第16話 松田さん6
「あのさー、ストレスたまりまくり!もー、死にそうなんだけどっ」
「ああ、ねえ」
矢渡さんからの電話だった。彼女だとわかると、僕はすっと緊張が緩んだ。なぜかわからないが、矢渡さんは僕にとってとても気楽な存在だった。男友だちと、大差なかった。
「19時に、この間の店に来てくれない?」と、彼女は言った。
「19時?何で?」
「今日は17時まで、自習室で頑張るの。それから、飲み始めるから」
「17時から、飲むんだね。そしたら、何で僕を19時に呼ぶの?」
「酔っ払ってから、太田と話したいから」と、矢渡さんはあっさり答えた。彼女にとっては、必然的なスケジュールなのだろう。
「わかった」僕は、無抵抗に徹した。
「時間に、正確だよねー」
Providence のドアを開けると、矢渡さんはすぐ見つかった。今夜、彼女はカウンター席に座っていた。時間は、19時10分前だ。
「僕は、遅刻ができないタチなんだ」と、僕は説明した。「実は30分前に、店の前に到着してたんだ。ふらふら街を歩いて、時間潰してから店に入ったんだよ」
「面倒な、生き方してんねー」と、彼女は大きな声で言った。本人の目論見通り、彼女はすっかり酔っ払っていた。
今夜の音楽は、Weather Report 。店内は、大学生風の客で溢れていた。グループ客、カップル。僕には、誰もが早稲田の学生に見えた。憧れの存在、彼らと僕との間に聳える壁。でも矢渡さんは、何も気にならないようだった。
「今夜は、一人?」と僕は、彼女にたずねた。
「まさか!」彼女は、「信じられない!」という顔をした。「こんな店で、一人なんて寂しいじゃん。たった今まで、アイツと一緒だったよ」
「アイツって?」
「赤い、フェラーリの男」
「なるほどね」台風の日の人だ。「で、彼は今どこにいるの?」僕は、店内に彼の姿を探しながら聞いた。
「パチンコでもして来て、って言って追い出した」
「えーっ!?」
「だって、話しにくじゃん。アイツがいると」と、矢渡さんはなんでもないという口調で言った。これも、彼女の流儀なのだろう。
「ねえ。あんたさー、勉強してる?」
矢渡さんは左肘をついて、カウンターのテーブルに左斜めに身体を倒した。その態勢で、右手を真横へまっすぐ伸ばし、手のひらでパンパンっとテーブルを叩いた。ここに座れ、と言いたいのだ。僕は指示通り、彼女の右隣に座った。
「いや。全然してない」と、僕は答えた。
「してるわけないよねー」と、赤い顔で矢渡さんは言った。
僕は彼女の顔を、マジマジと見てみた。そうすると、新たな発見があった。大きくて形のいい目。大きくて、キラキラ光る瞳。小さいけれど、高い鼻。少し小さめの口。滑らかで柔らかそうな唇。逆三角形の顔、形の良い耳、ツルツルで弾力のありそうな肌。どれもが素晴らしいくて、なんだか人間味がないのだ。
「少女漫画の、ヒロインだ」僕は、思わず独り言を言った。
「なに?」酔っ払いには、聞き取れなかったらしい。
音楽のボリュームが、大きいせいもあった。Weather Report の代表曲、「Hovana」が流れていた。矢渡さんは、そのボリュームに自分の声量を調整した。だから今夜の彼女は、大声で怒鳴るようにして話した。
「ねえ、こんなに酔ってるよー」そう言って、得意の鋭い眼差しを僕に向けた。首を少し傾けて、上目遣いで、口をほんの少し開けて。グラビアモデルそのものだ。
「ねえ、あんた。あたしを口説かないの?」と、矢渡さんは睨むような目をした。
「口説かない」僕は、即答した。
「どうして!」
「矢渡さん。僕の本音を言うよ」僕も、大きな声で彼女に言った。
「いいよ。言って、言って」
「あなたは、少女漫画のヒロインに見える」
「なあに、それ!?」彼女はまた、周りに聞こえるくらい大きな声で言った。
「君は完璧だ。でも、リアルだと思えない」
「それってさあ」と言って、矢渡さんはテーブルから起き上がった。上半身を右へひねり、僕に身体の正面を向けた。大きな目を見開き、大きな瞳をさらに輝かせて。彼女は、僕の目をじいっと覗き込んだ。「あたしが、二次元キャラだってこと?」
「そう、だね。クマさんみたいだ」
