第30話 鴉は血に沈む

 カウンターから厨房を抜けると、改装前の宿屋の名残である長い廊下と数多くの客室が並ぶ。多くは従業員たちの自室となっており、空き部屋にシオンたちは通された。

 始めは当事者であるシオンたち三人に事情の説明を求められているクロ、話のまとめ役としてコルドの五人だけで済ませる筈だったが「置き去りすんなし!」とついてきたメリア、店内に単独放置は危険と判断されたディナクもついてきている。

 まず口を開いたのは、一ツ橋日報の記者。


「わっしはクロバ。一ツ橋日報の記者やっとります。そんで……」

「改めまして――私の名前はコノハ・ヒトツバシ。一ツ橋日報の代表役、カルラ・ヒトツバシの娘です……この度は、申し訳ありません!」


 ベッドに腰かけたコノハは、周囲――特にシオンとリアに対して、深々と頭を下げた。


「困ることもありませんでしたし、謝らなくても……」

「ん。コノハは悪いことしてねーぞ」

「それでも、名前を……出自を隠していたのは事実です……」

「でも、とーちゃんが誰だからって、コノハはコノハだろ?」


 リアが不思議そうにコノハの顔を覗き込む。


「シオンのとーちゃんが誰でも、シオンはシオンだ。オレはオレのとーちゃんが誰かわかんねーけど、オレはオレだ。おんなじだろ」

「……驚きましたけど、僕らに全てを言っていなかったからって、それがコノハさんを責める理由にはなりませんから」


 二人が行動を共にしたコノハが偽りの姿かと訊かれれば、それは否である。モンスターへの恐怖などを隠そうと虚栄を張っていたが、決してシオンたちを悪意で騙した事はない。

 そういう心だからこそ、自分に誠実に向き合ってくれる二人に後ろめたさを感じていたのだ。


「で、でも……まだ話せていない事だって……」

「ああ。その辺も聞き出したい所だが、今は先に訊きてぇ話がある」


 コルドが、コノハのすぐ傍で護衛のように立つクロバに水を向ける。


「俺もおおまかだが話は聞いてる。コノハが親から自立するんだろ? 片田舎の農村でも起きるような家庭内の些事さじ……それを肉親でもないアンタが監視する理由はなんだ」

「……なんて言うんが正解かわかりませんけど、わっしの目的はコルドさんの言うように監視です」


 よれた襟元を正しながら、クロバは続ける。


「決して邪魔もおぜん立てもしません。見つかったらお嬢が怒るんで、ちょっと離れた場所からひっそり見とくだけ……ホンマに危なくなったら助けるつもりでした」

「……さっきの状況は命の危機じゃねぇと言いたいのか?」

「もちろん、割り込んで助けようとしましたよ! でも、遠ぉーくの方からブッ飛んでくるモンが見えて……それが人やとわかった瞬間に、とりあえず只者ただもんやないと思い、ちょいちょいと妖術魔法で風向きを……」

「あー、フッ飛ばされてた途中で急降下したのってそういう……」

「というかそもそもですけど、アレはなんやったんです? なんか直前に轟音は聴こえたんですけど……」


 コルドが恨めしげな視線で背後を一瞥いちべつ。そこには話など欠片も聞いていないディナクがいた。今度は指で空中をなぞり、他人には見えない文字を書き並べているようだ。


「あいつのせいだよ。モンスターとの交戦中に閃きやがって、ブッ放したら竜巻だ。メリアが鞭で俺らを引っ捕まえたからはぐれはしなかったが、おかげで空中散歩する破目になった」

「どっちかっつーと弾丸ツアーだし。ま、おかげでシオンたちに会えたから今回だけはナイスだったし」

「お、じゃあ魔法撃っても――」

「「ダメに決まってんだろ」」

「えー?」


 不満げな爆弾の脳天に拳骨を喰らわし、コルドは話の軌道を戻す。

 目的はわかった。ならば、それの動機はなんなのか。


「説明はするんだよな?」

「一から十までキッチリさせてもらいます……今更ですけど、わっしは一ツ橋日報で記者やらせてもろうとるクロバ言います。今回のコレは、わっし自身の意志でもあり、編集長――カルラさんの頼みでもあります」


