第10話 夜更けの悪意


 真夜中の森林というのは、誰もが立ち寄りたがらない場所だ。

 月明りさえ木の葉というカーテンにさえぎられ、何ともつかぬ生き物の声が闇の空間にいつまでも残響する。視界不良に加えて耳も利かず、昼間に比べて対したメリットもない。潜る意味が皆無なのだ。


「クソッ……クソがァ!」


 だというのに、男は――ローベルはそこにいた。

 心の不安を殺すように、乱れた剣筋で得物を振るう。表情はとても切迫していた。


――モンスターなら何でもいい。瀕死にして、これを摂取させてほしい。


 元はと言えば、金がないところに舞い込んできた簡単な依頼。はした金を期待して言われた通り、カラントウルフをテキトーに痛めつけて渡されたモノを飲ませた。

 それを報告しただけで、目を疑う大金が渡されたのだ。


――次からはモノを飲ませたとだけ嘘を吐いて楽に稼ごう。


 というよこしまな考えが過るが、ローブの奥にある昏い目を見た時、


――ごまかしが効かない……!


 と、本能が訴えた。

 故に、言われた通りにこなしたのだ。何の実験か知らないが、楽な手段で稼げる事実に相違ない。少なくともあと数回はこれで稼ぐつもりだった。

 というのに――――


「あのガキッ!」


 見られた。よりにもよって、あの子娘に。

 普通の冒険者になら、金を握らせて終わりだ。

 だが、あのガキはコルドと知り合いだった。更に、以前ギルドで絡んだ時の反応を鑑みるに損得勘定ではなくただの感情で動くタイプ。

 不味い。ローベルにとって、非常に不味いのだ。

 コルドはギルドに認められた一級冒険者。言うまでもなく神さまや自衛団寄りの存在である。


――このままじゃ金づるが逃げるだけでは終わらず、何かしらヤバい事の片棒を担いだという罪に加えて赤髪少女アイツへの暴行で自衛団に……!


 黒い影をたたえた樹木のひとつひとつが拡声器のように不安を増幅させ、心の不安は過剰なまでの恐怖に変換される。


「畜生ッ!」


 剣を足元に突き刺した。

 血飛沫が緩く噴き、掠れた獣声が地を這う。

 滅多刺しにしたカラントウルフは瀕死だった。灰化は始まっていないが、放置しておくだけで冥府へと転げていくだろう。弱々しく息を吐き出すモンスターを見下ろした時、ローベルの心に沸き立つものがあった。

 手に持ったのは、受け取ったばかりの試験管。蒼い液体が揺れる、得体の知れないモノ。

 それを、死に体のカラントウルフに叩きつけた。ガラスが砕け、破片と共に蒼い液体が赤錆色に混ざっていく。


――持っていても邪魔になる。ちゃんと『痛めつけたモンスターに摂取』させたんだ。証拠は消して、自衛団には知らぬ存ぜぬで通してやる。


 血が上った頭でそう思い至り、ローベルは狼を蹴った。弱り切った怨嗟の声が出されるが、ローベルの耳には届かない。

 多少は気が晴れたので街に戻ろうと、モンスターの胴部に突き立てたままの剣に触れた。刀身に目を落とすと、いままでの乱打でボロボロになっていた。加えてその前に殺したカラントシードの毒液がべっとりと付着していて、手入れが面倒だ。


「……どうせ報酬の金で新調するつもりだったんだ」


 捨てる手間が省けたとばかりに鉄くず同然の剣を放置し、ローベルは背を向ける。

 いつの間にかカラントウルフの息遣いは消えていて、「結局死んだか」と振り向きもせずにその場を後にした。


 獣が、憎悪を募らせながら存命しているとも知らずに。





 街道は灯りに照らされているが、家屋の屋根は夜のとばりを張っている。その片隅で、まだまだ静まらぬ街を見渡すように影が立っていた。


「…………」


 黒いローブの奥で静謐せいひつに呼吸だけを繰り返し、目の裏で数時間前の一部始終を再生する。

 金がない、とごちていた男を使って任務の効率を上げたのは三日前の真夜中だった。

 ああいうタイプの人間は金をチラつかせれば食いつき、報酬を弾めば勝手な疑心暗鬼で律儀なまでに指示をこなす。そう話した白衣の男は正しかった。

 念の為に監視を付けておいたが、彼は仲間には言わずに森へ出かけてカラントウルフに『それ』を飲ませ、もがき苦しむモンスターに不穏を感じ、脱兎だっとの如く逃げていったらしい。

 経過は順調。小さな狼は内側から成長と進化を繰り返し、最終的には体内に炎を溜め込む器官を手に入れた。そこに行きつくまでに己の火焔に身を焼かれ、体毛は黒ずんでいたそうだが。

