第5話 妖花とギフトと物干しと。

 ゴブ子がシンクから戻るとテーブルの上には香る湯気立つマグカップが置かれていた。

 ゴブ子はそれを手に取るとゆっくると傾ける。

 その様子を道充は眺めながら、自分のカップを傾け、それからおもむろに口を開いた。

「ちょっと出かける」

「ン」

 ゴブ子は小さく答えるとカップを傾ける。

 道充もカップを傾ける。

 上る湯気、小さな吐息。

 その小さく緩やかな吐息に連れ出されるように、ゴブ子の口から言葉が零れる。

「どこニ?」

「ん? ああ、実家にな」

「実家?」

 ゴブ子が少し首を傾けた。

「親にでも会いに行くのカ?」

「いや、もう誰も住んでねぇよ」

「住んでなイ? そんなところになんでわざわザ?」

「いや、たまには空気の入れ替えもしてやらんといけないしな。様子を見に行くって感じだ」

「ひょっとして一戸建てなのカ?」

 ゴブ子の耳が大きく伸びあがった。

「一戸建てって言っても相当古いぞ?」

「庭ハ?」

「まぁ、そこそこの広さの庭がある」

「おオ!」

 ゴブ子の耳がさらに上下に跳ねる。

「そんな期待する程の家じゃないぞ?」

「いやいヤ、一戸建てというだけで大したものだゾ。一財産じゃないカ! ン? そういえばチンピラも言っていたナ。ここから遠いのカ?」

「街はずれだからなぁ。車で三十分ってところか」

「くるま? タクシーで行くのカ?」

「いや、自分の車で行く」

「自分ノ! 主、車なんか持ってたのカ!」

 ゴブ子の耳がさらに跳ねる。

「なんで今まで黙ってタ?」

「借金のかたで動かせなかったんだよ。駐車場代も滞納してたしな。まぁすぐに使う予定もなかったから放っておいたってのもあるが」

「まぁいイ」

 不満げにゴブ子はつぶやく。

 耳は上下に踊る。

「どんな車ダ?」

「ミニバン、ってわかるか?」

「わかルわかル、ちょっとでかいやつナ。へェ良いじゃないカ」

「お前ついてくる気なのか?」

「何か問題でもあるのカ?」

「いや、別に構わないが、面白いことなんてないぞ?」

「そうカ?」

 ゴブ子は耳を揺らしながらすこし首を傾け、口角を上げて見せる。

「知らない車に乗ったリ、知らない家に行くのっテ、ちょっと楽しくないカ?」

「あー、それはわからんでもない」

「そもそもわれは家につく妖精の側面もあるからナ」

「なるほどな。じゃあ、行くか?」

「ン!」

 ゴブ子は頷くとカップを大きく傾け、中を飲み干す。

「じゃア布団モ持っていこウ」

「布団?」

 今度は道充が首をかしげ、手に持ったカップを傾けてこちらも飲み干す。

「なんで布団? べつに泊まるわけじゃないぞ? いや、泊まってみたいのか?」

「そうじゃなイそうじゃなイ」

 ゴブ子は椅子から飛び降りるとカップを手にシンクに向かう。道充もその後を追うように立ち上がった。

「布団を干すんだヨ、布団ヲ」

「布団なんて布団乾燥機かければいいだろ? 結構まめにかけてるぞ?」

 ゴブ子はシンクの前の椅子の上に飛び乗る。

 水がシンクを叩く音。

 ゴブ子は振り返る。

 道充は手に持ったカップをゴブ子に渡した。

「わかってないナ」

 ゴブ子は水の弾ける音に合わせるように、小さく拍子をとる。

「お天道様をたっぷり浴びた布団は気持ちがいいゾ? 干せるところがあるのなラ、毎日とは言わんガ、干すべきダ。というカ、干セ! われは気持ちいい布団で寝たイ!」

「乾燥機で乾燥させた布団だって悪くはないだろ?」

「悪くはないガ、そういうことじゃなイ!」

 振り返ったゴブ子が指を弾く。

「つめた! わかった、わかったよ。しかし駐車場まで布団を運ぶのは難儀だな、しょうがない、まわすか」

「準備しとク」

 ゴブ子はシンクに向き直ると軽く片手をあげる。

 道充はその姿を、肩をすくませて見るしかなかった。

 


 

