第4話 闇と仙女と石鹸と。

 闇の中。

 紅い二つの淡い輝きが、迷いなく真っ直ぐに進んでいく。

 真っ直ぐ進んでいた二つの紅が、軽妙に持ち上がる。

 一転今度はするりと落ちた。

 同時に何かの軋む音。

 そして吐き出された無様な音。

「いい加減起きロ! いつまで寝ている気ダ?!」

 紅い光が怒声を上げた。

 ほどなく闇が駆逐される。

 明かりのついた部屋の中にはベッドの上で照明のリモコンを握りしめ、それでも力なく身体を投げ出す男の姿。

 髪はぼざぼさなまま。

 瞼が腫れ、薄い隈が浮かんでいる。

 鼻の下やあご、頬にかけても疎らで歪な髭が不揃いに伸びている。

 着崩れてよれたスウェット姿は見るからに冴えない。

その冴えない男の上に馬乗りになる小さな人影。

英語と漢字のプリントされた丈の短いタンクトップとデニム地のショートパンツ。

肩も露わなタンクトップから延びる両腕は、細いが華奢な印象はなく、しなやかに引き締まり、丈の短いショートパンツから延びる足も張り良く引き締まっている。

タンプトップの裾から覗く腹部も形よく滑らかに逞しい。。

ただし胸部の起伏は薄い。

そしてその露わになっている肌が、人のそれを思わせる色ではなく、緑がかった濃い灰色。

波打つ薄い色の金髪から覗く耳は歪にとがり、上を向いて伸びている。

そして大きな紅い双眸で冴えない男を上から睨みつけるように見下ろし、尖った歯の並ぶ口を大きく開くその様は、今にも男を取って食わんばかりだ。

男のほうはまさに蛇に睨まれた蛙状態なのだが、その目はどこか眠そうで、恐怖に染まるどころかどこか安心している節さえあり、その安心は油断を通り越して不遜でさえあった。

「おはようゴブ子」

「おはようじゃなイ! もう昼ダ! 朝食に呼んでも起きてこないシ!」

「ああ、そうか。それは悪かった。でもまとまった金も入ったし、しばらく休みって言ったじゃないか。ゴブ子だってゆっくり休めと同意しただろ?」

 眠そうに目をこすりながら、冴えない男・道充は、異質な少女・ゴブ子を見上げながらゆっくりと息を吐くように答える。

「確かに言っタ。いったけどナ!」

 道充を見下ろしながらゴブ子は声を張り上げる。

 ただその声色は当初の叩きつけるようなものではなく、確かに怒気の色は濃いが、幾分丸みを帯び、突き刺さりながらも滑らかさと温かみを感じさせるものだった。

「だがナ! 一週間モ、毎日毎日ほとんどベッドの上で過ごせって意味じゃなイ!」

「疲れてるんだからいいだろ? 正直今は動くのも面倒くさい」

 道充はそう言いながら再び頭をベッドへと落とす。

 ゴブ子は道充の上で跳ねた。

 道充の口から再び濁った音が吐き出される。

「一日二日なラ、それもいいシ、そういうのが必要な時もあるのはわかるゾ? しかし主のはどう見ても逆に腐らせてるようにしか見えン!」

「いいんだよ腐りたいんだから」

「主が良くてモ我が良くなイ!」

 再び跳ねるゴブ子。

「……なんだよ、ここしばらく相手してないから拗ねてるのか?」

「そうダ!」

 跳ね回るゴブ子。

「なんだそりゃ。見ての通りそんな元気ないぞ」

「元気になればいいのカ?」

 ゴブ子は道充の身体の上を尻込むようにして身体を動かした。

「んん……」

「……なんダ?」

 ゴブ子が顔を上げて道充を見る。

「人間ハ口が好きんじゃないのカ?」

「なんでそうなる?」

「その手の動画をネットで見るト、大抵そんな場面があル」

「……よく知ってるというよりも、すでに毒されてる感じだよな? お前の知識は」

「そうカ? まぁ……そうカ」

「正直俺は口はあまり好きじゃない。というか、軽いトラウマが」

「なんダ?」

 ゴブ子は這うようにして道充の身体を上る。

「小さいころ、といっても中学のころか。エロい深夜テレビを見ようとして、たまたま流れてた戦争映画を見ちまってな」

「戦争映画?」

「『戦場のはらわた』とかなんとかだったか」

「デ?」

「食いちぎられるシーンがあってな……いや、実際はどんなシーンだったかもよくわからないぐらい微かであいまいな記憶なんだが、なにか片隅にこびりついていてな。それ以来どうにもだめだ」