 指示や命令ではなく、頼み。

 コノハはその一点に強く反応し、一言一句逃すまいと口をつぐんで集中した。


「まず、わっしらのせいですが、お嬢は結構な箱入り娘なんです」

「ちょっ!?」


 慌てて話を遮ろうとするコノハだが、会話は続く。言葉を最後まで聴こうとした己の集中が裏目に出た。


「ハコイリ? コノハ、木箱に住んでたのか?」

「世間を知らないお嬢様って事だよ。……でも、本当ですか? コノハさんはなんというか……令嬢みたいな感じはあまり……」

「はい。言うてもわっしら庶民なんで、生活は一般水準です。それなんで金銭感覚とか諸々もろもろはええんですけど、人との関わり合いがあんましなかったからか無自覚に失礼な時があって……観察して得た情報を全部言うてしもうたり、気になる事があったら直接確かめようとしたり」


 シオンには思い当たる節があった。

 観察から得られた事はなんでもズバズバと口に出してしまう。強引にシオンの水晶を見ようとしたのは、何があるか確かめたかったからと言っていた。回復魔法についても好奇心のうずきが抑えきれずに目撃してしまったのだろう。

 あれでは余計な領域に手を出して顰蹙ひんしゅくを買う日もあったはずだ。


「でも、十五歳でしょ? 成人扱いの国もあるし、大人になりたいってのも当たり前だし」

「ええもちろん。自立したいっちゅう意志は喜ぶべきモンですから、過保護やってわかってますけど、込み入った事情もありまして……事の発端は、早朝のいっちゃん忙しい時間帯に響いたお嬢の宣言でした」


『私、ここから出て行きます!!』


「せ、宣言したんですか!?」

「後には引けないようにしてしまおうと思いまして……」

「もちろん現場は大混乱。誰よりも仰天したんは編集長でしたけど、すぐさま持ち直してこう言うたんです」


『認めれるかアホゥッ!!』


「激しいなアンタんトコの親子」

「大体いつもの事です……けど、お嬢も一歩たりとも引き下がらんので編集長も折れて、条件を出したんです。何かしらで神さまに認められるぐらいの実力を見せんと一本立ちは認めん、と」


 どう考えても無理難題だ。十五の子供が成し遂げられる条件ではない。しかし、コノハはそれを好機とばかりに受諾した。そして、その数分後には行動に起こし始めたのだ。


「最初は人都内でやると言っとったんで安心しとったんです。それに皆、現実を見たら諦めるやろってあなどってました……けど、期限の一ヶ月が迫るにつれてどこまでも根を詰めていくんがあんまりにも痛々しくて……つい、レノワールやったら神さまが友好的やから、と」

「入れ知恵した本人が監視、ねぇ……」

いぶかしがるんはごもっとも……けど、わっしらもお嬢なら大丈夫と放任できんかったんです」


 コノハの顔が暗さを帯びる。言い回しというオブラートの向こうには、自分が信用できないという父親やクロバの認識があるからだ。


「お嬢は頭が切れるんです。文章作成を手伝ってくれる時も何が必要な情報か把握するんも早いし、仕切るんも上手い。でもお人好しで気ぃ弱いから、なんでもかんでも自分でやろうとしてまうんです。やから身の丈にうてなくても自然と先陣切って行くことになる……のに、実際は神経細いしビビり。そんなんやから、目の届かんトコに行かせたら無理し過ぎんか心配で……」

