第31話 一ツ橋このは・前

「助けてください!」


 コノハは悲鳴のように叫んだ瞬間、踵を返した。ここが往来ならまだしも、知己の相手ならばその一言で反応してくれると確信しているからだ。事実、振り返る視界の端に、立ち上がるリアとコルドの残像が見える。

 部屋を閉め出された瞬間に、自分がやるべきなのは取り乱して思考停止でも戦いの邪魔でもなく、援軍を呼ぶ事と判断し、コノハは壁に体をぶつけても構わず全速力で廊下を飛んだ。

 同じようにして部屋の前に辿り着く。まだ、あれから一分も経っていない。

 クロバの強さは一級冒険者が認める折り紙つきだ。心配ない。人質を取る野盗のような者共に負けるはずがないのだ。

 リアが曲がり角に見えた瞬間、コノハは待ち切れずにドアを開けた。


「クロさ――――」


 呼吸が止まる。現実を理解してしまった脳が、これ以上考えさせないように空気の供給を断ったのかもしれない。それでも、コノハは初見で相手の特徴を見抜くほどに賢い。把握に一秒も用さなかった。

 血だまり、開かれた窓、横たわるのは助けたかった人。

 濃赤の湖面は、鏡のように動かない。それは、クロバの体が動いていないという証拠。

 小さい頃から、遊び相手になってくれた叔父のような存在。私を守るために立ち向かい――死んだ?

 また、私は。私が弱いせいで。

 助けたかった。

 今度こそ、私の力で救いたかったのに。


「コノハ……おい、コノハ!」


 リアがコノハの肩を揺すっても、まばたきもない。コノハは何もかもがこぼれ落ちた心で、ただ惨劇の痕を見ていた。


「もう見るな!」


 コルドが呆然自失のコノハの肩を引き寄せ、突き飛ばすようにしてリアに渡す。駆け込んでクロの首に手を当てると、まだ脈が続いていた。暗がりで見えづらいが、患部は首や腹ではなく、足――右の腿。

 傷が深い。筋肉も血管も切り裂かれ、骨まで届いている。だが、即死ではない。ならば、こちらには手の施しようがある。


「シオン! 急げッ!!」


 めいっぱい叫ぶと同時にシオンが部屋に到着した。

 通常なら、生死が五分五分となるほどの致命傷。しかし、シオンの魔法なら助かる可能性は大いにある――――が、シオンは動けなかった。


「あ――――っ……、」


 シオンの傷への反応は異常だ。決して目に慣れるほど目撃していない大量出血や傷のむごさに心を痛めたり、胃の中身を吐き出すより、まず助ける事を優先する。彼が傷病者を前に、何もしないなどありえない。それでも、シオンは立ち止まらざるを得なかった。

 奇しくも、酷似していたのだ。

 倒れた体。地面を伝って肥大化する血だまり。そして、機能を潰された脚。

 幼い少年が救えなかった、あの光景に。


 人を助けるという衝動呪いの根幹となった一瞬に。


 コルドはシオンから血の気が引いた瞬間にそう気付き、しまった、と顔をしかめる。


「落ち着け! こいつはフェローじゃねぇ!」

「ち、血が……なお、さ、なきゃ。でも……ぼく、は」


 できない。

 黒いもやが手を象り、青白い顔の輪郭をなぞる。

 お前にはできない。救えない。子供のお前に何ができる?