「安心しロ。我は噛みつかン」

 ゴブ子はそう言って歯を剥く。

「洒落にならん」

「しかしそうカ……なら胸で挟むカ。それも人間すきだロ。正直よくわからんガ」

「それは興味がないといえば嘘になるが……お前のでか?」

 道充の視線をみてゴブ子が自分の胸に目を落とす。

「無理があるカ?」

「無理も何も……」

「でもあれだロ?」

 ゴブ子が視線を上げる。

「ないのは認めるガ、無いなりに柔らかいゾ?」

「まぁ……それは認める。筋張った身体のくせに、いろいろと結構柔らかいんだよな」

 ゴブ子の耳が上下に跳ねる。

「こすりつけてみるカ? そんなのをネットで見た気もするゾ?」

「こすりつけるって……俺が動くのか? いい、面倒くさい」

 道充は少し起こしていた上半身を再びベッドに投げ出し大の字になる。

「また面倒くさいカ。主の面倒くさいはもはや病気だナ。いっそのこと後ろから指でも突っ込んデ……」

「おま! ちょ! やめろ! わかった! わかったから! 自力で頑張るから!」

 道充は素早く身を起こす。

ゴブ子は耳を大きく動かしながら道充を下から見上げると口角を吊り上げ、身を引くようにして少し道充から離れた。

「自力でカ? 見ててやろうカ? 見てるだけっていう店もあるらしいしナ」

「あー……聞いたことはあるなぁ。正直よくわからん。見られるだけっていいのか? いいのかぁ? まぁ人それぞれだからなぁ」

「本当にそれぞれだナ。人間ってのは本当に面白イ。デ? 見てればいいのカ? それとも口カ? 胸カ?」

「今回はパスっていう選択肢は?」

「強制的に指だナ」

「お前やりかねないからなぁ」

 道充は胡坐をかいてあごに手をやり首をかしげる。それからゴブ子に目を向ける。

「決まったカ」

「……ふとももかなぁ」

「なるほド? そう来たカ」

「あまり乗り気じゃないんだけどなぁ」

「安心しロ。そのうち乗り気になるっト」

「ちょ、力入れ過ぎだ。……まぁそうかもな」

 道充の前に収まったゴブ子が、振り返るようにして道充の顔を見上げる。道充も視線をゴブ子に落とした。

「やっと元気が出てきたナ。しかしあれダ。後味の悪い仕事だったのハ解らんでもないガ、ここまで気に病むことカ?」

 眉間に少ししわを寄せる道充。

道充の口が開く前に、ゴブ子が身体を回して道充の正面に向き直り、その目を見ることで道充の口をつぐませる。

「ン……あれがあまり良くない結果だったってのは解るガ、最悪ではないんだロ。あの結果を承知の上でやったことなんだロ? 違うのカ?」

「それは、そうだが」

 見上げるゴブ子を道充が見下ろす。

「お前こそどうなんだ」

 そこで道充は言葉を切った。ゴブ子の目が真っ直ぐに道充を見る。

道充も視線はそらさなかった。

「歌を歌っていたあの赤い服の少女は?」

「あア……」

 揺れていた耳が微かに下がる。

「ステラ、ナ……」

 見上げる目を少し細め、口元が歪にゆがむ。

「助けられれバ、良かったナ」

「痛い痛い締め過ぎだ! 悪かった! 確かに今のは意地悪に過ぎた!」

「わかればいイ、それにナ」

 ゴブ子は道充を見上げたまま、両の手を伸ばして道充の顔をはさむ。

「我は主のためならなんだってしてやル」

「……じゃあ俺のために死んでくれって言ったら? 死ぬのか?」

「愚問だナ。死ぬわけないだロ」

「なんだそりゃ」

 笑うゴブ子。道充の顔をはさむ両手が道充の肩へと下がる。

「我は主のためなら、死ヌ……ガ、主の命令で死ぬつもりはなイ……ゾ? そもそも主の命令で死んでみロ、主がそのことをうじうじと後悔するのが目に見えるからナ、全然主のためにならんだろう……ガ。……主は悪ぶるくせに、基本……お人好しの……ヘタレなんだかラ、無理する……ナ」

