第32話 一ツ橋このは・後

 私の父は鳥人族――ヒノモトでは天狗と呼ばれる種族です。当人曰くごく一般的な家庭に育ち、母と出会った頃は口先が達者なだけの陽気な少年だったそうです。

 私の母は人間族でしたが、普通の人じゃありません。

 ヒノモトには、龍脈と呼ばれるマナの地脈があるんです。そのため、特異点のようなモンスターが数多く発生します。それを退治するために神さま直属の強者つわものたちが全国各所のやしろに配置されるんです。

 その中の最強。神さまの御座おわす都、海珠みたまを守護する者――通称『巫女』。

 九代目巫女、アカネ。それが私の母の名です。

 二人の出会いは私も深くは知りません。父曰く、一目惚れをしてあっちが折れるまで毎日参拝した、そうです。

 やがて二人が結ばれ、私が生まれ、幸せな生活が始まりました。両親は多忙でしたけど、母のお弟子さんたちが遊んでくれましたし、クロさんを始めとする父の部下さんも相手をしてくれましたから寂しさは少なかったと思います。

 離れる時間も多かったけど、両親が私を愛してくれているのは子供心にわかっていました。だから、多少の寂しい夜があっても家族の縁は確固として繋がっていたんです。


――それが千切れたのは、たった半日の話です。


 本当、なんでもない一日でした。空は晴れていて、私は早朝から小鳥を追い回して遊んでいました。

 母もその日は退屈そうで、昼は二人で縁側に並んで話をしました。

 私の名前の由来を教えてくれたんです。


『木の葉はね、どこへだって行けるの』

『コノハがー?』

『そう。風に乗って、水に流れてどこへでも。春はゆるりと芽吹き、夏は青く育ち、秋は紅く彩り、冬は次の命へ自分を託す。それが木の葉だけど、コノハは人だもの。いつだって、どこへだって行けるわ』

『……じゃあ、お母さんもいっしょにいこう?』

『お母さんは駄目よ。人を助けなきゃいけないもの』

『ずっと?』

『うーん……十年二十年したら、次の世代に渡るかもしれないけれど』

『じゃあ、その時! お母さんはコノハと父ちゃんといっしょにどこへだっていけるの! コノハがどこへだってつれてってあげるから!』

『ありがとう。じゃあ、待ってるわ。…………ねえ、コノハ』

『なあに?』

『世界を怖がらないで。時はとても速く流れているけれど、ひとりひとりの世界はとても細い水流なの。それがたくさん集まるから、途方もなく大きな川になる……そこは厳しい場所に見えるかもしれない。でもね、あなた次第で大きく変わる事もあるの』


