそこそこに偉い地位にいる人間だ。
――さて。きちんと説明できるだろうか。
辛くて苦しいばかりだったあの2年のことを、誰かにきちんと話したことは一度もない。ゼルと断片的な内容を共有したことはあるが、順序立てて人に教えるというのは初めてだ。
それでも、エリンを巻き込むと決めたのは私である。
一つ深呼吸すると、私は意を決してエリンを正面から見据えた。
「始めに言っておくけど」
エリンは神妙に頷く。
「これを聞く以上、命の安全は保証出来ないから」
「え゛」
エリンの顔が引き攣り、背中ではクスクスと笑う気配がする。
私は、当時の記憶を慎重に掘り起こしていった。
******
故郷を離れて旅に出たのはいつのことだったか。別に家の居心地が悪いというわけではなかったけれど、私は割と田舎寄りに住んでいたから「外」への憧れが強かったのかもしれない。出発した時はそんな長い旅になるとも考えていなくて、呪術をちゃんと覚えて自衛出来るようになったのも家を出て半年くらい経ってからのことだった。
基本的に観光中心の一人旅だったのだが、いつの間にか呪術の上達に夢中になり、路銀を稼ぐのも与しやすいからといって傭兵まがいのことばかりするようになっていた。
八代目魔王が即位し戦争が終わり何年も経っていたが、霊人族と魔人族の間に争いの種は幾らも残っていた。戦争の歴史があまりに長かったせいか、若い世代は兎も角としても上の世代は戦争の終結自体に納得していない人も多かったのだ。
古くややこしい事情があるものを抜きにしても、霊人と魔人の接触が起こりやすい中立都市ではトラブルの起こらない日の方が珍しい有様だった。
私が傭兵まがいと言ったのは、その手の喧嘩が大掛かりになった時などに駆り出される人足だ。基本的には霊人の依頼者に付いて魔人を叩きのめすのだが、事情がおかしかったり依頼主がムカついた時には寝返ったりしていたので、双方で(色んな意味で)評判になってしまっていた。
そうして力技の解決をしょっちゅう手伝っていたら、もうとっくに形骸化した勇者の称号を貰ってしまったのである。
勇者と言えば、「魔人族との抗争などで大きな戦果を上げ、その時代で最も勇猛たるもの」といった定義のはずだが、国が何を考えていたのかよく分からない。
仲間曰く、「そもそも廃止するかどうかで揉めてたけどまだ結論が出ないから、野心に縁が薄そうな人間に一旦称号を預けておこうという腹づもりだったのではないか」なんて話はあったけれど。確かに私は野心も大望も持っていなかったけど、一体いつそんなことを観察されていたのやら。
そう。中立都市付近でそんな生活を送っているうちに、私には二人の傭兵仲間ができていた。
一人はマリウスという筋骨隆々の男。背は高いし目付きも鋭いので、一見するとちょっと怖いのだが、喋ってみれば穏やかで話しやすい奴だった。見た目に反して私達の中で一番冷静で頭が切れた。さっきの勇者の話も彼の意見である。
もう一人はアナ。泣きぼくろの目立つ陽気な女の子で、よく物の本質をズバリと言い当てる子だった。一番の親友で、旅人として危なっかしかった頃の私を何度も助けてくれた。
二人とも私より2つかそこら年上で、自然と三人で行動するようになってから私は妹のように可愛がられていた。やってることに華はなかったけれど、確かにその時の私は楽しくやっていたのだ。
――その「本」が届くまでは。
「本」が届いたのは、私が勇者となった少し後のことだった。私は中立都市からちょっと足を伸ばして、リスニルに観光へ来ていた。そこで宿に泊まった翌日、朝起きるとその本が一切の前触れもなく私の枕元に置いてあったのだ。
見たことのない装丁で、赤黒い表紙に白い文字で何か書かれている。私の知らない文字だった。他にも、ずっと見ていると吸い込まれそうな幾何学模様が描かれていて、中は完全な白紙だった。
最初は珍しい本だなぁと思いながら眺めていたが、そもそもどこから降って湧いたのか。少し気味悪く思っていると、白紙のページに独りでに黒い文字が浮き上がってきた。
