第22話 後日談
19才の頃の回想は終わった。その体験から、生じた結果についてもお話しした。だが生きている限り、出来事の後日談がある。蛇足かもしれないが、それもここに記録しておこうと思う。
大学三年生のとき、高校三年のあのクラスの同窓会が企画された。それは八月の、夏の真っ最中のことだった。 そのとき僕は、父方の実家に遊びに行っていた。実家は九州なのだが、折り悪く台風が僕の田舎を襲った。正確に言うと、僕は九州本島から離れた小島にいた。船便は連日欠航、その島は、世間から孤立することになった。
台風は夏らしく、九州一帯を迷走した。僕はなんとしても、同窓会に参加したかった。不思議なものだ。僕は高校時代の知人と、一切縁を切っていた。あの高三のクラスだけでなく、高田高校につながる全てから僕は逃げた。それなのに、同窓会にはどうしても参加したかった。台風が束の間、南シナ海の方へ向かった。彼女が僅かに離れた瞬間、僕は急いで九州本島へ戻った。
船は激しく揺れた。船の床が45度くらい傾くなんて、当たり前だった。数日欠航が続いたため、船内は大混雑だった。乗船客の多くが、あまりの揺れのために船酔いにかかった。船室は、そこら中で吐く声が響く地獄絵図となった。僕は気持ち悪さを必死に耐えた。陸地が近づくと、今までが嘘のように静かになった。海底が浅くなると、波は小さくなるからだ。船は大勢の酔客を乗せて、九州のとある港に辿りついた。
そこから電車を乗り継いで、僕は家へ向かった。飛行機は、全便欠航だった。僕は夜行電車に乗り、博多で新幹線に乗り換えた。こうして僕は、同窓会の前日夜に家に戻った。
そこまで同窓会にこだわったのは、小鴨さんに会いたかったからだ。もちろん、松田さんにも会いたかった。だけど、小さな子供を育てる彼女が、同窓会に来るとは思えなかった。
高校時代に背を向けたが、同窓会だけは許される。僕はそんな屁理屈をこねた。みんなにとっても、僕にとっても。もうくだらない策略は巡らさない。ただ、懐かしい人々の姿を、遠くから眺めたかった。彼女たちが元気なら、それでよかった。
同窓会の会場は、小鴨さんが最初に入院していた病院のそばだった。駅から病院へ向かう通りにある、四階建てビルのカラオケBOXだった。誰も悪気があって、そこを選んだわけじゃないだろう。だかその駅名に、僕は最悪だった頃の小鴨さんを思い出した。彼女は、生死の境を彷徨っていた。本当に、死んでいてもおかしくなかった。
僕らの部屋は、だだっ広いパーティールームだった。三十席はあったと思う。集まった人数も、ちょうどそれくらい。部屋は満員だった。松田さんはいなかったが、小鴨さんは来ていた。表情は明るく、顔色も良かった。それから田崎も、境も来ていた。矢渡さんもいた。
会が始まると、思い出話もそこそこに、みんなはカラオケを始めた。Puffy、スピッツ、Zard、My Little Lover、ミスチル。みんなは、高校の頃に流行った曲を歌った。
出入り口に近い席に、僕は座った。両隣は空席だった。誰も僕に話しかけなかった。僕はこのクラスで、誰とも仲良くなかったんだ。その事実を、久しぶりに思い出した。あるいは僕は、また仙人みたいに超然としていたかもしれない。話しかけにくい雰囲気だったかもしれない。壁に飾ったドライフラワーにみたいに、僕は壁にへばりついてみんなの歌を聴いていた。
会が始まって、一時間くらいが過ぎた。誰かが、僕に声をかけた。それは、矢渡さんだった。
「元気?」彼女は、テーブルを挟んで僕の正面に立った。そして、照れくさそうに笑った。
「久しぶり。僕は元気だよ。矢渡さんは?」
「私のことなんか、どうだっていいじゃん」
彼女はそう言いながら、テーブルの端に沿ってこちらへ近づいた。そして、僕の隣にドスンと座った。けれど彼女は、トップモデルみたいな超スレンダー少女だ。だから、乱暴に座っても音なんてしなかった。
「痩せた?」と彼女は、カクテルのグラスを片手に僕に聞いた。
「いや?どうかな・・・。変わってないと思うよ」と、僕は答えた。
「痩せたと思う」と、矢渡さんは自説を繰り返した。
すぐに僕らは、話すことがなくなってしまった。二人並んで座ったまま、僕らはカラオケの大きなモニターを眺めていた。歌詞のテロップを、僕らはしばらく読んでいた。ところが、いくら読んでも、歌詞の意味がわからなかった。僕は、なんとも居心地の悪い気分だった。きっと、矢渡さんも同じだろうと思った。
「あたしと目が合ったとき、あんた目を逸らしたでしょ」矢渡さんが、モニターを見つめたままボソッと言った。彼女の口調には、いつのような勢いがなかった。
「えっ?」
「この部屋に、あんたが入ってきたとき」と、彼女は言った。「太田はあたしを見て、嫌な顔してた。見てたんだよ」
「いやあ、そんなことは・・・」僕は返答に困った。だって僕は、矢渡さんを見つけたとき“心が動く”のを感じたから。僕は自分の心を、ほじくりたくなかった。
「いいけどさ、別に・・・」と、矢渡さんは正面を見つめたまま言った。僕は思わず、彼女の顔を見た。端麗な顔には、感情が見えなかった。薄暗いカラオケボックスの中で、矢渡さんは白い顔をしていた。
「あのさ」と、矢渡さん。
「うん」と、僕。
「あたし、もう怒ってないから」
「え?」
「あなたは、あたしのこと怒ってるでしょ?でもあたしは、太田のこと怒ってないよ」
矢渡さんは、上半身を90度曲げて僕に向かい合った。彼女は首を少し傾げ、ニコッと笑った。男同士なら、手を差し伸べて握手でもしそうなら場面だった。
だが僕は、彼女の言動に不自然さを見た。無理をしているのが、手に取るようにわかった。不自然さに、つい僕は警戒してしまった。僕はとっさに、傷つくことを恐れた。