「……へいへい」

 道充の生返事に対し、ゴブ子の耳がその頭と共に大きく揺れる。

道充も小さく眉間にしわを寄せ、その耳につられるように、頭が小さく揺れる。

ふたりの不同期な揺れが、それぞれに揺れ始め、しかし次第に寄ったり離れたりを繰り返す。

そしてその揺れが重なると、しばしその揺れが大きくなり、そうするうちに揺れが止まり、ゴブ子の身体が道充にもたれかる。

「……主よ、少し汗が臭いナ」

「そうか? シャワーは浴びてるんだがな」

「少し饐えてるナ。あまりいい汗じゃなイ。日頃運動しないデ、急に汗をかくかラこういう汗をかク。少し粘つくナ……脂汗? 本当に体調が悪いのカ?」

「ストレスが溜まるとこうなるな、経験的に」

「ならいい気分転換になっただロ?」

「……まぁ……そうかもな」

「我がいて良かったナ!」

 笑みを浮かべるゴブ子の髪の毛をかき混ぜる道充。

「ん? お前は石鹸の匂いがするな。生意気にも」

「良い匂いだロ? それはともかク、なんで石鹸の匂いが生意気なんダ?」

「ゴブリンに石鹸の匂いとかイメージがな。ゴブリンってもっと野趣溢れるイメージというか」

「まったくもって偏見だナ。人間だってそれぞれだろウ? そもそも野趣と石鹸が相反するという考え自体がおかしいだロ? なぜそうなル? わけがわからン」

「まぁ……そうだな。主語が大きいのは得てして正しくないな。ゴブ子のくせに生意気だ、が正しいな」

「正しいわけあるカ!」

 ゴブ子の耳が道充の顔を突きささんばかりに突きあがる。

「臭いというのハ、隠密行動にハ大敵だからナ。気を遣うんだゾ。そういう理由以前に我はきれい好きだシ、文化的な生活が好きだからナ、休みの時ぐらい石鹸の香りを楽しみたいだろうガ。それとも何カ? 主は体臭に興奮するタイプカ? それなら考えなくもないゾ?」

 ゴブ子の言葉に道充は再びゴブ子の髪をかき混ぜる。その眉間に小さなしわと、軽く持ち上がった口角。

「ま、石鹸の匂いもお前の匂いだ。悪くはない」

「……まったク、主はそうやってすぐに不意を打ツ……」

 ゴブ子は小さく耳を揺らしながら体を入れ替えると道充に背中を預ける。

道充もゴブ子の前に軽く腕を交差させた。

「しかシ……主がそこまで疲弊するほどに従ウ『大協定グランドパクト』とは何なのダ? ことあるごとに口にもしているようだガ? 『大協定グランドパクトと共に』だったカ?」

「『大協定グランドパクトの下に』だ。共にあるのはフォースだろ」

「共でも下でもどっちでもいイ。デ?」

「お前そんなことも知らないで審問官のファミリアになったのか?」

「審問官のファミリアになったつもりはないナ。我は主のファミリアになったにすぎン」

 耳を振りながら答えるゴブ子。

「まぁそうなんだが……改めて言われるとこそばゆいものもあるな」

「そうカ? まぁそれは置いておいてダ。『大協定グランドパクト』ダ」

「『大協定グランドパクト』な」

 そこで道充が言葉を切った。

ゴブ子の耳はしばらく揺れていたが、次第に横に垂れ始める。

「どうしタ?」

「いや、改めて考えると俺もよくわからん」

「なんだそりャ」

 ゴブ子が耳を突き上げて、振り返るように道充を見上げる。

「命張ってるのニ、いいのカ? それデ!」

「まぁ俺みたいな下っ端は、命令に従ってるだけだしな。いや、まったくわからないという話じゃないんだ。簡単に説明すると『世界を守るために垣根を越えて皆で協力しましょう』って協定だ。例外なくすべてに優先されるという意味で『大協定グランドパクト』と呼ばれている。と、それぐらいのことは解ってる」

