第13話 龍と人狼


 特異点の嫌な匂いが消えるまで走ると、リアはシオンを気遣って止まった。膝に手を置いて肩で息をするシオンだが、両目に生気が戻りつつある。


「落ち着いたか?」

「は、はい……ごめんなさい、リア」

「いーんだよ。よくわかんねーけど、お前が元気ならそれでいい」


 リアはそれ以上追及せず、森を先導していく。彼女の嗅覚は土や樹木が支配する森にあっても人の営みの匂いを感じ取る。


「ん……街の匂いは多分、あっちだ」

「本当、すごいですねリアは…………それに引き換え、僕は――」


 言いかけたシオンの口をリアは指で塞ぐ。


「それ以上言うな。お前にもすげーとこはあるんだからな」

「……はい。ごめんなさい」


 シオンは微笑みに暗く沈む心を隠す。

 自分の非力と失態を口に出す事で「そんなことない」という慰めを求める女々しい本性に気付き、それ以上何も言わぬように隠した。

 リアは頷き、また進――――もうとして、停止。


「リア?」

「し、シオン……あの特異点っての……ここじゃしょっちゅう出るのか?」

「いえ、一年に数回あるかないかぐらいのものと聞いていますけど……」

「じゃあ、オレらはすっげー運悪いな」


 リアの目元から頬へと冷や汗が滑る。シオンもまた、不意に変わった空気の流れに引っかかりのようなモノを覚える。

 二人の進行方向で、足音がした。草むらを踏み、蔦を掻き分け、ゆっくり、まっすぐとこちらへ。


「ァア゛ルルル…………」


 これは確かについてない。

 そんな感想すら浮かばぬほどの本能的な恐怖だった。

 木々の薄闇から現れたのは、黒毛のウェアウルフ。体躯はシオンたちより一回り大きい痩躯であり、以前リアが戦った特異点と同じく森の体系では存在しない漆黒の体毛が森の中で一際異彩を放つ。

 だらりしたたった涎が足元の草に落ちた瞬間、煙を吹き上げて青々しい緑を真っ白に溶かした。立ち込める酸臭が、この分泌液が劇毒だとありありと主張してくる。

 それよりも明らかに異常だったのは、抜き身の剣を携えている事。それには木漏れ日を艶めかしく反射する血液がべっとり付着していた。ついさっき、何かを殺したという証左だ。


「剣を持った特異点ウェアウルフ……!?」


 前回戦ったものとは比べ物にならない危険性を、リアは察知していた。


「シオン!」

「ヴォォォ……!」


 獲物に出会えたと感謝するように、特異点は赤い双眸を見開く。

 リアはシオンの手を強く握り直し、左方へ走り出す。


「リアッ、どうするんですか!?」

「わかんねー! でもあいつ、まともにやり合ったら無事じゃすまねー!」


 コルドの教えを反芻はんすうする。


――お前はまだ戦いを理解してない。



――死んだら何事も終わりだ。



(死ぬ気で戦えば倒せるかもしれねー。でも、オレが勝てる確証なんてない。それにシオンもいるんだ。戦わねー方がいい!)


 最優先はシオン。瞬時にそう判断した。


「逃げんぞ!」


 木々を盾にし、一目散に走る。ウェアウルフは追ってきているが、剣が邪魔をしてか速度は遅い。シオンには疲れが見えるが、なんとかついてきてくれていた。

 いざとなれば担げばいいとリアは自分も全力で駆ける。


「この調子で行けば――――」


 逃げきれる、と言いかけてリアは言葉を失う。シオンも同じく。


「そんな…………」


 二人は木のない、少し開けた場所に出た。しかし、向かう先に道はない。崖により、途切れているのだ。

 見下ろすと森が続いている。そこまでの高さではないし岩肌も絶壁ではないものの、滑り降りるには危険が過ぎる。更に言えばこの程度の崖、モンスターならば容易にくだるだろう。


「シオン、離れとけ」


 リアは背後に向き、空色の眼に警戒の色を濃く刻んだ。

 だらりと引きるように剣を持ち、森の中から顔を出したそれは凶悪に笑う。己の毛皮ごと憎悪で染め上げたように黒い貌は、こちらを殺す事しか考えていない。それだけはシオンにも即座に理解できた。

