こころ、消えてなくなれ

音海佐弥

 第1話 きおく

 ――ねえ、刻都ときと

 体温をすべて奪い去ってしまうほどに暴力的な夜の暗闇のなかで、その声はしずかに響いた。安っぽい映画を演出する下手くそなスローモーションのように、明滅をはじめた時間がぼろぼろに崩れ落ちていくみたいに、世界は形を変え、うなり声をあげながら、ひとり軋む俺を残してゆっくりと滅びていく。

 ――ねえ、刻都ときと

 どうしてこうなったんだろう、と思った。俺はただ、彼女との想い出を抱いて、彼女といっしょにいる現在を過ごして、彼女の見つめる未来を見たかった、ただそれだけだった。それだけだったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。

 どこかでだれかが叫んでいた。聞き覚えのある男の声だ。「おまえのせいで、おまえのせいでッ!」うるせえよ、なんの話だ、もう黙れよ、それどころじゃねえんだよ、ゆっくりと滅びていく世界のなかで、俺は目の前のすべてを呪った。

 男の右手に銀色の光が閃く。その鋭い切っ先には、ぽたぽたと赤い液体がしたたっていた。仰向けに倒れている俺に覆いかぶさるように這いつくばる彼女は、浅くはやい呼吸を繰り返している。どうしてこうなったんだ。そればかりがぐるぐる巡る。その問いかけに答えることなく、彼女はゆっくりと口を開く。

 ――私をちゃんと――。



 暗転。

 出来損ないのドラマみたいに、俺の記憶はここで途切れていた。

 その続きを、俺はどうしても思い出せなかった。

 彼女の名前も、表情も、細やかな仕草までも鮮明に思い出せるのに。くだらないことで笑いあった日常も、綺麗な声で語ってくれた夢も、彼女にまつわることはぜんぶ、鮮明に思い出せるのに。六年前のあの事件のことも、こんなふうにきのうのことのように再生できるのに。

 憶えていたかったのに。

 忘れたくなかったのに。

 彼女とつながるあの約束を、どうしても思い出せなかった。

 俺の耳許をやわらかくくすぐる声。

 それを言い放ったときのぎこちない笑顔。

 力なく揺らめく瞳の光。かすれていく呼吸。

 ――ねえ、刻都。

 なんだ?

 俺の名前を呼んだその言葉の後に、彼女はなんと言った?

 ――ねえ、刻都。私をちゃんと――。

 見ていてね? 助けてね? 守ってね? どれも彼女が言いそうで、どれも正解じゃない気がした。

 じゃあ、なんだ?

 六年前のあの日、彼女が俺に放った言葉は、いったいなんだった?

 なあ、悠伽はるか

 君はいまどこにいて、なにをしていて、俺にどうしてほしいんだ?

 どうしてきみはあのとき、そんなにも哀しい顔で、俺に微笑みかけていたんだ?

 どうしても思い出せなかった。

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