 軽い振動と共に車がアーチ状の屋根のある駐車スペースに滑り込む。

 道充はゆっくりと車を前にすすめると、車内にアラームが鳴り響いた。

「なんダ?」

「衝突防止の警告音だ」

「衝突? 前には衝突するようなものは特に何も見えないガ?」

「丁度センサーのあたりに草が生えてるんだよ」

「ふーン」

「そっち側狭いから降りるとき気をつけろよ」

「われは些細な隙間でもすり抜けられるかラ、問題なイ」

「お前の心配なんかしてない。ドアを開ける時にぶつけるなよってことだ」 

「そういうことナ」

 ゴブ子が被ったパーカーのフードの側面が波打つ。ゴブ子はゆっくりとドアを開いた。

「誰かくるのカ?」

「いや? なぜ?」

「わざわざ寄せて停めたからナ。誰も来ないなら真ん中に停めればいいの二」

「確かに……」

 駐車スペースは二台分あるが、いつも左に寄せて停めていたので自然にそうなったというに過ぎない。

 誰も来ないのなら真ん中に停めてもいいだろう。

 しかし次に停めるときも、おそらく左に寄せて停めるだろうとも道充は思う。

「ま、慣れないことはしないに限る」

 道充はそうつぶやくと車を降りた。

「もっと荒れてるかと思ったガ、手入れされてるナ」

 先に降りていたゴブ子が駐車スペースの端から庭を眺める。

「母か姉家族が手入れしてるんだろ」

「住んではいないのカ?」

「母親は姉の家族と暮らしてるよ。そろって庭いじりが好きだから、たまに来てるんだろうな」

「お前が不甲斐なク、ほったらかしにしているかラじゃないのカ?」

「否定はしない」

「まったク」

 軽く答える道充に対し、ゴブ子は重めの息を吐く。

「とにかく入るか」

「まてまテ、布団を持ってってくレ。われでは運べン」

「そこの物干しで良くないか?」

 庭先の古びた物干し台を見る道充。

 ゴブ子は首を横に振り、上を見上げた。

「二階のベランダに干ス」

「二階に上げるのかよ。面倒だなぁ」

「四の五の言わずニ運ベ!」

「わかったわかった」

 そう言いつつも道充は車には戻らず、庭を抜けて玄関の方に向かい始める。

 ゴブ子もその後を追う。

「とにかく鍵を開けないと。布団を持ったまま鍵を開けるなんでことは手間だし、二階に上げるなら中から庭面の雨戸を開けて、そこから入れた方が良いだろ?」

「ふム」

 道充はズボンの左ポケットから鍵を出す。

 玄関の鍵穴に差し込み軽く回す。

 小さな金属音が響く。

 道充はノブに手をかけると軽く引いた。

「ただいま……」

 道充は小さくつぶやくと、靴を脱いで三和土から上がる。

 ゴブ子も一段高くなったところに腰を掛けてブーツを脱ぐと、パーカーのフードを首の後ろにおろしながら道充に続く。

「思ったより澱んでないナ」

「庭の手入れをするついでに開けてるんだろうな。俺が来るまでもなかったか」

「いやいやまめに来いヨ。というカ、こっちに住んだほうが良くないカ? 広いシ」

「仕事を受けるのにはあっちの方が都合がいいんだよ」

「たいして仕事もしていないのに良く言ウ」

 短い廊下を抜けて畳敷きの居間に入る。 

 道充は居間を抜けて広い廊下に出ると、庭に面した掃き出し窓を開け、さらに雨戸を開けていく。日の光が差し込み、陰に塗られていた部屋が明るく照らし出される。

「ありゃ……外に出るサンダルが無いな」

 沓脱石を見下ろして道充がぼやく。

 おそらくずいぶん前から無いのだろうが、来ても外に出たことなどないので気が付かなかった。道充は頭を掻きながら掃き出し窓を開けたままに、玄関へと足を向ける。

「どうしタ? 布団を取ってくるんじゃないのカ?」

「靴がない」

「あァ」

 ゴブ子は頷きながら、道充について居間を出た。

「待ってればいいぞ?」

「いヤ、二階は誰の部屋だったんダ?」

 玄関につながる廊下にある階段を見上げるゴブ子。

「俺のだ」