「僕ももう、怒ってはいないよ」
僕はようやく、それだけ言った。だが口にした直後から、とても嫌な気持ちになった。僕の言い方は、まるで素人芝居のセリフだった。棒読みで、心がちっともこもっていなかった。僕はもう、怒ってはいないよ、怒ってはいないよ、・・・。反芻すればするほど、インチキ臭さが酷くなった。
「そう」
矢渡さんは今度は、上半身を180度回転させた。つまり僕の反対側を向いた。足を組み、右腕でテーブルに頬杖をついた。そのまま彼女は、しばらくじっとしていた。男の一人が、下手くそな唄を歌っていた。ミスチルの「イノセント・ワールド」だ。イノセント、イノセント、・・・。僕はまた、“心が動く”のを感じた。苦しくて、逃げ出したくなった。。
そっぽを向いた矢渡さんに、僕は声をかけるべきだった。僕は彼女の背中を見ていた。スマートというより、とても華奢で小さな背中だった。彼女の肩が、ときどき震えるのがわかった。それでも、僕は黙っていた。彼女にかける言葉が見つからなかった。
「とにかく、久しぶりの会えてよかったよ」と、そっぽを向いたまま矢渡さんは言った。
「うん」
「席に戻るね」
「うん」
彼女は立ち上がり、去っていった。今度は矢渡さんが、僕から目を逸らしたままだった。離れていく彼女の後ろ姿に、僕は胸が締め付けられた。脳裏に、あの「Providence 」の記憶が蘇った。酔った彼女との、他愛もない会話。無益だったけれど、楽しくて貴重な時間だった。矢渡さんと僕は、きっと友達になれただろう。違う場所で、違う状況で出会っていれば。
これが最後だった。これっきり、僕は矢渡さんと会っていない。
それが誰だったか、僕は忘れてしまった。でも、女の子だ。あと五分後だったら、僕は店を出ていたと思う。ところがその女の子は、矢渡さんと入れ替わりにやってきた。おそらく、彼女が手を回したのだ。
その女の子が、僕をパーティールームの一番奥へ導いた。部屋の左側の角に、小鴨さんが壁にもたれて座っていた。彼女の正面の席は、なぜか空席だった。
女の子たちが、僕に気を遣ってくれたようだ。僕のしたことは、みんな知っているのだろう。だから僕に、小鴨さんと話す機会を作ってくれたのだ。いや、これも矢渡さんの配慮なのだろう。
「こんばんは、小鴨さん。久しぶりだね」と僕は小鴨さんに挨拶をした。
「久しぶり」と彼女は言って、とても恥ずかしそうな笑顔を見せた。事情を知っている僕に、まるで自分の裸を見られたことがあるかのように。
とはいえ、僕は急いで気持ちを落ち着ける必要があった。矢渡さんと話した後、僕は激しく動揺していた。全身が震えるような、焦燥感を感じた。せっかく、小鴨さんが目の前にいるのに。僕は両肩を上下させて、震えを振り払おうとした。
「太田、ひどい顔してる」
「そう、かな?」
「矢渡に、いじめられた?」
「いや・・・」
小鴨さんは、お見通しのようだった。彼女は、悪戯っぽい目で僕を眺めた。微かに震えている僕を、上から下までじっーっと。彼女は、事情をわかってくれた。おかげで僕は、徐々に呼吸を整えることができた。
「あいつ、口悪いから」と、小鴨さんはにやにやしながら言った。
「まあ、ね・・・」
「私も、ボロクソ言われたよ。何度もね」
小鴨さんは、脇に置いた鞄を手に取った。それを開けて、煙草とライターを取り出した。一本手に取り、口に咥えて火をつけた。深く吸い込んでから、いったん呼吸を止める。二、三秒して、彼女は白い煙を吐いた。一服してから、小鴨さんは話を続けた。
「でもね、いいやつなの」
「え?」
「矢渡が」と言って、小鴨さんは吹き出しそうな目で僕を見た。「意外でしょ!?」
「うーん、そうだねえ・・・」僕は、答えに窮した。
「私がさ。コレやったでしょ?」と言って彼女は、左手首を右手の指先で切る仕草をした。僕は、たまらず顔をしかめた。
「・・・うん・・・」
「私は即入院だったから、事情は知らないの。でも、矢渡はものすごく心配してくれて。何度も何度も、ウチに電話くれたんだって」
「そうだったんだ・・・」意外な事実に、僕は唖然とした。てっきり彼女は、毎晩フェラーリに乗って遊んでいると思っていた。
「このクラスでさ。私のこと一番心配してくれたは、矢渡と太田だよ」
「ああ、僕は・・・」
「なあに?」
「変質者でいいよ」
「何、それ?」小鴨さんはそう言って、目を丸くした。表情豊かな彼女に、僕は自分が落ち着くのを感じた。あれから、三年。ここまで来たんだ。
「ママにね、『今日、太田くんと会うかも』って言ったの。そしたら、すごいビビってたよ」
「えっ、どうして?」と僕はたずねた。
「多分、また怒られると思ったんじゃないかな。三年前の記憶が蘇ったんだと思う」と、小鴨さんは言って小さく笑った。
「僕は、そんなに怒ってないよ」
「口調は、そうかもしれないけど。すごく”効く”らしいの、どうやら。ママと兄ちゃんの話を総合すると、そうみたい」
「”効く”って?」
「ものすごく、痛いところを突かれるらしいよ」
「うーむ」僕はうつむき、顎に手を添えて考えた。「それって、性格悪いってことかな?」
「そうだね。そうかも!」小鴨さんは、手を叩いて笑った。
「お兄さんは、どうされてるの?」
「今、サウジアラビア」と小鴨さんは答えた。
「サウジアラビア?」
「うん、理系だったのに商社に就職したの。そしたらいきなり、サウジアラビア。石油プラントを合弁で作ってるの。兄ちゃんの人生は、きっと世界中を飛び回ることになるんだろうね。そしてパパが引退したら、跡を継いで政治家になるんだと思う」
