第18話 小鴨さんのお兄さん(過去を書き換えること)
セプテンバー事件以来、小鴨さんのお母さんは週に一度電話をくれた。小鴨さんのその週の状態を、詳しく教えてくれるようになった。僕はそれをノートに記した。ページに日付を入れ、天気を書いた。項目を表情/様子、体調、発言、要望、その他に分けた表を書き、お母さんの話を該当する項目欄に書き込んだ。それを一ヶ月続けて、僕は現時点での判断を下した。彼女は、確実に良くなっている。
僕は、小鴨さんのお母さんに言った。
「決して、気を許さないでください。この病気は、一度治ったと思っても、しばらくして再発する人が多いそうです。油断なさらないでください」
「わかってます。沙希の様子を、注意して見守ります」と彼女は答えた。
一度だけ、小鴨さんのお兄さんと話したことがあった。お母さんが、電話を代わったのだ。
「はじめまして。沙希の兄の昂行と申します。この度は、家族全員が太田さんのお世話になりまして、本当にありがとうございます」
小鴨さんのお兄さんは、三つも年下の僕に対してとても緊張していた。
「はじめまして。太田と申します。沙希さんとは高校三年と予備校でクラスメイトです。でも実は、沙希さんと僕は友達ではありません。まともに話したことなんて、一度もないんです。それなのに、沙希さんに手紙を書いたり、窓の外に現れたりしてすみません」
「太田さん」とお兄さんは言った。彼は、思い詰めたような話し方をした。「私は、ゴリゴリの理系人間です。完全な合理主義者です」
「はい・・・?」
「妹を追い詰めたのは私です」と、お兄さんは吐くように言った。気分が悪くなっているらしかった。
「そんな、そんなことはないでしょう」僕は慌てて、火消し役を務めようとした。
「そうなんです」と、お兄さんはキッパリと言った。口ぶりには、ある種の覚悟がにじんでいた。「子供の頃から、私は沙希を馬鹿にしてきました。失礼を承知で、正直に申し上げます。妹が高田高校に進学するとき、私はあの子を責めたんです。そんな高校にしか行けないのかと。同級生の太田さんに、こんな失礼なことを申し上げて、本当に申し訳ありません。でも、事実なんです。過去は消せません」
「いいですよ。高田高校は大した学校じゃないですから」
「本当に申し訳ございません。高田高校に、太田さんのような方がいるなんて想像もつかなかったんです。私は、本当にバカ野郎でした」そこまで言って、彼は言葉を切った。電話口から、お兄さんの息が上がるのを感じた。興奮しているのだ。後悔に取り憑かれて。
「私は、バカの方ですよ。理数系がダメで、というか真面目に勉強しなかったのですが、私立の文系志望です。お兄さんには、遠く及ばないバカ者です」
「いいえ。私は、あなたの足元にも及びません。なぜなら、あなたは“解決策”を示してくれた。沙希を救う方法を教えてくれた。なのに、私は何もできなかった。何も思いつかなかった。本当のバカは私です」
やれやれ。この人はずっと、自分を責め続けているんだな。どうしたものか?と僕は思案した。
「沙希は、今年の入試に全部落ちました。今から考えれば、実力以上の大学しか受けなかったからです。私と父が、そう仕向けたんです。全て不合格になった妹を、私はなじりました。小鴨家の血筋じゃないと。怠けてるからそうなるんだと。そうして、沙希に浪人生活を強いたんです。私の責任です」
「あの、沙希さんは予備校で頑張ってましたよ」
「はい」お兄さんは。素気ない返事をした。彼の心は、後悔の海を漂っていた。彼の口から出るのは懺悔だけだった。
「女の子に浪人生活は、つらいものだったと思います。同級生たちが学生生活を謳歌しているのに、妹は私と父がかけるプレッシャーに耐えていたんです」
「はい・・・」
「・・・耐えきれなくなったんです」お兄さんは、絞り出すように言った。「毎週の、小テストの結果を、私はチェックしてました・・・」
「はい、月曜日のテストのことですね」僕はなんとかして、雰囲気を変えたかった。「あれは、うちの予備校内のテストですから。あまり、あてにはならないですよ」
「私は毎週、怒ってました。テストの結果が、良くなかったので。私が怒ると、沙希はいつも泣きました。涙をポロポロこぼして・・・。泣いているあの子を、私は何度も怒鳴ったんです・・・」
そこまで話して、お兄さんは黙り込んだ。重苦しい沈黙が、お兄さんと僕を包んだ。お兄さんが、涙をこらえている気配を感じた。
