第1章

第1話 希う日々


 例えるならそこは白い牢獄だった。

 白い壁に白い家具、白いカーテン……本来、清涼感を思わせるはずのこの色は、まるで侵入者を阻む雪城のような冷ややかさを伴って空間を支配している。

 そんな純白の部屋にて、唯一の色彩を放つのはまだ年若い一人の娘だった。


「……、」


 小さな机に顔を伏せる形で静かな寝息を立てる彼女が持つのは、透き通るような雪肌に腰まで伸びた柔らかな金髪。厭らしさのない穏やかな光を称えるその黄金は、窓から吹き込んだ風に撫でられてさらりと揺れた。


 少女は夢を見ている。

 まだ醒めることのない、温かくて苦い夢を。









 *



 ふ、と。頬に冷たいものを感じて少女は目を覚ました。まだ不明瞭な意識の中、ほぼ反射的に手の甲で頬を拭う。


(……濡れている……? ……泣いてた? どうして……)


 覚えのない涙に、少女は宝石のような金の目を訝しげに歪めた。何処か気品のある美しさを備えるその顔にはやや行き場の無い戸惑いが浮かんでいる。

 何か、夢でも見ていたのだろうか。

 記憶の糸を辿れど、どうも意識がふわふわとしていて掴み辛い。

 忘れてしまっただけか、或いは。

 いずれにせよ覚えていないのだから大したものではなかったのだろう。そう納得した彼女──水蓮寺すいれんじ 雲雀ひばりは、ようやく緩慢な動作で寝具から体を起こした。


「制服のままうたた寝をしていただなんて……はしたない」


 紅色の薄い唇が小さく言葉を紡ぐ。

 寝具に腰掛けてほう、と溜息を吐くと乱れた金の髪に指を梳き入れた。少しの間落ち着いた色に煌めく己の髪を弄んでいた少女は、ふいに枕元に投げ出されていた携帯電話に視線を投げる。


「六時……」


 吐息のように漏れた言葉は溶けて消える。

 それが指し示す通り、窓の外の景色は随分と暗い。十二月という時期を考えると当然の事ではあるがそれでも水蓮寺は眉を顰めた。


 嫌な夢を見たような、そんな気がするからだろうか。

 言いようのない不安が胸を焦がす。まるで、世界に一人置き去りにされたかのような……。


「……ツバメ? ツバメは……」


 少女は金の瞳を揺らしながら、辺りを見回す。

 彼女が紡ぐのはとあるルームメイトの名前。どうしてだろう、こんな日は孤独が堪らなく恐ろしい。

 今の時間ならきっと買い出しにでも出ているのだろう。学生寮で過ごす彼女らの身の上であれば、それは必須だ。昨日も野菜のストックが無いのだと愚痴をこぼしていたのを覚えている。