お兄さんの活躍を聞いて、僕は愉快な気分になった。あの頃のお兄さんは、妹の病気に胸を痛め、自分を責めて自信喪失していた。僕は彼に、なんて言ったんだっけ?昔のことだし、熱くなっていたのですっかり忘れてしまった。
「兄ちゃんに手紙書くよ。太田くんと会ったって。多分兄ちゃんもビビるよ、サウジアラビアで」そう言って、小鴨さんはケラケラと笑った。僕もつられて笑った。
「ありがとう」
少し会話が途切れたあとで、小鴨さんは僕にお礼を言った。
「太田くんは、私のことを本当に心配してくれたよね。すごく感謝してるよ。でもさ、私には未だにわかんない。なんで私のことを、あんなに心配してくれたの?私たち、ほとんど話したこともなかったじゃん」
「いやあ、・・・」なんと答えたののか。
「予備校でよく、お昼休みに集まったよね。高校のみんなで。太田くんはいつも、一人だけそっぽ向いてた。私は、相手にされてないなと思ってたよ」と、彼女は言った。
「うーん」と僕は唸った。「よく言われるんだ、それ」
「相手にしてないってこと?」
「うん」と、僕はうなずいた。「無視してるように見えたなら、大変申し訳ない。いまさらだけど、謝るよ。でも、僕は僕で、みんなに相手にされてないと思ってたんだ」
「そうなの?」
「あの頃の僕は、自分を観葉植物だと思ってた。いてもいなくても、どうでもいい存在だと思ってたんだ」と僕は答えた。
「そうだね。太田くんって存在感薄いよね。でもね、なぜかふと目に入る。窓の外を見ている太田くんが気になるの。あなたはそういうタイプ。私の話聞いてないな、と思って悲しくなった」
「聞いてたよ、ちゃんと」と僕は弁解した。しかし小鴨さんは、僕の言葉を却下した。
「ちっとも気にしてない振りをして、実は本気で気にしてくれている。だから松田は、君に参っちゃったんだと思う」
話はなんだか、ややこしい方向へ転がりそうだった。僕は、話をもとに戻した。
「僕は、小鴨さんが自殺未遂をしたって話を聞いた。予備校で、境からだ。僕の目には、教室で真剣に授業を受ける君が焼きついてた。そんな君が自殺未遂をするなんて、とても不当なことだと思ったんだよ。僕は小鴨さんが、大成功すると信じてた。それなのに君は、実はとても追い込まれていた。間違っている、って思ったんだ。だから、黙っていられなかったんだよ」
「ふーん」と小鴨さんは言って、しばらく考え込んだ。そして、「ねえ、太田くん。私のこと好きだったの?」と聞いた。
「・・・・・・、違うと思う」長い間考えてから、僕はそう答えた。あの気持ちは、「好き」と言う言葉とは異なるものだ。「好き」と同じくらい、重くて激しいものだったけど。
「そうだよね。だって、松田の問題もあったんでしょ?私が好きだったわけじゃないよね。だから、なおさら太田くんは謎」と小鴨さんは言った。
「うまく、言えないんだけど」と言ってから、僕はしばらく考えた。頭を整理してから、話を続けた。「僕は、小鴨さんに恋愛感情があったわけじゃない。でももっと、強烈な感情を君に感じてたんだよ。僕は君と、観光地に行ってデートしたかったわけじゃない。ただ、君に生きて欲しかった。君に笑ってほしかった。それだけなんだ。本当にそれだけ」僕は、必死に言葉を選んで説明した。
「太田くんは、ずっとわからない人だな」と言って、小鴨さんはクスッと笑った。
「やっぱり、わかんないかな?」
「うん。理解できない」小鴨さんは即答した。でも、彼女の目は笑っていた。
「ダメか」
「うん。ダメ」
ダメ出しされて、僕は思わず吹き出した。椅子の背にもたれ、身を預けた。天井を見上げたけれど、僕は別のことを考えていた。わからないかあ。そうだよな、わからないよな。小鴨さんにわかってもらえないこと。それは、仕方ないことだと思えた。
小鴨さんの隣の女の子(名前を忘れてしまった)は、ずっとニコニコして僕らを見守っていた。彼女は僕ら二人の会話に、一切口をはさまなかった。なぜかは、わからない。でも、僕らをそっとしてくれるのはありがたかった。
「とにかくさ」と、小鴨さんはどこか割り切った風だった。「太田くんは、私に『生きろ』って言いたいんだよね」
「そんなこと、言えるのかわからないけど・・・」
「わかってる。わかってるよ」と、小鴨さんは僕を励ますように言った「頑張って生きるよ」
「なんだか、すごく安心したよ」と、僕はボソッと答えた。僕は、自信がなくなってきた。意味もなく、テーブルの上を見て、次に床へ視線を移した。ふと、チノパンのポケットに右手を突っ込んだ。ポケットの中は、空だった。
「あの頃僕が恐れていたのは、単純に死だと思うんだ」僕は手探りで、話を続けた。「それは、小鴨さんのご家族も同じだよね?僕は、君がハマっていた落とし穴みたいな場所から、君を引っ張り出したかった。君のママやお兄さんと協力しながら。僕は勝手ながら、小鴨さんの兄弟みたいな気分だったんだ。こう説明すれば、わかってもらえるかな?」
小鴨さんは、腕組をした。うつむいて目を閉じ、口を尖らせた。僕が言ったことを、じっと考えている様子だった。沈黙が続いて、僕は居心地が悪くなった。僕はまた、緊張感が増してきた。理解してもらうことより、会話が途切れたままを恐れた。だって小鴨さんは、諦めるかもしれないから。僕は話題を変えた。
「ところで、小鴨さんは今どうしてるの?」
「実はまだ、自宅療養中」彼女は目を開き、僕を見てニッと笑った。「もう少し体調が落ち着いたら、大学を受けようと思ってるの」
「そうなんだ」
