第3話 衝突
夕凪 ツバメからすると水蓮寺も鷹縞もそれぞれ幼馴染だ。
しかし水蓮寺と鷹縞の間には幼馴染という認識は無い。夕凪とは親同士が知り合いで、生まれた頃から共に過ごした鷹縞とは水蓮寺の境遇は違っているからだ。
水蓮寺 雲雀という少女について、語れることはそう多くない。
夕凪が彼女と出会ったのはもう十年近く前のことだ。
夕暮れの公園で、確か他に人はいなかったように思う。何か忘れ物をしたとか、そんな理由で一人で公園を訪れた当時の夕凪は傷だらけで泣いている少女を見つけたのだ。
自分と同じくらいの歳の子が泣いている。どうしてかそれが涙が出そうなほどに悲しくて、彼女は声を掛けた。
どうしたの? 何で泣いてるの?
あなたのおうちは何処?
その問いに、彼女は首を振ってこう答えた。
分からない、と。
分からない、何も思い出せない。
少女は自身の名前を除いて、ほとんどの記憶を失っていた。
一時は事件性もあるとして疑われたが、結局彼女は身元不明のまま何一つ分からず終い。最終的には施設に保護される運びとなった。
境遇が境遇だからか、彼女は周囲の全てが自分の敵であるかのような態度を取り続けた。仕方がないことではあるのかもしれない。
それでも、明らかに訳ありである彼女に対して周りの人間はあまり良い顔をしなかった。施設の人間が子供達に密かに暴力を振るっていたとの話もあるが、真偽は不明。その場所も今は無く、真相は当事者達のみが知っている。
そんな彼女が、水蓮寺 雲雀が唯一気を許したのが夕暮れの公園で自分を見つけた夕凪 ツバメだった。
誰にも心を開かなかった彼女が夕凪にだけはよく懐いた。夕凪の方も彼女を気に掛けていたのか、両親にせがんでは定期的に施設に顔を出していた。
時が経ち、鷹縞も含め何人かの友人を水蓮寺に紹介した夕凪だったが、彼女らの関係性は変わることなく。
こうして、十年に近い月日が流れ二人は同じ寮で生活している。
だからこそ夕凪にとって水蓮寺は守るべき対象だった。
あの日、自分だけを縋って伸ばされた小さな手を覚えているから。
「……今日の体育は何時間目でしたっけ?」
「お昼のすぐ後だったと思うけど……ひばりが時間割の確認なんて珍しいね。どうしたの?」
あのまま鷹縞とは別れ、翌日の事だ。ホームルームが終わり、いつものように窓際の水蓮寺の席を訪れた夕凪は彼女の言葉に首を傾げた。
少ない休み時間で隣のクラスに顔を出す女生徒も多いが、二人は他クラスには関心すらない。
朝は常に不機嫌を前面に押し出している水蓮寺なので、夕凪は彼女が今日の時間割が気に食わないのかと考えた。
しかし、水蓮寺が手提げ鞄から取り出したものを見て息を呑む事となる。
「ひばり、それ」
「やられましたね。教室に来てすぐ、荷物を置いて席を立ったので。少々軽率でした」
心底鬱陶しそうに眉を顰める水蓮寺が手にしていたのはペンキか何かで真っ赤に汚されている体操着だった。染料に浸し、そのまま鞄に戻されたらしく鞄の中まで色が変わってしまっている。
顔面蒼白になる夕凪とは対照的に水蓮寺は退屈そうな顔のままだった。慣れているからだ。
「だ、誰がこんな……」
「いつもの連中でしょう。教卓の側からこちらをちらちら見ていますし。やる事が餓鬼臭いんですよ」
反射的に夕凪がそちらを見遣ると五、六人の少女達がひそひそと囁き合っているのが目に入った。その内の一人、長い黒髪の少女は水蓮寺の言葉を耳聡く聞き付けたのかつかつかと歩み寄ってくる。
夕凪は怯えたように肩を揺らしたが、水蓮寺は軽く息を吐いただけだった。少女はガンッ、と水蓮寺の机を蹴って髪を掻き上げる。
「気の所為かしら? 今、
アーモンドのように吊り上がった黒い目に、ルージュが塗られた赤い唇。ネイルも同じく赤を選んでいる事も相まって、毒々しいとも取れるその色は彼女に良く映えた。
水蓮寺はわざわざ自分から罪の告白に来た彼女に対して、いっそ憐れにすら思う。
「そう聞こえました? ならば図星ではないですかね。それに、随分と赤がお好きなようで」
水蓮寺は手提げ鞄ごと体操着を彼女に突き付ける。初めから犯人は分かっていたとは言え、少し煽っただけで首謀者が出てくるのはあまりに愚かだ。それでも少女は──
「あら、ごめんあそばせ。貴女、陰気臭いでしょう? ですからせめて体操着くらい派手な装いであればと思いましたの。
香春の言葉に同調するような含み笑いがクラス中から上がる。突き刺さる視線には嘲弄が含まれ、教室に漂う空気は香春の言動を容認している事を表している。
これは、一種の儀式だ。
水蓮寺 雲雀という少女を啄む為の。
