第7話 拒絶
失くしてしまった物がある。
それは記憶だったり、家族だったり、色々だ。
家族というのは、御伽噺よりも遠い存在だった。
自分にかつて、そういった存在がいたであろうことは分かっている。
両親は死んだのか、それとも自分を捨てたのか。それは分からなかったし考えようとも思わなかったが、周囲から憐れみの目を向けられるのは不快だったように思う。
何を見当違いなことを、とさえ考えた。自分には彼女さえいれば構わなかった。
あの日、自分に手を述べてくれた彼女だけが唯一の光だった。
他には何も要らない。
例え目の前に吊り下げられたそれが、地獄から這い出る為の希望の糸だったとしても。
この糸を手に取る為に彼女の手を離さなくてはならないのなら、自らの意志でその糸を引き千切ってしまおう。
──君は、なんて哀れなんだろうね。
耳元でそう囁く声がする。
自分は今、夢を見ているのだろうか?
だとすれば聞く必要すらないことだった。
──かわいそうに、ああ、可哀想な呪われた子。
ころころと鈴が鳴るような愉しそうな声。何がそんなに愉快なのだろう、と思う。
──周りに目を向けようともしないで、ただただ自身を憐れむばかり。なんて自分勝手な女だろう!
悪意で歪んだ声は云う。全身を突き刺す毒のように、それでいて甘く脳を侵す蜜のように。
それにどれほどの意味があるのか分からなかった。
──だけど、そうでなくっちゃ。
──君にはその身に宿る力と同じく、醜い人間でいてもらわないといけないからさぁ。
声は、こちらの意思すら聞かずに嗤っている。
ならば、これは気に留める必要すらない言葉だ。目が覚めたら全て忘れるに決まっている、微睡みの中の泡沫の幻。
──だから、ただ願え。終わりが訪れるその日まで。
望みも、願いも、何もない。
彼女が隣にいてくれるのなら、それで。
*
「今日のこさぎちゃん、なんかいつもと違うね」
夕凪がそんな事を言ったのは、午後の授業が始まる少し前のことだった。
彼女の鳶色の目は自分の席で頬杖をついてぼんやりとしている光葉に向けられている。
釣られてそちらを見やった水蓮寺には、彼女がただ暇を持て余しているようにしか見えない。
「ひろとが変な事言ったのかなぁ」
「どういう意味です?」
「昨日の夕方ね、寮の近くでひろとに会ったの。探してた物を見つけたから渡しに行くんだ〜ってちょっとよく分かんないこと言ってたけど」
どうしてここであの少年の名が出てくるのか。そう思った水蓮寺が眉を寄せる。
夕凪は何でも無いことのように言葉を続けた。ちなみに、鷹縞が夕凪達にとっては理解の及ばない理由であちこちに出没するのは日常茶飯事なのでそれについては触れない。
「そしたら、私の少し前にこさぎちゃんに会ったんだって。ほら、ひろとデリカシー無いから余計な事言ったんじゃないかと思って」
それは果たしてどうだろう、と思った水蓮寺だがこれまでの彼の言動を顧みて口を噤む。
良くも悪くも物言いが真っ直ぐな少年なので、確かにデリカシーに欠ける面があるのは事実である。だが言葉がストレートなのは光葉も同じことだ。
案外波長が合うのではないかと、そう考えて夕凪も予め光葉の話を鷹縞にしていたはずなのだが。
しかし水蓮寺からしてみれば、夕凪が何故そんなにも光葉を気にかけるのかが分からなかった。
理由は分からないが、彼女が誰かを気にかけているのを見ると言い様のない不安に駆られることがある。
「……そう、気にしなくても良いのでは? どうせ赤の他人ですし」
「え?」
「……私は、彼女に興味がありませんから」
だから、水蓮寺が自分の言葉が思っていたより遥かに冷たく響いたことに気が付いたのは夕凪のぽかんとした表情を見た後だった。
あの少女が現れてから、どうも自分はおかしい。
何に焦っているのかは自分でも分からない。それなのに、時折吐き気を催すほどに心臓が軋むのだ。