 リアと出会い、回復魔法を使った。特異点を倒したあの日から、自信のなさを克服できたと思い込んでいた。


――なにも、成長できてない。


 視界が白み、意識の混濁が進行する。コルドの声すら届かなくなる最中さなか――――後ろから、肩を軽く叩かれた。


「はいはい、落ち着け」


 軽い調子でそう言ったのは、弓兵ではなく魔導士だった。シオンは泣きそうな顔で振り向き、小さく震える声を絞り出す。


「ディナク……さん……」

「よーしいい子だ。お前はすげーんだ。大丈夫。……まずは症状、だろ?」


 人が変わったように落ち着き払っているディナクは、服に血が付くのも構わずクロに近付く。普段の能天気と打って変わって、魔法を使う時と同じように落ち着いた様子だ。


「ふーん、珍しいな。脚の傷はまったくわからんけど、こいつ魔力欠乏症だ」


 さらりと言った言葉に、シオンは早鐘を打つ動悸どうきが吹き飛ぶほど驚愕する。

 魔力欠乏症――文字通り、体内の魔力が一定以下になった際に発生する体のショック反応を指す。

 通常、これが発生するのは魔導士が大量の魔力を使用した場合を除けば体質や環境によるものがほとんどで、滅多にあるものではない。


「欠乏症……っ、そんな、これって!」


 すぐにシオンも気付く。クロバの容態は、さらに特異であった。


「ああ。こいつ、魔力が空っぽだ。絞りカスすら残ってない」


 ディナクが言った通り、ないのだ。魔力に関する何もかも、一切が。

 それを聞いたコルドもまた、事態がどれほど急を要するか認識を変えた。


「まずいな、魔力も生命維持の柱だ。この出血で弱ってる呼吸じゃ供給が追い付かねぇ。死ぬまで秒読みだぞ!」

「魔水晶があればどうにかできなくもない」

「無属性の魔水晶なんて高級品、易々やすやすと持ってるわけねぇだろ……! 属性別なら持ち合わせもあるが、純度はクソだし、クロバ自身の適正もわからねぇ!」


 なら、とディナクが切迫した状況を気に掛けずに笑う。


「シオンだけだな、これは」

「でっ……でも、僕は……!」

「お前はお前の心を信じろ」


 胸を――水晶を指差して短く言い切った言葉には、強い信頼があった。ディナクはそういう言葉がシオンを突き動かすと知っているのだ。

 思惑の有無には気付かずシオンは言われた通りに己と向き合う。

 いつもより怖い。取り返しのつかない過去が泥をすくうように想起するからだ。

 でも、心の奥底は。自分の願いは幼い頃も今日も明日も変わらない。

 心と言葉が同期した。


「――治し、たい……救いたい……!」

「それでいいのさ」


 ディナクは夜空に流れ星を見つけたように、歯を見せて笑う。


「イメージだ。お前は水を持ってる。目の前にあるのは水瓶みずがめだ。決して割れてるんじゃねぇ。水がこぼれただけ。お前の全てを注がなくても、足してやるだけでいいんだ」

「水を、足す……」

「そう。簡単だろ?」


 ディナクはイメージが大切だと繰り返す。簡単、という単語はシオンの頭にするりとしこまれた。


「簡単……」


 そう、簡単。その思い込みが大切なのだ。

 難しく考えなくていい。これは根拠のない自信ではなく、いままで重ねてきた知識と経験に裏打ちされている。ただ心に正直でいれば、魔法は応えるのだ。

 あとは、踏み出す勇気。それは心強い味方がいれば代用できる。再度、今度は強めに肩を叩いた。


「俺らがついてる。大丈夫だ!」

「はいっ!」


 膝をついたシオンが脚の傷に右手をかざす。そして、左手が胸の水晶を砕く。

 可視化するほどの魔力が溢れだす――瞬間、ディナクがシオンの背に手を添えた。すると、魔力の勢いが緩やかに制御されていく。

 シオンの魔力が水瓶だと仮定すれば、いままでのシオンは回復魔法の度に水瓶の蓋を叩き割っていたのだ。

 一度割れてしまえば、魔法を成立させるのに必要な量を超過しようと関係ない。魔法が発動して傷が治ろうとも、魔力全てがとめどなく流れ出る。可視化し、霧散するという形で全てがあふれて消えるのだ。

 言わば、それも魔力欠乏症の一例である。加減がわからない、魔法がただ使えるというだけの初心者に頻発ひんぱつするケースと同じ。

 そのため、ディナクは何も言わずに制御を与えた。水門のように出口を狭め、定量以上出させないようにすれば、回復魔法を使ってもシオンが気を失う事はないのだ。ゆくゆくは制御の訓練をさせるつもりだが、今回伝えなかったのは、シオンの頭に余計な情報を与えないため。

