第5話 燻る不安

 転入早々、香春 日和の逆鱗に触れた恐れ知らずの少女──光葉 湖鷺に関する評価は大方こういった形で定着した。

 不名誉な称号であることには間違いないが、これは実は水蓮寺と光葉双方にとって良い働きをしてくれた。というのも、香春が怒り狂っているおかげで“水蓮寺 雲雀と瓜二つである”という方向の噂があまり広がらなかった為だ。

 不要な注目を集めたくない水蓮寺からすれば、光葉が香春に喧嘩を売ったのが功を奏したとも言える。

 そんな、良くも悪くも有名人となってしまった転入生はと言うと。


「でもホンット、やり方が古いよなぁ。馬鹿の一つ覚えかっつうの」


 無惨に切り刻まれたノートを顔の前でひらひらとさせながら、光葉は呆れたように息を吐いた。勿論のこと、香春一派の所業である。

 見る影もないそのノートの持ち主は光葉──ではなく、水蓮寺だ。光葉は水蓮寺の手から取り上げていたそれを窓の外へと放り投げる。


「……何のつもりですか?」

「あんなもんもうゴミだろ。それともあれか? ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てなさい! とでも言うつもりかよ」


「これだから優等生はよぉ」と吐き捨てる光葉。しかし水蓮寺が言いたいのはそういう話ではない。どちらかと言えば香春に向かってその“ゴミ”を投げ付けてやりたかっただとか、そういう話でもない。


「そうではなく、何故当たり前のように毎日私の元へ来るのです」


 そこである。

 光葉 湖鷺が新たなクラスメイトとなってから早数日。水蓮寺としては夕凪以外の全人類に関心が無いと言っても過言ではない為、関わる気などさらさらなかったのだが光葉の方は違ったらしい。毎日毎日何かと理由を付けては話し掛けてくるのである。

 現在も、昼休みを良いことにさも当然のように水蓮寺の机に腰を下ろしている。


「だって他の連中、香春にビビって話し掛けてこねぇし。お前か夕凪くらいだもん、香春の直接的な傘下じゃねぇ奴」

「それはあなたがあの女に喧嘩を売ったからであって、自業自得というものでは?」

「別に喧嘩は売ってねぇよ。あたしは女子特有の派閥とかグループとか……そういうのが苦手なの。それをオブラートに包まずに伝えたらあいつが勝手にキレたんだろうが」


 どうも光葉 湖鷺という少女は、態度のせいで喧嘩腰に見えるだけで本人に悪気はないらしい。

 それがここ数日嫌でも彼女と会話をする羽目になった水蓮寺の見解だった。また、遠回しにものを言うのが不得手らしく彼女は言動が直球過ぎる節がままある。

 故に、すっかり“怖いもの知らずの女”というイメージが定着してしまい香春抜きにしても光葉はクラスメイトに距離を置かれていた。そんな光葉の在り方にもすっかり慣れてしまった水蓮寺は、人の机の上に座って脚まで組み始めた彼女を白い目で見る。

 彼女は何が楽しいのかくつくつと笑っている。


「あたしよりお前の方がスゲェと思うけど? こんな状態でよく教室に来るよな」


 そう言って光葉が指差したのは先程彼女が放り投げたノートだ。植え込みで土に塗れているそれは、最早彼女らにとって珍しい光景でもない。


「……私は、ツバメがいればそれで良いので」


 極めて平坦な調子で水蓮寺はそう返した。

 事実だから、応えただけ。それなのに不自然に声が硬くなる理由は何故だろう? と彼女は考える。


「……それより、あなたの私物は無事ですか?」


 考えたところで答えは出そうになかった為、彼女は望んで話題を変えた。

 少し目を離すだけで私物をズタボロにされるのが水蓮寺の現状だ。正直、立派な器物破損として告訴出来るレベルだと考えているが面倒なので警察に届けようとも思わない。


 香春は自分に背く者に対してそういった手段を用いるのが常であり、水蓮寺からすれば光葉もその対象だろうと思っての言葉である。

 ところが彼女はあっけらかんと、


「無事も何も、あたし荷物持って来てねぇし。あいつらが手出し出来るようなもん何もねぇんだわ」

「……何を言ってるんですか?」

「手ぶらで来るって楽で良いよな。つーかお前もそうすれば? 財布と携帯だけ持って来りゃ良いじゃん」


 そうなると、光葉は財布と携帯電話しか教室に持ってきていないということになる。

 あんなにも分かりやすく香春の反感を買いながら、彼女が具体的な被害を受けていないのを不思議に思っていたのだがどうやらそういう裏があったらしい。気が強そうに見えて意外と小心者の香春 日和のことだ、直接危害を加えるわけにもいかず手をこまねいている現状なのだろう。


「先程の言葉を訂正します。あなたは何の為に学校に来てるんですか?」


 水蓮寺の心底意味が分からないといった言葉も無理はない。

 それで彼女は思い出すが、光葉は授業時間に席にいないことが多い。大方、何処かでサボっているのだろうと予想する。


「勉強の為じゃねぇことは確かだな。あたし勉強できねぇもん」


 けらけらと笑う光葉を見て、水蓮寺は小さな疑問を抱いた。

 学生の大半がそうであるように、水蓮寺も別に来たくて学校に通っているわけではない。

 言葉の綾と言えばそれまでだが、彼女の物言いは“勉強以外であれば何か目的がある”との意味にも取れたのだ。

 しかしその違和感には目を向けず、水蓮寺は嘆息する。


「出来ないからこそ学ぶのでは?」

「別に出来なくたって死にはしねぇよ。夕凪だって出来ねぇだろ?」

「あの子はあなたのようにやらないのではなくやっても出来ないだけです」

「お前それフォローのつもりかよ」


 良くも悪くも、光葉は言葉を飾らないからだろうか。彼女とはまるで気の置けない友人のように話が出来ることに、ここ数日の水蓮寺は内心驚いていた。

 これは水蓮寺自身も自覚していることだが、夕凪以外の人間が相手となるとどうしても突っぱねるような態度を取ってしまう。それ故に他人と関わることは少なかった。水蓮寺も夕凪以外は必要としなかったので直そうとも思わなかった。

