第8話 伸ばされた手
「……私は、彼女に興味がありませんから」
そうやって水蓮寺の口から冷酷に放たれた言葉を、夕凪は肯定することしか出来なかった。
「そっか、そうだね」
半端な笑顔しか作ることしか叶わず、今すぐにこの場から逃げ出したくなる。
──この関係は歪んでいる、と二人の少女は理解している。
それを正しく認識してなお、少女らは互いを手放せない。依存し、依存されたこの在り方にしがみ付くことしか出来そうにない。
それでも、夕凪 ツバメは時折考える。
こうやって彼女が望む言葉を与えて、望むように振る舞って……それが、水蓮寺 雲雀の為にならないのだとしたら。
一度でも構わない、この手を強引に振り払わなくてはならないのではないだろうか? と。
夕凪にとって、その為に必要な新しい風が光葉だった。
打算的ではあるが、光葉を取り入れる事で少しでも水蓮寺が他へと目を向けてくれれば彼女がいずれ自分から離れる為の助けとなる。
夕凪以外とはほとんど会話すらしない水蓮寺も、光葉自身が強引だからかちらほらと二人だけで話すことも増えていた。
だけど、強く拒絶の意を表情に出す水蓮寺を見て嫌でも気付いてしまう。
光葉が自分達の間に割って入ってきたからこそ、水蓮寺は彼女に何か話し掛けられれば返していただけ。光葉 湖鷺と自分達は、それがたまたま水蓮寺の領域を踏み荒さなかったが故に、成り立っているだけの関係なのだと。
悲しくはなかったが、ただ痛かった。
水蓮寺 雲雀がここまで頑なに他者を受け入れないのは夕凪の所為に他ならない。
「私、ちょっと手洗ってくるね」
「? え、ええ」
困惑した素振りを見せた水蓮寺を置き去りに、夕凪はトイレへと向かう。深い理由は無いが、落胆した様を見せたくなかったのかもしれない。
手洗い場の前で鏡を見ると、曖昧な表情が貼り付いている自分の顔が映ることに彼女は苦笑した。
この学院に入学した当初もやはり水蓮寺は周囲と馴染もうとしなかった。今でこそ明確に孤立している水蓮寺だが、当時彼女を気遣って話し掛けた者達は少なくなかったのだ。
そして、香春 日和もその一人だった。
高飛車な態度故に悪意があると捉えられがちの香春だが、彼女が素直でないだけだということは夕凪も理解している。
そんな彼女が、夕凪以外には近付きもしない水蓮寺に自身のグループに入らないかと声を掛けたのが入学してから暫く後のこと。
夕凪自身は香春が苦手だったが、それでも歓喜した。もしかしたら水蓮寺がもっと他人に興味を持ってくれるのではないかと、そう思ったからだ。
だが、水蓮寺 雲雀は 香春 日和を拒絶した。
はっきりと、明確に、「あなたのような人間は私にとっては不要です」と、そう宣言した。
香春が水蓮寺を目の敵にするようになったのはそれからだ。
香春が彼女に何を求めているのかは分からない。だが香春の水蓮寺への執着は取り巻き達を使っての虐めへ発展し、近頃は目に余る言動も少なくない。
このままではいけないことは夕凪も分かっていた。
現状は誰の為にもならない。
しかし、だからこそ分からないのだ。何をするのが正しいのか、どう動くのが一番水蓮寺 雲雀という少女の為になるのか。
こんな時、もう一人の幼馴染なら迷いなく決断するのかもしれない。だけど、普段散々彼の在り方を責めておきながらこんな時だけ頼るのは狡いと思う。
だから鷹縞 宏人には何一つとして打ち明けられない。彼なら何とかしてくれるという確信があるからこそ、そんな虫のいい話は許されない。
「やっぱり、私が何とかしないと……」
そうやって彼女は暫くの間ぼんやりと鏡と向き合っていた。
廊下の喧騒はやけに遠く、自分以外に誰もいない女子トイレの中は他と隔離されているかのようにも感じる。