「うん。人より、だいぶ遅れちゃったけどね。うるさい兄ちゃんも、すっかり大人しくなってさ。『どこでもいいから、大学に行って四年間勉強するといい』って言ってるの。それは長い人生で、とても大切な時間だからって。うちって変な家族でさ。兄ちゃんの意見に、パパもママも反論できないの。だから来年こそ、大学に入学しようと思ってる」
「それは良かった。僕も、お兄さんの意見に大賛成だよ」
「兄ちゃんは、人が変わったみたい。言うことも全然変わった」
「そうなんだ」
なんだか、複雑な気分だった。お兄さんはまだ、受けた“心の傷”を引きずっている気がした。それは、あまり良いことではないと思えた。
「先生がね」
「うん?」僕は、誰のことかわからなかった。
「私の主治医。太田くんが来てくれた、あの病院の先生だよ」
「ああ、なるほど」
「もう、三年診てもらってるの。その先生がね」小鴨さんは中腰で立ち、身をテーブルの上へ乗り出した。彼女は口を、僕の左の耳に近づけた。大切なことを話すために、少し小声になった
「うん?」
「先生が、教えてくれたの。『君は、お兄さんが好きなんだよ』って」
「え?」僕はびっくりした。
「ねえ。変に思わないでね」と、小鴨さんは真剣な表情で言った。彼女は席に戻って、腰を下ろした。そして今度は、普通の声量でハッキリと言った。「私はね、兄ちゃんが好きなの。結局のところ。子供の頃から、ずっと」
「・・・うん」僕はかろうじて、あいづちを打った。
「私は、家の外の世界で探してたの。兄ちゃんの代わりを。田崎くんとかね」
「・・・うん」
「でもね、認めることにした。私は、兄ちゃんが好きだ。そうなの。その通りなの」
「・・・」もう、何も言えなかった。僕はこのとき、青ざめていたと思う。
「そう考えると、全部腑に落ちるの」と、小鴨さんは話を続けた。「私が死のうと思ったのは、”兄ちゃんに嫌われた“と思ったからだから」
「そう、・・・なの?」
「うん」と、彼女は大きくうなずいた。うなずきながら、恥ずかしそうに目を伏せた。今夜、初めて見せる表情だった。「太田くんが、転院しろって言ってくれたからさ。そのおかげで、今の先生に出会えた。先生のおかげで、私は答えが見つかった。だから、あなたに感謝しているよ」
「いや・・・」
僕の頭に、あの言葉が渦巻いた。他人の人生をいじるな、他人の人生をいじるな・・・。僕はぎゅっと目を閉じ、頭をブルブルと振った。
「どうかした?」
「いや、何でもない」と言って、僕は誤魔化した。「ちょっと、冷房がきついなと思って」
「あら、そう?」
小鴨さんと隣の女の子が、大声で「冷房を上げて!」と叫んだ。出入り口の方へ振り返ると、境と女の子の一人が壁についたエアコンの操作パネルをいじっていた。二人に目をやりながら、僕は彼らを見ていなかった。頭は、ぐるぐる回っていた。回ったけれど、どこにも行けなかった。
お兄さんが好き、と知ってどうなるのか?僕にはわからなかった。ずっと実の兄を想って、他に誰も好きになれなかったら?。何も生み出さない答えは“正解”なのか?正確だからと、患者に伝えていいのか?僕は、だんだん興奮してきた。膝に置いた拳を、僕は強く握った。
「こんなこと言うとさ。またアブナイって、思われるかもしれないけど」
「うん?」
小鴨さんは苦労して、“今の自分”を言葉にしようとしていた。静かにもがく彼女を見て、僕は怒りを横に置いた。
「自分って、面倒だよ!」そう言ってから、彼女は自分で吹き出した。「だってさあ、私は兄ちゃんのせいで散々だよ。兄ちゃんの妹に生まれたばっかりに、私はいつも劣等感に苦しんできた。みんながさ、『あの子、小鴨の妹だよ。大したことないね』て話すの。それが聞こえるの。私のこと見て、あからさまにガッカリするの!本当にめんどくさい。めちゃくちゃ傷つくよ」
「それはひどいね」
「でもね。元凶は、自分。兄ちゃんじゃないよ。だって私は、兄ちゃんの大ファンだから。私は、自分が嫌いだった。兄ちゃんに相応(ふさわ)しくない自分が、嫌で嫌でしょうがなかった」
「・・・」
「でも、今は違うよ」と、小鴨さんは言った。彼女は無理に、胸を張って見せた。「昔の自分と、距離が取れているから。覚めた目で、自分を評価できているの」
「そうなんだ」
「そう」
それから、お兄さんの自慢話が始まった。小鴨さん得意の、みんなを退屈させる話だ。案の定、隣の女の子は顔を曇らせていた。だが、僕には好都合だった。あいづちを打つだけで、何も答えなくていいから。
小鴨さんは、大好きなお兄さんの話を続けた。重要なことに、僕は気がついた。話に矛盾や飛躍がないのだ。おそらく彼女は、事実をありのままに話している。きっと、もう隠す必要がないせいだ。
「太田くんは、今つきあっている人いるの?」と、小鴨さんが思いついたように僕に聞いた。
「いや、いない」
「何で?」
「うーん、好きな人がいないんだよ」と僕は答えた。
「太田くん」と真剣な表情で、小鴨さんは言った。「あなたみたいな人こそ、幸せになって欲しいの。頑張って、素敵な人を見つけて」
「うーん。頑張ってみる」
そうは言ったものの、僕は生返事だった。人を好きになれる自信がなかった。遊びだと割り切れば、性欲処理だと悟ってしまえば、話はずっと簡単になるだろう。しかし僕は、知ってしまった。本気で誰かを“想う”ことを。その想いは、突然訪れて、そして去った。
カラオケBOXを出ると、時間は23時を過ぎていた。みんな大急ぎで家路に着いた。僕は小鴨さんと、別れの挨拶をしなかった。数人の元クラスメイトと、下り電車に飛び乗った。次の駅で、家に向かう最終電車に乗り換えた。その方面は、僕一人だった。席には座らず、吊り革に捕まって夜の街を眺めた。小鴨さんと話すことは、もう残っていない気がした。
何も生み出さない答えは“正解”なのか?