 だが光葉の場合は彼女の方も態度に難がある為、可笑しな話だが会話が成立するのだ。


 これを、果たして良い事として受け容れても構わないのだろうか、と水蓮寺は戸惑いを覚える。


 もしもの話である。

 これまで、自分は夕凪 ツバメという少女としか生きられないのだと思っていた。彼女と歩むことでしか、生を認められないと。

 だけどそれはただの勘違いで、そんな考えはまやかしだったとしたら。

 この新しい関係を享受したとして、夕凪以外の誰かとも生きられるのだとして。


 そうなれば、これまでの自分の人生は何だったのだろう?


 それは目眩を覚えるほど悍ましい話だった。いつだってあの手に縋ってきた。いつだって、困ったように笑う彼女が隣にいなくては呼吸すら苦しかった。

 もしも、彼女が自分を見限ったら? そう思うだけで体が震えるほどなのに、彼女がいない──否、彼女を必要としない未来だけが可能性として提示されている。


 このままずっと、永遠に、あの少女と共に在れたら。

 それだけを考えてここまで生きてきたというのに。


「水蓮寺? 何だよ、いつにも増して辛気臭ぇ面して」

「…………いえ、」


 気付かない内に自分の顔を覗き込んでいた光葉の声で水蓮寺は我に返る。

 彼女の金色の目は、自身と同じ色彩でありながらも馴染みにくい。まるで何もかもを見透かされているかのような気にさせられるのだ。


「ツバメは、まだ戻ってこないのかと……」

「……、」


 伏し目がちに呟いた水蓮寺に対して、光葉はほんの一瞬だけ表情を消した。

 しかし水蓮寺がそれを疑問に思う前に、彼女は普段通りの快活な笑顔を作る。


「また夕凪のことかよ。まだ十五分も経ってねぇだろ。購買行っただけなんだしもう戻ってくるっつうの」


 よっ、と簡単な掛け声と共に彼女は机から降りる。

 噂をすれば何とやら、扉の方へと視線を向けると丁度夕凪が飛び込んできたところだった。ビニール袋と紙パックのジュースで両手を塞がれた彼女は迷わず水蓮寺達の方へと駆け寄ってくる。


「えへへ、ごめんね遅くなっちゃって。美味しそうなパンが多くてどれにするか迷っちゃって」


 そうやって笑う夕凪だが、彼女が右手に提げているビニール袋の中にはぎっしりとパンが詰められていた。檻に詰め込まれた囚人を思わせる圧迫感だ。

 光葉はげんなりした様子で不審の目を彼女に向ける。


「いつも思うけど、お前それやっぱり一人で全部食うの? 見るだけで吐きそうなんだけど」

「食べるよ?」

「ちっこい体でよくもまぁそんなアホみたいに食うよな……胃の中になんか生き物でも飼ってんのか?」


 光葉の口振りから分かるように、夕凪が手にしているのは彼女一人分の食事である。

 夕凪と必ず昼食を共にする水蓮寺はすっかり慣れていたのだが、夕凪は見目に反してかなりの量を口にするタイプだ。未だにそれが馴染まない光葉は、毎日のように夕凪が買ってきた山のようなパンを見て顔を顰める日々を送っていた。

 ただ、常人の数倍の食事量であろうと体重も身長も変化がないため光葉の言うように体内に何かいるのではと水蓮寺も密かに考えていたりする。


「こさぎちゃんもいる? 一個あげようか?」

「良い良い! 見てるだけで腹一杯だわそんなもん」

「そっかぁ。ひばりもこさぎちゃんもやっぱりお昼食べないんだね」


 近くの空いた席に座って早速パンを頬張り始めた夕凪と、それを見ているだけの水蓮寺と光葉。後者の二人は食が細く、昼食は食べないのが常となっていた。

 極端な三人だがいつの間にかこうして過ごすことが増えているのも事実である。


「目の前でこんなに食ってる奴いたらそれで十分だわ。そんなんだから午後の授業寝るんだぞ」

「ね、寝てないよ。うとうとしちゃうだけ」

「それを寝てるって言うんだろうがよ」


 ──今までは夕凪の言葉に相槌を打つのは自分しかいなかった。


 そんな考えがふとした瞬間に頭を過り、水蓮寺は形容し難い感情に駆られることがある。

 不安とはまた違う。その正体が、水蓮寺には分からない。


「ね、ひばり? 私ちゃんと授業中起きてるよね!?」


 この感情をどう整理するのが正しいのか、見当すらつかない。

 だけど。


「どちらかと言うと……寝てる方が多いのでは?」

「ひ、ひばりまで……」

「ほら見ろ。いやまぁ水蓮寺も寝てるけどよ」

「あなたなんか授業抜け出してるじゃないですか」


 だけど今は、今だけは、目を背けたままでいたいと思う。

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