 面倒な作業は引き受ける。

 いまは、助けたいという一心があればいい。


「どうか――――!」


――――リリーフ・エリクシル


 碧が傷に根を張る。覆い隠し、守るように細い根が織り重なった。

 茎からつぼみが形成され、花開く。すると、驚くほどの速さで肉が癒着し、傷が塞がった。

 同時に魔力も潤沢に補充され、クロバの体に残る問題は血液不足による衰弱だけ。魔力の消費による疲労感に頭を揺さぶられるシオンが、それを伝える。


「っ……傷はもう大丈夫です。とにかく、安静にできる場所へ!」

「わかった、ギルド医務室へ運ぶ。誰か担架たんか持ってきてくれ!」


 廊下へ呼びかけると、何事かと見に来ていた店員たちがパタパタと走って担架を取ってきた。クロバをそこに寝かせ、コルドとディナクで運び出す。

 部屋のすぐ近くにはコノハと彼女を落ち着かせているメリアと、何を言えばいいのかわからず二人のそばにいるだけのリアが三人並んでいた。

 泣きじゃくるコノハを優しく抱きしめ、メリアがコルドにきつい口調で説明を求める。


「コルド、これってどういう事だし!?」

「俺だってよくわからねぇ。とにかくクロバは生きてるが、重傷だ。ギルドに運ぶから、お前はコノハたちといてやってくれ!」

「……わかったし」


 ぶすっと釈然しゃくぜんとしないながらも納得するメリアのかたわら、コノハは担架に寝かされたクロバを呆然と見つめる。

 どうして、自分たちが狙われる理由があったんだろう。それが写真だというのなら、私が斬られればよかった。そもそも私が何もしなければ、誰にも迷惑は――――


「ぉ、じょ…………」


 吐息のように掠れた声が、コノハの耳朶じだかすかに叩いた。二度目が聞こえ、それがクロバの声だとコノハは確信して、転びそうになりながら駆け寄る。担架にしがみつき、必死の思いで呼びかけた。


「クロさん起きて! 目を開けてっ!!」

「ぁ……お、嬢…………よかった……」

「クロさん、ご、ごめっ、なさい……わ、私が……ぜんぶっ、わたしが……!」

「落ち着いて、ください……わっし、生きて……やから、お嬢……――――」


 最後の声は、間近にいたコノハにしか聴こえなかった。涙を落とす瞳を見開いて、コノハは唇を噛んだ。


「でもっ……」

「は、は…………頼んます、お嬢……わっしらは、それが……そうなるんが、きぼ、ぅ……で……」


 そうしてクロバは力が入らず小刻みに震える手をなんとか動かしてコノハの頭に手を置き――また、目を閉じる。手はコノハの黒髪から、虚脱するように力なくずり落ちた。


「クロさんッ!」

「気を失ってるだけで、息はある。後は任せろ……ディナク、絶対に揺らすなよ」

「あいよ。はーぁ、後で頭痛だなこりゃ……」


 ぶつくさと文句を言うディナクが通り過ぎた後、シオンが部屋から出てくる。リアはとたとたと近づくと、不思議そうにシオンの頬をつっついた。


「どうしたの?」

「シオン、魔法エリクシル使ったよな? なのに、倒れてねーから」

「あっ……そうか……」


 言われてようやく、ディナクが手を貸してくれたと自覚した。傷にかざした掌を見ると、頭の中で『未熟』という言葉が木霊こだまする。


「まだまだだな、本当に……」

「ん……なあ、シオン。だいじょうぶ、か?」

「あっ、うん。クロさんなら、ポーションと栄養を摂って安静にしていれば回復するよ」

「ん。だけど、コノハも……」


 心配そうに爪で自分の鱗を掻きながら、リアは視線を投げる。血だまりが掃除されていく部屋の二つとなりのドアが開き、メリアが出てきた。彼女は二人を見ると、小さく手招きした。