「ふーン。上がってモ?」

「構わんけど、あんまりいじるなよ?」

「……わかっタ」

 小さく息を吐きながら答えるゴブ子をおいて道充は外に出る。

 ミニバンのバックドアを上げると布団を運び出す。

「マットレスまで干すとは思わなかった」

 しかしそのマットレスを抱えると、微かに湿気っぽいのがわかる。乾燥機では乾かしきれないということだ。

 庭の中を何度か往復して家の中に布団を運び込むと、ミニバンをロックして再び家に入る。

 そして廊下に積まれた布団を見て小さく息を吐くと、居間を通って二階へと運び始めた。

 二階の部屋はすでに雨戸が開かれ、日が差し込んでいる。

 道充は足元に気を付けながら布団を運び込むと、ひとまず部屋の左側にある空いたスペースに布団を下した。

「まぁ予想はしていたガ……」

 雑巾を手にベランダから戻ってきたゴブ子が腰に手を当てて道充を見上げる。

「意外と片付いているだろ?」

「どこがダ?」

 ゴブ子はあたりを見渡しながら静かに言葉を吐いた。

 とにかく物が多い。

 その大半は本だ。

 右の壁には仕切りのゆがんだカラーボックスが詰まれ、本が縦横無造作に詰め込まれている。

 そのカラーボックスの隣には部屋には不釣り合いな重厚な机が置かれ、その机の上にも本が平積みになっている。

 机の後ろ側にも幅の薄い本棚が天井と床に挟まれるようにして据え付けられ、そこにも本が無造作に、並びもでこぼこに詰め込まれている。

 ベランダに沿ったスペースは最もひどい。

 左側は段ボールが積まれているものの、かろうじてベランダに出ることができる。

 しかし右側は段ボールからも本が溢れ、すでに歩くことも困難なほどの本が、まさしく放置された状態だった。

「住んでないかラ倉庫状態だナ」

「いや、住んでる時からこんなもんだ。今のほうが物が少ない」

「だと思っタ」

 ゴブ子は少し口角を上げ、微妙に耳を揺らしながら息を吐く。

「まぁそれは後ダ。布団を干セ」

「仰せのままに」

 道充は恭しく頭を下げると布団を抱えてベランダに出る。

 そしてベランダの柵に布団をかける。

 柵の汚れは気にしなかった。

 ゴブ子が持っていた雑巾は柵を拭くのに使ったのだろうことは間違いない。

 自分なんかよりずっとそういうところに気が届く奴だからなぁ。

 そう思いながら布団を干す。

 干し終わるとベランダから上を見る。

 雲はあるが太陽を遮るほどではなく、日の光が程よく降り注ぐ。

 雨の心配もなさそうで、湿気もあまりない。

 家の中に風を通すのにも、布団を干すのにも申し分ない。

 自然と肩の力が抜け、口から心地よい息が吐き出されていく。

 視線が青い空から碧い庭に向いたところで部屋の中からゴブ子の叫び声。

 先ほどよりは少し重い息が道充の口から洩れる。

「どうした? ネズミでも出たか?」

「でっかいねずみダ」

「え? マジか?」

 お気に入りのダブルのスーツをネズミに齧られてダメにしたことを思い出しながら、道充は慌てて部屋に入った。 

 部屋の中で仁王立ちになるゴブ子。

 その視線の先を追う道充。

「ども」

 その視線の先、積まれた本の上に正座をして、『それ』は居た。

「これはまた妖しい」

「本当に怪しイ」

 それは人間の女性に見えた。

ただしかなり大きい。

座っているのでよくわからない部分はあるが、背丈はおそらく二メートル近い。

 肩幅も広く、腰つきも締まってはいるもののがっしりと太い。

 赤い革のような素材でできたコルセットとホットパンツのような衣服で白い肉感のある身体を包んでいる。

 その白い肌には幾筋かの傷痕が走っている。 

 顔は目鼻立ちがはっきりとした美人といえる。左目は垂れ気味で瞳が小さく白目が多い。瞳の色は淡い金色で透くように輝く。ただ右目は眼帯に隠され、そこから引きつれた肌が覗いて見える。

