第19話 小鴨さん2

それは突然のことだった。10月の初め、小鴨さんが僕に電話をくれた。時間は、午前11時くらいだったと思う。

「こんにちは、太田くん。今話してもいい?」と、小鴨さんは僕に断った。

「こんにちは、小鴨さん。僕は全然暇だよ。大丈夫」と、僕は答えた。

「先生からはね。もっと早く、太田くんに連絡しなさいって言われてたの。手紙でも、電話でもいいからって」

「へえ、そうだったの」

 意外な話だと思った。小鴨さんと、直接話せる日が訪れるとは。それも、こんなに早く。僕は夢にも思わなかった。

 その後、僕らはしばらく沈黙した。話すことが見つからなかった。僕らはこれまで、一度もまともに話したことがない。おまけに電話は、二人だけで話さなくちゃならない。僕は頭のなかで、必死に話題を探した。僕らに共通の話、共通の話で、彼女を傷つけないこと・・・。


「私ね、怖かったの」と、小鴨さんが先に沈黙を破った。

「えっ?怖いって、何が?」

「太田くんが。太田くんに、どう思われるかが」

 予想外の話に、僕は言葉が出てこなかった。僕が、怖い?

「太田くんって、高校の頃からなんか超然としてたよね」と、小鴨さんは言った。

「超然?それって、どういう意味なの?」

「うーん、周りがどうでも気にしないというか・・・、仙人みたいな感じ」と小鴨さんは言った。

「仙人?僕が?」

「そう。周りがどうでも、自分は自分っていう雰囲気だった。だから、太田くんから手紙をもらった時、めちゃくちゃ驚いた。だって、とても手紙を書くタイプに見えなかったもん」

「ごめんね、驚かせて」

 小鴨さんは、手紙については、それ以上何も言わなかった。その代り、別の話を始めた。

「ねえ、太田くん。あなた、私の兄ちゃんをめちゃくちゃ怒ったんだって?」

「いや、怒ってはいないよ」と僕は否定した。「お兄さんは、とても礼儀正しくて僕にも敬語で接してくれたよ」

「兄ちゃんは言ってたよ。太田くんにコテンパンに怒られたって。ねえ。うちの兄ちゃんって、私が言うのも何だけど、完璧なの」

「わかる気がする」

「子供の頃からそうだったの。パパも先生も、兄ちゃんには何にも言えないの。勉強もスポーツもなんでも出来るし、それも完璧に。だから、人に怒られたことなんて、ほとんど経験したことなかったんだって」

「そうだったんだ」

 確かに、そういうタイプの人はいる。だが、断っておかねばならない。そういう人生もつらいのだ。完璧を演じるのは、不断の努力を必要とする。ごく普通の方が、気楽でいいものだ。彼らの苦労をしなくて済むから。

「でもその兄ちゃんが私に、『太田さんにボロクソに怒られた。この人には、敵わないって思った』って言ってたよ。兄ちゃんをそんなに言い負かす人なんて、初めて聞いた」

そうじゃない、と僕は思った。普段のお兄さんなら、僕なんか相手にもしないだろう。だが、あの時の彼は、悩み、苦しみ、憔悴しきっていた。ヒロシの言葉を借りれば、彼は“過去を書き換える”必要があった。僕はそれを提案し、彼は受け入れた。それだけのことだ。

「そしたらさ、ママも『私も、太田さんにクソミソに怒られた』って白状したの。最後にパパがさ、『俺も、太田さんに怒られるのかな?』って言ったの。兄ちゃんとママが「間違いない。今すぐ電話しろ』って言って。もう、みんな大爆笑。パパは結局、太田くんに電話してないんだよね?」

「うん、電話はもらってないよ」と僕は答えた。

「やっぱり」と言って、小鴨さんはクスッと笑った。「ママと兄ちゃんは、パパに『太田さんに電話しろ』って何度も勧めてるんだよ」

「もう、大げさだよ。僕は大したこと言ってないよ」

 小鴨家の、楽しそうな会話を聞くには愉快だった。僕は、胸のつっかえが取れていく気分になった。時間はゆっくりと、正常を取り戻しつつあった。だから今日、小鴨さんは僕に電話をできたのだ。この事実を、僕をじっくりと噛みしめた。


 それからしばらく、僕らは高校時代のクラスメイトの噂話を始めた。誰がどこの大学や短大で何をしているだの、誰が誰と付き合っているだの、害のない井戸端会議のような会話だった。ところが、話題は松田さんに移った。

「松田、結婚するんだってね。20歳も離れた学校の先生と」

「うーん、そうらしいね」と僕はあいづちだけ打った。松田さんの事情を知っているだけに、この話題はさらっと流したかった。しかし小鴨さんは、驚くほど情報を仕入れていた。

「太田くん、松田に『子供を産め』って言ったんだってね」

「!!?」僕は、この小鴨さんの問いかけに何も答えられなかった。

「その子のお父さんは、今の彼と違う人なんでしょ?」

「・・・」

 次も僕は、何も言えなかった。どうやら小鴨さんは、クラスメイトたちに電話をかけまくっているようだ。みんなから噂話を聞き出して、松田さんのことも誰かから知ったのだろう。女の子たちの情報網はすごい、本当に。

「松田は、子供の父親と付き合ってなかったんでしょ?要するに、一度だけだったんでしょ?」

「うん、そうだね」と僕は、渋々認めた。多分小鴨さんは、いきさつを全部知っているのだ。

「つまり太田くんは松田に、19歳で母子家庭になれって言ったんだよね?この話には、さすがの太田くん信者のママも腰抜かしてたよ」

「・・・」

 いったい僕は、どこまで話せばいいのか。どこまで黙ればいいのか?