「そう来たかー」彼女は、また大声を出した。近くの大学生たちが、矢渡さんをチラチラと見た。でも決して、迷惑そうではなかった。男たちは、みんな慎重だった。カップルも、グループ客も、男性は連れの女性に悟られないように振る舞った。自分は決して、矢渡さんを見てはいないよ。みんな、気のない振りをした。
彼女と僕は、つまらないコントみたいな会話を続けた。そんなときでも、僕の頭には松田さんと小鴨さんがいた。最近は、ずっとそうだ。朝から晩まで、ずっと二人のことを考えて過ごした。小鴨さんは、しばらく経過を見よう。松田さんは、計算通りなら、明後日に電話がかかってくる。
「何、考えてんの?」と、矢渡さんはムッとして言った。
「いや、別に」
「無駄だよ、ごまかしても」と彼女は、嘘を見抜いたと言いたげな顔をした。大きな目の中で、瞳をクリクリと動かし、大袈裟に何度も瞬きをした。「小鴨のこと、考えてるでしょ?」
「いやっ、うーむ、・・・」
「太田。あんた、小鴨に会いに、ビルの4階をよじ登ったんだって?」
げげっ。なんで、知っているんだ?女の子の、噂話ネットワークの力か?いやいや、今回の場合、噂の発信源は小鴨さんのお母さんだろう。きっと、小鴨さんの友だちや高校時代のクラスメイトたちは、もうあの話を知っているんだろう。
「うん、そうだよ」僕は、素直に認めた。
「あたしさ。絶対、嘘だと思って」
「うん」
「警視庁で働いてる男、知ってるからさ」
「そ、そんな知り合いもいるの?」僕はびっくりした。
「まあね」と、彼女は一瞬つまらなそうな顔を見せた。「そいつを使って、本当か調べてもらったよ」
「そうだったんだ」
「ねえ。あんた、バカ?」言葉遣いは、乱暴だった。でも矢渡さんは、とびきりの笑顔で僕を見た。よそ行きの顔ではなかった。彼女には珍しい、温かい笑いだった。
「バカだろうね」と、僕は認めた。
「試しに聞くけど」そう言って、彼女は僕から視線を外した。彼女は壁に視線を向け、壁の向こうを透視するような目をした。視線の先には、あのクマさんがいる。そう思えるような、子供っぽい目をした。彼女はもう、二次元キャラではなくなった。
「うん。何?」
「あたしのために、ビルの壁を登ってくれる?」彼女は、壁を見つめたまま聞いた。
「登らない」また僕は、即答した。
「なんで!」彼女は、ムッとして声を荒げた。
「矢渡さんは今、幸せに見える」と、僕は言った。「少なくとも、君は死ぬほど悩んではいない」
「ふむ」と、矢渡さんはうなった。彼女は、テーブルに両肘をついた。両手の拳を握り、左右の頬につけた。そのポーズで、眉毛をクイクイッと動かした。口を尖らせ、次に一文字に口を閉じた。どの仕草もカッコよくて、愛らしかった。僕はようやく、みんなが彼女に夢中になる理由がわかった。
「じゃあさ、私が死ぬほど悩んだら、ビル登ってくれる?」
「うーん。それしか方法がなかったら、考える。でも、別の方法があったら、そっちにする。多分もう登らない」
「えー、やってくれないのー?」彼女は、今度はおどけた調子で、でもちょっと不満気に聞いた。
「あのさ。やってみて、わかったんだけど・・・」
「うん。なになに?」矢渡さんは、また僕の方へ身体を向けた。身をかがめて僕に近づき、上目遣いの瞳を輝かせた。「内緒話を聞かせて!」とでも、言いたげだった。
「あれは、死ぬ」と、僕は大きな声ではっきりと言った。「危ないよ。本気でそう思った」
「ぎゃははははは」
彼女は、しばらく腹を抱えて笑っていた。ようやく落ち着いたと思ったら、矢渡さんの目つきが急に鋭くなった。彼女と話すことは、まるでジェットコースターのようだった。彼女の感情は、目まぐるしく変化した。明、暗、明、暗、・・・。
「あたしってさ。尻軽いと思われてるじゃん?」
「い、いやあ・・・」僕には、答えようがなかった。
「実は、そんなことないんだよ」そう言ってから、矢渡さんはちょっと寂しそうな顔をした。
「・・・うん」今回も、答えに窮した。
「信じてくれなくていいんだ」と言って、彼女は両腕を頭上に上げた。万歳の姿勢をまま、背筋をぐいっと伸ばした。深呼吸をしてから腕を下ろし、はああっと大きく息を吐いた。「私が、言いたいことは・・・」