小鴨さんの幸せを願うなら、僕らは何かを生み出さねばねならないはずだ。すっかりダメ人間になった僕も、以前の自分のようにそう考えた。だけど、何かを生むべきだとしても、それは誰かに頼むべきだろう。僕は手を引いた。もう、ちょっかいは出さない。
この夜を最後に、僕は小鴨さんと会っていない。
同窓会から、二日経った。僕は、松田さんから電話をもらった。時間は、朝10時だった。
「太田くん、元気ー?」と松田さんは、陽気な声で僕に聞いた。電話口で、子供の泣き声が聴こえた。それはずっと続いた。
「なんとか、元気にやってるよ」と僕は答えた。
「おとといの同窓会、メチャクチャ行きたかった。だけど、旦那が仕事でさ。どうしても、出かけられなかったの」と彼女は、とても残念そうに言った。
「僕も、松田さんに会いたかったよ。でも、お子さんがいるから無理だと思ってた」
「ねえ、子育てって本当に大変。きつくて、きつくてしょうがない」と彼女は言って笑った。彼女らしい、軽やかな笑いだった。
「ねえ。今日空いてる?」と、松田さんは聞いた。
「暇だよ。一日中」と、 僕は答えた。
「そしたらさ。太田くんが働いてた、あのハンバーガー屋の前で会わない?娘を紹介するよ」
「OKだよ。何時集合にする?」
「今からだったら、11時集合でどう?お昼で混雑する前に」
「了解。すぐ出かけるよ」と僕は答えた。
ハンバーガー屋は、なくなっていた。お店が並んでいた一角は、生鮮食品売り場に変わっていた。店長は、どうしたのだろう?別の場所で、店を出しているのかな?採れたての野菜の前で、僕は居場所が見つからなかった。そこへ、時間より早く松田さんと娘さんが現れた。彼女は乳母車を使わず、お子さんを背負っていた。最近では、珍しい気がした。
「太田くーん!」松田さんは、大きな声を上げて僕に近づいてきた。「ここ、すっかり変わっちゃったんだね」
「うん。 僕も知らなかったけど、フードコートは屋上に移ったんだって」
「じゃあ、そこに行こうか」と彼女は言った。
僕と松田さんは、エスカレーターで五階にあたる屋上まで移動した。僕らは並んで、狭いエスカレーターに乗った。子連れの女の人と並ぶのは、初めての経験だ。なんとも不思議で、どこか落ち着かない気持ちだった。そして僕は、何より大切なことを思い出した。僕が松田さんと二人で会うのは、三年前の四月以来だ。電話では、何十時間も話したのに。結婚式を除けば、直近で顔を合わせるのはあの日以来だった。
松田さんは美しかった。決して綺麗な顔立ちではない。だけど、彼女の持つ雰囲気は普通の人と明らかに違った。“歪みや汚れ”と、彼女は無縁だった。松田さんが放つ雰囲気に触れたら、きっと多くの人が彼女に好意を持つだろう。
屋上のフードコートは、牛丼屋やラーメン屋や定食屋やクレープ屋なんかが並んでいた。ハンバーガー屋も、アイスクリーム屋も、うどん屋もなかった。僕と松田さんは、定食屋を選んだ。松田さんは、サバの竜田揚げ定食を頼んだ。僕は、ハンバーグ定食にした。
僕たちは番号札を握って、大きなパラソルがついたテーブルに腰掛けた。屋上は真夏そのものだったが、パラソルのおかげで僕らは陽の光から隠れることができた。
「ちょっと残念だけど、女の子だったの。男だったら、太田くんの名前をつけたのに」と松田さんは言った。
「お名前は何て言うの?」
「旦那と知恵を絞って、栞(しおり)にしたの。読みかけの本に、栞を挟むでしょ。栞って言葉に、明日というか未来に続く意味がある気がしたの。旦那はヘミングウェイ研究者だし、私も彼のおかげで本の世界にのめり込んだし。私たちにピッタリで、この子にも似合うと思って」
「すごく素敵な名前だと思う」と、僕は言った。
「変わってないね〜」と言って、松田さんは大きな声で笑った。
「何で?」
「太田くんは、人を誉めることばっかり言う」
「そうだったかな?」
「そうだよ。いつもそうだった。私がつまんないことで悩んでると、太田くんは落ち着いて優しく宥(なだ)めてくれた。あなたは私の支えだったんだよ」松田さんは、僕の目をじっと見た。その奥まで覗き込んだ。
「ううむ。そんなつもりはなかったんだけど」
「それが、太田くんの地なんだね。意識しないで、人を気遣うんだね」
11時過ぎのフードコートはガラガラだった。八月の太陽は、容赦なく屋上を照らした。足元はペンキを塗ったコンクリートで、日差しの熱をたっぷりと吸い込んだ。でも、パラソルが作る日陰の中で、僕らは涼んだ。栞ちゃんは、松田さんの背中でぐっすり眠っていた。
「でも自分がこうだと思ったら、キツいことを平気でいう。私が怒ろうが泣こうが、自分の考えを曲げない」
松田さんの言葉が、僕を三年前の夏へと連れ戻した。僕にとっても、とてもキツかった“あの日々”へ。僕は突然、感傷の波に飲まれた。危うく僕は、泣き出すところだった。必死に僕は、涙を堪えた。平静を装い、松田さんに動揺を気づかれないよう頑張った。
「松田さん」と、僕は言った。冷静なフリをして。「僕は君に、子供を産めと言った。栞ちゃんを産めと。実は、めちゃくちゃ悩んだんだよ。あっちにいったり、こっちにいったり、毎日答えが変わるくらい悩みまくったんだ。実は今でも、自分が正しいことを言ったか自信がない」
