第16話 月の下、人と狼



 シオンが目覚め、リアと一対一で話せるようにとコルドが部屋を出た時だった。


「あ」


 ドア閉めると、すぐ傍の壁から室内へと猫耳をそばだてていたユラと目が合う。


「……テメェなぁ」

「ゴメンって! だってシオンくん倒れてるしリアちゃん落ち込んでるしで気になるじゃん! 結局中の声聞こえてなかったから教えてよー!」

「お前には関係ねぇ。無駄に首突っ込むな」

「いーや関係あるね! あたしは支部長ナカトさん代理。後輩のシオンくんや冒険者のリアちゃんが困ったら助けるのが仕事だもん!」


 ジタバタと駄々っ子のようなユラをコルドが部屋から引きはがす。その顔は疲労が滲んでいた。


「はぁ……シオンは魔力切れを起こしただけで、怪我はないはずだ。詳しい話ならシオン本人に聞け…………俺は行く場所ができた。お前に二人を任すのは不安だから、手出しすんじゃねぇぞ」

「変に気を回さない方がいいと思うんだけどなー。……で、また神さまの所?」

「なッ、んで知ってんだお前が!?」

「バレますよーだバーカバーカ」

「ナカトに勤務態度として報告するからな」

「ゴメンナサイマジ勘弁」


 鮮やかなまでの平伏を見せるユラを「やめろバカ、誰かに見られたら俺が悪役にされちまう!」と立たせる。もっとも、したたかなユラはそれを計算に含めていたのだが。


「とにかく、お前の言う通り俺は神さまに報告があるんだ。急がねぇと対処が――」

「遅れちゃうよネ」


 ん?

 ギ、ギ、ギと二人同時に、とぼけた声の出所に向く。


「だから来ちゃった☆」

「かッ、神さばふっ!?」

「叫ぶなバカ!」


 ユラの口を塞いで左右を見渡す。幸運にも通行人はおらず、誰かの耳に届いた様子はない。


「大丈夫だよ。ボクもさすがに今回はお忍びだから人除けしてるのさ☆」

「そうだとしても勘弁してくださいって、心臓にわりぃ……!」

「いーでしょ別に。それでそれで? 報告報告☆」

「……知ってるでしょう。貴方の加護を持つ俺の記憶は筒抜けなんですから」

「読み取れるのは記憶だけ。ボクはキミがどんな感情を持ったかも、知りたいナ」


 コルドは不機嫌そうに頭を掻いた。その中、まだ錆びたカラクリ人形のような動作のユラがギ、ギと手を挙げる。


「あのー、秘密の話っぽいのにあたしがここに居てイインデショカ?」

「イインダヨ☆ 本来は明日帰ってくる予定のナカトくんにって思ってたケド、さっき『まだしばらく戻れそうにない』って死にそうな筆跡の手紙が来たからネ。ここは支部長ナカトくん代理のユラちゃんに任せようかナ」

「ひぇっ、思った以上に大役だぁぁぁ」

「代理を名乗ったのはお前だろうが」

「任せちゃってゴメーンネ☆」


 本当は急ぐ必要はないって高を括ってたケド、と神さまが軽快な雰囲気を改める。


「シオンくんとリアちゃんという被害者が出たんだ。悠長に構えてはいられない」

「ッ……ええ」


 唇をきつく結んだコルドが報告を開始。

 まず、二匹の特異点が出現した事。森に怪しげな白い痕があり、リアの証言から見てそれは黒いウェアウルフの毒であるという事。黒いウェアウルフは冒険者が捨てたと思われる剣を持っていたという事。

 そして、シオンとリアの容態。シオンの魔法についてはユラがいるのでぼかして伝えた。


「なるほど、ネ。不明な部分が多いからなんともだケド、剣を持った個体は明らかに一線を画した危険度だ。倒した二人の功績は大きいネ」

「ええ……同時に、そのレベルの特異点がまた明日にでも出る可能性があるって事です」

「ちょちょ、明日にでもって……たしかにここ最近は特異点も多いけど、そこまで警戒しなくても……」


 シオンとリアの話を聴いてしばし呆然としていたユラが忠言すると「そう思うよネ」とカシスは同調し頷く。


「ユラちゃん、リアちゃんが昨日大変な目に遭ったって聞いてるよネ?」

「えっ、はい。怪しげな取引を見て、シオンくんが助けに来なかったら危なかったって……」

「そのとーり。黒ローブくんが『蒼い液体』をローベルくんに渡して、彼はお金を受け取っていた。路地裏でやってる時点でそれが穏やかじゃないのは明白だ」


 空中で膝を組み、「蒼いアレの正体は十中八九確定なんだけど……実物もない上にあくまでボクの予想だからネ。答え合わせは専門家に任せる事にしてるよ」とワンクッション置いた。