 頭ではそう分かっていても、時にその感情は脳裏を掠めるのだ。

 もしかしたら、もう二度と帰ってこないのではないか。


 私は、“今度こそ”見捨てられたのでは──。


 理性は違うと訴えても、考えてしまうともう駄目だった。

 指先が酷く冷たい。静寂に支配された部屋の中で、自身の鼓動だけが激しく音を鳴らしている。


「……どうして、ツバメ……置いて行かないで……?」


 うわ言のように口の端から溢れた言葉は、自分の物ではないかのように遠い。

 何処か──ここではない何処かで、小さな女の子が泣いている声が聞こえた気がした。

 その子供は、いっそ憐れに思えるほど泣きながら謝罪の言葉を繰り返している。ごめんなさい、と。

 だけどそんな事はどうでも良かった。どうせ届かないのだから、手を伸ばそうともしなかった。


「私……私は、あなたがいないと……」


 少女が崩れ落ちるように顔を覆ったその直後。

 彼女の言葉に呼応したかのように、寝具横の小さな棚の上に置かれていた花瓶が不自然な動きで倒れた。生けられていた花と水が床を汚し、水蓮寺はその物音で顔を上げる。

 しかし彼女に驚く様子はなく、一層その顔に絶望を色濃く浮かべただけだった。

 果たしてそれが引き金だったのかは分からないが、パァンッ! と音を立てて花瓶が割れる。床に落ちたから──ではなく、文字通りに弾け飛んだのだ。


「ッ……! また……!」


 背後で椅子や机、本棚といった家具がガタガタと揺れる音を聞きながら彼女は唇を引き結ぶ。

 落ち着かなくては。“また”壊してしまう。

 そう思うのに、焦れば焦るほど呼吸が乱れる。

 壁に掛けてある姿見鏡にぴしりとヒビが入り、少女は青い顔を一層悲痛に歪ませた。


 これは──この現象は、水蓮寺 雲雀が引き起こしているものである。

 とは言え、彼女にはこれが何なのか分からない。制御も出来ずただ彼女の心が不安定に揺れた時、呼応するように周囲の無生物が破壊されるのだ。

 理屈すら理解出来ないものなど持て余すに決まっている。事実、水蓮寺はこの力が酷く恐ろしかった。

 こんな力、まるで……。


 化け物のようだ。


「……──ひばり?」

「!」


 ふわりと鼓膜に滑り込んだその声に、蹲っていた水蓮寺は弾かれたように顔を上げた。

 視線の先には買い物袋を提げた少女が真っ直ぐにこちらを見つめている。

 手入れの行き届いた長い栗色の髪に、大きな鳶色の瞳。小柄で、一目で人懐っこそうだと分かる彼女はゆうなぎ ツバメ。

 他でもない水蓮寺が待ち望んでいたその人である。あるのだが……水蓮寺が動揺するよりも先に、夕凪はこの世の終わりのような表情で口元を覆った。彼女は買い物袋を放り捨てると慌てたように水蓮寺に駆け寄る。


「ど、どうしたの!? お腹痛いの!?」

「い、いえ……あの、」

「お医者さん呼ぶ!?」


 その様子にぎょっとしたのは水蓮寺の方だ。確かに、帰宅するなりルームメイトがしゃがみ込んでいれば瞠目もするだろうがそれにしては大袈裟な彼女に水蓮寺は途端に気恥ずかしくなってしまう。

 自分はさっきまで何を不安に思っていたのだろう?

 帰ってこないだなんて、そんなはずはなかったのに。


「大丈夫、大丈夫です……! その、もう解決しましたし……」

「お腹痛いの治ったの!?」

「別に腹痛に襲われていた訳では」


 ないんですが、と言い終わる前に夕凪はへなへなとその場に座り込む。余程驚いたのだろう。

 そこで彼女はようやく周りに気を配る余裕が出来たのか、割れた花瓶や倒れた椅子に目をやったがそれだけだった。困ったように微笑んで彼女は言う。


「本当はひばりとお買い物行きたかったんだけど、ひばり寝てたから……ごめんね? 連絡すれば良かったね」


 その笑顔を見ていると先程までの恐怖は綺麗に吹き飛んでしまった。何だか馬鹿馬鹿しく思えてしまって、水蓮寺は釣られたように小さく笑う。

 彼女はいつだって自分と共に居てくれた。いなくなったりしない。置いていったりはしない。


 彼女は──自分を裏切らない。


「……ご飯の準備しよっか。すぐ作るから待っててね」


 縋るように自分を見る水蓮寺に、果たして夕凪が気付いていたのだろうか。

 それは分からないが、一瞬暗く澱んだ空気を振り払うように夕凪は軽く手を叩いた。

 割れた花瓶の破片を片付けようとした水蓮寺をやんわりと制止しつつ立ち上がる。……学校の成績は良いがそれ以外はてんで駄目な彼女が手を切るような事があってはならないからだ。天は二物を与えずというのは本当だったらしい、と最近の夕凪は密かに考えている。


「夕食の準備なら手伝いますよ?」

「えっ!? いや、良い! 良いよ! 座ってて!」


 ちなみにだが水蓮寺が最も不得手なのは料理である。もっとも、タチが悪いことに本人には全く自覚が無いのだが。

 以前、どうしてもと言って聞かない為に夕食の支度を任せたことが何度かあるがあれは地獄だった。まさか香り付けと称して食器用洗剤を料理に入れる人間がこの世に存在するなんて……と遠い目をする夕凪の側で、思いの外強く否定された水蓮寺は露骨に悲しそうな顔をする。


 心が痛い……痛いが、絆されるわけにはいかないのだ。

 幼馴染の手料理を口にした結果として死なない為にも!


「ひばりにはお皿とかお箸の準備してほしいな!」

「ですが」

「重大な役目だし!」


 嘘ではない。

 本音を言えば食器をひっくり返して割る可能性もある彼女には大人しくしていてほしいのだが、あまりぞんざいに扱うと良心が痛むのだ。


 彼女には、自分しかいないのだから。


「私はひばりがお皿の用意してくれたら嬉しいな。ね?」


 夕凪は我が子を優しく語り掛ける母親のように微笑む。


「はい、分かりました。……ツバメがそれを望むのなら」


 本当は、夕凪も気付いていたのかもしれない。

 この関係は不毛だと。

 彼女だって、水蓮寺が必要以上に自分に依存している事は分かっていた。だけどどうしても、自分だけを縋って伸ばされるその手を振り払う事は出来なくて。


 せめて、この時が優しくて苦い幻想だとすれば──まだ、醒めないでほしいと。


 二人の少女は、そんな未来を希う。


 今は泡沫の夢の中で。

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