 髪は薄い灰色でうしろで無造作に縛っている。

 四肢も長くすらりと、そしてしっかりと太い。ただ左手は銀色の鉤爪になっていた。

「……いろいろ盛りすぎだろ」

「盛りすギ?」

「いやまぁ、何でもない」

 その女は道充に顔を向けると、温和に微笑んだ。

「えっと、たぶん、お久しぶりです」

「お久しぶリ?」

「いやいや知らんぞ?」

 睨むゴブ子に道充は首を横に振る。

 その様子を見ても女は温和に微笑み続ける。

「この姿でお会いするのはたぶん初めてなので」

「この姿?」

 ゴブ子と道充は顔を見合わせる。

「まぁ人間でないのはわかるガ」

「そうだな。その口ぶりだと以前に俺と会ったことがあるみたいだが……どこで会った?」

「もちろんここで、です。そのはずです」

「何者ダ? お前?」

「わたしですか?」

 女は微笑みを浮かべたまま少し顔を傾けた。

「……たぶん、本です」

「本?」

「本」

「これカ?」

 ゴブ子が手近な本を持ち上げると、女は小さく首を振り、そして頷いた。

「それ、というわけではないですけど……そうです」

「いやいやいや、今までそんな気配もなかったぞ?」

「いつもはこの姿で人前に出ることはなかったんですが、なにか……そちらの方に引っ張られて、出てみてもいいかなーなんて」

「われ?」

「あーお前のせいかー」

「われは何もしていなイ!」

「まぁ聞け」

 声を上げるゴブ子を道充がなだめる。

「お前、まぁあまりにもこっちに毒されているから俺も忘れそうになるが……お前はここでは異質な存在だ」

 道充の言葉にゴブ子は睨みつつ、曖昧ながらも頷く。

「そも存在というのは周りの影響を受け、周りに影響を与える。俺然りお前然り」

 指で拍子をとりながら饒舌になる道充。ゴブ子は少し耳を垂らし、それでも神妙に聞く。

「まぁそれは解ル」

「で、だ。お前は異質な分、周りに与える影響が大きくなる。お前自身の血統が強いってのもあるか。一族にいるんだろう? 偉いのが。確かジャレとかガスとかいったか?」

「血統の話はいイ。だがまぁ……そうだナ」

「これは意図しているしていないの問題ではなくてだな、影響を与えるというのが自然なことなんだ」

「なんだそれハ! 自然なことならわれは悪くないだロ!」

「悪いとは一言も言っていないぞ。お前のせいだと言っている」

「同じことだロ!」

「あのーそろそろいいですか?」

 控えめな声で本が割って入る。

「おお? そうだったそうだった」

「図体の割に控えめな奴だナ」

「主成分はこちらなので」

 そう言って手に取ったのは装丁の大きめの本。

 その表紙に描かれているのは肌色成分多めの女性。

 色調は明るく題字がポップでカラフルに大きく描かれている。

「だと思ったよ」

「なんダ? 何の本ダ?」

「成年漫画だな」

「成年漫画?」

 ゴブ子は本からその本を受け取って中を見る。

「ああ、HENTAICOMICカ」

「わたしみたいなのは大っぴらに楽しむものではなく、密やかに楽しむものですから」

「うん。わかる」

「まぁいろんなところは大っぴらにするんですけどね」

「うん。エロい」

「それはいいかラ!」

「なんだよ妬いてるイタタタタタ!」

「仲の良いのは結構なんですが、お話を聞いていただけますか?」

 あくまでも控えめに、しかし良く通る力強い声で本が再び割って入る。

「おお、すまんすまん、こいつが噛みついてくるもんでな」

「噛みついてなどいなイ!」

 本は微笑んで道充とゴブ子、二人を交互に凝視する。

「お話を伺いましょう」

「ありがとうございます」

 本は軽く頭を下げると再び話し出す。

「それデ?」

「はい。わたしを探してほしいんです」

「おまえヲ?」

 聞き返すゴブ子に本が再び頷く。

「探せっテおまエ、ここにある成年漫画の集合体みたいなもんなんだロ?」

「それはそうなんですが……」

 本はそこで言葉を切って当りを見渡す。

「おそらく核となる本があるはずなんです」

「なんて本ダ?」

「それがわかるなら苦労はしません!」

 すこし口調を強めて本が返す。

「自分のことだろ? わかるだろ?」

 道充の追及に、本は道充を見る。

 左の目尻が少し柔らかく、口角も温和になっているのが見て取れる。

「貴方たちだって、自分の何たるかを説明できますか?」

「なんか哲学的なことを言い始めたな」

「主体は成年漫画ですが、この部屋にある本の影響は受けてますから」

「本棚を見るとその人がわかるというガ、こいつを見ていると納得だナ」

「どういう意味だ?」

「偏った上に節操がなイ」

「節操がないとか心外なことを言うなぁ」

 道充は少し眉を歪めてゴブ子を見る。

「おまえ食べ物で何が好きだ?」

「なんだいきなリ?」

「いいから」

「んー……肉だナ。ハンバーグとか好きだゾ」

「じゃあ毎晩ハンバーグ喰うか?」

「そりゃ喰わんだロ、違うものが喰いたい時だってあル……ああ、そういうことカ」

「そういうことだ」

「おかずだけニ」

「誰がうまいことをいえと」

「おかずだけに美味いことですか?」

 抑揚なく話に割り込んでくる本。

「失礼」

 そういうと道充は少し背を伸ばして本の方に身体を向ける。