「でも、ひとつ言えるなら――彼らによって、特異点が人為的に造られてるのは確かだよ」

「じん――ッ!?」

「しーッ、大声で言うんじゃねぇよバカ。おおっぴらに言えねぇから神さまがここに来てんだろうが」

「ご、ごめんって……でも、それが本当なら本ッ当に大事件なんじゃ」

「モチロン。出たら即討伐モノな特異点を専門知識なんて何もないローベルくんが作り出せるなんて、空前絶後の一大事だ。実際、ギルドに報告してないだけでここ何日か特異点が連続で出てるからネ。追加で厄介な事に、彼はお金に釣られただけで情報なんて持ってないし。肝心の黒ローブくんはジーナたちに追わせてるケド……おそらくは痕跡ひとつ見つからないだろうネ」


 たいしたモノだよ。と軽く拍手する神さまへ、ユラがもう一度手を挙げる。


「ギルドへ報告されてないっていう爆弾発言はこの際無視っときますね……で、ここ何日かで特異点が出まくったのは異常事態で、その裏に黒幕がーっていうのはわかるんですけど……取引を見たリアちゃんじゃなくてわざわざ一級冒険者のコルドに諸々を報告させてるっていうのは?」

「よく気付きました☆」


 花マルあげちゃう、とカシスはどこからともなく取り出した『よくできました☆』シールをユラに贈呈した。受け取るも「コレって貼っていいの? 雑に扱うと神さまパワーでどうこうされないよね?」と困り顔。

 ジャンジャン使ってネ、とカシスは続ける。


「実は、特異点の急激な発生はレノワールに限らない。この大陸の全域に及んでるのさ。ちょっと前の人都への緊急招集は一級冒険者をかき集めて、総員で各地の調査を行おうっていう指令。だからコルドくんはボクに報告しなきゃなんないの」


 それとは別に特異点と戦った冒険者はシオンくんリアちゃん含めみーんな呼び出したケドネ☆ と冒険譚中毒のカシスが目元でピース。


「まあ、人都は最初から裏に何かあるってわかってたみたいだし、隠したいみたいだネ。この調査を一般人どころかギルド職員にまで隠してるからさ。知ってるのは一級冒険者とボクらを除けばジーナやナカトくん代理のユラちゃんぐらい」

「俺は加護のせいでカラント森林を一手に任されたってワケだ。他は最低でもツーマンセルだってのに……まあ、そこはいい。で、戻ってきてみればシオンが特異点と戦うリアを見ただの、リアが怪しい取引を見ただのと情報がわんさか出るから、神さまに報告しつつ森の調査もやってたんだ。可能な限り調べてたが、昨日の時点では白い痕――毒塗った剣を刺した痕跡なんてなんざどこにもなかった。つまり、二人が戦ったウェアウルフは今日、または昨日の夜中に生まれ落ちたって事だ」


 だとすれば今日も同じ、もしくはそれ以上に強くて危険な存在が誕生するかもしれない。

 この問題を軽はずみに扱えば、比較的安全なカラント森林で多く犠牲者が出る可能性がある。とユラは戦慄と共に納得した。そして、ふとした疑問を抱く。


「あれ、ということは今日も調査だったんだよね?」


 コルドは「ああ」と苦々しい顔で肯定した。


「言っちゃ悪いけどシオンくんとリアちゃんは邪魔になるんじゃ……」

「リアは放っといても森に行くだろうし、同行した方がマシだと思っただけだ。シオンは……リアの引き止め役にいいと思った。採取なんかもそうだが、リアはシオンの言う事なら聞くと思ったしな…………だが、俺はあいつらを守るという目標をまっとうできなかった。同行者を命の危機に晒すなんて一級――いや、冒険者失格だ」

「ふーむ、キミは抱え込みたがるネ」


 嘆息し、カシスはズバリとコルドの心の中を語る。


「特異点はボクにだって予測不能――今回は人為的だから尚更だ。二人が襲われたのは、特異点が二匹いるっていう予言者もビックリな事態を想定できなかった自分のせいだ、って思ってるでしょ」

「……それでも、考えますよ。俺が特異点カエルを倒すのに時間食わなければ。即座に居場所を判断できるような加護だったら。俺の脚がもっと速かったら。…………俺があいつらを守りながら戦えるぐらい、強ければって」

