第15話 住居侵入罪

 僕は、病院から車で5分の□□署に行った。パトカーは、地下の駐車場に入った。僕らは車を降り、若い警官を先頭にして暗い駐車場を歩いた。地下駐車場は、かび臭い独特の匂いがした。しかし、みんな無言だった。誰も匂いなんて、気にならないらしかった。

 中央部に、エレベーターがあった。先頭の若い警官が、「↑」のボタンを押した。彼はやはり、何も言わなかった。僕らはじっと、天井近くに並んだ文字盤を見つめた。それはB1から、1、2、3、・・6まであり、最後がRだった。全員が、点灯した数字の動きを追った。エレベーターが、降りてくるのを待った。

 警察に捕まることも、僕のシナリオにあった。病院の壁によじ登って、部屋を勝手に覗いたんだ。そりゃ、警察を呼ばれて捕まってもおかしくはない。問題は、僕のしたことが住居侵入+何罪と判断されるかだった。小鴨さん以外の患者さんに、僕は恐怖を与えたかもしれない。それは、素直に認めよう。

 エレベーターが到着し、僕らはそれに乗り込んだ。制服の警官が二人、スーツの男が一人、そして僕だ。狭いエレベーターは四人の男でいっぱいになった。制服の警官が2階のボタンを押した。カタカタ、キシキシと音を立てて、エレベーターは上がり出した。どうやらこの警察署も、相当古い建物のようだった。

 エレベーターが2階に到着すると、僕らは狭いエレベーターホールを通って事務所の中へ入った。事務所の中では、スーツ姿の警察官(刑事?)たちがせわしなく働いていた。怒鳴りながら電話をしている者、机にかじりつき、パソコンに猛スピードで何か入力している者、狭い事務所を走り回っている者、いろんな人がいた。どの机にも書類が、20cmも30cmもうず高く積まれていた。果たしてあの書類を、全て処理し終える日はくるのだろうか?

 僕は、事務所の奥にある会議室に通された。てっきり取調室に行くと思っていたので、僕は意表を突かれた。部屋は十畳くらいの広さで、大きなテーブルと椅子、ホワイトボードがあった。ボードには、消し残した文字が残っていた。

 部屋に入ると、制服姿の警官二人が僕の荷物をテーブルに置いた。僕のリュックやビニール袋から、中身を出して会議室の机の上に並べた。牛の着ぐるみ、カツラ、メガネ。長いロープ、ハーネス、カラビナ、それからMDプレーヤー。彼らはそれらを等間隔に離して、机の上に綺麗に並べた。スーツを着た男が、デジカメを構えた。机に並んだ証拠品を、彼は何枚も写真に取った。

「太田賢一朗、1981年11月26日生まれ、満18歳。これで間違いないな」と、スーツ姿の男は僕の隣に座って僕に聞いた。

「はい。間違いありません」と僕は答えた。

「君は、本日9時35分。XXX病院別館、北側の雨どいを登り、4階の部屋に侵入を試みた」とスーツ男は言った。そして、自分が言った言葉を、丁寧な字で報告書に書き込んだ。

「侵入は試みてません。外から中を覗いただけです」

「ほう、侵入する気はなかったんだな」

「そうです。最初から、中に入る気はありませんでした」

 スーツ男は、自分が報告書に書いた『侵入を試みた』という字を二重線で訂正した。その代わり、『窓の外から建物内部を覗いた』と書き直した。はたから見ても面倒な仕事だった。警察に就職するのはやめよう、と僕は思った。

「なんでわざわざ、ビルの外から登って4階の部屋を覗いたんだ」

「小鴨沙希さんという人に会うためです。彼女はまだ面会謝絶だったので、窓の外から会うしか方法がなかったんです」

「ほう、こかもさきさん」

「小さな鴨に、さんずいに少ないと書いて希望の希です」

「君は彼女の部屋を知っていたのかい?」

「受付で407号室だと、教えてもらいました。でも、4階のどの部屋が407号室かわからない。仕方がないので、4階の壁を横に伝って、一部屋ずつ調べていったんです」

「ほおう、壁を伝って。どうやってベランダもない4階を移動したんだ?」

「フリークライミングの練習をしてるんです。だから、壁の小さな凹みや窓枠に手足をかけて、部屋を一つずつ移動しました。思ったより簡単でした」

 フリークライミングの技術を使って・・・、とスーツ男は報告書を書いていた。正直言って、この人と話すのは面倒だった。僕は嫌々質問に答えながら、別のことを考えた。僕はこれで起訴されれば、住居不法侵入罪を冒した前科者になる。大学は諦めなければいけないかもな。だが、それがどうした。小鴨さんは、最初はびっくりしていたが、途中から踊り出した。そして最後に、僕らは一緒にセプテンバーを歌ったのだ。それでいいじゃないか。僕の心は、驚くほど澄みきっていた。警察署の中にいても、何の不安も感じなかった。