 リアの腕に龍の鱗と爪が現れる。


「帰り道なんだ……邪魔すんな!」


 仕掛けたのはリアだった。

 短剣を抜き、素早く切り込む。疾風のような走り出し。剣の懐に潜り、首元へ斬り掛かる――腕を、ウェアウルフは掴んだ。


「――――ッ!」


 自分より少し小さい体躯のリアを獣はいとも簡単に振り回す。圧倒的な筋力差によって体勢は崩され、リアは無造作に投げ飛ばされた。

 空中で激しく回る景色に崖の事を思い出し、背中から地に叩きつけられると同時に地面へ黒い龍爪を立てて四足で崖の端ギリギリに踏みとどまる。


「上!」


 悲鳴にも近いシオンの叫びに反応すると、ウェアウルフが剣を振り上げていた。

 リアは右に転がって間一髪で回避し、その勢いで立ち上がる。一秒前に自分がいた場所は、一刀両断によって直線状に抉り取られていた。


「あッぶね……!」


 シオンの声が無ければ、直撃はまぬがれなかっただろう。よくても重症、悪ければ骨ごと裂かれて死んでいた。

 打ち付けた背はジンジンと痛むが平気。問題なのは掴まれた腕だ。


ぅ……」


 特異点の握力はリアの鱗という防具を薄氷のように砕いていた。紅い鱗は細かく割れ、めくれ上がり、血が滲んでいる。

 シオンは一連の中で動けなかった。邪魔にならないようにと距離を取ったまま。


――怪我の治療なんて今はできない。

――参戦した所で、何ができる?

――僕に、何が?


 ただ呆然と、己の無力を噛み締めながら戦いを眺める事しか。

 そんなシオンを心配させまいと、リアは痛みなんて屁でもないと強がって好戦的に笑う。


「ブッ倒してやる!」


 突撃しつつも、同じてつは踏まない。

 リアは肉薄と同時に飛び退き、剣が振るわれて生まれた隙に再度飛び込む。相手の攻撃を誘って確実にかわす、見事な瞬発力だ。


「しッ!」


 腕に一太刀を浴びせる。濃密かつ太い体毛で防がれるが、薄く鮮血が散った。

 しかし、ウェアウルフは怒って吼えるわけでも痛がるわけでもなく、


「ヴォォォ……」


 口角を吊り上げ、牙を露わにした。それはもはや、負傷を喜んでいるようにすら思える。

 リアは警戒を一層高めるも、冷静に構えた。特異点の強さはあまりにも高く、いままでのように気合や覚悟に任せてノーガードで殴り合うような戦いでは勝てないと理解したのだ。

 剣の間合いを見極め、ギリギリの場所で攻撃を誘う。遠距離攻撃の方法を持たないリアには、それが唯一の策だった。


「うらッ!」


 二度、三度と同じ攻撃を加える。あっちが近づけば離れ、距離を取れば間合いを詰め。仮に飛び道具が飛んできても対処できるよう気持ちは一切緩めず、リアは優勢を保つ。かなり粗が目立つ稚拙ちせつな動きだが、リアが今までの戦いで培った直感がこれを成立させていた。

 しかし、付け焼き刃は長く続かない。

 ウェアウルフが大きく振りかぶり、崖を背に陣取っていたリアの元へ飛びかかりながら斬り付ける。


――行けるッ!


 無論、大振りな攻撃は好機。リアは最小限の動きでそれを避け、即座に反撃――すると、ウェアウルフは剣を

 このモンスターは、常に剣を持っていたのだ。二人を追う時も速度を落としてまで邪魔になる剣を持ち続け、最初の攻撃も掴んだまま咬みつけばいいものをわざわざ投げ飛ばして剣で斬り裂こうとした――――どこかで、特異点コイツは剣に並々ならぬこだわりがある、という思い込みが完成していた。

 しまった、と思った時には遅い。リアは再度腕を掴まれた。


「やば、放せッ!」

「ヴォォォ……」


 地底を這いずるような低いうなりを吐き、ウェアウルフは抵抗するリアを地面に叩きつける。


「がッ!?」

「リア!」


 後頭部をモロに打ったリアは意識が混濁こんだくした。そして無抵抗になった一瞬、ウェアウルフは猛毒が糸を引く牙の山脈を開いた。

 シオンの悲鳴などまったく意に介さず、毒牙がリアの腕に喰らいつく。


「ぎッ――――」


 鈍る意識が一閃され、痛みが奔る。

 龍の鱗が貫かれ、鋭牙が絹の肌を裂く。

 黄色を帯びた粘液は容赦なく肉を溶かし、弾ける泡によって徐々に劇毒の被害を広げていく。

 筋肉が、神経が、骨が、痛覚の全てが宿主に全霊で信号を送りつける。


「リアッ!!」


――それでも絶叫に意識を呑まれなかったのは、己の名を呼ぶシオンの姿を見た故だろうか。


「ッがァァア!!」


 狂いそうな激痛を裂帛れっぱくで潰し、左手で眼前の獣を殴りつける。しかし、その程度で外れるほど甘い咬合こうごうではない。涎と血に塗れた形相は悦に歪み、徐々に牙を骨へし込んでいく。