 ゴブ子は道充の顔を見上げながらその両耳を小さく揺らす。

「世界を守ル? 何かラ? 宇宙人カ?」

「んー? 大協定の『定義』だと、宇宙人も『世界』の一員だから違うな」

「じゃあ何から守るんダ?」

 見上げるゴブ子を道充は見下ろしながら首をひねる。

「まぁ今のところ明確な『敵』はいないな」

「この前戦ってたのハ?」

「まぁ確かに敵といえば敵だが、『審問官』の敵であって『大協定』の敵ではないってことになるのか」

「よくわからン。よくわからんガ、まぁいいサ。主の敵なら我の敵ダ。で、あえて聞くゾ? 『大協定』の敵は何ダ?」

「あえて言うならこの『世界』を造った存在、になるのか?」

 さらに首をひねってそう答える道充を見上げたゴブ子も首をひねる。

「この世界を作った存在って神カ?」

「神……か。まぁ神といえばそうかもしれないが、もっとこう次元の違う存在だな」

「よくわからン」

「だろ? 俺もよくわからん」

 見下ろす道充。

見上げるゴブ子。

そのまま視線を通わせながら、ふたりは小さなうなり声をあげる。

「……まぁいイ。で、そのよくわからない神みたいな何かガ、この世界を壊すのカ?」

「いやいや、そんな積極的な話じゃない。強いて言うならそうだな、この世界に興味を失ったって感じか?」

「結構なことじゃないカ」

 ギブ子は耳を揺らしながら大きくうなずく。

「創造主なんカ、この世に無関心ぐらいがちょうどいイ。本当にいるのならナ」

「それがどうもそういうわけにもいかないらしい」

「なゼ?」

「こっから先は俺もよく理解してないからな、うろ覚え受け売りだ」

 道充の言葉にゴブ子は頷く。

「この世界の存在が『目録』から消えたそうだ」

「目録?」

 聞き返すゴブ子に道充は肩をすくめる。

その様子を見てゴブ子も頷いた。

「で、その『目録』とやらから消えるとどうなル?」

「『世界』が消えたことになる、そうだ」

「いや、あるじゃないカ。こうして」

「そうだよなぁ。あるんだよ。あるんだけど、無いことになるそうだ。そのなんだ、便宜上『神』でいいか。その『神』からすると、この『世界』は『消えた』ことになるそうだ」

「そうだ、とカ、らしい、ばっかりだナ」

「俺もよくわからんって言ってるだろう」

 道充が顔をしかめる。ゴブ子はそれを見て逆に頬を緩ませた。

「で、どうなル」

「この世界は消えたことになってるから、保護されない。保護されていないから本当に消えてしまうことがある」

「消えるとどうなル?」

「消える。それだけだ」

「そんなことあるのカ」

「ある」

 道充は短く、しかしゆっくりと深く肯定する。

「小さな小石が消えることもあるし、町一つが消えたこともある。頻度はごく少ないらしいがな。そんな現象のおかげでこの前みたいな連中が沸く」

「この前の連中カ。結局あれハ何がしたかったんダ?」

「あれは『他者を消すことでリソースを増やし、自分たちが消えないようにする』という考えのもとに活動している連中だ。他者を消して自分の居場所を確保するとか、そんなの無理な話なのにな。まぁ結局のところああやって騒ぎを起こすのは末端も末端、何も知らずに踊らされているだけなんだけどな」

「自分の居場所を作るためニ他者を蹴落とすのハ、是非はともかク、的外れじゃないんじゃないのカ?」

「この『世界』を入れておく器の空きが少ないから消えるという考えが間違いで、この『世界』を入れておく器の空きは十分ある。というか、ほぼ無限にある。例えるならそうだな、海に入るのに、海が溢れたらいけないと、バケツ一杯の海水をくみ出すような行為だぞ。まったくもって無意味だ無意味」

「そうカ……それなラ」

 そこでゴブ子は言葉を区切り、道充を見つめる。それから少し耳を下げ、もう一度道充を見た。

「どうした?」

「ン……」

「いいぞ、気にしなくて」

 ゴブ子はそれでも小さく首を傾げ、それからもう一度道充を見た。

「皆殺しにしたのハ?」

「ああ、あれは何かの要因で彼らの存在が『世界』から剥がれちまったからだ。剥がれた存在は、そのままにすると他者を巻き込んで世界から剥がす原因となる。だからああするしかないんだ」