松田さんは、少し苦いような笑いを見せた。彼女は、しばらく何も言わなかった。あちこちで客引きをする声が、広いフードコートに響いた。けれどお客さんは、炎天下の屋上に現れなかった。パラソルのついたテーブルは、まだ空席だらけだった。
「確かに、正しかったのか私もわかんない」と、松田さんは言った。「でも、私と旦那には、栞がいる。私たちにとって、栞はなにものにも変えがたい存在なの。栞がいない生活なんてあり得ない。子育てはもちろん大変だけど、それでも栞がいないなんて考えられない。考えたくもない」
松田さんの言葉に、僕は何も答えられなかった。若造の僕には、子供を育てる生活を想像できなかった。結婚生活も、わかりようがなかった。僕は、沈黙するしかなかった。
「ねえ」と松田さんは言った。とても優しくて、人を一発で虜にするような問いかけだった。
「うん」
「私はね。太田くんに言われなかったら、栞を産んでなかったと思う」と、松田さんは言った。そう言った後で、彼女はしばらく考え込んだ。よく考えた上で、彼女は言い直した。「いや、違うな。私は誰かに、『産め』って言われるのを待ってたんだと思う。心のどっかで。私の周りは、親も含めて中絶することで一致してた。でも私は、手術をズルズルと引き伸ばしてた。どんどん危険になることはわかってたよ。でも、踏み切れなかった。太田くんは、中絶費用も送ってくれたね。ありがたかったよ。でも私は躊躇してた。だから君に、しょっちゅう電話してた。今から思うと、太田くんの言葉を待ってたのかもしれない」
「そうだったのかな?お互い若かったし、わからないことだらけだったよね」
「わからないことだらけだったよ、ホントに」松田さんはそう言って、ニコッと笑った。「自分が母親になるなんて、想像もつかなかったし。怖くて、怖くてしょうがなかったよ、何もかもが。そんな時に、太田くんは『子供を産め』と言う。私は怒りまくって、泣きまくった。今となっては恥ずかしいけど。あのときは、自分の感情を全部出し切った気分だったな」
「あの時はすごかったね。松田さんに、思いっきり怒られた記憶が残ってる」と僕は言った。
「もう、太田くんに全部ぶつけたからね。あんなに感情的になることって、私なかなかないんだよ」
「わかる。びっくりしたもん」
「でも、『太田くんだからいいや』って思った。思いつくこと全部口にした。そして、言いたいこと言いつくしたら、自然に涙が出てきた。私は、泣きたいだけ泣いた。私泣くところも、まず人に見せないんだよ。でも、『太田くんだからいいや』って思って。泣いて、泣いて、泣きまくった」
「すごかったよ。多分一時間近く、泣いてたと思うよ」
「そう言われると、すごく恥ずかしい」と松田さんは言った。「でも、あの夜のことは忘れられない。多分、一生」
「松田さん」と、僕は彼女のように優しく話しかけた。「僕の頭の中にはね、ヒロシっていう別人格の男が住んでるんだよ」
「ヒロシ?二重人格?」松田さんは、戸惑った表情を見せた。僕は、なんとか事情を説明しようと試みた。
「僕が悩んでいると、頭の中にヒロシが現れるんだ。そして彼が、僕を叱ったり、アドバイスをくれたりするんだよ。僕は、分裂症なんだろうね」
「全然想像できないんだけど」と、松田さんは言った。
「そりゃそうだよね。こんな人、たまにしかいないと思うから」と僕は言った。「でね、松田さんに『子供を産め』って言った夜、松田さんとの電話を終えた後で、僕はヒロシにクソミソに怒られた。お前はカトリックで中絶反対なのか、子供を育てる経済力がない人は沢山いるのに、お前はその人たちの選択を否定するのかと。自分の片方の頭が、もう片方の僕を叱るんだよ。この現象が、僕が悩んでいるときはよく起こるんだ」
「自分で自分と話してるの?」と、松田さんは聞いた。
「そう、そんな感じ。それくらい、君に子供を産めって言うことに自信がなかったんだ。君の苦しみは、あの当時でも容易に想像できた。なのに、産めって言うかってね。でも最後にヒロシは、というか僕は、『松田さんは、誰かに子供を産めと言って欲しかったはずだ』と言う結論に達した。あの晩のことだけど」
「そうなんだ・・・」と、松田さんは小声で答えると、僕をじっと見た。僕も彼女を見つめた。僕らはしばらく、見つめ合って動かなかった。僕の胸に、ずっと無視し続けていた痛みが走った。こらえきれなかった。パチパチと、電気がショートするような音が心臓から聞こえた。
「私も、ヒロシくんと話したいな」と、松田さんはふと笑顔に戻って言った。
「うーん、それは難しいかも。僕が部屋で一人でいると、頭の奥からヒロシの声が聞こえてくるんだ。やがてヒロシが部屋に現れて、壁にもたれて座る。そして、僕のやることなすことにケチをつけるんだ」
「そうなの?それもキツいね」
「そう、キツいんだよ。ヒロシはたいてい怒ってるからね。僕は彼に叱られてばっか」僕がそう答えて、二人は自然にしばらく笑った。太陽はさらに登り、ひなたの温度はもう三十度以上と思えた。それでも、パラソルの下は平和だった。僕は、心地よいそよ風を感じた。松田さんも、栞ちゃんも同じだったろう。
「ねえ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」と、松田さんはあらたまって僕に聞いた。
「なあに?」
「太田くんは、小鴨さんが好きだったの?」