こちらを捉えるあの金色の目が──どうしてか、自分にすら見えていない水蓮寺 雲雀の深淵を暴くように思えてしまって。
「赤の他人……」
一瞬、心底不思議そうな顔をした夕凪は彼女の言葉を改めて己の中で咀嚼しようと試みているようだった。
水蓮寺だって、頭の何処かでは理解している。光葉と自分達は共に行動する事が多くなった。周囲から見ればもう自分達は三人で一つのグループとして捉えられているのだろうと。
であれば、夕凪が光葉を気の置けない友人という括りに入れていることも何ら可笑しな話ではないということも。だから彼女が光葉の様子を気にするのは当たり前のことだ。それなのに水蓮寺にはそれが出来ない。
自分と夕凪しかいなかった空間に入ってきた少女の存在を、どうやっても許容出来ない。
「そっか、そうだね」
そんな水蓮寺の考えを理解してのことだろう。夕凪は曖昧な表情で微笑んだ。
いつもの困ったような笑顔ではなく、慈しむような、それでいて憐れむような笑みで。
──この関係は歪んでいる、と二人の少女は理解している。
それを正しく認識してなお、少女らは互いを手放せない。依存し、依存されたこの在り方にしがみ付くことしか出来そうにない。
「私、ちょっと手洗ってくるね」
「? え、ええ」
夕凪はそう言い残すとふらりと教室から出て行ってしまった。
唐突だった為、少し疑問を抱いた水蓮寺だが流石にわざわざ追い掛けるような真似はしない。
物心ついた時には、何もかもを失ってしまっていた自分にとっては彼女は家族よりも重い存在だった。
こんな時は、いつも彼女が戻ってくるのをただ待っているだけ。
他のことに目を向けた事などないし、向けようとも思わない。そしてそんな自分の在り方を疑問に思ったことなど一度も無かった。
それなのに、と水蓮寺は思う。
「水蓮寺。ちょっとお前に話があるんだけど」
何故彼女は、いつもこうして自分の思考を乱す為に現れるのだろうと。
音も無くこちらに近付き、話し掛けてきた光葉を椅子に座ったまま見上げてはそんな事を考えた。
その顔には珍しく何の表情も浮かんでいない。だが無表情とはまた違う、何を考えているのかまるで分からない仮面のようだった。
「……何です、急に」
今日はどうしてかそんな彼女が酷く疎ましい。
顔を顰めた水蓮寺に気付いているのかいないのか、光葉は金の目を細める。普段と同じ、こちらを見透かすような──不躾な視線。
自分と同じ色でありながら、どうしてこんなにも違うのだろうと、そう思いながらも口にはしない。
「軽い疑問だよ。戯言だと思って聞き流してくれればそれで良い」
夕凪の言葉を突っ撥ねた水蓮寺だが、淡々とそう言葉を吐く光葉に深く眉を寄せる。確かに、何処かいつもと様子が違うのは事実だった。
だが、だからと言ってそれを気にしたところで仕方がない。彼女は結局のところ、自分と夕凪の間に割り込んできただけの厄介者。
彼女がいなければ、きっと自分は余計な事を考えずに今まで通りいられたのだから。
光葉はやはり水蓮寺を気にする様子は見せなかった。
彼女は薄い唇を動かして、水蓮寺へと言葉を吐く。
「お前さ、家族ってやつについてどう思う?」
この少女はいきなり何を言うのだろう。
道徳心を学ぶ授業の最中でもあるまいし、唐突に始める世間話にしては話題に難があり過ぎる。
光葉は自分の過去について知らないはずだ。だとしても、いや、だからこそ彼女の真意が分からなかった。
だが、そうやって彼女の意図を図りかねている水蓮寺に光葉は何でもないことのようにこう言って笑う。
「お前、いないんだろ? 家族」
「……どうして、」
別に隠していたわけではない。校内においても誰であれ知っている話だ。しかしかと言ってその肩書きをひけらかしているわけでもない。
だから当然のような調子でそんな事を告げた光葉に、水蓮寺は一瞬呼吸を止められる。