「……主や我が登録されているっていうのハ?」

「お前本当によく聞いてるし、よく覚えてるよな」

「誉めても何も出ないゾ」

 ゴブ子の耳は上下に大きく動く。

「現状この『世界』は『目録』から消えて、『無いことになっているから』保護されていない。なので消えれば消えたままだ。しかし、保護された状態であれば、存在が多少壊れても、存在自体が平行的に保管されていて、それによって補完修復されるらしい。で、その仕組みをまねて、俺やお前は保護されていて、何かあっても補完修復されるって寸法だ」

「それが出来るなラ、全世界そうすればいイ」

「それな。まぁ試みはしているらしいが、考えてもみろ? この世界を全部だぞ? どんだけ大きな入れ物が必要なんだよって話だ」

 道充が両手を大げさに広げて見せる。

「むゥ……そうカ……ン? ちょっとまテ。消える世界を消えるこの世界で平行保管するのカ? 保護するために保管してる世界を入れた器が消えることはないのカ?」

 首を大きくひねってうなるゴブ子。

「お前……本当にたまにすごく冴えてるよな」

「我はいつも冴えてるゾ」

「確かに言う通りなんだよな。それで確か、保管場所はこの世界ではない他の場所を勝手に間借りしているって話らしいんだが……」

 肩をすくめる道充。

呼応するように肩をすくめるゴブ子。

「訳が分からン」

「俺だって訳が分からんよ。ただまぁやらなきゃならん事なんだろ。それはなんとなくわかってるつもりだ」

「まァ……そのおかげで主も我も無事なわけカ」

「そうなるな」

 道充は頷く。

頷いてから身体をベッドの縁に投げ出した。

「あーもー面倒くさい話は終わりだ終わり!」

 しかしゴブ子は少し険しい目つきで道充をのぞき込む。

「なんだ?」

「……それでもまァ……何も知らない連中をあれだけやらなければならんのハ、辛いナ」

「まぁ……そうだな」

「ン? なんダ?」

「ひとつ誤解しているようだから言っておくけどな」

「なんダ?」

「俺が気鬱になるのは他人をやる罪悪感よりも、自分が当事者になることへの恐怖からだぞ? いつ自分が『処理』される側になるかわかったもんじゃないし、世界がいつ消えるかもわかったもんじゃない。軽い気持ちで審問官になったのに、ふたを開けりゃ重いことばっかりだ。この事実を知ってからは、いつでもどこでも心のどこかに薄っすらとした闇が引っかかって、晴れたことがない。普段はいいが、何かのはずみで落ちるとこのありさまだ。正直自分で自分が嫌になる」

 吐き出すように告げる道充に、ゴブ子は耳を上下に振りながら頬を緩めた。

「なんだよ」

「やっと吐き出したナ」

 ゴブ子の手が道充の頬に触れる。

「主はヘタレのくせニ、良い恰好しいだからナ。大体がため込み過ぎダ。愚痴でも何でもいいかラ、そうやってたまには吐き出したほうが良いゾ」

 ゴブ子はそう言いながら道充の頬を軽くはたいた。

「……へいへい」

 道充はそうぼやきながらゴブ子の手を軽く払う。

「しかし、我は主が審問官になったことニ感謝はしているゾ?」

「なんで?」

「主が審問官でなかったラ、あの時あそこに主はいなかったシ、あそこに主がいなかったら、結果あの時我は死んでいたんだからナ。審問官の主に助けられたことは忘れていなイ」