「お兄さん」と僕は、彼に呼びかけた。努めて明るく。でも、キッパリと。「僕も最近本を読んで知ったのですが、人の心はとても複雑なものらしいですよ」
「はい?」
「お兄さん。あなたは自分が、沙希さんを追い詰めたとおっしゃる。合理的なストーリーを描いていらっしゃる」と僕は言って、いったん言葉を切った。このゴリゴリの合理主義者が築いた、嘆きの壁を破壊しろ。僕は、スイッチが入った。
「でも、そうじゃないかもしれないんですよ。沙希さんは、誰も知らないところで恋をして、それに敗れたのかもしれない。そういう可能性だってあるんです」
僕はこのとき、鈴木先生を思い出した。純粋さを諦めた、気の毒な大学教師を。彼の心の傷だって、誰も知らなかったかもしれない。それは松田さんによって、やっと救われた。十年かかったのだ。長い年月だ。僕は話を続けた。
「沙希さんは、死を選ぼうとした。それも、二回も。でもその理由は、直接のトリガーは、誰にもわからないんですよ」
「あの・・・」と何か言いかけたお兄さんを、僕は遮った。
「自分勝手なストーリーを作って、それに固執して自分を責めないでください」僕は少し大きな声を出して、お兄さんにそう呼びかけた。呼びかけながら、僕はヒロシの言った言葉を思い出した。「一つの理想に固執するな。これが正しいというものはどこにもない。それは、相手と対峙して築いて行くしかない」と。時間のかかる方法だ。ちっとも合理的じゃない。だが、それしか方法はない。相手が、人ならば。
「お兄さん。あなたが沙希さんを追い詰めたという仮説は、いったんチャラにして下さい」と僕は言った。
「えっ!?」
「理系の方ならば分かるでしょう。一つの仮説を立てて実験をした。実験結果が予測と一致しなければ、仮説はゼロから立て直さなければならないでしょう」
「・・・」お兄さんは、黙って僕の話を聞いていた。ゴクっと、喉を鳴らす音が妙に大きく聞こえた。
「お兄さん、さっきあなたはおっしゃった。沙希さんに対して、何もできなかったと。それは、あなたの仮説が誤っているからじゃないですか?誤っているから、困っている沙希さんに有効な手を打てなかったんじゃないですか?」
「・・・」
「仮説を、一から立て直しましょう。繰り返しますが、お兄さんが沙希さんを追い詰めたという仮説はチャラです。今の沙希さんと接して、彼女にベストな方法を考え直しましょう。大学なんて行かなくたっていいじゃないですか。周りがどう言おうが、どうでもいいじゃないですか。私たちが一番恐ろしいのは、沙希さんを失うことです。それが一番恐ろしい。そんなことが二度と起こらないために、私たちはベストを尽くしましょう」
僕が語っていることは、完全に詭弁だった。自分でも“論理的なジャンプ”をしていると自覚していた。しかし、今はそれも必要な時だった。
お兄さんは黙っていた。僕の話を、きっと一生懸命考えているのだ。相手は東大生だ。僕の言い分を、理解してくれただろうか?“自分が犯した罪”が、考えすぎだったとお兄さんは気づいただろうか?
「わかりました」長い時間が経ってから、お兄さんは低い声でゆっくりと言った。
「はい」
「おっしゃる通りにします」と沙希さんのお兄さんは言った。「私が妹を追い詰めたという仮説は、撤回します。父にもそう言います」
「はい。そうしましょう」
「雑念は捨てて、今の妹を見つめます。沙希にとって、何がベストなのかを探します。そうお約束します」とお兄さんは言った。
はあ、良かった、と僕は思った。今日はある意味、壁に張り付くくらい疲れる仕事だった。僕は無意識に、電話口で首をぐるぐる回した。肩が凝っているらしく、首の付け根のあちこちが痛んだ。
「太田さん、あなたは沙希と同じ年なんですよね?」とお兄さんは聞いた。
「もちろんです。クラスメイトですから」と、僕は答えた。
「今日というか、今この瞬間。私は、自分がいかにバカな人間か、身に沁みてわかりました」
「え?」
「私はずっと、無神論者でした」
「え?」
「ですが、今は神を信じたい気持ちになってきました」
おいおい、神の話なんか誰もしてないだろう、と僕は思った。だが、お兄さんの声色は穏やかだった。晴れやかですらあった。ついさっきまで、電話の向こうで泣き出しそうだったのに。
カントは、「純粋理性批判」の中で書いている。「神を信じる人は、世界を“シンプルで調和した世界“と捉える心の綺麗な人だ」と。小鴨さんのお兄さんが、しばらく心が綺麗になるもの悪くはない。