「その後悔を糧にすればいいんじゃないかな?」

「言うはやすしですよ。俺にはそんな才能、からっきしなので」

「そう? シオンくんはきみのことを尊敬しているケド」

「あいつはガキの頃から勘違いしてるだけですよ。俺は運良くメンバー不足だった【ウィーザー】に誘われただけで何の才能も無い補助役サポーターだッつってんのに、ずっと俺を他のと一緒くたにして…………『狩人』なんて呼ばれておきながら、殺される覚悟もできずに生き延びる事ばかり考えてる臆病者には荷が重い」


 コルドは三人の仲間を思い浮かべ、気後れして虚無的ニヒルに続ける。


「大した才能も無く、魔法も使えない。俺は変わりませんよ。加護を持った――『選ばれた冒険者の底辺』でいるだけだ」

「その裏で森をパトロールなんて、まるで某文豪くんが前に書いてた英雄みたいだネ」

「勘弁してくださいよ。ガラじゃない」


 ユラはコルドの瞳に複雑な光を見た。強者への羨望せんぼうと現実的な諦念ていねんが複雑に絡み合う、どこまでも人類ヒトらしい感情を。


「英雄はもっと華がある奴がなるモンです。俺みたいなのは日陰でそういうのを眺めていられればいいんですよ…………俺は森の調査に行きます。もう、あいつらみたいな被害は出させない。ユラ。あの二人を頼む」

「お、おーう、任しとけい!」


 咄嗟とっさの茶化しには目もくれず、コルドは窓から跳び去る。

 カシスは頬杖をついて、


「自分の事を弱い存在と唾棄だきしながらも何もかもを守ろうと躍起やっきになれる。つい口から出た虚勢を、子供の夢を壊さないために現実にした。そんな稀有けうな人だからボクはコルドくんを認めてるんだけどなぁ」

「そう……なんですか? コルド含め【ウィーザー】の四人とは人都勤務の時から付き合いはあったんですけど、こっちでの事は何にも知らなくて……」

「んー、彼のプライベートだから詳しくはご本人にネ」


 と、カシスは口元に指を当てる。


「言える事があるとしたら、コルドくんはシオンくんの事を大切に思ってるのさ。それこそ、弟のようにネ。シオンくん、すごくお人好しで底抜けに優しく穏やかでしょ? だから、大人目線じゃ心配でたまらないの」

「わかります! なんというか、見た目もそうですけどとにもかくにも心ッ配で心配で! リアちゃんも別の意味で同じく!」

「だよネー☆ そんなボクもキミもコルドくんも……というかシオンくん周辺の大人はみーんな彼の事を気に掛けてるんだよ。過去にいろいろあっちゃったから、さ」

「いろいろ、ですか……」

「そこはシオンくんがやがて話してくれると思うよ。……彼はホントに苦しんだからネ。それでも医学を学んで立ち直った――ように見えて根底が後ろ向きなまま。なのに自分より周囲を気遣って平気そうに振る舞うから、みーんななんとかしようと動いてるのさ」


 カシスは医務室を眺め「何もかも背負おうとするトコロはコルドくんもシオンくんも兄弟みたいに似てるネ」と息をついた。


「コルドくん、シオンくんをリアちゃんの引き止め役って言ったでしょ? アレは建前。本当はね、リアちゃんと出会って少し前向きになったシオンくんの力になりたいだけなんだよ。まあ口先ではそんな扱いしといて『森に出れば二人とも気分転換になるし、俺でも何か教えてやれるハズ』っていう思惑が滲み出まくってるのがかーなり不器用だけどネ」

「ほ、ホントに不器用ですね……二人にならともかく、あたしたちにまで隠さなくていいのに」

「運悪く失敗しちゃったから、責任感じてるんだよ。森は彼のフィールドだから何があっても守れるって息巻いてた分、余計にネ……でも、ボク的に今回はピンチが好転したって言えるかナ」


 コルドくんどころかシオンくん自身もまだわかってないケドネ。と、カシスがニコニコと楽しげに揺れる。


「シオンくんは怖がりでよく悩むケド、慈愛に満ちた子。リアちゃんは恐れ知らずで突き進めるケド、人と触れ合うのがまだ怖い子。お互いにいい影響を及ぼしあってるのさ。ただ、今回はシオンくんの苦悩が過ぎるかもしれない。そうなったら、ちょっとだけユラちゃんも助けてあげてほしいナ」