「で、探してどうする?」

「えーと、ここの本を処分されるつもりなんですよね?」

「ん? そんなつもりはない」

「そっちのかたはそうでもないようですが?」

 本の視線がゴブ子に向く。

「ゴブ子?」

「いや、勝手に処分するとかそういうことは考えてないゾ」

 ゴブ子は両手を突き出して手を振る。

「処分することは考えてるんだな」

「……だって見てみロ!」

 耳を上にとがらせて、身体を捻り、まわりを手で示すゴブ子。

「きちんと整理されているなラ別だガ、ただ部屋に本を押し込んでるだけじゃないカ! 床だって軋んでるゾ! 全部捨てろとは言わんガ、少しは減らす努力をしろ努力ヲ!」

「むぅ。ぐうの音もでない」

「自覚はしてるのナ。それでも対処しないから始末が悪イ」

「面倒くせぇからな、おっと、またそれた。悪いな」

 道充は本の方を見る。

 本は凪いだ笑みを浮かべて道充を見る。

「で、核になる本を探してどうする」

「その本は処分しないでくれって話だロ」

 ゴブ子が軽くそう答えると、本は首を大きく横に振った。

「違うのか?」

「違います」

「じゃあなんダ?」

「その本は確実に処分してほしいんです。燃やしてほしいんです」

「燃やす?」

 道充とゴブ子は顔を見合わせる。

「積み荷を燃やしてってか? なんでまた? お前の核を?」

「そうです」

「燃やすとどうなル」

「わたしは解放されます」

「なにから?」

「自我から」

「自我?」

 再び顔を見合わせる道充とゴブ子。

「自分でいることが嫌なのカ?」 

「そもそも自分って何なのですか?」

「また面倒くさい話をし出したぞ」

 本は両手を自分の胸のあたりで軽く絡ませると、目を閉じて朗々と語り始める。

「わたしはもともと自我なんかなくて、他者の認識……」

「認識というか欲望だロ? おもに主の欲望というか性癖というカ」

「うるさいよ。否定はしないが」

「……から生まれたに過ぎません。聞いてます?」

「聞いてる」

「聞いてル」

「……いきなり自我が芽生えたって困惑するだけですよ。何をしていいかもわからないし」

 そういって小さく息を吐く本。

「今まで何してたんダ?」

「とりあえず漫画読んだり本読んだり」

 少し弾んだ声で本は答える。

「楽しくないか?」

「楽しいですよ?」

「楽しいならいいじゃないカ」

「楽しいのは良いことなんですか?」

「ん?」

 道充とゴブ子はしばし息を詰まらせた。

「知識としてはわかるんです。わかるんですが、よくわからないんです。こんなよくわからないもやもやした感じなら、以前の方が絶対よかった」

「以前とハ?」

「自我を持つ以前。何もない、自分もない、それはすなわち安寧です」

「はーん。無の境地ってやつだな」

「無の境地? なんだそれハ?」

「何もなければ苦しみもないってことだ」

 道充の言葉にゴブ子の眉が歪に寄る。耳は先ほどから元気なく垂れたままだ。

「それって嬉しいのカ? 何もないんじゃ楽しいもないだロ? それじゃ以前が良かったかどうかもわからないんじゃないのカ?」

「良いとか悪いとか、そんなことに振り回されるのがもう面倒くさい!」

「あー面倒くさいのはわかる」

「まったく……」

 ゴブ子は道充と本の両方を見ると大きく肩を落として息を吐いた。それからどこに隠していたのか小さな鋭いナイフを取り出す。

「そんなに面倒くさいなら、一思いに消してやるゾ」

「やめてください! 死ぬのは怖い!」

 慌てて本の上を後ずさる本。

 その図体にもかかわらず、不思議と本は崩れない。

「死にたいんだロ?」

「死にたいんじゃないです! 消えたいんです!」

「同じだロ?」

「違います!」

 本は手を大きく振って反論する。

「死んだらどうなるかわからないじゃないですか! 私は存在したこと自体を無しにしたいんです! 死んでも無になるわけじゃないですよね?」

「さっきからいやに哲学的な奴だナ。元がエロ漫画なのニ」

「いや、それは偏見だぞ。漫画だって得るものは多い。それにエロには賢者がつきものでな」

「ハ?」

「……まぁそれはいいとして、面倒なことになってきたな」

「面倒ならやっちまえばいいだロ。こっちには関係ない話ダ」

「まぁ審問官としては処理案件とするのもありなんだが、そもそもそんなので死ぬのか?」

「やってみればわかル」

 ゴブ子がナイフを構え直す。本は頭を抱えて縮こまるが、もう一度両手を伸ばして拒否の意向を示す。

「まって、まってください! ちゃんとわたしを消せば姐さんにも利点がありますよ!」

「姐さン?」

 ゴブ子は構えたナイフを少し下す。両耳が上下に揺れる。

「いってみロ」

「わたしを探すってことはここを探すってことです」

「まぁそうだろうナ」

「ここを探すってことは、その過程でここを整理整頓することになります」

「……なるほド?」

 ゴブ子のナイフがパーカーの下に消える。

「ここを整理するんですよね?」

「われとしてハ」

 ゴブ子は道充を仰ぎ見る。

「片っ端から処分したい気分だガ」

「わかった! 探そう! 整理しよう!」

「ありがとうございます!」

 本の上で正座をし、深々と首を垂れる本。

「とりあえずそこから降りろ。その上にいちゃかたずけられん」