 リアは――――龍は吼えた。


「放し――やがれッッッ!!」


 拳を開き、鋭い五爪を横っ面に突き刺す。内一本は右目に侵入し、眼球を潰した。ウェアウルフもまた、絶叫する。それでも尚、牙は抜かなかった――――そのかおが炎に包まれるまでは。

 甲高い砕音さいおんが響き、火焔が獣の面を覆い隠す。それは、ウェアウルフにとって初めての『炎』という経験だった。潰れたばかりの眼球に侵入する炎は獣の知るどんな痛みをも凌駕し、一切を忘却させる激痛をもたらす。


「ヴォァァアアアア!?」

「らァッ!」


 緩んだ牙を引き剥がし、その腹にキツい蹴り上げを見舞って、リアはシオンの元へ退しりぞく。シオンは掌をウェアウルフに向けたまま、何もかもを絞り尽したように固まっていた。


「は……ッ、は……ッ」

「シオン!」


シオンは小さく震えながらも、リアの目をしっかりと見る。


「僕も……戦います」

「バカ言うな! 死ぬぞ!?」

「ここに居合わせる以上、危険は変わりません」


 碧の瞳は恐怖を拭いきれていない。しかし、それでも確固として前を向いていた。恐怖はある。戦いを見て、倍以上に膨らんだ。それでも――


「それに、今の魔法で僕も標的にされるはずです……」


 どの道逃げ場はない。シオンはリアを助けると同時に自らの退路を断つというリスクを背負った。

 路地裏と同じだ。助けたいという想い。そして動かない自分への憤りが燃え滾る炎を、魔法を撃たせた。リアが重傷を負うほど追い詰められた末にようやく勇気を振り絞れたのだ。


「その腕……もう使い物にならないでしょう」

「うっ……」

「そのぐらい、見れば誰でもわかります」


 ダメージは深刻だった。右腕はシオンの言う通り使い物にならないどころか、へばりついた毒液のせいで絶え間ない激痛を与えてくる。本来ならのたうち回り喚き散らして当然の状態だが、生き死にがかかった現状が痛みを抑えていた。


「そんなにさせるまで動けないような、情けない奴でごめんなさい……でもこれ以上、リアだけが傷つくのを見ているなんてできません……!」

「シオン……わかった。一緒にあいつを倒すぞ!」


 シオンのなけなしの勇気に感化され、リアの瞳が闘志に燃える。


「作戦ならある!」


 さっき、炎に巻かれる狼を間近で見た事で思いついたとっておきが。

 リアはシオンに耳打ちすると、シオンから何かを受け取って拳に握りしめた。


「オレが合図するまで、シオンは魔法の威力をできるだけ強くしててくれ!」

「はい!」


 何の問答も無くリアを信じ、シオンは魔力を全力で右腕に回す。

 さっきと変わらぬ大きさの水晶に、限界まで炎を詰め込むイメージ。それを崩さずに、限界まで魔力を充填する。


「もっと……もっと、炎を!」

「ぅるァァアッ!」


 リアは走る速度を上乗せした膝をウェアウルフの後頭部に見舞う。初めての炎という衝撃から脱却できていない獣は避けられず、今度はウェアウルフが地面に叩きつけられた。

 すかさずうつ伏せのモンスターに跨り、両腕を踏みつけて拘束する。


「捕まえた……!」

「ヴ、ヴ、ヴォァァア!!!」


 しかしながらウェアウルフはもがき、シオンを睨めつけた。炎を放つシオンを最も危険な存在と認識し直したのだ。それが再び炎を――それ以上の魔法を放とうとしていると察知し、殺そうともがいている。


「こっち――――見やがれッ!!」


 それを許さないのがリア。思い切り背骨を殴りつけ、両手で作った拳を頭へ鉄鎚ハンマーのように振り降ろす。傷口から血が噴き出て右腕が悲鳴を上げるが、奥歯を砕けそうなほど噛み締めて耐え切る。

 これ以上、腕が傷つけば龍人族レイアであっても再生するかどうかわからない。どう転んでも、冒険者への再起は遠のくだろう。


――それでもいいッ!


