第1話 始まりの朝
――ねぇ、起きて。
遠くから鈴の音のような声がして、少年は目を開けようとした。しかし、瞼は
――じっとしてなよ。
「きみはきっと疲れているから」
段々と、声が
「ふふ、ちょっと待ってね」
彼女が何をしているのかは見えないが、少年は警戒しなかった。信頼していいと直感したからだ。
「……これはきっと、奇跡なんだ」
森の奥。小鳥すらさえずらない静寂の地には、少女の声だけが木霊していく。
それは祈り。
気付けば、少年の視界は開けていた。
二人の周囲に淡い碧色の光が集う。森の精霊が踊るように、ゆったりと滞留する。
きっと詩人がいたのなら涙を流して詩を詠い、画家がいたのなら矢も楯もたまらず筆を取るはずだ。万人が言葉にならない感動を覚えるだろう。
だが、誰も真実には気付けない。
何せこれは魔法。
神さまが寄越した奇跡のかけら。
少年の胸に一輪の花が咲く。
ガラスのような
少女は、慈しむように――――少し悲しそうに微笑む。
――おやすみなさい。シオン。
◆
「んぅ……」
まどろみから覚め、少年はゆっくりと身体を起こす。
「今の、なんだろう……」
胸元を見下ろすが、何も変わりはない。不思議と懐かしさを覚える夢だった。
何気なくカーテンを少し開けて、外に目をやる。
「そうだ。今日から……」
ベッドから降りると、まずは背中まで伸ばした紅茶色の髪を後頭部に束ねる。
次に壁に掛けたローブに袖を通し、使い込んだ革のメッセンジャーバッグに最低限の荷物を入れていく。軽い鞄を肩に掛ければ、もう外出の準備は完了だ。
時計を見ようとした時、玄関からノックが聞こえる。かなり早い時間なのに、と首を
「おっはよー、そして初めましてシオン・ウォーカーくん! ……だよね?」
「は、はい……僕です」
「だよねー! あたしは見ての通り
ユラは身分証明として職員証を見せ、続ける。
「ナカトさん、急に本部に呼び出されちゃってね。あたしが代打で来たんだけど……シオンくんが臨時の医務室担当って事でいいんだよね?」
「はい。ナカトさんに今日から就くように、と」
「そんな固くなんなくていーよ。あたしも先輩としてサポートするからさっ!」
ユラは胸を張った。センパイの四文字に力が入っているので、きっと後輩ができたのが嬉しいのだろう。
「んじゃ、早速行こうか!」
「はい。……いってきます」
自分にしか聞こえない程度に呟いて、鍵を閉めた。
家に面した通りを抜けると、西の大通りに出る。一帯は住宅街のため、
「こんな時間に外出た事ないでしょ?」
「はい……こんなにも静かなんですね」
「この辺はね。広場に入ったら驚くと思うよ」
ふっふっふー、と楽しげなユラに先導され、煉瓦の家に挟まれた石畳を進む。
少し歩いて着いた朝焼けの広場には、多くの人がいた。
露店は既に準備を始めており、店舗も
木箱を抱えた
「すごい……こんなに早いのに色んな種族が」
「そりゃー自由の都って呼ばれるぐらいだからね。他所の国じゃ種族蔑視も多いし、戦争してたりするけど……ここは権力者が偏見も差別もしないから、いいところだよ」
「レノワールは繁栄してますからね。ここだけ人が沢山いて、昼間みたいです」
「いっつもこんな感じだし、北の市場はこんなモンじゃないよー。あ、ギルドは南だからこっちね」
早朝の南大通りは、西とはまったく毛色が違う。
酒場の前では酔っ払いが打ち捨てられたように寝ており、街路も少し荒れている。そして、すれ違う人種に共通点が増えた。
年齢性別に関係なく、武器防具を装備しているのである。
重厚な金属鎧を全身に余すところなく装着している者もいれば、最低限のプレートのみという身軽な者もいる。武器も多種多様で、性格がそのまま表れているようだ。
「南はギルドがあって、大きなクランの拠点や修練場なんかも割と固まってるの。理由はカラント森林が南方にあるからって事なんだけど……そんなわけで、ここらは酒場や鍛冶師、何より冒険者が多いんだよね」
冒険者。
元々は未知の領域を探求する者達の呼称だったのだが、現在ではモンスターを倒し、ギルドに寄せられる依頼をこなして生計を立てる者達という定義だ。