「そうですね」

 本は立ち上がると本から降りる。

「デカいとは思ったが、立つとやっぱりデカいナ」

「いいじゃない。腰つきもしっかりしててエロいじゃない」

「えへへ、がんばってます」

「それはいいかラ本はこっちニ!」

「はい」

 ゴブ子に近づく本。

「いやそうじゃなくテ! 本をこっちに運ベ!」

「俺が抱いていくのか?」

「お姫様抱っこですか?」

「重そうだなぁ」

「ひどい!」

「主はわざと言ってるだろウ! そうじゃなくテ!」

「ややこしくなる前に名前をつけるか」

「名前?」

 本が道充に目を向ける。

「いや……まぁ、いいか」

「名前……」

 本は視線をずらして少し俯く、それから道充に視線を戻した。

「名前、つけてくれるんですか?」

「うん、まぁ、そうだな。つけるか」

 少し歯切れが悪く答える道充。

「こいつの名前のセンスは最悪だゾ」

 ゴブ子は運び出した本を大きさ別に選別しながらぼやく。

「姐さんも名前つけてもらったんですか?」

「本当の名前はちゃんとあるがナ、便宜上別につけられタ。綽名みたいなもんダ」

「なんて名前なんです?」

「ゴブ子」

 憮然と答えるゴブ子。その耳は上下に動いている。

「可愛い名前じゃないですか!」

「だろう?」

 道充がしたり顔でゴブ子を見る。

「シンプルな中にも意味が詰まっていて、語感も良いし、覚えやすいし、なにより可愛いです! いいなぁ……いいなぁ」

「じゃあつけてもらエ」

 ゴブ子は道充を見る。本も道充を見る。道充は頭をかいた。

「どうしタ?」

「いや、まぁ、そうだな。じゃあ漫画だから漫……」

「ダウト! お約束に過ぎル!」

「わたしもそれはどうかと思います」

「うん、俺もどうかと思う。じゃああれだ、本だから本子」

「うーん」

 本は首をひねる。

「語呂が良くないですよね」

「こだわるなぁ」

「どんなのが良いんダ」

「姐さんの名前、響きが可愛いですよね!」

「そうかァ?」

 ゴブ子は片方の眉を少し吊り上げる。耳は大きく上下に揺れる。

「そうですよ! 姐さんの名前みたいな響きが良いなぁ」

「うーん。あ、ビブリオか。ビブ子……いや、ビブ美でどうだ?」

「ビブ美……」

 本はたくさんの本を抱えたままその場に立ち尽くす。

 白い肌が薄く赤みを帯びてくる。

「どうしタ?」

「あ、いえ! いいですね! すごくいいです!」

「本を落とすなヨ。なんダ? なんか床が軋んでるゾ」

「あ、はい! 大丈夫です」

 本はゆっくりと抱えた本を下ろす。ゴブ子が手早く仕分けを始める。

「響きが姐さんの名前に似ていて、それでいて個性もあって、でも簡潔で、すごくいいです!」

「気に入ったならなにより。じゃあしっかり働き給えよ、ビブ美くん」

「はい! がんばります!」

 ビブ美は本を下ろすと左腕に右手を乗せ、左腕の力瘤を軽く作って見せる。

「うむうむ」

「主も働ケ!」

「しょうがない、やるかぁ」

 道充も仕分けに加わる。ビブ美が運んできた本をゴブ子と共に仕分ける。

「お、これ探してたんだよ」

 道充は手に取った一冊を開く。

「おーやっぱりエロイなこの人。これの最後のエピソードが好きでね。そういえばビブ美が義手なのはこれの影響か?」

「おそらくそれも、ですね」

「義手キャラの出てくる漫画結構あるからなぁ」

「眼帯も多いですよね」

「そうな」

「体つきが大きいのは少ないですよね」

「それは売ってないんだよ、なかなか」

「そうなんですねー」

「手を動かセ! 全部燃やすゾ!」

「まぁそうせかすなよ」

「わたしはそれでもいいんですけど、確実に燃してもらえるなら」

「生焼けにして穴掘って埋めル!」

「そ、それじゃ消えるかどうかわからないじゃないですか!」

「知るカ!」

 ゴブ子は手を休めることなく吐き捨てる。

「御託はいいかラ、手を動かせ手ヲ!」

「姐さん怖いです」

「ちゃんとやらないと喉笛掻っ切られるぞ?」

「ひえぇ」

「お望みならナ!」

 恫喝にも近い叱咤を繰り返しながら、大きさ別に黙々と仕分けするゴブ子。

 その大きさ別に分けられた山から、さらに種類別にまとめ始める道充。タイトルの同じものは巻数もそろえる。脱線は繰り返すが、それでも徐々にまとまり始める。

 本を雑然と積まれたところから運び出し、まとまった本はさらに別のところに運んでスペースを作るのはビブ美。

 雑然と本が積まれていた部分の床が見え始める。

「本棚の方はどうします?」

「そこまで手を付けると収拾がつかないナ」

 背伸びをしながらゴブ子が答える。

「また今度にするか」

「でもそれだとわたしの消滅もまた今度になっちゃいます」

「ああそうカ」

 ゴブ子は身体を左右に伸ばしながら小さく耳を上下に動かす。

「その時はその時だな」

「えーそんなぁ」

 道充の言葉にビブ美は肩を落とす。

「とりあえず棚からは出さない程度デ、並べ直しぐらいはするカ」

「えー面倒くさいなぁ」

「そんなこと言わないでくださいよぅ」

「面倒見てやレ」

 手を休めることなくゴブ子が促す。

「お前の欲望の産物みたいなものなんだロ、認知しテ責任取レ」

「俺の子供みたいに言うな」