 それは、子供には難しい話です。


『自分に正直でありなさい。そして、あなたが大切にしたい人を大切にして、大切にされなさい。そうすれば、あなたの川はとても優しく穏やかなものになるわ』


 けど、私がこうして一言一句を憶えているのは、母の気持ちが私に染み入ったからなのでしょう。


『小川を流れる、木の葉のように。善き人々というゆるやかな清流に乗って、遠く遠くへ至りなさい』


 言葉がわからなくても、不思議と言われた事がわかったんです。そうして頷いた、その時です。

 私は、きっと夢を見たのだと思いました。

 だって、地面から龍が昇るように光の――マナの壁が、都を横断したのですから。

 そうして壁から時空を超えたように、首をもたげたのです。半透明に青い、山より巨大な人型の化物が。

 虚ろの人と書いて虚人きょじん――別名もありますが、母はそう呼んでいました。

 あれがどんな力を持っていたのかは知りません。ただ、ひたすらに強大にして凶悪で、たった数時間で何千という人が死んだのは確かです。

 そうして打つ手がないとわかった時――――母は、私の頭を撫でて遠くを見ました。


『コノハ……――――愛してる』


 夕暮れは美しい。でも、それ以上に母の背中は綺麗で――儚かった。

 茜色。虚人の半透明さすら赤く染める景色の中、母は私を置いて――――


 そこからの記憶はありません。きっと、巫術で眠らされていたんでしょう。けど、何かあったのかはおおよそ、見当がつきました。

 目の前は戦闘があったのが嘘のように美しい夕焼けで。

 すぐ隣には虚ろな顔で泣き崩れる母の一番弟子さんがいて。

 遠くの方で、父の部下であるクロさんや母を慕う巫女さんたちが泣いていて。

 私を抱きしめる父は、私に見えないようにして、誰よりも心で泣き叫んでいたんです。


「コノハ……おとーちゃん、おかーちゃんに約束したんや。お前は絶対に俺が守り通す。やからコノハ……おかーちゃん、褒めたってくれ……誰よりも強ぉて、カッコよかったんやから…………ッ!」


 目の前には、樹がありました。

 虚人の体躯すら上回る、雲にも届きそうな大樹が。



 これが私のお母さんだったものだと言われて、誰が現実を受け入れられるのでしょう。



 結果から言うと、塞ぎこみました。

 誰かに会うのが怖かった。こんなにも別れが唐突で、酷なものなら、誰とも出会わない方がいい。そうすればもうこんな思いもしなくて済む。人々に幻滅されて、穀潰しと罵られれば消えていけると思ったんです。

 でも、みなさんは私を見捨ててくれなかった。

 不器用な父が、私と同年代の女の子が好きな絵本や占いを必死に覚えて話のきっかけを作ってくれました。学校へ行かなくても、学問はクロさんが教えてくれました。みなさんが、私を元気づけようとがんばってくれた。だから今の私があります。

 でも、やがて父は私を顧みなくなりました。

 一ツ橋日報が世界規模で認められたんですよ。虚人の一件で繋がった縁で、です。

 新聞は母との夢で、それが軌道に乗った事は私も嬉しかった。でも、仕事は激増して、関わる人の数も膨れ上がって……私と父の会話がほとんど無い日が一時期、続きました。

 嫌が応でも、父の仕事が目に入ります。誰ともわからない、おそらくは身分のある人々に笑顔と冗談を絶やさず会談する父は、私にとって尊敬の対象でした。でも、どことなく楽しげな姿が心をチクリと刺しました。

 思ってしまったんです。父ちゃんは手のかかる娘より仕事の方が大切なんだって。それが最初の私が望んでいた事なのに、私は死にそうなぐらい悲しくなりました。

 そこからしばらくして、少しずつ会話が戻り始めたんです。でも、私の心には、見向きもされなかった数ヶ月が染みついて離れませんでした。そのせいで、思わず手を払って怒鳴ってしまう事も間々ままありました。

 ……つい一ヶ月前の事です。

 真夜中、不意に目が覚めて……父が、書斎に入るのを見ました。普段なら心にも留めない事が、その日は妙に目を惹いて――私はこっそり、後を追いました。

 すると、書斎の本棚の裏に隠し部屋があったんです。何を秘蔵しているのかと隙間からコソコソと覗き込んだら……ボロボロのひのきの机と椅子、それに花瓶と小さな写真立てがあるだけの殺風景な部屋です。

 その写真というのは、母の遺影でした。

 父は古びた椅子に腰かけると、暗い調子で母に話しかけました。


『情けないけど、聞いてくれや……俺なぁ、コノハが怖い』


 絶やさない笑顔の後ろにあるのは、己を鼻で笑う哀愁の姿でした。


『俺はあの子の唯一の家族や。でも、俺、アホやから新聞でいっぱいいっぱいやねん。休んでコノハと遊びたい。コノハと一緒にメシ食いたい。もっとコノハと喋りたい…………わかっとる。やろうと思えばできんねん。そんなの』