 音量を落とした声で、耳をぺたりと落ち込ませてメリアは話す。


「コノハ、だいぶ参ってるみたい……こういう時は独りにさせた方がいいと思うし。侵入対策で窓はガッチリ閉めといたから、今夜はアタシがドア前で寝ずの番しとく」

「そう、ですか……」

「ん……」

「暗い顔しないの。お姉ちゃんに任せとくし。……でも、そっか。一応、アンタらが話しかけてあげた方がいいかも」


 思案顔でメリアがドアの向こうで独りのコノハを見つめる。


「アタシは今日が初対面だけど、二人は付き合いあるっしょ? 話したい事があるかもだし……でも拒まれたらすぐに出てきて。心がささくれてると、優しさでも痛いから……わかってあげてほしいし」

「ん。わかった」

「いい子。じゃ、頼んだし」


 メリアがドアを開けた。

 薄い木板製のはずなのに、二人にはそれが鎖にまみれた鉄扉に見えたのだ。それは、コノハの抱える心に触れるという前兆だった。

 部屋に入る。天井に備わった火の魔晶石による灯りはついていない。窓は錠前で閉め切られ、カーテンが日光をさえぎる。まだ夕方前だというのに、室内は陰鬱いんうつな空気を纏って真夜中の様相をていしていた。

 その奥。先ほどと同じように壁際のベッドに腰かけるコノハがいる。ただし、彼女は背中を壁につけ、立てた両膝に顔を埋めて小さく小さく体を丸めていた。そのまま小さく小さくなって、この世から消えてしまいたいと言わんばかりに。

 部屋に入ったと気付いているだろうに微動だにしないコノハに、シオンは言葉を失う。

 自分も、同じ時期があったからだ。こういう時は、本当に何を言われても心が痛む。心配も叱責も慰めも激励も、同じくとげのように気をさいなむのだ。

 言いあぐねていると、リアが口火を切った。奇をてらわない、ごく単純な一言を。


「だいじょうぶか?」


 大丈夫なわけがない。わかりきった、火を見るよりも明らかな状態だ。だとしても、リアがそれを選ぶ事を誰も責められはしない。何を言えばコノハの心を解きほぐせるのか、シオンには見当もつかなかった。

 リアも同じはず。なのに、彼女はなんとかしようと必死に少ない語彙ごいを掘り起こして、しどろもどろながらも続ける。


「痛いときは誰かに話したらいい……オレは龍だって話したら、心が楽になった。でも、コノハがそうかわかんねー。だからっ、その……」

「何もしたくないのなら、僕たちはこのまま部屋を出ます。決してコノハさんを見限るという意味ではなく、落ち着くまで待ちます。だから、僕たちに気を遣わずコノハさんのしたいようにしてください」


 シオンが受け継いだ言葉はリアの心と合致していたようで、リアは大きく頷く。そして十秒ほど経ち……返答となる動作が何もなかったため、シオンがきびすを返した。経験上、こういう時の無言は否を示す。

 リアも後ろ髪を引かれる思いでシオンの背を追った時だ。


「――まって」


 まるで、枯葉がそよ風に千切られてしまったような。渇いた喉から、そんな声が舞い落ちる。


「待って……ください…………」


 それが精一杯だった。誰も心配させまいと仮面の中に隠し続けた心の、ほんの一滴。

 誰かにすがりたいという、ささやかで苛烈な感情だった。


「こころ、が……きしきしって、痛いんです……心の中で笑ってもいい、です……いいですから……吐き出させて、っ……ください……っ」


 今にも壊れてしまいそうな涙声。

 痛切な少女の懇願こんがんを、誰が無視できるというのだろう。

 リアはすぐに駆け戻ってコノハの右隣に陣取り、シオンは椅子を寄せてコノハの左側に座った。

 感謝するように、あるいはゆるしを乞うように、コノハは両手を合わせて言葉を落とす。


「わたし、が……レノワールにきた、ほんとの理由は――――」


 一ツ橋このは。


「とうちゃんと……死んだおかあさんを、安心させるため、です」


 それは当然だった幸せを奪われた、雛鳥の名前。

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