 カシスは地面に降り立ち「お願いするよ」と、ペコリと頭を下げた。ユラは「神さまにお辞儀されるなんて不敬で処罰されますッ!」と即座にカシスより低く身をかがめる。神さまは愉快そうに笑い、再度頼んだ。


「仕事多くなっちゃうケド、手伝ってくれるかな?」

「モチロンです! 最初は上司の頼みって部分が大いにありましたけど、いまはもうずぅっとかわいがりたい所存です。あんな心の澄んだ子たち、ほっとけませんから!」

「そういう包み隠さないの大好き☆ それじゃ、またネ」


 手をひらひら振り、カシスが透明になる。

 その次の瞬間、「ど、どっか痛いかシオン!? こ、コルドー! ユラー!!」と大慌てなリアの声が届く。シオンに関する話を聞いていただけに、ドアから入るスピードは猫の範疇はんちゅうを超えていた。


「だぁぁいじょうぶかシオンくーん!!」

「大丈夫ですっ!」



 ◆



「いやー、今日はイイ調子っすね!」


 安い発泡酒の入ったジョッキを飲み干し、アレスが大きく笑う。


「俺も腕にちょっとケガしたっすけど、報酬金が上々っす! な、ローベル!」

「あぁ……」


 対照的にローベルは意気消沈だった。大枚をはたいた片手剣が、その値段に見合うほどの名刀ではなかったのだ。


「気にすんな。市場で買うクズ鉄の剣よりはいいだろ」

「たしかに前の剣よりはマシですけど……」

「安物買いよりはよっぽどいい。得したと思うようにしとけ」

「了解です……」


 俺がいくら払ったか知らねぇクセに、といういらちを隠し、ローベルも酒を一杯。そんな時、背後のテーブルから一際大きな会話が聞こえてきた。


「オイオイ、バカ言ってんなよ」

「ホントだっての! 俺ァ見たんだよ!」


 冒険者の寄り合いで、一人の男が本当だと必死の形相ぎょうそうで何か語っている。しかし、周囲の連中はヘラヘラと笑って流していた。


「どーせ木陰かなんかでそう見えたんだよ。いるワケねぇだろ。黒いウェアウルフなんて」

「アレはどう見ても黒かった! ボロい剣も持ってたし、歩いた道を見たらソイツの涎で植物が腐ってたんだぜ!?」

「いくらなんでも盛り過ぎだっての。安全安心のカラント森林にそんなヤベーのがいてたまるかって!」

「そうだそうだ! ンな特異点みたいなのいねーよ!」


 俺は本当に見たんだ、となおもうそぶく冒険者をアレスが指差しプフーと笑う。


「目立ちてぇからって、あんな見え透いたウソ言うなんてザコっすよザーコ!」

「おう。特異点が出たならとっくにギルドから情報が回ってる。ウェアウルフは捨てられた武器を使うし、どうせ見間違いだろ」

「っすね! ローベルもそう思うっすよね?」


 水を向けて、アレスはローベルの異変に気付く。顔面蒼白で、力がない。まるで隠していた割れた皿がバレた子供のようにも見えた。

 どうしたと問うより先に、ローベルは椅子の脚をギギと鳴らして立ち上がる。


「……すみません、ちょっと頭痛いんで先帰ります」

「そうか。金は出しといてやる。さっさと休め」

「本当に具合悪そうっすね……ちゃんと水飲むっすよ!」

「おう……じゃあまた明日……」


 ローベルの頭痛は真実だった。胃が締め付けられて吐き気までしている。

 ウルフ、捨てられた剣、毒――無理矢理な関連付けだとしても、リアの一件以降ささくれ立ったままのローベルには偶然と捉えられない。

 正体不明の『蒼い液体』、あれが少なくともまともではないとわかっている。それだけで想像は二段飛ばしに進んだ。


――もし、あの刺しまくったカラントウルフが黒いウェアウルフという特異点になったとしたら。

――薄々思ってはいたが、特異点が生まれた原因が『蒼い液体』なんじゃないか。

――持ってるのは俺の捨てた剣かもしれない。

――誰かが殺されててもおかしくない。


 ローベルの精神性は小悪党そのものである。

 平穏無事な片田舎の村で生まれ育ち、なりたい職業も有り余る財産もないが農夫の一生は嫌だからとなんとなく冒険者になり、ルドマンという大盾の後ろで他人を攻撃して精神の優位を保とうとする冷静ぶった小心者。リアへの暴行も突発的な感情に振り回された結果であり、直接的に法へ触れるような悪行はそれまで一度もなかった。今回の取引もまた、普通じゃないと思いつつも魔が差しただけ。犯罪の自覚など微塵もなかったのだ。

 故に、偶然辿り着いた真実から芽生えた『自分のせいで人が死んでいるかもしれない』という罪の自覚により、余裕から罰の恐怖へ振り切れる。


――――俺は想像以上にとんでもない悪事の片棒を担がされたんじゃないか?