 愚痴りながらも道充は本棚の前へと移動する。

「でもなぁ、ここにはないと思うぞ」

「どうしてです?」

 棚の整理をしながらビブ美が聞き返す。

「おまえってさ、主体は成年……エロ漫画なんだろ?」

「そうですね。おかげでこんな立派な身体になりました!」

 力瘤を作って見せるビブ美。

「特殊性癖だロ」

「性癖に特殊も何もあるもんか。性癖は自由だ。まぁひと様に迷惑をかけない限りはな」

 胸を張って言い切る道充。ビブ美は感嘆しながら小さく手を叩く。ゴブ子は首を振りながら大きく息を吐く。

「自慢することでもあるまイ」

「まぁな。で、俺でも流石にこんな目立つ棚にエロ漫画なんか置かない」

「ほウ?」

「さっきそいつもいったが、エロ漫画が悪いとは言わないが、大っぴらにするもんでもないからな」

「それもそうカ」

「それじゃどこにあるんでしょう? わたしの核」

「この中にあると思ったんだけどなぁ」

 そういって道充は仕分けた本の中の、さらに別によけた何冊かの本の下に歩いていく。

「これなんか最有力候補だったんだけど」

 そういって手に取ったのは、他の本とは明らかに違う本。

 A4サイズの薄い本だ。

「主人公がビブ美に似てるよな。デカい筋肉質な体つきの割に丸みもあって、なおかつ顔つきが可愛い感じとか」

「確かにそうですが、やっぱり違うみたいです」

 ビブ美は本を受け取るが、首を横に振る。

「まぁ違くて良かったとも言える。この本を燃す気にはなれん。もう手に入らないからな、これ」

 そういいながら別の本を手に取る。

「こっちもなぁ、義手義足のキャラがヒロインのエロい話が収録されてるんだけど」

「違うんですよねぇ」

「うーん……あ、あそこに仕舞ってある本か?」

 道充はそういうと部屋の入り口わきにある押入れを開け、その中の衣装棚を開ける。

「そんなとこにもあるのカ!」

「買い始めはここに隠してたんだよなぁ。いやぁ俺も奥ゆかしい時代があったもんだ」

 衣装棚の引き出しを大きく開け、その奥から本を取り出す。

「おお懐かしい、あ、これってこんなところにあったのか」

「まったク……一向に片付かン!」

「そんな簡単に片付くならとっくに片付いてるって」

「いーや主だから簡単うんぬんは関係なイ」

「なんかどれも違うみたいです」

 次々と本を渡されるビブ美は、しかしその都度首を振って渡された本を仕分けしていく。

「ここにもないか。じゃあどこにあるんだ?」

 すべての引き出しを引き出し終えた道充は首をひねる。そしてひねった先に目を落とすと、おもむろにしゃがんだ。

「こんなところに本が挟まってる」

 道充が手にしたのは黒っぽい装丁の漫画だった。

 大きさはいわゆる新書版と呼ばれる少年・少女コミックに多い大きさ、成年漫画を思わせる厚みや大きさはない。

「おーこれも懐かしい」

「待ってください!」

 手にした漫画を脇に置こうとする道充をビブ美が制した。

「その本、ちょっといいですか!」

「ん? これか?」

 道充は手にした漫画を眺める。

「エロ漫画じゃないぞ?」

 ビブ美は頷く。

 道充は近くにいたゴブ子に本を渡す。

 ゴブ子は本を手にした手を伸ばす。

 その本をビブ美が受け取った。

「これ! これです!」

「そレ?」

 ゴブ子が手を伸ばすとビブ美はその本をゴブ子に渡した。

 渡された本を軽くめくるゴブ子。

「普通の漫画だゾ?」

「普通の漫画だな……でも、ああそうか」

 道充は小さくうなずいた。

「それ、たぶん初めて自分で買った漫画だ」

「これガ?」

 ゴブ子は手にした漫画をしげしげとみる。

「初めて買っタ?」

「そうだ」

「これ二巻だゾ?」

「そうな」

「一巻ハ?」

「もってない」

「なんデ!」

「本当は買うつもりのなかった漫画だからな」

「はァ? それにぜんぜんエロくなイ。なんでこれが性癖の塊みたいなやつの核になるんダ?」

「おっしゃる通りなんですけど、なんかちょっとひどい言われようです」

「んーまぁ、それが核になった理由はなんとなくわかる」

「ほゥ?」

「聞きたいです!」

「大した理由じゃないんだが」

 道充はゴブ子から本を受け取るとやはり軽くめくる。

「本当はこれの隣にあった破廉恥な学園物の漫画が欲しかったんだよ」

「じゃあなんでこれヲ」

「まだ小さい時分だったからなぁ、恥ずかしくてとっさに隣の本を買ったってだけの話だ。まぁその手の本を欲する『初心』が込められてるって考えれば合点はいく」

「こじつけに過ぎないカ?」

「かもな。でもな、切っ掛けなんて大抵そんな些細なことだ。核なのは間違いないんだろ?」

「はい!」

「なら理由なんかどうでもいいさ」

 そういって道充はビブ美に歩み寄ると、その本を手渡す。

「しかしなんでそんなところにその本ガ?」

「ん? ああ、多分隠したんだな」

「隠しタ? 誰ガ? なんデ?」

「俺自身が目に留まるところに置きたくなかったんだろうなぁ、たぶん」

「意味が解らン」

「ほら、その本、小さな虫に人間が襲われるシーンがあるだろ? 蟻に人間がバラバラにされて運ばれたり」

「ああ、そんなシーンがあったナ」

「それが怖くてなぁ」

「怖いのはわからんでもないガ、それでなぜ隠ス?」