 無事に『成った』とだけ報告し、その後ソレがどうなったのかはあずかり知らない話だ。

 順調に仕事はこなしている……だが、今日は反省しなければならない。

 自身の顔は見られていないにしても、取引現場を見られるなど愚の骨頂。まだ隠密行動や隠匿いんとくに慣れていない至らなさが招いた結果だ。

 咄嗟に姿を消せたからよかった。『蒼』だけなら構わない。自分たちの存在が露呈しようと知った事ではない。だが、あの少女に自分の顔を見られたのなら無駄な死体を増やす破目になる。


「――――どうかした?」


 するり、と首筋に細腕が巻き付く。白肌は絹のようにしなやかで、耳元の吐息は甘い香りを纏いつつも、もっと深く、本能的な場所を溶かすように入り込む。

 しかし、彼は物怖じもせず無機質に答える。


「何もない。そっちの経過は?」

「私のはダメ。カラントフロッグがなんとか耐えたけど、死体みたいにボロボロ。あれじゃすぐに狩られておしまいでしょうね」

「調査は?」

の匂いはしたわ。でも、それ以上わからない。魔法か何かで隠されているんじゃないかしら」

「わかった。報告して、指示を待つ」


 ああ、もうひとつ。と付け足す。


「あの冒険者、カラントウルフに使ったわ」

「証拠隠滅か……思いの外、律儀だ」

「問題はその後。モンスター、全身をしつこく刺されていつ灰化してもおかしくないのに、冒険者が去るまで生きていたの。身体が大きくなって、傷もすぐに塞がった。それに、剣に付いていた毒も吸収した。いままでのモンスターとは一味違うみたい」


 目の裏に、白衣が退屈そうに天井を見上げながら話していた言葉が蘇る。


『痛い、怖い、苦しい、食べたい、殺したい。モンスターにも、感情と欲があるのさ。人がそうであるように、感情があるのならそれは強い力を生み出す筈だ。それが恨みなどの強烈な感情であるなら、尚更ね』


――キミなら解せるだろう?


 キヒヒ、と独特に笑う狂気の双眼を目を閉じて振り払い、嘆息した。


「恨み、か…………少し、不安だ」

「あら、そんなものは無用じゃない」


 ふわり、と宙を泳ぐ。月明りが見せたのは、人形のように美しく、蛇のように妖艶な紅い瞳の少女だった。

 切れ長の目に、ゾッとするほどの冷徹な光が灯る。


「私とあなたなら、殺せないものなんてないでしょ?」

「……最終手段だ。その力は本当に殺しかねない」

「あらあら、優しいのね。あなたを救わなかった世界を守って何になるっていうの? ねぇ、『おにーちゃん』」

「やめてくれ」

「……はいはい」


 少女は興醒めというフリをして、フードの奥に隠された頬に触れた。血色の悪くて、冷たい肌だ。


「また何も食べていないのね。大人しく待つなら、食事ぐらいは摂りましょう?」

「……時間ができたら」


 少女は抱き付く場所を腹部に変え、顔を埋めて声を殺す。


「よく言うわ。あの子への懺悔で時間なんて一秒も作れないのに」


 宵闇をたたえたフードの奥で、紅い瞳が少しだけ哀しそうに揺れた。





 血を、吐き出す。

 毒に汚染された血を、全て。

 そして、飲み干す。

 命を侵した毒液を、全て。

 子犬だった身体は、人狼ウェアウルフと呼ぶにふさわしき長躯にまで順当に進化していた。傷が治るにつれ、身体は黒く染まる。まるで、荒ぶる心が表層に染みだすが如く。腹に突き刺さった剣を己の腕で引き抜いた瞬間、身体は漆黒に成った。

 黒い体毛もそうだが、ましてや植物系モンスターを凌駕する毒液を分泌可能なウェアウルフなど、どの系図の先にも存在しない。

 獣自身、己が特異なる存在に堕ちたと実感していた――何せ、こんなにも何かを殺したいのだから。


「う゛……ッ、るルァア!!」


 獣は視線の先にいた大蛙を捻り潰す。本能の叫びに従って一息に跳び、この毒爪で肉を裂いた瞬間、えも言えぬ達成感を得た。

 獲物を喰らうという摂理すら忘れ、けだものは死骸を執拗しつように引き裂き、爪に残る快楽の残滓ざんしに没頭した。

――この身を数多に貫いたあの男へ、百の憎悪と百の感謝を。

――あの男が捨てた剣と『血』のおかげで、この身は生きる。

――成長、できる。

 身体が膨れ上がった。二足歩行と衝動を取得した獣は、剣を取る。

 色々な方法で屍肉を殺す中、己がそうされたように剣で突き刺す感触が最も心を震わせたからだ。


――この衝動渇きを潤したい。


 何かを殺そう。


――この衝動疼きを消し去る方法を教えてくれ。


 あの男を殺す事だ。


――この衝動殺意を慰める生贄を探そう。


 何でもいい。


「ヴォアアアアアアアアアア!!」


 殺したい。


 くして、暗夜の森は特異点けだものの散歩道と成り果てた。

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