「ねえ、何で松田に『産め』って言ったの?」

 小鴨さんは、その理由を真剣に知りたいようだった。真摯に答えなければ、という思いが僕に芽生えた。僕が、松田さんに言った言葉の意味を。

「単純に言えば、命だよ。その命を失って、松田さんがずっと傷つくことは良くないと思ったんだよ。もちろん、僕には何もできない。松田さんは僕を好きなわけじゃないからね。でも長い目で見て、良くないことだと思ったんだよ。まあ、勘かな」と僕はやっと答えた。

「太田くん。あなた、相当鈍感だね。ほんと鈍いよ」と小鴨さんは呆れた風に言った。でも僕は、彼女の言葉がよくわからなかった。

「でもその時、あなたは私のことを心配してくれていたんだよね。ママからさ、散々言われたよ。『今のお前は、太田さんのおかげだ』って。兄ちゃんも同意してた」そこまで話して、小鴨さんは話を切った。それから、また話し始めた。少し体勢を立て直して。

「命かあ。太田くんは、私の命を問題にしてるんだよね。つい最近まで、自分の命なんかどうでもいいと思ってた。こんなもの、とっととやめにしたいと思ってた。みんなに、迷惑かけるだけだからね。

でもあの日、太田くんが窓の外に現れた時、そして宙吊りのままフルボリュームでセプテンバーを踊り出した時、『ああ、こんなこともあるんだ』って思った。生きていれば、こんな出来事に出会うんだって」

「音楽は聴こえてたの?」

「もちろん!あの階にいた人全員に聴こえたんじゃないかな」

「本当?そんな大きな音だったっけ?窓が閉まってたから、聴こえてないかと心配してたんだよ」

「ものすごいボリュームだったよ。それにあのダンス。太田くん、昔から踊れたの?」

「いや、一か月前から練習した」と僕は正直に答えた。

「そうだったんだ・・・」とだけ言って、小鴨さんはしばらく黙った。彼女が話を再開するのを、僕は辛抱強く待った。

「ありがとう」と、小鴨さんは言った。

「いや、ウケるか不安だったんだよ」と僕は言った。「牛のぬいぐるみするか、別にするか、すごい悩んだ」

「あれは、そういう問題じゃなかったよ。もう、傑作だった」と、小鴨さんは思い出すように言った。「看護婦さんにも、大ウケだった」

「それは良かった」

「でも、あの後警察に捕まったんでしょ?」

「それは、予想通りだから。で、結局お咎めなしで終わった」

「それはママから聞いた。でも、どうしてそこまでしてくれたの?」と、小鴨さんは理解できないといった様子で僕に聞いた。

「君に、笑ってほしかったんだよ。ほんとうに、ただそれだけ」

「ふーん」

小鴨さんはうなって、しばらく考えていた。


「私ね。高校の頃、田崎くんが好きだったの」と小鴨さんは言った。

また、田崎かよ。と、僕は思った。この調子じゃ、三年のクラスメイトの女子は、みんな田崎が好きだったのかもしれないな。

「でも田崎くんには、彼女がいたからね。諦めるしかないよね」

「うん」

もしかすると、田崎の存在も彼女に暗い影を落としたのかもしれない。しかしこれは、もちろん仮説でしかない。

「太田くん」

「うん」

「私ね。今は、先生のことが好きなの」と小鴨さんは声を潜めて言った。

「先生って、お医者さんのこと?小鴨さんを診てくれている?」

「そう。まだ二十代なんだけど、すごい優秀で、しかもとっても優しいの」

小鴨さんの声に張りが出て、弾むのを感じた。なぜか僕は、彼女の明るさに寂しさを覚えた。

「でも、私みたいなガキじゃ、相手にしてくれる訳ないよね・・・」

 そう言って、小鴨さんは少し黙った。それから、「また、私の片思いに終わりそう」と付け加えた。

「そんなの、わかんないんじゃない?教師と生徒のカップルがいるんだ。医師と患者のカップルがいたっておかしくない」

「あははは。そう言って、人を励ますのが太田くんなんだね。ママと兄ちゃんの言うことがわかってきた」

それから僕らは、またクラスメイトの噂話に花を咲かせた。そして、ひと段落ついたところで受話器を置いた。

このへんで役目は終わりだな、と僕は思った。僕はそろそろ、舞台を降りることにしよう。




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