第20話 受験勉強

 さて、もう11月だ。26日で、僕は19歳になる。いい加減勉強しなくては。僕もやっと、そう思えるようになった。僕が抱えていた問題は、みんな収束しようとしていた。


 僕は作戦を立てた。国語は、古文と漢文を捨てる。高校時代から嫌いな科目だったし、今さらゼロから単語だの動詞の不規則変化だのを覚えている暇はない。現代文は、何もしなくていい。本を読めばいいだけだ。

 英語は文法、とくに文型に的を絞った。文法を徹底的に頭に叩き込めば、文法問題はもちろん長文問題も解ける。長文だって、どの文型を使っているのかを捉えることがポイントだ。その他は、慣用句だけ覚えておけばいい。

 世界史は、今まで興味を持たなかった分野に的を絞った。中国の歴史や中東の歴史など、その分野の本を僕は読んでいなかった。僕がこれまで読んだ本は、完全に欧米に偏っていた。

毎朝ランニングとトレーニングを終えてから、部屋でビートルズの「サージェント・ペパーズ」や「ラバー・ソウル」や「リボルバー」や「アビー・ロード」を聞いた。音楽で気持ちを引き上げながら、僕は勉強することにした。

 しかし、世の受験生のように、昼夜を徹して勉強したわけではない。午後は、気が向いたときだけ勉強し、夜は水割りを飲みながらヒロシとおしゃべりをした。ハンバーガー屋のアルバイトも続けた。

 松田さんから電話は来なくなった。小鴨さんからも、二度目の電話が来ることはなかった。よく取れば、受験生の僕に気を使っていたのかもしれない。別の意味に取れば、僕の出番は終わったのかもしれない。その時の僕は、後者の意味に解釈していた。

 小鴨さんのお母さんだけは、きっかり一週間に一度電話をくれた。そして、小鴨さんの様子を教えてくれた。この状態なら、年内に退院できると先生に言われたそうだ。夏の絶望的状況からすれば、信じられないことだった。

 12月に、松田さんの結婚式に参列した。彼女から、11月の初めに招待状が届いた。「どうしても、来て欲しい」、という彼女のメッセージが中に入っていた。結婚式にどんな格好で行けばいいのか、僕はわからなかった。真っ黒なスーツに白いネクタイでいいんだと知り、格安スーツ屋で礼服を買った。格安の靴屋で、2,980円の黒い革靴を買った。

 結婚式の当日、僕は表参道の教会に出かけた。式が終わって、僕は披露宴にも出席した。会場の端の席に座っていると、ふと射抜くような視線を感じた。顔を上げると、松田さんが睨むように僕を見ていた。彼女の目には、言いようのない焦りと哀しみとが滲んでいた。僕はびっくりして、思わず後ろにのけぞった。急いで目を逸らした。僕は逃げた。彼女の視線から。

 この出来事に、どんな意味を込めることもできるだろう。だが僕は、一切解釈しないことにした。あの視線を、ありのままに受け止め、ありのままに記憶すればいい。僕はそう思った。今でも、そう思っている。


 招待状を受け取った頃、僕は矢渡さんから電話をもらった。僕にとって、彼女の電話は思い出したくない記憶だ。だがここに、書き留めておいた方がいいだろう。人はうっかり、大切なことを忘れてしまうから。

「太田、松田の結婚式に行くんでしょ?」

 彼女からの電話は、夕方だった。日はすっかり短くなった。開け放した窓から、夜の闇が忍び込む時間だ。僕は部屋の灯りを付けず、テーブルのライトだけで勉強していた。

「行くよ」と、僕はあっさり答えた。素気なく聞こえたかもしれない。

「今日はね」と言ってから、矢渡さんは間を置いた。大きく深呼吸する様子がうかがえた。「ものすごく、怒ってるから」

「えっ?」

「松田の結婚式に、太田が来るって聞いてさ。何で?って思ったの」

「うん」

「あのさ」と、矢渡さんはイライラした調子で続けた。「これがさ。小鴨の結婚式ならわかるの、まだね」

「うん」

「私も、話は聞いてんだよ」

「何を?」

「松田が、妊娠してること。あんたが、松田にちょっかいを出してること」矢渡は、箇条書きのメモを読み上げるように言った。

「ちょっかいって、なんか誤解があるよ」

「太田はさ。自分がいつも、正しいつもりなんでしょ?」矢渡さんの声が、興奮で少し震えた。怯えているわけじゃない。毛を逆立てた猫のように、彼女は戦闘態勢をとっていた。

「そんなこと、ないよ」

「じゃあさ。松田はなぜ、子供を産むわけ!?あの子はなぜ、40のオッサンと結婚するの!?」

「・・・」

「私さ。もう、訳わかんなくて。松田に電話して、事情を聞いたよ」

「そう・・・」

「あのね」矢渡さんは、大きなため息をついた。はあーっと。戸惑いや憤りや失望やらが入り混じったため息だった。

「うん」沈黙が、僕はつらかった。不自然なあいづちを打って、間を繋ごうとした。

「私、あんたに頭来てんの」

「・・・」

「本気で、怒ってるんだよ?」

「・・・どう、して?・・・」

「あんたは、自分が正義の味方のつもりなんだよね?」

「・・・いや・・・」

「そうでしょ!」と、矢渡さんは電話口で怒鳴った。それからまた間をおいた。ふーっ、ふーっと、荒くなった呼吸を、彼女は鎮めようとした。僕は、彼女を待った。

「松田はね。あんたのことを良く言ってたよ」と矢渡さんは、一転して乾いた声で言った。

「・・・」

「あんたを、一生懸命かばってたよ。でもさ、あいつ19歳で、40歳の人と結婚だよ?滅多にないことじゃん」

「まあ、そうだよね」

「そういう言い方が、イライラさせんだよ!」矢渡さんは、吐き捨てるように言った。

「ごめん・・・」

「私が、許せないのはさ」と、矢渡さんは言った。「太田が、他人の人生をいじっちゃうところ」

「・・・」

「つまりさ」と、矢渡さんは力を込めた。「松田は、どっかの”くだらない男“の子供を産んでいいの?あの子が結婚するおじさんは、他人の子を可愛がってくれるの?こんな無茶なことして、上手くいくって誰が保証できるんだよ!?」