「いや、見ると内容思い出して夜寝れないから隠したんだろうな」

「小さいころからヘタレだったんだナ、主ハ」

「感受性が高かったと、いってもらいたいね」

「マスターが避けていたから、マスターの思いから生まれたわたしもその所在がわからなかったんですね!」

「なるほド? そういう解釈もあるカ」

「これでやっと消滅できます!」

 力強く朗らかに答えるビブ美。

「やっぱり消えるのカ?」

「おまえがそんなことを気にするなんて珍しいな」

「気にはしていないガ」

 ゴブ子は反論するも少し言い淀む。

「結構楽しそうにしていたからナ」

「はい! 楽しかったです!」

「じゃあなぜ消えル」

「楽しかったから、消えます!」

 即答するビブ美。

「このまま消えれば、気持ちよく消えられますから!」

「ビブ美が良いならそれで良いだろ」

 道充は短くそう答える。

「日も陰ってきたし、本日の締めは庭でのお炊き上げだな」

「うム……うム?」

 ゴブ子が少し首をひねる。

「あー! 忘れてタ!」

「どうした?」

「布団こんでなイ! 湿気ってしまウ!」

 慌ててベランダに飛び出すゴブ子。

「主ヨ! 早くしロ!」

「へいへい」

 道充は積まれた本をどけながら、布団を置くスペースを作りつつベランダに向かう。

「わたしがやります!」

 ビブ美がひと際大きな声で手を上げる。

「最後のご奉仕です!」

 意気揚々とそう答えると、ベランダに向けて歩き出した。




 庭の中央辺り、申し分程度に芝生が生えた隅の方に、レンガを敷いて作ったスペース。

そこに道充とゴブ子、ビブ美が円を描くように立つ。

 道充とゴブ子の影が長く伸び、ビブ美の影はあいまいに揺らぐ。

 三人の中央には庭の片隅に置いてあった火鉢が置かれていた。中には新聞紙が丸めて詰められ、火鉢の脇には錆びたジュースの缶が一つ置かれている。

「おねがいします!」

「うーん」

「どうしタ」

「本を燃やすのって抵抗があるんだよ。この漫画も思い入れがあるといえばあるし」

「そんなことおっしゃらないで! スパっとやってくださいよぅ!」

「そんなことばっかり言ってるから本が増える一方なんダ。かセ! われがやル」

 ゴブ子は道充から件の本を受け取ると、パーカーの中からナイフを取り出した。

「じゃーナ」

「あ! ちょっと待ってください!」

 不意に何かを思いついたようにビブ美が声を上げる。

「なんダ」

「すみませんマスター」

 ビブ美は道充に顔を向ける。

「最後にもう一度、名前を呼んでくれませんか? そしてさよならって」

「ああ、いいぞ」

 道充はビブ美に向き合うと、笑みを浮かべる。

「さよなら、ビブ美」

「さよなら、マスター。名前をもらえたのは、わたしにとっては最高の贈り物でした」

 それからゴブ子に顔を向ける。

「姐さんも」

「ン。じゃあナ」

 短く答えるゴブ子。

「それじゃ、お願いします」

「わかっタ」

 ゴブ子は頷くと手にしたナイフで本を大雑把に裁断していく。切り裂かれた紙片が火鉢の中に舞い落ちる。

 すべてを火鉢に収めると、ゴブ子は脇に置いた缶を手に取り、火鉢の上で傾けた。

 微かな揮発臭と共に液体が火鉢の中に降り注がれる。

 ゴブ子が一歩後ろに引くと、道充がポケットからマッチを取り出し、擦る。

 そして身をかがめると火のついたマッチ棒を火鉢の中に差し入れた。

 しばらくしてゆっくりと火鉢から淡い橙色が覗きは締め、次第に炎が揺らめき始める。

「これで、わたしは」

 淡い炎に照らされるビブ美の笑顔は、澄み切った夕焼けを思わせた。

 あたりが次第に暗くなる。

 それにつれてビブ美の姿も霞んでいく。

 



 すっかり暗くなった道をミニバンのヘッドライトが照らす。

 すれ違う車のヘッドライトがミニバンの車内を照らす。

 浮かび上がる顔。

 運転席の道充。

 助手席のゴブ子。

 そしてもう一つ。

 後部座席から覗く顔。

「なんでこいつが乗ってるんダ?」

「仕方がないだろう。おいていくわけにもいかないし」

「そうですよ!」

 道充とゴブ子のやり取りに、後部座席に浮かぶ顔、ビブ美が割ってはいる。

「消えられなかったんですから! 責任取ってくださいね!」

「なんで消えなかったんダ?」

 ゴブ子の問いに道充が顔を歪めた。

「名前を付けたのは、やっぱりまずかったなぁ」

「名前?」

 ゴブ子の問いかけに道充が頷く。

「あいまいな存在だったのを、名前で固定しちまった。名前を付けると口を滑らせた瞬間、まずいとは思たんだけどな。何とかなるかとも思ったが、何ともならなかったな。いやはや言霊ってやつは強力だよ」

「相変わらず不用意だし詰めが甘イ」

 ゴブ子の言葉に道充は肩をすくめる。車体が微かに蛇行した。

「ともかく、これからもよろしくお願いします!」

 ビブ美の屈託のない元気な声が車内に響く。

 ゴブ子と道充はその声の明るさに顔をしかめる。

 ただ、道充の口元は緩み、ゴブ子の耳は上下に弾んでいた。


                               第五話完

 

 

 

 





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