「それ、おととい小鴨さん自身にも聞かれた」と僕は苦笑して答えた。「違うよ。僕は、小鴨さんが好きだったわけじゃない。彼女とは、予備校のクラスも一緒だった。だけど、僕は小鴨さんをほとんど意識してなかった。だけど彼女が自殺未遂をしたとき、僕の頭は一瞬にして彼女でいっぱいになった。絶対に間違っていると思ったんだよ、直感的に。何かしなければ、と思ったんだよ。
ヒロシは何度も、僕に『手を引け。お前にできることは何もない』と言った。でも、僕はヒロシの助言を無視した。僕に思いつくことは、なんでもしようと思った」
栞ちゃんが、目を覚ました。するとスコールのように、彼女は大声で泣き出した。爆発的なエネルギーだった。松田さんは紐を解き、栞ちゃんを膝に乗せた。優しく抱きしめて、手を緩めて栞ちゃんに笑いかけた。
それでも、栞ちゃんは泣き止まなかった。松田さんは、彼女を抱いて立ち上がった。胸に抱きながら、松田さんは辺りをぐるぐるち歩き回った。歌を歌ったり、話しかけたりして栞ちゃんをあやした。子育てって大変なんだな。泣いただけでこんなに苦労するのかと僕は思った。栞ちゃんが泣き止むまでは、十分くらいかかった。僕はじっと、二人のやり取りを注意深く見つめていた。
「ゴメンね。ずっと、待たせちゃって」と、席に戻ってから松田さんは謝った。
「全然気にしないで。むしろ、すごく勉強になったよ。子育てって、こんな大変なんだって。泣くだけで、こんなに苦労するんだね」僕は感じたことを、そのまま口にしたつもりだった。
「また、そんな優しいことを言うのね」
「松田さん」
「なあに?」
「後悔してることはないかな?」
「何で、そんなこと聞くの」
一瞬にして、松田さんの声が尖った。あわてて僕は、彼女の目を見た。二つの瞳は、微笑が消えていた。その代わり、冷たく青ざめていた。
「いや、ごめん」僕は、反射的に謝った。
「待ってよ」と、責めるように松田さんは言った。「太田くんは、私に何て答えてほしい?」
「いや、もう・・・」
「ダメだよ」と、松田さんはたたみかけるように言葉をつないだ。「後悔って、子供を産んだこと?結婚したこと?どっちなの?それとも、両方?」
僕はもう、彼女を見ていられなかった。うつむいて、叱られた子供のように小さくなった。松田さんは、本気で怒っている。どうしたらいいか、何も思いつかなかった。同窓会の夜以来、僕はどうかしている。テーブルを見たり、自分の膝を見たり、僕はうつむいたまま視線をあちこちに漂わせた。
12時の時報が、屋上に鳴り響いた。時報は、古いディズニーのテーマソングだった。閑散としたままのフードスペースに、平穏な美しいメロディーが響いた。しかし、松田さんと僕には不釣り合いだった。真夏の正午に、僕ら二人は心だけ冷凍庫の中にいた。
「あなたは、私を本気で怒らせる」と、固い声で松田さんは言った。「私、旦那にもこんなに怒ったことないよ。誰にも、こんなに怒ったことないかも」
「悪かった」ようやく僕は、それだけ言った。
「ううん。あなたは、悪くないの」と、松田さんはすぐさま答えた。「太田くんはまた、言いにくいことを言ってくれたよ。『後悔しているか?』なんて、面と向かって聞くのはあなただけだよ」
そう言った後、松田さんはようやく緊張が解けたようだ。ふーっと息を吐き、彼女は両手を上げて背伸びをした。
「後悔は、していないことにするよ」と、松田さんは言った。「次は、私が質問する番。いい?」松田さんは、いつもの柔らかな笑顔に戻った。
「うん、わかった」
「ねえ。私、何も求めないよ」
「うん?」
「私は、今の生活に満足してる。栞と旦那との生活に」そこまで言って、松田さんは大きく息を吸った。「でも、それとは別に欲しいものがある。そもそも今日、そのためにここに来たの」
「欲しいものって、何?」彼女のためなら、なんでもするつもりだった。
「私は、太田くんの心が欲しい」と、松田さんは言った。笑顔のままだったが、目だけがまた凍った。
「心?」
「私のこと、好き?それが知りたい。太田くんの心が、私を認めていてくれたのか、それが知りたいの」と、松田さんは言った。
ここまできたら、言うしかなかった。
「好きだったよ、ものすごく」
「小鴨のことも、好きだったの?」と、松田さんは眉をひそめて聞いた。彼女は怖いくらい鋭い目を見せた。
「どっち?」
「さっきも言ったけど、小鴨さんが好きなわけではなかったんだよ。僕は彼女に、強烈な感情を抱いたのは事実だ。でも、好きだったわけじゃない。これはヒロシの説だけど、松田さんが僕に勇気を教えてくれたんだよ。君は言いづらいことを、勇気を出して僕に教えてくれた。それもたくさん。それに僕は触発されたんだと思う」
「ヒロシって、太田くんなんでしょ?」
「そうだ。もう一人の僕だ」と言って僕は頭を掻いた。我ながら、頭のおかしなことを言ってるなと思った。
「それからね、僕があんなに小鴨さんにのめり込んだのは、栞ちゃんの存在のせいだと思う」
「栞のせいなの?」と、松田さんは不思議そうな顔をした。
「うん。栞ちゃん、その時はまだ松田さんのお腹の中にいたけど、その命に僕は激しい感情を抱いてたんだ。それが失われることは、恐ろしいことだと考えてた。余計なお世話なんだけど」
「ううん、そんなことないよ」と、松田さんは言ってくれた。