「このインチキ野郎め」と、ヒロシは僕に言った。
「わかってるよ」と僕は吐き捨てるように答えた。
「お前が小鴨さんのお兄さんに言ったことは、論理的に破綻してる。彼が沙希さんを責めたことと、彼が沙希さんを救う手立てが見つからなかったことは全く違う事実だ。お前はそれを、意図的にごっちゃにした。その後すぐに、沙希さんの命の問題を持ち出して自分の言い分を強引に相手に飲ませた。お前のやったことは、はっきり言って脅迫だ」
「だから、わかってるって言ってるだろ」僕はヒロシに怒鳴った。実際僕は、ひどい自己嫌悪を感じながら午後を過ごしたのだ。
ヒロシは、僕が不機嫌になっても少しも気にしなかった。ただ、「もう、二度とやるなよ」と落ち着き払って言った。
「わかった」と僕はヒロシに約束した。
「だけどお前は、それを帳消しにするくらい良いことを言ったぞ。まあ、即興の結果なんだろうけど」
「僕、なんか言ったっけ?」僕は、小鴨さんのお兄さんを懸命に説得した。けれど、人に褒められるようなことを言ったつもりはなかった。
「お前は、『お兄さんが沙希さんを追い詰めた』という仮説はチャラにしろ、と言ったろう」
「言った」
「お前は勢いで言っただけだろうが、その言葉には重要な意味が含まれている」とヒロシは言った。
「なんだい、それは?」
「お前は、『過去は書き換えられる』と言ったんだよ。小鴨さんのお兄さんはこう言った。『過去は消せない』と。確かに、過去に起こった出来事は変わらない。しかし、だ。それにどんな意味を込めるかは、その都度俺たちの自由なんだ」
「意味を込める?」また訳のわからないことをヒロシは言い出した、と僕は思った。
「お前は、小鴨さんのお兄さんに言った。小鴨さんは、失恋して自殺未遂を冒したかもしれないと。その通りだ。その可能性だってある。重要なのは、可能性を示すことによって、小鴨さんのお兄さんの過去を書き換えたことなんだ。
お兄さんは、自分が沙希さんを追い詰めたと信じて疑わなかった。今日、お前と話すまで。でも、それは違うとお前は言った。本当のことはわからないと。だから、自分たちの思い込みを、自分の過去に対する評価をチャラにして考え直せと。そう説得することで、小鴨さんのお兄さんの意味を変えたんだよ」
「そこまで、考えてなかったんだけど」
「いや、お前は考えてたんだよ、とっさに。だからしつこくお兄さんに、『自分が沙希さんを追い詰めたという考えを捨てろ』と言えたんだ」
「そうかなあ?」確かに僕は、あの時熱くなっていた。クタクタに疲れるくらい、頭をフル回転させていた。
「普通の人、満ち足りて幸福な人は、過去なんか振り返らない。今と未来に夢中で、過去なんか忘れている。
しかし人生は、脱出不可能だと思えるくらい追い詰められることがある。そんな時、過去は“動かし難い事実”だと思える。過去を悔いて、途方にくれることになる。
しかし、それは真実じゃない。過去は書き換えられるんだ。事実は変わらない。だがその事実に、どんな意味を込めるかはその人の自由なんだ。だから、悔いているのではなく、明日に繋がる意味を過去に込めろ。それが俺たちがすべきことだ、沙希さんのために。お前はそう小鴨さんのお兄さんに言ったんだぞ?ご本人は、自覚がないようだけど」
ヒロシの話を聞いて、僕は時間をかけて考えてみた。それから口を開いた。
「ヒロシ。結果的に」と僕は言った。「結果的に、そうなったのかもしれないよ。でもね。あの時の僕は、単純にお兄さんに頭に来たんだよ。せっかく、小鴨さんが良くなりつつあるのに、何をお前はいつまでもメソメソしてるんだってね。お前が小鴨さんを励まさなくて、誰がやるんだ。小鴨さんに必要なのは、笑いなんだよ。『お前、よく頑張った』って、兄のお前が笑って褒めてやってくれよ。なのにあいつは、グチグチ子供時代まで遡って後悔ばかりしている。このバカが、と思ったんだよ。
お兄さんは、好きだったラグビー部もやめたそうだ。あの調子じゃ、学校の研究にも身が入ってないだろう。これでお兄さんが、進学や就職に失敗してみろ。すると小鴨さんは、「自分のせいだ」と考えかねない。新たな傷を負いかねないんだ。だから、ボロクソに言ってやったんだ。それだけさ」
熱くなっている僕を、ヒロシは微笑を浮かべて見ていた。彼は、僕の話を聞き終えると、論点を変えた。
「お前の言いたいことはわかった。でも、ここらで視点を変えてみよう」とヒロシは静かに言った。一呼吸置いて、彼は話し始めた。