「そこまで聞けば、わからなくはねぇな。シオンたちがいたからどうにかなってるものの、単独で森に行ったとしたら……」


 無害に近いカラントシードでもあの有様。仮にウェアウルフにでも遭遇したのなら、想像に難くない。


「もちろん、誰よりもコノハさんが心配なんは編集長です。でも、激流みたいに押し寄せ続ける仕事をほっぽりだして行くわけにもいかず、手隙てすきのわっしが、と」


 日報の記事はジャンル毎に多数の部署に分割されて作成されている。だが、記事の最終判断や取材の許可を出すのは編集長――決定権を持つ者の仕事。

 娘のために動きたい。しかし、双肩そうけんには一ツ橋日報で働く数多あまたの者の生活がかかっている。どちらも守るためには、身体がもう一つ必要だったのだ。


「……ま、事情はわかった。クロバさんよ、ちょっと来な」


 コルドが扉を開け、クロがそれに従う。不安げなコノハに「剣呑けんのんな話じゃねぇさ」と笑いかけるものの、廊下に出た瞬間にコルドは目を鋭く細め、クロバに問う。


「アンタ……よな?」


 それが何を示すのか。クロはすぐさま碧の光を想起し、首肯した。回復魔法――それが事実だとするのなら、医療と魔法学の分野に激震が走る。記者である彼は重々承知だ。

 交渉の余地もない。秘密を知ったのはコノハの粗相そそうであり、それを制止するのも自分の責務だった。何を要求されても断れはしない。

 クロバは腹を切る覚悟で陳謝ちんしゃした。


「もちろん、誰にも言いません。信用ならんのなら、わっしのできる範囲でどんな条件でも呑みます。せやから、お嬢の無事だけは……!」

「待て待て待て、俺が極悪人に見えんのか? シオンについて他言無用を約束してくれるんなら何も文句はねぇよ」


 サラリと言われた条件はとても容易く、故に遵守が難関だった。

 もちろんクロバの口は堅く、今後一切誰にも話すつもりはない。だが何せ、人の口に戸は立てられない。どれほど約束を守ると宣誓しても、コルドの安心には結びつかない。呪術でも行使するか、この口を縫い合わせでもしない限り絶対はないのだ。


「えっと……何を差し出せばええんでしょうか……」

「何もいらねぇよ。コノハもだが、いつまでも俺が拘束できるわけじゃねぇ。だったら無為に脅すより、バレてもいいと開き直って一応頼んどくぐらいがいい。そう思わねぇか?」

「そ、そらそうですけど……うて数分のわっしを信用するんですか?」

「時間は関係ねぇよ。コノハがあだ名で呼ぶぐらい気を許す相手で、あんたは与えられた仕事をキッチリこなし、言動も常にコノハと親父さんを擁護ようごしてた。建前でこんだけ尽す必要はねぇから、信用に足ると思っただけだ」


 ただの憶測や慢心による甘い考えではなく、人格を推察するに足る情報による判断。二十そこそこの若年じゃくねんとは思えない抜け目のなさだ。


「ま、あんたがどうしたとしても俺らが責任持ってシオンが自立するまで守るさ。広まらねぇに越した事はねぇけど、元からそうするつもりだったし」

「さいですか……てっきり、お嬢を盾にエグい要求されるモンやとばかり」

「そりゃこっちの台詞だ。あんたらの手にかかりゃ即座に世界中に広まるんだから、ヒヤヒヤしてたのは俺の方だ」

「見てしもうた原因はお嬢にあるんで……」

「別にコノハの責任じゃねぇ。シオンが歩き始めりゃいつかは知られるだろうさ……そいつを少しでも先延ばしにしてぇだけだ。あんたらがコノハを守りたいみたいに、俺も過保護で心配性なんだよ」


 苦笑の内にはシオンに対する複数の感情があった。

 小さかった子が自意識を持ち始めた嬉しさ、自分の見える範囲を離れていく寂しさ、邪魔かもしれないと思いながらも心配が勝って出しゃばってしまう己への情けなさ。

 クロバはほぼ初対面であるコルドに深く同意できた。

 何せ、自分もコノハに対して似た感情を抱いているのだから。ただ心配で仕方がない。でもそれを押し付けるのは大人の傲慢だ、と封じ込めているからこその監視といういささか強引で仄暗い手段だった。

 ただ厳しく罰するのではなく、理由を確かめた上で相手の立場で考え、許容する精神。

 条件を突きつけずに信用するあたり、まだ青さも甘さもある――しかして、彼は早くも自分の責任で判断できる覚悟があり、自分の判断が間違っていた時に責任を取ると腹を決めているのだ。