「うん?」
「果たして私は、誰かを信じられるか、ってこと」
「え?」
「わかんない?」クールに笑って、矢渡さんは僕を見た。今度は、いたずらっ子の目だ。
「ごめん。わからないよ」と、僕は正直に答えた。
「いいよ。わかんなくて」と彼女は、今度は一転して優しく笑った。まるで、松田さんみたいだ。僕は、びっくりしてしまった。矢渡さんは、『そんなタイプ』じゃないのだ。「さあて。そろそろ、解放してあげる」
「え?」
「帰っていいよ。私は、フェラーリ呼ぶから」
矢渡さんは、鞄から携帯を出した。ダイヤルし、耳にあてた(※当時、携帯を持っている19才なんて珍しかった)。「うん。用事済んだから。店に戻って」彼女は、手短に彼に伝えた。
「じゃ、僕は・・・」
「お疲れさま!」
そう言って彼女は、僕の背中をバンっと叩いた。その勢いに押されて、僕は店を出た。
松田さんから、電話があった。前回の電話からちょうど二週間、20時きっかりに。僕は5分前から、部屋の白い電話機の正面に座った。白い受話器が、ベルの音とともに震え出した。僕は反射的に、震える白い箱を手に取った。すると箱の中から、彼女の温かい声が流れてきた。
「こんばんは、太田くん」
「こんばんは」と僕は返した。親密な雰囲気があたりを包んだ。僕と松田さんは、もう本物の友達にだった。
「ねえ。今夜も、私だけが質問することにして。太田くんは、私に質問しない。それでもいい?」
「いいよ。前回と同じで行こう」
「ねえ、この間のビートルズの話の続きなんだけど・・・」
そう言って松田さんは、僕にビートルズの曲の仕組みについて知りたがった。僕は前回話していない、コードの展開ベースラインについて説明した。
「ビートルズは中期から後期にかけて、コードを展開させて下降するベースラインを徹底的に作っている。例えば有名な A Day In The Lifeだと、Johnが作った G-Bm-Em–C–Am というコード進行に対して、 Paul は G-Bm(onF#)-Em-Em(onD)-C-C(onB)-Am という風に、コードを展開させて G-F#-E-D-C-B-A という下降ラインを作っている。特に、Em(onD) や C(onB) は強烈だ。これは、Emのb7であるD、Cの△7であるBをそれぞれベースにしたもの、と解釈できる。しかし、単純なEmの後のEm(onD) 、Cの後のC(onB)が生むテンションサウンドは人をびっくりさせる。これは50年代の、ジャズのアプローチとは全く逆だ。ジャズは、9th、11th、13thとコードをどんどん複雑にしていった。でもビートルズは、簡単だけど誰も思いつかなかった音楽を作ったんだ」
うんうんと頷きながら、松田さんは電話口でメモを取っているようだった。僕はまるで、授業でもしているような気分になった。
「ねえ、もっと教えて」と松田さんは僕にせがんだ。仕方がないので、僕はビートルズの話を続けた。
「前回、シンプルなロックンロールの話をしたよね。キーがCなら、C7-F7-C7-G7-F7-C7 だと説明したけど、今日はとくにF7の話をしよう。このF7の7th、実はミbなんだ。キーがCでミはEメジャーなのに、同じ曲の中に平気でミbが入ってるんだよ。つまり古いロックンロールやブルースには、長調と短調をごっちゃにするアイデアが詰まってたんだ。これに、ビートルズは目をつけた」
「どういうこと?」
「つまりさ。同じ曲の中でミbとミを自由に使っていいんだ、ということに気が付いたわけさ。そしてそれを、さらに拡張した」
「どんな風に?」
「ミでメジャーとマイナーをごっちゃにしていいなら、他の音でもいいだろうと考えたんだ。実際には、シとシb、ラとラb、#ファとファでもやっている」
こんな調子で、僕は松田さんにビートルズの音楽の説明を続けた。松田さんは、「ちょっと待って。それどういう意味?」「わからない。もっと詳しく説明して」と何度も僕に聞き返した。好きなビートルズの話なので僕も熱くなって語った。一方で、「僕は、何をやっているんだ?」という素朴な疑問も感じた。松田さんは僕が話したことを、明らかにノートにメモしていた。彼女は僕の、熱心な生徒だった。