ギルドは民間から国家まで様々な場所から寄せられる依頼を冒険者へ
道の真ん中で寝ている男性を飛び越えて、ユラは振り向く。
「冒険者って荒くれのイメージある?」
「知り合いがいるので、あまり……ただ、そういう人がいるんだろうな、とは」
「その通り」
――良識ある善人もいれば、自分本位な悪人も存在しよう。大概の事には善悪が陰陽のように
冒険者は犯罪者の隠れ
「でも、レノワールはわりかし治安がいいから安心していいと思うよ。大きなクランの存在や自衛団が目を光らせてるのもそうだけど、神さまがしっかりとやってくれてるおかげだね!」
噂をすればなんとやら。清らかな鐘の音がどこからともなく響く。
『はーいおっはよー! みんなの神さま、カシスだよっ☆』
底抜けに明るいこの声もまた、誰に対しても聴こえている。
仮に家の中に居ても変わらない音量なのだが、
『今日のお天気は一日中晴れだね。森は穏やかだけど、最近はモンスターが元気だから冒険者のみんなは気を付けて。じゃあ、今日も一日楽しく行こう!』
以上、神さま放送でしたー! と、声は終わる。
「毎日欠かさないよねー、神さまも」
毎朝六時の神さま放送。国民にとって、目覚ましであり、今日の天気予報であり、平和に朝が来たという証だ。
神都レノワール。ここは『神さま』が統治する独立都市である。
遠い昔に天空から舞い降りたとも、気付けばそこにいたとも伝わる「神さま」という存在。容姿は人と同じでありながら寿命という概念が無く、指先一つで容易く人類の重ねてきた
その中でも特別お気楽で自由主義の神さまが、何かの気まぐれで造り上げた自由の都市がここなのだ。
とはいえ、他の都市と何ら変わりはない。単純に神さまという人智を超えたモノが創設者というだけであり、その神さま自体が民草と非常に距離が近いため、尊敬はあっても
むしろ敬意すら忘れるほどフレンドリーであり、今日も昼頃になれば執務から抜け出して中央広場辺りに出没する事だろう。
「ここに来てすぐの時はビックリしたよ。神さま放送とか、やべー幻聴と思ったし、街に出たら当たり前のように神さまいるし……他所とはいろんな意味で一線を画してるよホントに」
楽しげに肩を竦めたユラに、シオンは子供たちを先導して遊んでいるであろう神さまの顔を思い浮かべて苦笑した。
たしかに普通の君主は「ヒマだから」という理由で天気予報術を会得したりはしないだろう。最近は絵画に手を出したとか出してないとか。
大通りの石畳を歩き続けていると、突然ユラが立ち止まった。
「着いたっ。ようこそ、ここがギルドのレノワール支部だよ!」
両腕を目いっぱい広げて、ユラはシオンを歓迎する。
目の前には煉瓦造りのとても大きな建物。巨大な入口に扉は無く、誰であっても歓迎するという意思表示のように思えた。中では、各々の仕事に勤しむ職員や仕事の吟味を始めている冒険者がちらほらと窺える。
「医務室に案内するね。こっちへドーゾ!」
早朝とあって、人もまばらなエントランスをスルスルと横切るユラに追従していく――――道中だった。
「ンだとこの野郎!!」
怒声の出所は、入口近くにある依頼掲示板。
禿頭の大男を中心とした男性三人組に、赤髪の少女が食ってかかっている。朝からもう……と、ユラは額を押さえた。
「聞こえなかったかガキ。お前みたいなヤツは身売りでもした方が稼げるぜってアドバイスしてやったんだ」
あからさま過ぎる挑発にして、明確な侮蔑。両脇にいる二人も同調して続く。
「親分の言う通りっす! さっさと辞めちまえ、ザコが!」
「金も無い上に弱い。そんなになってまで冒険者やってる意味がわからねぇな」
少女の防具は最安価の粗悪なレザーであり、多くの傷が目立つ。
「テメェッ!!」
少女は牙を剥いて憤慨し、腰の短刀を抜こうとし――――間一髪、ユラが駆け込んで双方を制した。
「ギルド内は乱闘禁止。やりたいなら修練場に行って!」
「ざけんな! バカにされて黙ってられっか!」
「おおそうだな。バカにされたままじゃ冒険者の名が廃る」