今度は私の読める現代文字だった。「リスニルの二番街で魔人を二人殺せ」と。
「……え?」
背筋が冷える。見なかったことにして、本はその場に捨て置いた。
嫌な予感はしたが、それでもこの時は質の悪い悪戯か何かとしか思わなかったのだ。
数日経って、そんな本のことなど忘れた頃。街の喫茶で、何度か会う内に仲良くなった女性店員さんと談笑していたら、突然その人が血を吐いて倒れた。
かふ、という乾いた声と共に顔は苦痛に歪み、一瞬こちらに顔を向けようとしてそのまま事切れる。誰がどう見たって即死だった。
あまりのことに呆然としていると、前に捨て置いたはずのあの本が手元に出現していた。
「なに、を」
恐る恐るめくると、「リスニルの二番街で魔人を二人殺せ」のページにはバツがつけられている。そして、次のページには新たに「二日以内にリスニル三番区の地下通路を封鎖せよ」という文字。
――まさかこの指示に従わなければ、こんなことがまた起こるというのか。
そんな突拍子のない発想を、私の直感は否定してくれなかった。
騒然となる周囲の悲鳴や叫び声もまともに耳に入ってこない。何か途方もない事態に巻き込まれたことを感じ取りながら、私はその場で立ち尽くしていた。
……その死の瞬間の光景が、いつまでも目に焼き付いて離れてくれない。
私はこのことを、アナとマリウスの二人に相談出来なかった。
いや。正確には、「話してしまえば取り返しの付かないことになる」と感じていた。そう思わせる何かが、この不気味な呪書にはあった。
店員さんが何か持病を持っていたという話もない。毒の類でもなかったらしい。何かしらの呪術が発現していたのは間違いないと思ったが、それでも信じがたい話だった。
呪術というのは、「人の手でできると信じられているものを、呪力という対価を払って実現する」ものだ。「まじない」であって「のろい」ではなく、人の治癒や補助を原義に持つものである。
昔より研究が進むうちに、「人が道具を利用してできること」も呪術で道具を使わず再現できるようになってきて、想像力や発想次第でもっと広く応用できるのではないかと言われてきているがそれにしたって限度はある。
幾ら応用範囲が広いからといって、術者の姿も見えないのに人を突然死させるなんて無茶な話は全く聞いたことがない。近くの図書施設で少し調べてもみたが、どんなにイメージで補おうと人の身に余る呪力量が必要に思われた。
まして、そのトリガーがこの呪書に私が従うかどうか、なんて。
ありえない。あってたまるものか。
それでも私は、結局呪書の二つ目の指示に従った。
店員さんの死は、私にトラウマを植え付けるには十分だった。
通路の存在をそもそも知らなかったので、探すところから始めた。どうもそれは民間人には知られていないもののようで、重要性や機密性の高い商取引や、要人の緊急経路として利用されているらしかった。
ある、という話を前提に動けば発見自体はそこまで苦労せずに済んだのだが、封鎖と言われても個人でどうしていいか分からず、結論として私はその地下通路を派手に崩落させた。
その翌日の街は大騒ぎになっていて、噂を聞く限りでは商工ギルドが一つ大変な損失を出したとか、とある魔人の貴族が崩落の近くで殺されていたとか。
私は事の詳細を調べようとはしなかった。
きっと、それは知りたくないことばかりだっただろうから。
呪書の2つ目の指示には丸がついていた。
私は、即座に3つ目の指示が出てくるのかと身構えていたがそうなることはなく、暫しの間私は呪書のことを忘れることができた。一度従えば、それで終わりだったのだと信じて。
そうしてまた、三人で傭兵の仕事をしながら数週間が経って。
呪書は、私の元に新たな文字を添えて戻ってきた。
――次の指示は、「自らの命を絶て」、だった。
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