「……そんなこともあったな」

道充の視線がしばしゴブ子を見るが、不意に明後日の方向に泳いでいく。そうしてしばらく泳いでから、ゴブ子の元に戻った。

ゴブ子の視線はただそれを待っていた。

「そういえばそのタンクトップはどこで買ったんだ?」

 いきなりの問いにも関わらず、ゴブ子はやっと気が付いたかとばかりに大きく頷く。両耳が揺れる。

「ネットで買っタ。いいだロ」

「いいというかなんというか、突っ込みどころ満載なのは確かだな」

「そうカ?」

 ゴブ子は自分の体に視線を落とす。

ゴブ子が来たタンクトップ。

その胸のあたりには大きく勢いのある毛筆フォントで『天女』とプリントされ、その上にはこちらもやはり毛筆フォントで『Angel』と、ルビのようにプリントされていた。

「いけてないカ?」

「いけるいけない以前の問題だろ」

「どこガ?」

「なんだよその天女とエンジェルって」

「良いだロ? 我は主の天女ナ! エンジェルだからナ!」

「たった今そこを一番突っ込みたくなったが、まぁそこはちょっと置いておいて、そもそも論として天女とエンジェルは別だ」

「エ! 別なのカ?」

 ゴブ子は目を大きく見開くと再び視線を落とす。それから耳を垂れさがり気味にして、道充を見上げた。

「じゃア天女は英語でなんていうんダ?」

「知らん。ただエンジェルは天使だ、天女じゃない」

「何が違ウ?」

「天使は天の御使い。天女は天界に住む女性。天女をエンジェルって訳すのは、日本人をディプロマット(外交官)って訳すみたいなもんだぞ……たぶん」

「そうカ……」

「大体お前が天女とかエンジェルとかおかしいだろ。ゴブリンは天女でもないしエンジェルでもないだろ?」

「いやいヤ、別に種族をタンクトップに書きたいわけじゃなイ」

「ゴブリンとかゴブ子って書いておけよ。もしくはせいぜいフェアリーとか」

「だかラそういう意味じゃなくテ……フェアリーは漢字で書くとどうなル?」

「妖精だろ?」

「ようせい?……可愛くなイ!」

 スマホの画面を見ながらゴブ子が声を上げる。

「なんだこのごちゃっとした漢字ハ! 全然可愛くなイ!」

「その漢字が可愛いとか可愛くないとかよくわからないんだが。じゃあ天女のどこが可愛いんだ?」

「これだこレ!」

 そういってゴブ子が指さしたのは『女』の文字。

「単純な記号のようなのに丸みを帯びた星型みたいで可愛いだロ?」

「妖精だってその文字入っているじゃないか」

「そうじゃなイ!」

「なんだって欧米の漢字は感じが好きなんだ? いやそれはいいんだけど、字面だけで満足して間違った使い方すると泣きを見るぞ」

「例えバ?」

「『台所』って刺青を彫るとか」

「『台所』? キッチン……だよナ? なんデ?」

「たぶん『御台所』って意味で入れたんだろうなぁ。そうすれば一応『クイーン』って感じに近いといえば近いし」

「なるほどナ。気を付けル。それはそれとして、何かないのカ? 女って入ってテ、フェアリーを意味するやツ」

「天使でエンジェル。それでいいだろ、もう」

「だかラ! 女って文字ガ!」

「そこにこだわるのな……フェアリーだろ……仙女か? ゴブリンとは全くかけ離れるが、そういうことは問題にしてないんだろ?」

「せんにョ?」

 再びゴブ子はスマホに目を落とす。

「これカ……なるほド。天女ほどじゃないガ、悪くはないカ」

「お気に召したようで何よりです」

 力なく答えながら、力の抜けきった身体をベッドに投げ出す道充。

それを横目に見ながら、ゴブ子がスマホを道充の前に突き出す。

「で、どこで買えル?」

「なにが?」

「その文字の書いてある服ダ」

「そんなの知るかよ! お前のほうが詳しいだろ!」

「どうにも見つからン」

 スマホをいじりながらうなり声をあげるゴブ子。

「自分で作れよもう。Tシャツにプリントとか最近お手軽にできるんだろ?」

「なるほド! その手があったカ!」

 ゴブ子はさらにスマホをいじり始める。

「カラープリンターってあったカ?」

「あー……古いのがあったけど、しばらく使ってないからたぶん駄目だな」

「しかたなイ、買うカ」

「買うのかよ!」

「いいじゃないカ」

 ゴブ子が道充を見上げて笑う。その耳が大きく上下に跳ねる。

道充は肩をすくめるしか術がない。

「主にも作ってやるからナ。なんて書ク? 『ヘタレ』カ?」

「いらねーよ!」

「じゃア『ゴブ子LOVE』」

「『ヘタレ』でいいや」

「なんでダ!」

 軽い悲鳴じみた怒声と共に、ゴブ子の耳が大きく上に向いて突き上がった。


                             第四話完


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