「栞ちゃんのことを考えてるときに、小鴨さんの自殺未遂を知った。僕はすぐに、この命は失われちゃいけないと思ったんだ。そしていろいろ話を聞いたら、みんなピント外れなことをやってるのがわかってね。すっかりのめり込んじゃったわけ。でも、始まりは松田さんを真似ることだった。栞ちゃんの命を思うことだったんだ」
「そうだったんだ」と、松田さんはつぶやくように言って足元を見た。彼女は、ほっと一安心しているみたいに見えた。
「太田くん、今日会えてよかった。やっと、謎が解けたよ」と、少ししてから顔を上げた松田さんが言った。「ねえ。私が、何を気にしてたかわかる?」と彼女はいたずらっぽく聞いた。
僕は、今までの会話をおさらいしてみた。でも、答えは見つからなかった。僕は、ヒロシに頼りたい気分になった。彼なら、明快な解答を僕に示すだろう。
「ごめん。わかんないよ」
「君はもっと、人生を勉強したほうがいいよ」と、松田さんは言った。そして、「太田くん。私への君の想いは、しっかり受け止めたよ。私は私で、これから頑張ってくよ。つらくなったときは、太田くんを思い出すよ」と言った。
それから僕らは、同窓会の話をした。参加した人たちを、僕は覚えている限り松田さんに教えた。しかし田崎だけは、あえて避けた。でも、松田さんは「田崎くんは来たの?」と聞いてきた。
「来たよ」と僕は、仕方なく答えた。「僕は、あいつと話さなかったけど。あいつは二浪して、今は阿蘇山にいるんだって」
「阿蘇山?」
「うん。大学のキャンパスがそこにあるんだって」
「ふうん」と、彼女は言った。でも彼女は、あまり興味を持ってはいないようだった。そして僕に言った。
「高校の頃は、田崎くんみたいなタイプが好きだった。でも、すっかり男の好みが変わっちゃったな」
「そうなの?」
「そう。誰かのせい」と言って、松田さんはカラカラと笑った。ステップを踏んで、踊ってるみたいな笑いだった。
それから少しして、僕らは別れた。「家に帰って、栞をしっかり寝かせないといけないから。ほんとはもっと、太田くんと話してたいんだけど」と彼女は言った。
百貨店を出ると、すぐに駅がある。駅前にはロータリーがあり、様々な方面に向かうバス乗り場がある。松田さんは電車に乗り、僕はバスに乗る。僕は松田さんと栞ちゃんを、駅の改札まで送った。
「私たちは、もう会わないほうがいいね」
改札の前で、松田さんがボソっと漏らした。彼女は、改札を抜けた駅の構内を見ていた。焦点の合わない、弱々しい視線だった。
「え?」
僕は完全に、意表を突かれた。僕は立ち止まり、松田さんの方へ向いた。彼女の背に、熟睡している栞ちゃんがいた。一瞬のうちに、僕は理解した。栞ちゃんは、僕を歓迎しない。僕は、邪魔者だ。
「会うと、いろいろ問題があるから」
松田さんは、そう言って顔を僕へ向けた。彼女は、“母の顔”をしていた。固い決意が表情に現れていた。重い責任を、彼女は進んで受け入れていた。
「・・・」
僕は、何も言えなかった。これが、僕の正体だった。偉そうなことを言っても、僕は孤独な自分に恐怖していた。
「私、太田くんのことを忘れない。太田くんも、私のことを覚えていて」
「・・・」
針で身体中を刺すような、強い痛みを僕は感じた。痛みは、松田さんのせいだった。僕は、彼女を引き止めたかった。けれど、僕は動けなかった。一歩も動けず、口も聞けなかった。
松田さんは、僕から離れた。栞ちゃんと改札を通った。駅の中を進みながら、何度も振り返って僕に手を振った。ホームへの階段を登る途中も、立ち止まって手を振ってくれた。僕も改札前で、ずっと手を振り返した。彼女と栞ちゃんが見えなくなるまで手を振った。
松田さんがホームへ消えた後、僕はその場に残った。いつまでも、改札の前で突っ立っていた。若いサラリーマンが、ドンっと肩をぶつけてきた。
「じゃまだ、ボケ!」
「す,すいません」
僕は、改札の隅に移動した。でも僕は、そこにとどまった。何も思いつかなかった。というより、僕の頭はいっぱいだった。後悔、それが僕の頭を占領した。けれど、何に後悔しているのか、自分でもわからなかった。「全て後悔している」、そう言った方が楽だった。何もかも、もう取り返しがつかない。取り返しがつかない失敗をしたら、どうすればいいんだろう?僕はわからなかった。
あの八月、それまでの僕は死んだ。僕は19才で成長が止まり、22才で死んだ。それ以降は、別の人間になった。僕はまた、松田さんと小鴨さんの記憶を封印した。しかし記憶は、触れたくない傷となって残った。それから、矢渡さんのことも。おそらく、あともう少しで答えは出たのだ。それなのに、僕は行動しなかった。
大学の帰り道でも、仲間とはしゃいで泥酔したときでも、疲れ果てた週末の午後でも、ふとした瞬間に小鴨さんと松田さんが頭をよぎった。松田さんを思い出したときはつらかった。でも一番つらかったのは、矢渡さんに言われたことかもしれない。
あの頃の記憶は、死の予感のように僕に取り憑いた。僕はいつも、頭を大きく振って記憶を追い出した。こういうことは、多くの人が経験することじゃないだろうか?多くの人が、つらい記憶を解決できないまま生きている。自分の限界か。あるいは、わざとか。
死に包まれた少女たち まきりょうま @maki_ryoma
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