早く戻らなくては、またあの金色の目を不安で歪めてしまう。そう分かってはいても少女はなかなか動けなかった。
どれほどの時間が流れた後だっただろうか。数十分、あるいは数分だったのかもしれない。
鏡の端に映り込んだ人影に、夕凪はゆっくりと振り返った。
「よぉ、シケた面してんな」
「……こさぎちゃん」
金の髪に、金の瞳。水蓮寺 雲雀と似通った容姿でありながら、全く異なる在り方をした少女。
彼女の口元には、感情の読めない笑みが称えられている。それでいて、両の目は微かな狂気が宿っているように見えてならなかった。
彼女は、夕凪に片手を差し出すとこう告げる。
「夕凪 ツバメ。あたしと取引をしようぜ」
「取引……?」
「そう、取引だ。交渉と言っても良い」
光葉の真意が夕凪には分からない。
困惑した夕凪が視線を彷徨わせていると、光葉は笑みを深くした。
しかし、それは友好的なものとは程遠いのは見て取れる。夕凪は人の感情の機微にそう聡くない。だが、そんな彼女でも看破出来るほど、今の光葉が浮かべる笑みは愉悦で歪んでいた。
この少女は、時折今のように得体の知れない雰囲気を纏うことがある。
まるで深淵から招く手を思わせるような、底の見えない不気味さを。
背筋に冷たいものが走ったのを感じて夕凪は息を呑んだ。
「急に、どうしたの……何の話……?」
「……急? ああ、そうかもしれねぇなぁ……少なくともお前らにとっては。でもまぁ、今はどうでも良いだろ? そんな事」
少女の顔には影が差している。それが余計に彼女の感情を読み辛くさせる。
差し出されたこの手を取ってはいけない気がした。夕凪は縋るように視線を出入り口へと向けたが、その通路は光葉によって塞がれている。
話を聞かなければ通すつもりはない。
そう、無言のままに語っている。
「そんな顔すんなよ。あたしが
夕凪の答えは聞かず、光葉は言葉を紡いだ。
金の髪を指で弄びながら少女は謳うように告げる。妖しさを秘める目を細めて、密やかな声色で。
「水蓮寺 雲雀を、夕凪 ツバメから解放してやるんだよ」
解放。
その言葉に、夕凪は目を見開く。彼女自身も、水蓮寺の為に望んでいたこと。
そして、その為に光葉 湖鷺を利用しようとしていたのである。だから、夕凪 ツバメが光葉が提示したそれに目の色を変えたのも無理は無いことだ。
例えそれが、まるで図ったようなタイミングで差し出された餌だったとしても。
そんな夕凪を見た光葉は笑みを深くした。待っていましたと、そう言わんばかりに。
「お前だって、いいや、お前だからこそ気付いてんだろ? 水蓮寺のお前への執着は異常だ。例えその裏にどれほどの理由があったとしてもあのまま放っておいたところでロクな事にはならねぇよなぁ?」
何が可笑しいのか、光葉は嗤っている。
それでも夕凪には彼女を突っ撥ねる事が出来ない。両の足が縫い止められたかのように、その場から動けない。
「お前だけを信用していると言えば聞こえは良いが、あれはただの依存だろう? そして──人が人を盲信すれば、いつか絶対にその執着心は誰かに牙を剥く」
夕凪の脳裏に浮かんだのは、光葉が転入してきた日の水蓮寺と香春のやり取りだ。
夕凪を使って水蓮寺を揺さぶろうとした香春に、彼女は「ツバメに何かあればあなたを殺すかもしれない」と宣言した。あれはハッタリなどではなかった事を、夕凪は理解している。
香春は自分に従順な相手には基本的に甘い。だからあのプライドが高いだけの少女が直接自分に危害を加えるような事は無いだろうと夕凪は半ば確信していた。それでも、水蓮寺には恐らくそれが冗談として通じない。
水蓮寺 雲雀は、夕凪 ツバメ以外の人間になど人としての価値すら見出していないのだから。