「冷静に考えてみろ。相手は三つも年上の、しかも東大生だぞ。お前なんか足元にも及ばない雲の上の存在だ。そんな相手を頭ごなしに説教したんだ。いったいお前は、いつからそんな勇気を身につけたんだ?」
「!!?」
僕は、ハッとした。確かにおかしい。年上のスーパーエリートに、なんで僕は説教なんかしたんだ?そういえば僕は、小鴨さんのお母さんも叱り飛ばしたんだっけ。
「高校時代までのお前に、そんな勇気はなかったぞ」とヒロシは冷静に、そして少し面白がるように言った。「このあいだお前は、松田さんにヘミングウェイの主人公みたいだと言われたろ。マッチョで完全無欠なヒーローだ。どうしてお前は、短期間でそんなに変われたんだ?」
わからなかった。ただ、ひとつだけ言えることがあった。僕は自分の声に従って行動したんだ。「現時点で、これがベストだ」。自分のそんな声を聞いて、行動に移しただけだ。
「なあ。この半年間を振り返ってみようぜ」と、いたずらっぽくヒロシは言った。「始まりは、松田さんの『一晩限りの男と寝てしまった』という告白だった」
「うん」
「この告白にこ、どれだけの勇気が必要か考えてみろよ。彼女はなぜか、お前を選んだ。彼女の話によると、お前はわかってくれる人だと思ったらしい。とは言っても、自分のある意味“失敗”を話すのは、ものすごい勇気が必要だったはずだ。そう思わないか?」
「うん。そうだと思う」僕は同意した。
「そうして、松田さんとの電話の付き合いが始まった。そこへ運悪く、松田さんの妊娠という問題が起こった」
僕は、無言でうなずいた。
「松田さんは、妊娠したこともお前に教えてくれた。これも、ものすごい勇気だよ。でも、彼女はそれを実行した。
それ以来お前は、生命と死について考え続けることになった。そこへ、小鴨さんの自殺未遂を知った。お前はすぐに行動した。なぜだ?松田さんの告白のおかげで、生命と死をずっと考え続けていたからじゃないのか?だからお前は、境のように他人事と笑って済ませられなかった。
それからお前は、松田さんに『子供を産め』と言った。松田さんや俺から、厳しい非難を受けるのを承知でだ。いつからそんな勇気を、お前は身につけたんだ?」
ヒロシからの問いかけに、僕は黙り込んだ。わからなかった。
「いじめてもしょうがないからいうけど、これに答えはないんだよ。ただ、というか、だからこそ、人は自分の過去の事実に、自由に意味を込めることができるんだよ」
「自由に?答えがないから?」僕は、言い直した。「答えのないことに、自由に意味を込める?」
「そうだ」と、ヒロシは自信たっぷりに答えた。「 俺の考えでは、お前は松田さんから勇気をもらったんだよ。勇気の手本を見せてもらったんだよ。他人に自分の事実を晒し、自分の考えも晒して、他人の評価を受ける。勇気を出して実行することを教えてもらったんだよ。俺は、そう思う」
「うーん」
「俺の意見に対して、お前は反論する権利がある。俺はその反論を受け入れ、その上で俺の意見を磨き上げる。もう一度、お前に自分の考えを述べる。人はこれを繰り返すのさ。その行為にこそ、意味がある」
「うーん」僕はただ、唸るしかなかった。
勇気か。それはつい最近まで、ぼくとは無縁のものだった。それなのに最近の僕は、勇気なんてものを忘れていた。それは、松田さんの影響なのだろうか?
「ほおら、お前の過去の意味を書き換えただろう?」とヒロシは笑いながら、僕に言った。
「ヒロシ。要するにお前は、ニーチェみたいなことが言いたいわけだ。同じ事実も、その人の解釈でどうにでも変わる。真実なんてない。そうならば、目の前の現実を肯定しろ。そういうことだろ?」と僕は言った。
「近いけれども、俺が言いたいのはそれだけじゃない。現実や過去をただ肯定するだけなら、どこにもいけない。お前が昼間言ったように、沙希さんにとってベストな解釈を考えようと言うことさ。それも、みんなで考えるんだ。解釈は無限にある。その中から、ベストを探すんだ。過去を書き換えることは、その副産物なのさ」
「うーん」
ヒロシの言葉に、僕はまた考えこんだ。もう真夜中だった。僕は水割りを無理矢理胃に流し込んだ。
気がつけば、もう九月だった。ついこの間まで、寝苦しいほど暑かったのに。今夜は長袖でないと、肌寒さを感じた。
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