 机に身を投げ出し、写真と向き合い――すがりつくように、父は吐露しました。


『でも、怖いんや……俺はお前を止めれんかった……あのバケモンを前に、まだ方法があるって言えんかった……!』


 後ろ姿でも、目元を覆う父の袖口が濡れているとわかりました。


『怖い。コノハが、俺の事を怨んどるんやないかって……お母さん殺した奴とおんなじやって思うとるんやないかって……!』


 私はもう、呼吸もできませんでした。

 違うと叫びたい。恥も外聞も投げ捨てて、後で怒られるのも覚悟して、部屋に飛び込んでしまいたかった。

 ……それすらできない自分の弱さが憎くて情けなくて仕方がありませんでした。


『ごめんなぁ……ごめんなぁ……あの子の父ちゃんとして守り抜くって約束したのに、何にも守れん……俺が何を教えてやれたんやろう。俺があの子に何をあげれたんやろう……もうわからん……! 金と知名度がいくらあっても、子供に何も教えれんような男が父親名乗れるワケない…………こんなだっさい男でごめんなぁ……っ』


 母の死以来、初めて見た父の涙。生まれて初めて見た、父の本音でした。

 その時、湧き水みたいに記憶が溢れたんです。

 父が私に話しかけてくれた時、私はよく、ふいとそっぽを向いて逃げていました。私にとってはねているだけの一挙でも、それが父にとってどれほど心を砕かれる一瞬だったのか。そこから踏み込んで会話に持っていく、その一歩にどれだけの勇気と恐怖がこもっていたのか。


 それを考えた瞬間、私は私が大嫌いになったんです。


 父は私を守ってくれていた。

 守るために必死で、私を問題なく養うために一生懸命働いてくれていたんです。

 なのに私は、父ちゃんは私が好きじゃないから相手してくれないんだってねて……最低です……。


「父ちゃんはずっと、私を愛してくれていたのに……!」


 その時、私は『何が何でも独り立ちする』と決めました。

 箱入り娘で、人との距離感もわからず、好奇心の自制もできない馬鹿な私です。

 そんな私が一人でも立派に生きていけるって証明できたら、ああ成長したんだなって安心するんじゃないかって。

 父ちゃんはしっかり私を育て切ったって、教えてあげられると思ったんです。



「――――これが、私がここに来た理由です……くだらない、でしょう?」


 自嘲するコノハ。

 もちろん、それは本心ではなく破滅的な口先だけの気持ち。コノハは少し黙り込んで、両手で顔を覆い隠し――ともすれば鷲掴みにして握り潰してしまいそうなほど、指先を強張らせた。そうでもしないと、小さな自尊心に負けて次の言葉を話せなかったのだ。


「名前が嫌なんじゃないんです……一ツ橋の名前は私にとって何よりの誇りです……だからっ……だから、使えなかった……!」

「……お父様の力だから、ですか?」


 シオンが言葉を繋ぐと、コノハは唇を噛んで気持ちを吐き出す。


「一ツ橋は父が――私の両親が、何一つツテもなかった場所から作った縁の塊なんです。それを軽薄に名乗る事を、誰でもない私が許せない……それを使ってしまえば、私は『一ツ橋の娘』になってしまう……!」


 唇の端に血の粒が浮かんだ。コノハが自身の腕を掻き抱く姿が、まるで荊の鎖に縛られた罪人のように見えた。


「私だけの力じゃないとダメなんです……一から十まで、両親がそうしたように私だけじゃないと、安心させられない……」


 おそらく、一ツ橋日報の娘だと言うだけで冒険者からは引く 数多あまたになるだろう。だが、それは彼女のステータスが目当てなのであって、コノハ自身にかれているわけではない。彼らにとってコノハはどうでもいい、称号の付属品なのだから。

 名を振りかざした結実は、自立とは程遠い。そんなコノハが世に出たとすれば、己の抱える力を利用されて都合よく食い潰される極上の餌となるだけだ。


「……お二人には、名前を明かそうと思いました。きっとあなたたちなら、私が誰であっても変わらない。何より、誠実な二人に隠し事をしているのが嫌で……でも……っ――――怖、かった……身の上を明かして、万が一にも二人の中の私が『コノハ』じゃなくて『一ツ橋の娘』になってしまうって……思ったら……っ」