「何もあいつが人殺しでもやらかすんじゃねぇかなんて話まではしねぇよ。でもどの道、このままじゃ何一つ前に進まねぇ。この先ずっとな。知ってるか? 停滞は全てを腐らせる。水も空気も、その場に留まったところで澱んで終わりだ」
「わたし……私は、ひばりを……」
「そう、お前が水蓮寺 雲雀を前に押し出さなくちゃならねぇんだ。堰き止められているあいつの在り方を、多少強引にでも箱の中から引き摺り出す必要がある」
だからな、その為の取引だ。
そう言って光葉は人差し指を立てる。初めから、そこへ話を繋げようとしていたのだろう。
突然降って湧いた光葉の話に、夕凪は正常な思考判断が出来なくなる。
「次に香春が水蓮寺に絡んだ時で良い。お前は水蓮寺にはっきりとこう言ってやるんだ。──『お前はもう要らない』ってな」
恐ろしく冷たく響いた光葉の言葉に、夕凪は顔面を蒼白にした。
低く、臀部を撫でるような彼女の言葉には悍ましいほどに温度が無い。
──これはきっと、悪魔の囁きだ。
水蓮寺の為だと宣いながら、彼女の金の瞳にはそんな温かな感情など微塵も宿っていない。
月には、人を狂わせる魔性の輝きが宿ると言う。月の光を思わせる色を称えた目を細め、光葉は愉しそうに指を鳴らした。
「別に本気で拒絶しろってわけじゃない。演技で構わないんだよ。そうすりゃあいつも多少は危機感抱くかもしんないだろ? 現状ってやつにさ」
今のままでは何も変わらない。少々強引にでも夕凪が水蓮寺の手を離さなくては、何も。
夕凪自身もそう考えていたはずなのに、いざ誰かからその方法を突き付けられると頭がひりつく。
停滞は何も生まない。変化を受け入れなくては、人は腐り落ちる。
だとすれば、本当に今が変わるべき時なのかもしれない。
「勿論タダでとは言わねぇよ。そうだなぁ……香春の水蓮寺へのしょうもない嫌がらせを辞めさせてやる」
え? と夕凪は思わず間の抜けた声を上げる。
「あたしが知り合い経由で理事会の口利きで転入してきたのは知ってんだろ? 汚い手だが、知り合いにチクれば理事会を通して香春を大人しくさせられる」
「そ、それ本当に?」
「ああ、お嬢様が虐めだなんて立派なスキャンダルだからな。揉み消して終わりとはならねぇよ。表沙汰になる事はなかったとしても、香春はお灸を据えられんだろ。あいつ小物だし、そうなりゃ今みたいに露骨に手は出してこねぇだろうな」
笑みを崩さない光葉だが、夕凪には彼女の真意が読めそうにない。
一見、理に適っているようにも聞こえる彼女の話にはあまりにも重大な穴がある。
光葉は、これを取引だと言った。確かにこれは夕凪が動かなくてはならないことだ。故に自分に話を持ちかけてきたのだということは分かる。
しかし、このままでは光葉は何一つ得るものが無い。取引だと言う割には光葉自身にメリットが存在していないのだ。
まだ知り合って日が浅いとは言え、それでも彼女が一切の利益を考慮せずに動くような人間だとは思えなかった。
「ツレないねぇ。友人としてお前らの関係が心配だから……ってのは理由としては弱いか?」
それは、嘘だろう。
そして光葉も夕凪が分かっていると理解した上での言葉だ。
微笑む光葉は、夕凪が拒否出来ないのを知っている。
水蓮寺 雲雀も、香春 日和でさえも、このまま放っておきたくはないと強く夕凪が願っていることを看破している。
「あと数ヶ月で、高校生になるんだぜ? 今が良い時期だと思うけどな」
何も本当に水蓮寺を突き放すわけではない。
あくまで、演技。ほんの少し、彼女に周りに目を向けるように仕向けるだけ。
だから──。
「まぁ今すぐにとは言わねぇよ。一晩じっくり考えてみればどうだ? 何があいつに……水蓮寺にとって、一番良い選択なのかってのをな」
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