まあ、女子供には務まらねぇが。と大男はまたしてもわざとらしく
「あなたの発言は耳に障る。これ以上はギルドの規則として相応の罰を与えるわ」
ユラはさっきまでの雰囲気から打って変わり、
「オイオイ、俺は事実を言っただけだ。何の種族だか知らんが、傷だらけで向いてもいねぇ冒険者を独り続けるぐらいなら、死んじまう前にさっさと辞めるのがマシだってな」
「いい加減にして!」
今にも爆発しそうな少女を後ろ手に制止しながら、ユラが語気を強めた。男はわざとらしく、
「おお、怖いな。じゃあ、ギルドに守られてるお子様は放っといて俺らはモンスターでも狩りに行くか。俺はソロじゃねぇから余計な傷も負わないからな」
「ッす! 親分!」
「あんな雑巾みてぇな包帯姿、俺たちにはあり得ないですしね」
最後まで
「オレ、は……ッ」
少女は
心配そうに出されたユラの手を、少女は即座に振り払う。
「やめろ! ッ、うぅ……ここでもやっぱ……畜生ッ!!」
少女は赤髪を掻き乱し、逃げるように走り出す。シオンは少女とすれ違う瞬間、彼女の目元に一筋の光るものを見てしまい、胸が
ユラは叩かれた手を擦りながら、たははと力なく笑う。
「あーっと……たまにこういう揉め事もあるけど、気にしないで」
「今のって……」
「……赤髪の子は名前も教えてくれないの。いつも傷だらけで帰ってくるから顔は覚えてるんだけど……医務室は絶対に嫌だって言うし、ポーションすらなかなか受け取ってくれないんだよね」
「名前って……名簿があるんじゃ」
「ナカトさんが管理してるからね。前に心配だから相談したんだけど、見せてくれなくてさ……」
少女と相対していた三人は名前も覚えていないが、口汚くて横暴であり、ギルド内からの評判も悪いという話だ。
「さてっ! 横道に逸れちゃったけど、改めて医務室に案内するね」
明るい声色で空気を改めて、ユラは医務室へシオンを招き入れる。
患者用のベッドの他、書類仕事用の机に薬品棚や諸々の備品があるだけの簡素な部屋だった。
「で、仕事内容だけど……面倒な書類とかはあたしが担当するから、シオンくんは患者の対応とポーション作り担当ね」
「ポーションですか」
「そーそーその通り。マニュアルは机の引き出しで、材料はたしか……そうっ、ここにあるから!」
ユラは薬品棚の下段を開ける。そこには瓶に入った薬草が種類別に保管されていたのだが、シオンはすぐに不備に気付いた。
「シラツユがありません」
シオンが手に取った大きめの瓶には『シラツユ』の文字があるが、中には小さな葉片が落ちているだけで、空っぽである。
「えっ、ウソ!?」
瓶を受け取って現実を注視すると机に置き、ユラは悲嘆を体現するように「あぁ~」とベッドに倒れ込む。
「ごめんね~……前任さんからの引き継ぎでバタバタしてたし、急にシオンくんの件頼まれたから……。テンション高めで行った方が親しみやすいかなーとか、初めての後輩くんだから威厳ある方がいいかなーとか、結局空回りしてもどうにかなるよねーとか色々考えてたら、すっかり忘れてた……。どーしよ、市場のはもう競りが終わってるし、今から採取依頼出しても納入がいつになるかわかんないし……」
「……ポーションはいつまでに何個必要ですか?」
「へ? 多分、今日は備蓄してたので足りるから明日の分が作れたら……」
「じゃあ、僕が採ってきます」
「え」
ユラは予想外の言葉に数秒動けなかった。
「えぇ!? だ、だって森だよ? モンスターいて危険なんだよ?」
「深いところまで立ち入らなければ滅多に出会いませんし、たまに採取にも行っているんですよ。魔法も使えるので、いざとなればどうにかなります」
「う、うーん……じゃあ、大丈夫……かな?」
戸惑いつつ、ユラは採取を了承。
シオンは備品から手ごろな大きさの空き瓶を鞄に入れると、一礼して部屋を後にした。
「無事に帰ってきてねー。いってらっしゃーい!」
元気な猫人に見送られながら、シオンは森へと向かった。
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