「・・・」

「黙んないでよ!」

「ごめん・・・」

「あなたのせいで、みんなの人生が変わってしまうんだよ?!」

「・・・」

「太田は、それを“善意“だって言うんでしょ?でもね。変わってしまった人生に、あんたは責任取れるの?私には、それがわからない」

「責任って、言われても・・・」

「ちょっとお!真面目に考えなよ!」と、矢渡さんはまた怒鳴った。

「うん。わかった」

「太田は聖人気取りで、他人を操ってるんだよ?確かにあんたには、その力があるよ。でもさ、それを悪用しないでよ」

「あ、悪用?」

「私たち、まだ19なんだよ?」

「・・・」

「いいとか、悪いとか。そんなの関係なしに、恋をするんだよ?」

「そ、そうだね」

「それは、ダメなの?」

「ダメだなんて・・・」

「言ってるよ、太田は」

「うん・・・」

「・・・」

「ねえ。他人の人生を、好き勝手にいじらないで」

「・・・」

「私たちを、あなたの気分で振り回さないで」

「・・・」

 それから僕らは、沈黙した。受話器を握ったまま、長い時間黙っていた。窓から部屋へ、冷たい夜風が流れてきた。でも僕はすでに、身体の芯から冷えていた。全身から熱が奪われていた。

「正直に言うよ。私、あんたが結構好きだよ」やっと矢渡さんが、話しかけてくれた。

「うん」

「高三のあのクラスで、あなたが一番好きかも」と矢渡さんは、すっかり落ち着いて言った。と言うより、彼女はなんだか悲しそうだった。

「ありがとう」

 「さよなら」と短く挨拶をして、僕らは電話を切った。

 自転車に乗って、港に行くことにした。15分くらい走ると、県で一番大きな港につく。ここには、原油から食料品、外国車まで何でも大型船で届く。陸揚げされた、積荷の保管場所は立ち入り禁止だ。でも、その側まで近づくことができた。しかし、僕の目的はたくさんのコンテナを見物することではなかった。僕は、誰もいない場所を求めていた。

 家には、いたくなかった。ヒロシとも、話したくなかった。怒られるに決まっているし、何より僕は人と話す気力を失っていた。海に繋がる、運河のそばに自転車を停めた。柵と自転車を鍵で繋いでから、僕は真っ黒な海へと向かった。外灯のない運河沿いを、フラフラしながら歩いた。なぜか、両足に力が入らなかった。

 運河が終わり、僕は海に出た。機嫌悪そうに、波が激しく揺れていた。海を割くように、防波堤が二本並んで沖へ伸びていた。防波堤の先端は魅力があった。僕の日常から逃れられそうだ。けれど、生憎先客がいた。夜釣りを楽しむ人が、ライトの点いた“浮き”を荒れた海面に漂わせていた。僕は、防波堤に背を向けた。

 少し歩くと、小さなヨットハーバーに着いた。闇の中に、大小のヨットが係留されていた。休日の昼間なら、きっと賑やかな場所だろう。だが今日は平日で、しかも19時を過ぎていた。日はとっくに沈み、夜のヨットハーバーには誰もいなかった。ヨットたちは、牛小屋の中に繋がれたように、狭い入り江にひしめいていた。力強い波が、彼らを容赦なく揺さぶった。

 僕は押し黙ったヨットの群れへ、どんどん近づいていった。ヨットたちは、周囲に無関心だった。彼らの無表情さに、僕は緊張を緩めた。僕はそこで腰を下ろした。入り江のコンクリートに直に座り、両足を海の上へと伸ばした。

 僕の頭は空っぽだった。何も考える気にならなかった。矢渡さんの言葉が、頭の中で鳴り続けていた。しかし彼女の言葉は、いくつも重なって聞き取れなかった。おまけにエコーが深くかかり、頭蓋骨の中でぐわんぐわんと反響した。僕は、だんだん頭が痛くなってきた。

 とにかく僕は、何も考えなかった。虚無だった。体力もゼロだった。僕はすっからかんになって、真夜中までそこに座っていた。


 年を越しても、僕は予備校に行かなかった。テストも一切受けなかった。自分が偏差値いくつなのか、僕は知らなかった。それでいいじゃん、と僕は思った。自分の実力を知らぬまま、偏差値50から70の大学四校に願書を出した。

 その結果、僕は一番下と下から二番目の大学に合格した。合格発表を見て家に帰り、両親に「受かったよ」と言うとびっくりされた。どうやら両親は、二浪を覚悟していたらしい。

 そんなに勉強しないで、なぜ大学に受かったか?そう問われれば、ヒロシのおかげだと僕は思う。僕はヒロシに鍛えられたのだ。


 

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