 どうせバレない、バレたとしてもどうせ重罪にはならない。そんな甘い考えが手づから否定され、後戻りができない袋小路に閉じ込められたとさえ思えた。


「あの、大丈夫ですか?」


 いつの間にか大通りで立ち尽くしていたローベルは、背後から肩を叩かれる。振り向くと、同じ支給装備の二人組。胸には、果実を象る紋章――――


「自衛、団……!」

「ずっとここで止まっていたので、具合でも悪いのかと……ギルドの医務室へ案内しましょうか?」


 ガシャ、と軽量の鎧が一歩。ローベルにとって、それは罰を与えるために詰め寄られているようだった。

 呼吸ができない。吸って吸って、吐き出せない。

 このまま連れていかれる。きっと痛めつけられて全てを吐かされ、投獄。遂には重罪で刑が――――


「う、うぁあああああッ!?」

「えっ!? ちょっと、待ちなさい!」


 ローベルはどこへともなく走り続け、街の闇に姿を消した。


「くそ、見失った! 様子がおかしいからと、近づくべきではなかったか!」

「まだ近くにいるはずだ。近辺の衛兵を呼んで来い! なんとしても発見、保護するぞ!」


 路地裏を探し回る二人の衛兵の声。物陰に身を潜めてガタガタ震えるローベルは、彼らとの距離を測るのに精一杯で会話の内容はまったく理解できていなかった。

 このまま隠れていても、増員されればいつかは見つかる。追われれば、多人数に押し潰されてしまう。もはやレノワールに隠れ場所はない。パニックが錯乱を誘発させ、ローベルはひとつの答えを闇に落とす。


「だ、誰もいない場所……森……森に、……!」

「こっちも探すぞ!」

「ひッ……!」


 衛兵の声、半端な酒、宵の月明り……何が彼を駆り立てたのだろう。

 半狂乱とも言える、自殺行為へ。



 ◆



「あら、まだ生きてるの?」


 月も隠れた真夜中、ふわりと崖下に降り立つ影がひとつ。

 血のように紅い瞳が見下ろすのは、焦げた炭の匂いを纏う特異点ウェアウルフだった。

 転げ落ちた際に脚を潰したらしい。そこに全身の火傷が重なり、修復が遅れているのだ。


「また手酷くやられたのね。……それは鱗? 蜥蜴族リザードにでもやられたのかしら。でも、よかったじゃない。憎い相手の匂いを忘れずに済んで」


 特異点が憎らしげに掌の鱗を握り潰す。自分を苦しめた炎の片割れ――紅い鱗の少女。そして、魔法を行使した少年。


「そこの剣の残骸、あなたの? ふふ、砕かれるなんて安い鉄なのね。まるであなたの牙みたい」


 特異点は吼えようとした。しかし、焼け落ちた声帯は役目を果たせない。喀血かっけつと共に唾液の毒が巻き散り、ぶじゅりと土を溶かす。

 空を泳ぐ少女はクスクスと、指先でもてあそぶ試験管を差し出した。『蒼』がとぷん、と揺れる。


「コレをあげる。今日の蛙でわかったんだけど、もがき苦しんで生き残った特異点あなたたちはとても強靭タフになるみたい。まあ……普通は耐え切れずに死んじゃうけど」


 紅の瞳がわらう。憎き炎の龍と同じ色に特異点は牙を剥こうとして――停止した。

 獣の本能が叫んだのだ。『戦ってはならない』と。

 少女は微笑をたたえ、特異点エモノの顎に手を這わせる。


「ふふ、いい子よ。あなたは何か特別みたいね。それに、使ってた武器も私のパートナーに似てるもの」


 栓を抜いた『蒼』を、怯えた呼吸の口腔こうくうへ流し込む。


「――――――――ッッッ!」


 飲み下した瞬間から、特異点は血を吐いて暴れ始めた。

 潰れた声帯を引き千切るように叫び回る。押し寄せる激痛を耐えるため、爪を木に叩きつけ、牙を岩でへし折り、身体を限界まで壊し続けた。


「自ら傷ついて痛みをごまかす。まるで人のようね」


 少女は宵闇の空を踊る。


「精々がんばりなさいな、オオカミさん」


 月下に絶叫が木霊こだました。

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