「ねえ。私は小学校1年生から12年間、ピアノとエレクトーンを習ってたんだよ」と松田さんは言った。「でも、こんなに真剣に曲について考えたことなかった」
「僕が、変にこだわるせいかな?」と僕は松田さんに言った。
「太田くんは、いつからギター始めたの?」
「高校一年」と僕は答えた。
「たった三年で、ここまで知ってるの?」と彼女は驚いて言った。
「頭でっかちなんだよ。知識はあっても、演奏は下手だよ。文化祭で見てもらったから、知ってると思うけど」
「大事なのは、時間の使い方なのね」と松田さんは言った。「私は漫然と、エレクトーンの課題曲を弾いてた。曲をマスターすればそれで満足だった。でも太田くんは、同じ頃にBbメジャーの答えを探してたのね。その答えをビートルズから見つけたのね」
「多分だけど」と僕は言った。「僕が話したことは、ショパンとかベートーヴェンとかシューベルトとかドビュッシーとかも、気づいてたんじゃないかと思うんだ。この世でビートルズだけが気が付いたというのは、可能性の低い仮説だと思う。みんな知ってたんだよ、きっと。でも僕はまだ、彼らの音楽を熱心に聞いてないんだ。だから、証拠は出せないけど」
「なるほど」
そう松田さんは言って、しばらく黙った。電話の向こうで、またメモを書いている様子がうかがえた。「本当は、クラシックの大家はみんな知ってた。そう言うことね」彼女は、復唱するように言った。それから、また沈黙があった。そんな大した話をしたつもりはないのだが。
「ねえ。太田くんは、今幸せ?」
「へ?!」
あまりに意表を突いた質問に、僕は面食らった。僕は幸せか?簡単に答えの出せる問題ではなかった。
「うーん、どうなんだろう?よくわからない」と僕は答えた。「僕は浪人生だ。何の足がかりもない、不安定な存在だ。おまけに僕は、受験勉強から逃げてる。さっぱりやる気が起こらない。そう考えると、僕は不幸せだと言えるかな」
「太田くん。あなたは自分のことになると、さっぱり『おバカさん』になっちゃうのね」と松田さんは優しく諭すように言った。松田さんお得意の、お母さんモードだ。彼女にこの話し方をされると、僕はもう抵抗できない。その力は絶大だった。
「太田くん。小鴨さんに会いに、ビルの4階をよじ登ったそうね」
げげっ。松田さんも知っているのか。やはり、女の子の噂話ネットワークはすごい。
「うん、そうだよ」僕は、平然を装って答えた。
「それに、小鴨さんの病院も変えさせたんでしょ」
僕は、さらに驚いた。しかし、本当のことだ。認めるしかない。
「うん、そうした」
「あなたはいつも、すごい『こだわり』を持って行動してるのね。周りにいる人たちに、その影響を与えちゃうのね」
「うーん、そうなのかなあ・・・」
「強い『こだわり』を持てるなんて、本当に幸せだと思う。卒業旅行の夜に、私はなんとなく気が付いたよ。この人は、他の人となんか違うって」
「・・・」答えようがなかった。強い『こだわり』なんて、考えたこともなかった。
「あなたの言葉を受け入れれば、きっと上手くいく。私は、そう確信した」
「うーむ・・・」僕は、松田さんの言葉に同意できなかった。僕には、自信がなかった。人にいろいろ言う癖に、僕は自分がよくわからなかった。
「私ね」
「うん」
「将来、子供を産んだら・・・」
「えっ?!」
「子供が男の子なら、名前は賢一朗にする。太田くんと、同じ名前にする。」
「えーっ!?」
「もう決めたの。私は揺るがない」
「えー』
「決めたからねー」松田さんは、歌うように答えた。
松田さんの言う「子供」とは、いつの子供のことなのか?
「松田さんがそう決めたのなら、僕は同意するよ」
「太田くん。あなたが「後悔する』って言ったんだよ。それを忘れないでよ」
「えっ?」
松田さんはしばらく笑っていた。とても楽しそうで、微塵の悲壮感も感じられなかった。
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