「コノハッ!!」


 名を叫ばれた少女が身を震わせる。

 バカにするな、と叱られたのか。それとも、図星を突かれて憤慨したのか。もちろん両方とも違うが、リアが龍の鱗を浮かべて火でも吐きそうな勢いで激憤しているのは事実だ。


「コノハ、コノハ、コノハッ!! ほらッ、オレはお前の名前聞いてもコノハはコノハだって言えるぞ! ヒトツバシなんて知らねー! お前は、コノハだろーが!」


 肩を震わせ、まなじりが裂けそうなほど空色の眼を見開いてリアが激情で紅に染まった指を突きつける。

 リアは、コノハがあまりにも自分を信じていない事に怒ったのだ。

 シオンはなだめるようにリアの髪を撫でつけながら、包み込むそよ風のように柔らかな声色で言う。


「落ち着いて、リア…………たしかに、一ツ橋日報の娘さんという事は驚きました。だけど、変わりませんよ。好奇心旺盛で、観察眼に長け、モンスターが苦手……でも、誰かのために必死に考えて行動できる。僕らの知る一ツ橋コノハさんはそういう素敵な人ですから」

「ん!」


 言ってから自分の言葉に失礼がなかったかと、どこか不安そうなシオンに代わってリアが胸を張る。


「――――っ」


 そんな二人が、コノハにはおかしく思えた。

 出会えたのがこの二人でよかったと、心から思えたのだ。


「ぁりっ、ありがとう、ございます…………っ!」


 しゃくりあげる少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。これ以上なく嬉しそうに泣き笑う口角に沿って、涙は膝に落ちた。




「コルド……さ……」


 ギルド医務室に運び込んだクロバが、声を出した。職員への説明をディナクに代わってもらい、名を呼ばれたコルドはその顔を覗き込むが、目線は焦点が合わず、唇は白い。


「まだ寝とけ。コノハなら無事だし、俺らが護衛するから安心しろ」

「ちゃうんです…………伝えな……アレ、は……『――――』、……――」


 それだけ言って、クロバはまた意識を失う。しかし、コルドには看過できない言葉が聞こえていた。


「待て、いまなんつった!? おい、クロバッ!」

「落ち着けってのコルド! いまは休ませるべきで――――ッ、づう……!!」


 ディナクが額を押さえて座り込む。彼もまた、限界が来たのだ。


「……わかった、悪い。お前も寝とけ」

「おう……そう、した」


 過去形の言葉が表すように、ディナクはベッドに倒れ込んでそのまま眠ってしまった。

 職員への説明を済ませた後、コルドは曇った昼下がりの空を見上げ、歯を軋ませる。


「『落とし子』だと……嘘だろ畜生……ッ!」





 水面に波紋を描くのは、剣の切っ先から零れた水滴。血液を洗い流した、罪の残滓ざんしだ。


「殺さない、なんて言っておいて……」


 肩越しに赤く染まる小川を覗き込む少女が呆れ半分に唇を尖らせる。


「あの出血量じゃ苦しんだ末に助からない。私よりも惨酷だなんて、らしくないんじゃない?」

「死には、しない」


 真っ二つに割られた石の断面を思わせる平坦な声に、少女は首を傾げる。


「あの少年が助ける」

「……えらく買い被るのね。あの子、肉体を縫い合わせる方法でも心得ているの?」

「似たような話だ」


 青年が立ち上がり、写真を手に取った。大半は処分した中で、彼が欲していた一枚とは別に、もう一枚。それは、水晶の少年と龍の少女が自然体で笑い合う、幸せな一瞬だった。


「…………」


 これから、この幸福を無惨なまでに引き裂く。

 そう自覚する度、心が疼くのだ。


――きっと、こんな想い出もあり得ただろうに。


「……すまない」


 呟きが風になったように、写真が遠くへと舞っていく。まるで、疾風に翻弄される少年少女の運命を暗示するように。

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