 クロバは一礼した。


「ご容赦、感謝します」

「かしこまんなって。俺もアンタも同年代だろ? ……俺らは店内に戻るから、今後どうするか話し合っとけ。もし、コノハがレノワールに残りたいってんなら俺らも可能な限り援助するから、許可してやれよ。事情は知らねぇが、あの子にも芯がある。もうちょっと信用してやってもいいと思うぜ」

「……人都あっちに戻ったら、コルド・サッチャーの特集組んでええですか?」

「ありがてぇ話だが、そういうのは新人にしてやれ。斥候せっこうが目立ってちゃ世話ねぇ」


 本人には断られたが、一ツ橋日報編集長のクロバ・タカツジはいつか『人情溢れる義の弓使い』という見出しで記事を作ると心に決めたのだった。

 コルドは扉を開けるなり、軽い調子でまくしたてる。


「和平条約締結だ。さ、コノハお嬢様がクロに説教喰らわすらしいから、俺らは退散するぞ」

「こ、コルド、コノハがヒトジチでホリョになったりしないか?」

「何を吹き込まれたか知らねぇが、メリアは男女平等チョップな」

「げッ、なんでバレたし!?」

「やっぱテメェじゃねぇかッ!」


 メリアの脳天に手刀が突き刺さる隣で、「コルドさんは口は悪いけど優しい人なので、きっと大丈夫ですよ」と、シオンはアフターケアをしながらディナクを引きずって部屋を出た。

 誰もいなくなり、すっかり静かになった部屋で、コノハが思い詰めた顔で切り出す。


「交換条件はおいくらでしたか……?」

「そんな取引ありませんからね!?」

「で、でも……呼び出されたのって、シオンさんの魔法の件ですよね……? 私のせいなのに……」

「ローブの子が言うてたみたいに、コルドさんはい人でしたから、安心してください。――いやー、にしてもホンマにええ方々ですね、お嬢」

「……ずっと見てたなら、知ってるでしょう? 盗み見盗み聞きしてたくせに」


 弱々しさから一転、つっけんどんにコノハはクロバのすねを蹴る。クロバが冗談めかすように口調を変えたため、それに乗ったのだ。


「さすがに声までは聞こえませんって。……普通、こういう風に身分明かしたら態度変えるやからもいますけど、あの子らはそれがまったくなかった。ローブの子は気ぃ遣ってくれてただけですし、あの歳で礼儀のできたええ子ですわ。もう一人の女の子も、お嬢が何モンでも変わらんっちゅうのは本心の声やと思います」


 言われなくても、とコノハは唇を尖らせて膝を抱える。自分の方が、少しだけ二人との付き合いが長いのだ。あの二人が嘘のつけない性格で、どこまでもお人好しで、真剣に向き合ってくれているなんて事は言われずともわかっている。


「ホンマに驚きましたよ。あんな事もあったのに、知らん間に大きくなるモンですね……」

「…………」

「お嬢。良い縁に出会えましたね」

「っ――」


 だから、改めて言われると照れてしまう。妙な事に、二人が褒められると我が事のように嬉しいのだ。


「あ、当たり前です! シオンさんもリアさんも、私なんかよりとっても大人で立派な方ですから」

「そないに卑下ひげせんでも……あっ、そういえば写真はどうやったんですか?」


 はっと気づく。昨日から今の今まで、撮影した写真を現像していない。鞄を開けば、まっさらな写真がかさばっていた。


「すっかり忘れてました……」

「神さまに提出するんやし、全部現像してみた方がええんとちゃいます?」

「それもそうですね。早速やってみます!」

「そや、ついでやし、二人にも見てもらいましょ! 力合わせて撮ったんやから、一生の宝になりますよ!」


 すぐさま呼びに行きそうなクロバをコノハは慌てて引き止める。


「せ、せめて選ばせてください。ブレッブレの写真もあるんですから……」

「さいですか? じゃ、待ちましょっか」


 クロバは配慮はいりょして、白い写真を広げるテーブルを視界から外してくれた。


「一生の宝……」


 コノハは魔力を指先に集めながら、思わず口角を緩めた。


「えへへっ」


 次々に写真が彩られていく。写真として成立していないブレブレのものも多数。だが、会心の一枚と拳を握ったリアの写真はあの瞬間の視界をそのまま写したほどの出来栄えだった。

