第10話 「嘘つき」
この先もずっと。
香春によるその提案は、言わば最後通告だった。
これは恐らくターニングポイントだ。香春 日和と夕凪 ツバメ──そして、他でもない水蓮寺 雲雀にとっての。
夕凪は昨日の光葉の言葉を思い出す。
このままでは澱んで終わるだけ。現状を変えなくてはならないのはお前も分かっているだろうと。
これを逃せば、次の機会がいつになるかなど想像もつかない。もしかしたら永遠に訪れないのかもしれない。
そうなればきっと、
夕凪が水蓮寺に視線を向けると、彼女は僅かに不思議そうな表情をしていた。香春の提案の意味と、夕凪が言い淀む理由を図りかねていたのだろう。
ともすれば愚かな程、夕凪が香春の手を取ることはないと信じている。夕凪に向けられているのはそんな愚直な瞳だった。
そして哀れにも、その歪な信頼が夕凪の背中を押した。
大丈夫。今この瞬間、一度彼女の手を離すだけ。
それで何もかも上手くいくに決まっている。今日まで自分が彼女に背を向けられなかったのがいけなかったのだ。もっとずっと早くに、水蓮寺 雲雀を夕凪 ツバメから解放してあげなくてはならなかった。
だから。
「うん……うん、そうだね。ひわちゃん」
声が震えている。それでも何でもない事のように装って、夕凪は笑顔を作った。
普段は水蓮寺へと向けるその表情を、彼女でなく香春へと向けて。
あの日の公園での出来事が思い出される。
あの時の水蓮寺が本当は何を望んでいたのか夕凪には分からない。だけど自分が手を差し伸べたことでその願いが上塗りされてしまったのだとすれば、ここが償いの場だと思った。
愚かな子だね、と耳元で誰かが囁く声が聞こえた気がした。
そうかもしれない。いいや、きっとそうなのだろう。
だけど何が正しいのか分からなかった。それでも、今までの自分が間違っている事さえ理解していればそれで十分だった。
膨らんだ罪悪感と義務感だけに突き動かされている。とうに正常な判断が出来なくなっている事に、少女自身は気付いていたのだろうか。
「ごめんなさいひばり。私、あなたとはもう今までのようではいられない……」
それは本心からの言葉だった。このままではいけないと知っていたから。
水蓮寺の顔は決して見ることはなく、少女はその宣告を口に出す。
「あなたは、もう要らない」
絞り出すように吐き出した直後、耳元でまた何かが呟いた気がした。少年のようにも少女のようにも聞こえる声で、悪意に染まった何かが笑っている気がした。
お前は結局、自分が逃げたいだけなんだろう? と。
*
人の温もりに興味は無かった。差し伸べられた手に関心を持つことはなかった。
ただ一人、彼女さえいてくれたのならそれで。
だって、彼女が私の願いになってくれる。
全てを失ったとしても、私自身には何も無かったとしても、ツバメが私の欠落を埋めてくれる。
だから──いや、それなのに。
「あなたは、もう要らない」
その宣告の意味を、少女は暫しの間理解出来ずにいた。
当然だろう。水蓮寺 雲雀という少女にとって、それは到底受け入れられるものではなかったのだから。
本当は、考えないようにしていただけなのかもしれない。拒絶されることを恐れて、口に出せなかっただけなのかもしれない。
水蓮寺自身、この関係にいつか終わりが来ることは分かっていた。それ故に目を背けていた。
それでも思考が凍り付いて動かなかったのは、彼女の言葉を何処か他人事のように聞いていたからだろうか。
そして告げられた言葉が含む真意にようやく意識が追い付いた時、混乱の中で彼女が出した答えは実にシンプルなものだった。
裏切り者。
ただ短く、それだけが脳裏を過る。否定の言葉を思い浮かべようにも、止まってしまった思考はもうそこから動かない。
裏切られた。信じていたのに。
ずっと、何が起きても側にいると。そう言って先に手を差し伸べたのはあなたの方なのに。
『あなた、一人ぼっちなの?』
『それなら……私が、あなたの何かになってあげる』
どうして、あの日そう言ったはずのあなたが私に背を向けて──いや、それよりも。
(どうして、私じゃなくてその女に微笑むの?)
夕凪 ツバメが、その笑顔を自分以外に向けている。それが何よりも許せなかった。その事実だけで全身の血が沸騰してしまいそうだった。
目の前が傾ぐ。頭が焼け付くように痛くて、それよりも心が軋んでいる。
「……うふふ、賢明ですわ夕凪さん。そうこなくては」
視界の端で香春が嘲るように笑って見せた。その笑みには確かな優越感が含まれている。
痛い。吐き気がする。許せない。
あの笑顔を自分以外に向けるだなんて。一度手を差し伸べておきながら、一方的にその手を離そうだなんて。
私を置いていこうだなんて、そんな事は──!
水蓮寺の感情の渦が爆発した直後、轟音と共に教室中の窓ガラスが砕け散った。
それだけではない。机が、椅子が、教室内のありとあらゆるものがガタガタと音を立てて宙を舞い始める。
「……は?」
嵐のような突風が巻き起こる中、香春は呆気に取られて目を見開く。
悲鳴を上げる事すら許されない刹那の出来事だった。
踊り狂っている椅子や机が取り巻きの少女達に次々と降り注ぎ、その意識を奪う。まるで誰かの怒りを暴力として表現しようとしているかのように、躊躇無い一撃には殺意すら込められていた。
「なに、何ですの!? 何が起きて……っ!」
逃げ出そうにも恐怖で足が竦んで動かない。
半狂乱になった香春が咄嗟に目の前の夕凪へと視線を投げると、少女は何故かこの状況に驚いてはいないようだった。
ただ絶望で青ざめた顔は幽鬼のように佇む金の娘へと向けられている。
「……嘘つき」
ぽつり、と金の少女は呟く。
思わず怖気が走る程に憎しみが滲んだ言葉だった。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき!! 信じてたのに! 私は、あなただけを……!!」
少女は激昂する。もうその目には香春 日和の姿は映されていない。
きっと初めから彼女は一人しか見ていなかった。それは香春だって知っていたのだ。知っていたからこそ、それが許せなかった。
「ごめんなさい、ひばり……私、こんなはずじゃ……」
今にも泣き出しそうに呻く夕凪は、両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちる。
違うの、と夕凪は何度も繰り返していた。香春に聞こえているのだから水蓮寺にそれが分からないはずがない。だと言うのに、彼女にはそれが届かない。
そして当然の事ながら、それは香春 日和にはどうしようもない事だ。
「そう……蚊帳の外なのね、
この二人の少女には、きっとそれぞれに事情があったのだろう。そして本人達はそれを知っていた。
だとすれば、と香春は思う。
今こうしてこの場に立っている自分の、何と惨めなことだろうか。
吹き荒れる風に靡く金の髪。その隙間から覗く怒りに彩られた黄金の瞳を見て、香春 日和は思い出す。
何もかもを見下したような彼女の在り方が気に食わなかった。だけど同時に、あの瞳から時折垣間見えるどうしようもない苛烈さを恐れてもいた。
怖かったのだ。彼女の中に眠る得体の知れない何かが、いつか自分を破滅に追いやるのではないかと。
そしてその予感は正しかった。彼女が唯一誤ったとすれば、触れさえしなければ獅子が目を覚ますことはないと最後まで気付けなかったことであろうか。
気に食わないから。そんな幼稚な感情が、決定的な判断を鈍らせた。
(ああ、
そんな事をぼんやりと考える少女が最後に目にしたものは、横合いから自身に目掛けて突っ込んできた教卓だった。
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