学校という場所はある種の独立国家だと称する声がある。
少々大仰に言うのであれば、学び舎は治外法権だ。教室で起きた事はある程度見逃され、揉み消される。
まして首謀者に権力があれば尚更のこと。
香春 日和は雲ヶ丘学院に多額の支援金を寄付する家の一人娘である。その莫大な援助金のおかげで雲ヶ丘学院は成り立っていると言っても過言ではなく、全寮制のこの学校で彼女だけが唯一自宅生であることが許されているのもそれが所以だ。
故に、雲ヶ丘学院という小さな箱庭の主が彼女だった。幼い頃から金持ちの令嬢として周囲に持て囃されてきた彼女にとって、周囲からの羨望の目は最早当たり前のものでしかない。
それが親の七光りに過ぎないものだとしても彼女は構わなかった。その地位を持って生まれた事こそが自分の才能であり、貧乏人に妬まれたところで負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
クラスメイトも教師も自分には逆らえないし、それこそが彼女の中での常識である。
だが──だからこそ、香春 日和には存在を許せないものがあった。
「ええ、センスの無さに感動しました。涙が出そうです」
「……そう、理解出来ませんの。身の程を知らない人ですこと。大人しく
相変わらず鉄面皮を崩さない水蓮寺に、いっそ失望とも取れる落胆の目を向ける香春。
この学院に入学した当初から、どうしようもないほど彼女が気に食わなかった。
初めは些細な理由だったように思う。
香春 日和という少女の周りで彼女を羨まない者はいなかった。しかし目の前の少女は違う。彼女は誰であれ等しく冷めた目を向けて、何一つとして興味が無いかのように振る舞った。香春も、その取り巻き達にも同じように。
そう、香春からすれば事もあろうに自分と周囲の愚者達を同列に扱われたのだ。
プライドの高い彼女はこれを許さなかった。
自身に媚び諂えとまでは思わない。しかし、少女のその涼しい顔がせめて屈辱で歪む様を見なくては気が済まない。
彼女には、誰が上で誰が下なのかを思い知らせなくてはならない。
香春 日和を主犯として、水蓮寺 雲雀を標的に俗に言う虐めが始まったのはそんな理由からだ。
元々、この学院には彼女に逆らえる者はいない。故に、徐々にエスカレートしたそれは今や明確な器物破損にまで及び、水蓮寺自身も私物からは目を離さないようにしている。
しかし、ただそれだけ。彼女は狼狽するでも絶望するでもなく、何一つ変わらずに愚者を見る目を香春へと向ける。
「……まぁいつまでもそうして強がっていらしたら? こちらにだって考えがありますもの」
一瞬、下唇を強く噛んだ香春は顔を上げるとわざとらしく溜息を吐いた。
頬に手を当てながら彼女は、
「ねぇ? そう思いませんこと? 夕凪さん」
突然話を振られた夕凪はびくりと体を揺らす。戸惑いと恐怖が浮かぶ鳶色の目は香春に向けられていた。
……やはりこうでなくては、と香春は口角を吊り上げる。
この学院にいるのであれば、きっちりと身分を弁えてもらわなくては困る。
理由は不明だが水蓮寺が彼女に執着しているのは明白だ。香春としては自分に逆らう意思が無いクラスメイトは大事にしてやりたい所存であるし、利用する気は更々ないのだが揺さぶりにはこれ以上ないくらいよく働いてくれるだろう。
そんな事を考えてはご満悦だった香春は、すぐ側で膨らんだ殺気に気が付かなかった。
「……香春 日和」
「如何されました? 水蓮寺さん」
「私に向かって吠え立てるのは、どうぞご自由に。見ての通り愛想はありませんがあなたが望むなら笑って流しましょう。ですが……ツバメに何かあれば、私はあなたを殺してしまうかもしれません」
わざとらしいほどの作り笑いで水蓮寺は言う。普段にこりともしない彼女の仮面のような笑みが、香春の背筋を凍り付かせた。
言葉の意味を理解するより先に、全身を這いずるのは怖気。
「そうならない事を、心から願っていますね」
「……ッ」
光の無い瞳で微笑む少女を前にしてようやくその態度を侮辱と取った香春は、何か言い返そうとした。
しかし丁度ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、教室に入ってきた担任の存在にそれは阻まれる。せめてもの報いと言わんばかりに、香春はこう吐き捨てた。
「……今に見なさい。いずれ必ず、貴女のその綺麗なお顔が屈辱で歪む様を目に焼き付けてやりますから」
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