第21話 徳福一致のアポリア
合格した大学の決まりで、最初の二年間は札幌のキャンパスに通うことになった。小鴨さんのお母さんが、小鴨家での食事会を提案してくれた。しかし僕は、引っ越しの準備を理由に丁重にお断りした。
僕は札幌で一人暮らしを始めた。例のごとく、勉強をする気は全くなかった。ロックバンドのサークルに入り、ギターの演奏を楽しんだ。大学の授業はさっぱり受けず、サークルの仲間や居酒屋のバイト仲間としょっちゅう飲んだくれて過ごした。
静かな変化が生じていた。良心の声は、まったく聞こえて来なくなった。ヒロシと話すこともなくなった。松田さんとも、小鴨さんとその家族とも、スッパリと付き合いがなくなった。
それから僕は、誰も好きにならなかった。虚無感が僕を包んでいた。問題はいったん解決した。それなのに僕は、言いようのない虚しさを抱えて日々を過ごした。札幌で学生をしながら、頭の中はまだ19才の出来事に囚われていた。それでいて僕は、19才の記憶を消去しようとした。あの頃の出来事を、誰にも話さななかった。あの頃の人付き合いを、僕は全て絶った。手紙には返事を書かなかった。電話が来ても、そっけなく対応した。やがて電話は鳴らなくなった。
大学の友人たちは、くっついたり離れたりの若者らしい恋愛劇を繰り広げていた。でも僕には、そんなエネルギーが湧いて来なかった。友人から恋愛相談を受けながら、まったく他人事として聞いていた。僕の胸は、沈黙したままだった。まるで19才の一年で、全ての情熱を使い尽くしたみたいに。
大学生活は友人たちに恵まれ、それなりに楽しかった。だが僕の胸のある部分、おそらくコアの部分が音もなく死んだ。僕はその事実に気づきながら、あえて目を向けないようにした。
これで僕の話は終わりだ。そろそろペンを置こうと思う。さて僕は今、28歳だ。この物語を文字にして、いったい僕は何を得たのだろうか?
その答えは、現在の僕ですら難問だった。書き終えたあとで、僕は途方にくれた。19歳の出来事を振り返って、僕は何日も考え込むことになった。最大の問題は、大学時代に僕を覆った虚無感だった。どうして僕は、感情のない人間に変わってしまったのだろう?
始まりは、生と死の問題だった。僕は松田さんと小鴨さんを通して、この問題に深く入り込んだ。僕は考えに考え、悩み抜いて答えを出した。それをたくさんの人に提示して、自分の正しさを試そうした。僕はその時、「本当の自分」になった。自分が「生きている意味」を、はっきりと自覚した。
僕は、松田さんと小鴨さん、二人同時に激しい想いを抱いた。その想いは生と死が絡んで、いっそう力強く熱烈な感情に成長した。「好き」という言葉が陳腐なほど、それは凄まじい想いだった。
それだけに、“二人を失った”時、僕は小さくない傷を心に負った。誰もわかってくれないかもしれないが。
「僕は、正義の味方なんかじゃない」
僕は、広い意味で失恋した。二人の女性に、同時にフラれた。僕は本当に、そんな気分だった。そこへ、矢渡さんが登場した。一人よがりな感傷に酔う僕を、彼女は叩き起こした。あんたは、他人の人生をいじくっている。他人の運命や命を、玩具のように扱っている。
小鴨さんは、これで良くなるのか?松田さんは、これで良かったのか?わからない。未だに、わからない。僕は勝手な努力をして、最終的には全てを台無しにしたのかもしれない。それなのに僕は、上出来のつもりだった。自分の行動は、賞賛されるはずだと。僕は大きな勘違いをした。僕は身勝手なだけだった。
披露宴での、松田さんの突き刺すような視線を覚えている。今でも、ありありと。現実的に考えて、僕らはああいう終わりしなかった。小鴨さんはきっと、僕が怖かったのだろう。小鴨さんにとって、僕はお笑い芸人を気取った変質者だったかもしれない。
一番正しいことをした者が、一番幸福になれるのか。これは、哲学史上の大きな問題、徳福一致のアポリアだ。
あの時僕がしたことは、全て「せずにはいられないこと」だった。何の見返りも求めないつもりだった。だが僕は、「自分は正しい」と盲信した。僕は密かに、それなりの報酬を求めた。正しいことをして、それなりに幸せになりたかった。とんだ勘違いだ。自分が正しいと思っても、みんなが正しいと思ってくれるわけじゃない。こんな調子だから、矢渡さんをあんなに怒らせたのだ。
だけど。と、現在の僕は考えた。
「やっぱり、何かせずにはいられなかった」
行動しても、報酬はない。自分の幸福もない。もしそうならば、僕たちは「徳」ある正しい行動をするだろうか?この“徳福一致”の問いは、実はとてもバカげている。ピントが外れていると思う。なぜなら問題設定に、“相手の人、大切な人”が抜けているからだ。
ある人は、「松田は、つまらぬ男と寝たバカ女だ」と言うかもしれない。ある人は、「小鴨は勉強ができないくせに、高望みをして自滅したんだ」と言うかもしれない。事実だけ見れば、その通りかもしれない。
だが二人の幸せは、「僕の問題」だった。「僕の問題」だったから、絶対に許せなかった。松田さんと小鴨さんが不幸になったら、僕の良心は引き裂かれていた。良心が大出血して、僕はのたうち回るような痛みを感じたろう。もう一度言う。二人の幸福は、「僕の問題」だった。だから僕は、何かせずにはいられなかった。
28歳の僕は、自分に自信がない。19才の頃のように、自分を信用できないんだ。僕らは生きているだけで、常に新たな経験をして、しょっちゅう新たな傷を負う。何かしても、何もしなくてもそうなんだ。多分、そうなんだろう。ずっとそうなんだろう。
僕は当分、誰も好きにならないと思う。そんな元気がない。でもその一方で、僕はこうも考える。 もう一度、19才の一年間を繰り返したら?もしもまた、あの絶望的な状況に遭遇したら?僕はどうする?僕はきっと、また同じことをすると思う。その時僕は、自分の“良心の呼び声”を聴くだろう。
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