幼馴染の彼女の顔が浮かぶが、夕凪はそういった話を言いふらすような少女ではないことを水蓮寺が一番よく知っている。
「どうだって良いだろ」と言う光葉は、いつものように水蓮寺の机に腰掛けた。
「……わざわざ、誰かに聞いてまで調べたんですか?」
「だから、んな事はどうでも良いだろ? 肝心なのはあたしがお前に家族について質問してるっつー事実だろうがよ」
「そんな事を聞いてどうするんです」
「あたしがここ来た初日も言ったよなぁ。……いちいち理由がなきゃ駄目なのかよ」
水蓮寺を真っ直ぐに捉える金の瞳。闇に浮かぶ月を思わせるそれに、一瞬だけ苛烈な色が宿った。
その感情の正体は強いて言うなら苛立ちだろう。早く答えろとでも言うような、そんな思いが見え隠れする。
それに怯んだ訳ではないが、これ以上問答を続けるのも無駄だと悟った水蓮寺は大きく溜息を吐く。
「別に……どうとも思いませんよ」
家族。
それについて何をどう思うのか。
そんな事は昔からどうでも良い事だ。
「あなたが知るように、私には家族と呼べるものはいません。でも、どうせロクでもないものに決まってる。今となっては、無くて良かったものの一つです」
家族という存在が死んだのかはたまた自分を捨てたのか、どちらにせよ自分一人だけが放り捨てられたのは事実なのだ。
であれば、今更そんなものに執着は無い。
今の自分にはそんな得体の知れないものよりもずっと大切な存在がいる。
水蓮寺 雲雀には夕凪 ツバメがいればそれで良い。
だから。
「私には両親がいたんでしょう。もしかしたら兄弟もいたのかもしれない。だけど、それが何です? あなたもこれまでの周りの人間と同じように、見当違いな憐憫を抱くつもりですか? 私にはツバメがいればそれで良いのに、『家族がいないなんて可哀想』と」
その先の言葉だけ、水蓮寺は僅かに言い淀んだ。
しかし、やはり自分には夕凪 ツバメがいればそれで構わないと、再確認したからこそ──告げる。
「私とは何ら関係の無い、他人のくせに」
それは水蓮寺が光葉 湖鷺という少女へ下した拒絶の意思表示だった。
もしかするとその目には失望や苛立ちの色が浮かぶかもしれない。関係が無い他人だと言われて気分の良い人間はいないだろう。
だが水蓮寺はそれを求めていた。いっそ彼女が自分達から離れてくれれば良い。そうすればまた、夕凪と二人だけの日々が戻ってくる。
そう考えて、水蓮寺は光葉の顔を見る。
しかし──。
「……ああ、ああ、そうか」
口角を上げる少女の目には、確かな歓喜の色が宿っていた。
戸惑う水蓮寺など意識に無いかのように、光葉はうわ言のように言葉を繰り返す。
「嘘は無いな、最高だ。神に感謝したいくらいだよ、お前がそんな女でいてくれたことを!」
勢いよく立ち上がった彼女は、声を上げて笑った。心底愉快そうな光葉だが、水蓮寺には自分の言葉の一体何が彼女の琴線に触れたのか分からない。
何一つ面白い事など言わなかったはずだ。それどころか、不快感を煽るような言葉を吐いたはず。
そんな光葉の様子は、不可解を通り越して不気味ですらあった。
「なに、急に、」
「いいや、ちょっと自分の馬鹿さ加減を再確認しただけだ。だけど、サンキューな水蓮寺 雲雀。お前のおかげで、悩みが綺麗さっぱり吹き飛んだわ」
彼女は水蓮寺に背を向けたままひらひらと片手を振る。
笑っている彼女がどんな目をしているのか、水蓮寺には見ることも叶わない。
「じゃあな。その考え、この先も一生変えんなよ」
吐き捨てるようにその言葉だけを言い残して、光葉も教室から姿を消した。残された水蓮寺が出来たのは、ただ呆然とその背中を見送ることだけ。
いつもと同じように、昼休みの出来事である。
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