 この死闘に勝ち――シオンが生き延びるためなら構わないと、リアは断言した。


「撃てます!」


 地面で鼻を潰すウェアウルフを全身で押さえ込み、リアが合図を叫ぶ。


「よっしゃ! ッ!」

「ッ!? 離れてください! 巻き込まれますよ!?」

「大丈夫! オレに火は効かねー!!」


 リアは「信じろ!!」と強く叫んだ。


「ッ――フレアスフィアッ!!」


 シオンは一瞬躊躇うが、リアを信じて魔法を全力で放つ。透明な球体の中には、紅緋べにひにまで凝縮された炎が込められていた。

 わずかな間隙かんげきにウェアウルフは起き上がろうと、腕を踏みつけるリアを振り払う。揺れでバランスが崩れ、視界が明滅するような激痛の最中さなかで尚、リアはシオンの魔法から目を離さなかった。


「ッッ――――」


 眼前に飛来した水晶玉に自ら殴りかかり、薄晶を突き破った焔の内側で手を開く。そこには、くしゃくしゃになった一輪の赤い花――エンカ。


「燃えろォ!!」


 エンカが火炎を文字通り爆発的に強化する。稲妻のような発光と轟音が森全域に響き渡った。

 流星が着弾したかの如く中心から1メートルほどを椀状にえぐる火柱と舞い上がった土埃つちぼこり――その爆風に吹き飛ばされて木の根元に転がっているのは、ボロボロになったリアだった。

 シオンは勝利を実感する間もなくリアの元に走り出す。


「リア!?」

「へっへっへー、作戦大成功!」

「成功じゃないよ! 炎が平気なんて嘘ついて…………って、あれ?」

「嘘なんか言ってねーよ! 装備が焼けちまっただけで怪我なんかねーっての!」


 ほら、と腹や腕を見せ、火傷やけどがないとアピールする。耐火の装備を纏っていても全身大火傷が免れない状況だったというのに、汚れがあれど火傷はひとつもない。


「オレは龍だぜ? 火にはつえーんだよ!」

「強いっていうか本当に効いてない……で、でも本当によかった……あれ、なんで服は無事で……」

「オレを拾ってくれた人が、燃え落ちると迷惑かけるからってこの服くれたんだ。火にちょー強いんじゃねーか? とにかく、オレは平気だぞ!」


 最初にリアが傷だらけに見えたのは、熱に弱い安物の革装備が焼け落ちたためだ。彼女が元から着ていた服はもちろん、髪も鱗も健在である。

 無傷の体と耐火服を与えたリアの恩人への感謝でシオンは安堵して、胸に手を置いた。


「あ。あんなトコにオレの剣……」

「僕が拾ってきますよ。リアはこれを飲んで休んでてください」


 シオンはリアにポーションを渡し、いつしか手元を離れていたリアの短剣を拾いに行く。しばらく研いでいないためにすっかりなまくらとなったそれは、未だ黒煙と火の粉が止まぬ爆心地と二人との間に転がっていた。


「ありがとな、シ――――」


 ポーションの蓋を開いた、その時だ。

 煙が揺らぐ。リアの瞳に、邪悪な牙を覗かせる人狼死神が映った。

 炎の耐性など微塵もない特異点にとって、さっきの爆発は致命傷。しかして、死していない。身体の末端が消し飛ぼうとも、殺意を手放していなかった。

 爆風に紛れ、這う這うでリアを殺すために手放した己の剣へと辿り着き、それを杖替わりに立ち上がっている。

 この時、二人と爆心地とモンスターは直線状に並んでいた。自分を死へと追い込んだ爆炎の残余が皮肉にも特異点の姿を覆い隠したのである。それがリアが気付けなかった理由であり、最大の不幸であった。

 それは、近くにいるシオンを殺そうとしている。剣を拾おうと屈んでいるシオンに合わせ、低く走りながら突きの体勢に。

 リアは考えるより先に動いた。


「シオンッ!」


 投げ捨てられた瓶から碧色の水がこぼれ落ち――――真っ赤な鮮血が舞う。

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