 我ながらほれぼれしたのも束の間、一枚の写真に目移りする。


「あれ、これは――」


 風が首元を撫でた。本当にそう思ったのだ。

 窓を開けてたかな、と顔を上げ――


「動くな」


 首筋に当たる冷たさ――金属。その冷徹が臓腑から魂まで全ての熱を奪い去った。


「おじょ――ッ!?」

「静かになさいな」


 異常を察知して振り向いたクロバの眉間にも剣――否、人差し指が向けられる。白魚のような一本の指が、毒針でも差し向けられたような警戒心を掻き立てた。細く鋭い殺意の奥に、微笑をたたえる赤目の少女がいる。


「大切なお嬢様、枯葉になってもいいの?」

「ッ……!!」


 クロバが両手を降ろして黙殺された所で、コノハの首に銀の長刀を添えたまま、黒いローブが声を発する。まるで、世の全てを憂うように暗い感情の声だった。


「声を出したら、殺す」


 いつ、どこから、どうやって侵入したのか。そんな疑問を抱く余裕すらも奪い去る、剣のように温度も迷いもない言葉。


「っ…………ぁ、ぅ……」

「……そのまま指示を聞けば、傷は負わせない。貴女にも、そこの男性にも、店内の人々にも危害を加えず、今後一切貴女に関わらないと誓って退しりぞこう」


 発言の真偽を別にして、従う以外の選択肢はない。間近で光る剣に怯えて動けないコノハの沈黙を是と受け取り、青年は丁寧に命令した。


「その写真を全て渡せ。カメラもだ」


 何を言われても頷くと決めていたコノハは、躊躇ためらった。

 カメラはまだいい。自分のお小遣いで買ったものとはいえ、量産品。愛着があるにしろ、代替できなくはないからだ。

 しかし写真に替えなどない。複製しない限りは唯一無二の存在。

 まだ、見せていない。宝物を想い出にできていない。

 コノハにとって、縁を強く結ぶ方法――それは想い出の共有である。

 記憶なんて曖昧だ。約束なんて本当に果たせる確証がない。人なんて、いつ死ぬのかわからない。

 だから、縁が形として残るのならこれ以上に嬉しいことはない。そのために写真を選んだ。


 だって、私と母を結ぶ縁はそれしかなかったから。


 せめてシオンとリアに見せていたのなら、ここまで迷いもしなかっただろう。


――それでも、命には……!


 期限まで今日含めて三日……もう時間はないけど、自分の夢が――目的がついえるとしても、命には代えられない。まだ、死にたくない。

 写真をゆっくりと手で寄せ集め、ひとまとめにしながら横目でクロバの無事をうかがう――瞬間、コノハは呼吸を忘れた。


「そこにあるものだけでいい。さあ、早く――」


 違う。

 この身体を染め上げた、吹雪のような恐怖心。この青年ひとに対してのものじゃない。剣に対してのものでもない。その背後。引力ということわりを知らぬ少女。

 

 あれは、私たちとは根本的に、決定的に何かが違う。

 知っている。


 わたしは、あれを、しっている。


 少女が、嗤う。


「あら、その瞳――」



 を知っているのね?



 赤――――憧憬しょうけいの色。


 あか――――化物の色。


 あか――――約束の色。


 アカ――――母の、色。



 私から全てを、奪った色。




「――――おかあ、さん」


「ッ――――ァ!!」


 裂帛れっぱくと同時に、無風だった室内を暴風が吹きすさぶ。クロバは青年と少女の視線が自分に集まった瞬間、少女の腹に掌底を打ち、弾き飛ばす。


「きゃっ!?」

「っ、リージ――」

「お嬢放せぇッ!」


 震脚――強烈な踏み込みから放たれた拳が青年の腹部を直撃する。寸での所で剣を盾代わりにするも、クロバは勝機を得たとばかりに口角を歪めた。

 無軌道に見えて緻密に制御された風圧がドアをこじ開ける。剣の拘束が外れたコノハだけを廊下へと吹き飛ばした。


「お嬢、逃げろッ!」


 叫ぶと同時にクロバは扉を蹴って閉ざす。その手にはコノハの写真が握られている。


「自分らが誰かは知らんが、欲しいんはこの写真やろ……絶ッ対に渡さへん。写真はわっしらの成果。切り取った一瞬は宝や! 渡さんぞッ!」


 写真が目的である以上、コノハを写真と共に逃がせば追跡を優先される。すぐ近くにはコルドたち一級冒険者がまだおり、距離を考えれば到着まで一分もかからない。ならば、自分が死守するのが最善とクロバは判断した。


(お嬢の反応……こいつら、少なくとも女の方は……ッ!)


 見開かれたクロバの目が火を灯す。大切なものを奪った存在に対する獰猛どうもうな憎悪が、そこにはあった。

 両の足をしっかと地に押し当て、腹の底に力を巡らせる。

 記者と言っても冒険者部門となれば荒事も多く、そこを束ねる彼の実力は一級冒険者に勝るとも劣らないのだ。


「【暴風あからしまかぜ】ッ!」


 二本指が振り下ろされると、テーブルが浮き、窓ガラスが割れるほどに凄まじい突風が逆巻く。風向きは敵両名を縛り付けるようにうずを描いていた。

 風の妖術を扱い、暴嵐で相手を翻弄する。それは狭い室内でも時間稼ぎとしてなら充分に通用する戦法だ。

 それでも。


「ふぅん、そう」


 つまらない。そうとでも言いたげな声は、背後に。

 クロバは耳と目のどちらを疑えばいいのかわからなかった。

 そんなはずはないのだ。この風は嵐を凝縮したようなモノ。そんな中を平気で動けるワケが――――


「いただくわ」


 混乱が生んだ隙が、命運を分けた。

 首筋を指でなぞられた――瞬間、クロバは糸を切られた操り人形のように崩れ落ちる。

 風もプツンと途切れて消えてしまう。脚の力が抜けた。それどころか全身を酷い倦怠けんたい感が襲い、指一本も動かせなくなる。まるで体と意志が乖離かいりしたように。


「んな……アホな……!?」


 驚愕するクロバには目もくれず、少女は蛇のように青年の首元にまとわりつく。まるで、使い魔が飼い主に褒めろと急かすように頬を擦りつけている。その余裕を見せつけるほどに、クロバと少女の実力差があるのだ。


「風はあなたと相性が悪いもの。私が仕留めればいいでしょう?」

「……殺す必要はない」

「あら、本当? 私たちにとっては障害だけど?」


 悠長な会話をしている二人を倒さんと、クロバは全身に力を込める――が動けない。せめて写真を逃がす、と風を起こそうとした。しかし、そよ風ひとつ吹かない。妖術が、魔法が、使えない。

 遂に、青年がクロバの握る写真の束に手を伸ばす。


「やめ……ろ……!」


 必死の一念も虚しく、動かない指をすり抜けて全てが奪われる。

 写真を流し見た青年は、そのままクロバを見下ろす。感情など最初から存在しないような、うつろを映す真っ赤な双眸。それを愛おしいとばかりに見つめる、真紅の瞳。

 クロは魂の底から恐怖した。その眼は、その温度は人が持っていいものじゃない。一体、何を見た。二十歳はたちそこそこであろう青年が、何を知ればこの目を宿せるというのか。


――こいつらは、アカン。


「……せめて、安らかに」


 銀刀が振り下ろされ、血飛沫ちしぶきが青年の頬を濡らす。人の肉を斬り、骨を断とうとも。その感触が腕を伝わろうとも、やはりその眼は何の感情も映さない。ただ極めて事務的な動作で付着した血を払い、納刀するだけ。


「――――――――」


 クロバは断末魔も、後顧こうこの警告すらも許されず、血の海に沈んだ。

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