「それで、小鴨さんの部屋を見つけたんだな」

「はい」

「それで君はどうした?」

「あそこにあるカツラと眼鏡をかけて、MDプレーヤーで音楽をかけて踊り、歌いました」

「あのぬいぐるみはどうした?」

「ああ、そうだ。あれは、雨どいを登る前に着ておきました」

「建物を登る前に、ぬいぐるみは着ていたんだな」

「はい」

 スーツ男は報告書の最初の部分を訂正した。牛のぬいぐるみを着て、という一文を追加した。とことん、面倒な作業だった。

「で、小鴨さんはどうしてた?」とスーツ男は聞いた。

「最初は驚いてましたが、途中からはずっと笑っていました」

「お前はそれで満足か?」

「満足です」

「壁に張り付きながら、どうやって踊ったんだ?」

「エアコンの室外機に、カラビナでロープを張りました。隣の部屋の室外機と、全部で四箇所です。それから、六階に登ってバルコニーの排水パイプにも縄をかけました。それで身体を支えて、踊りました」スーツ男は僕が言った通りに報告書に書いた。

「お前、自分がどれだけ危険なことをやったか、わかっているのか?」

「はい、途中から室外機がギシギシ音を立ててましたから、外れる危険は感じていました。死ぬことを、本気で考えました」

「でもやめなかった」

「はい、一曲踊りきるつもりでした」

 スーツ男は、空調の室外機が外れて落ちる危険を感じてはいたが、一曲を踊る意思を貫いた。と報告書に記入した。

「小鴨さんが面会謝絶だということは、知っていたんだな?」

「はい、今日の朝、病院の総合受付で教えてもらいました」

「でも、お前は面会を強行した」

「いいえ、面会なんかしてません。僕は彼女と話してはいないんですから。僕がしたのは、彼女の部屋の前で歌って踊っただけです」

「結構、めんどくさい男だな。お前」そう言ってスーツ男は苦笑した。

「小鴨さんのことが好きなのか?」

「いいえ」と僕は平然と否定した。

「好きでもない女のために、あんな危険なマネをしたのか?」

「彼女は、2回自殺未遂を図りました。僕は高校の、それから予備校のクラスメイトです。放っておけなかったんです」

「クラスメイトだから、彼女の部屋の前で踊ったのか」

「そうです」

「死ぬ覚悟をしてか?」

「はい」

 スーツ男はしばらく黙って、僕の犯行動機を報告書に書いていた。鎮まりきった部屋に、彼のボールペンが放つ音だけ響いた。コツコツコツ・・・。その規則的なリズムに、部屋にいる誰もが聞き入った。我ながら滅茶苦茶だな、と僕は自分の行動を振り返った。

「お前みたいな奴、結構好きだよ」とスーツ男は、最後にそう言った。その言葉は報告書には書かなかった。

 それから彼も制服の警察官二人も、部屋を出て行った。僕は、広い会議室に取り残された。逃げようと思えば、いつでも逃げられた。しかし警察は、僕は逃げたりする奴ではないと判断したのだろう。それに僕は、大仕事を終えてクタクタに疲れていた。僕は机に突っ伏して、しばらく寝てしまった。


 僕が目を覚ましたのは夕方だった。会議室の外は、相変わらず忙しそうだった。電話のベルがじゃんじゃん鳴り響き、怒鳴り声もいくつも聞こえた。この警察署の管轄で、様々な事件が起こっているようだった。僕の起こした事件など、全然大したことがない気がした。

 後で知ったことだが、警察官と刑事たちはXXX病院で関係者の聞き取り調査を丹念に行っていた。受付の女性や、看護婦や警備員、話のできる状態の患者まで、たくさんの証言を集めて僕の事件の裏付けを取っていた。そして最後に、僕の両親を呼び出した。

 夕方、制服の若い警官が僕にコンビニ弁当とウーロン茶のペットボトルを買ってきてくれた。それを見て、僕はようやく思い出した。自分はお腹が空いていることに。僕はそれをペロリと食べた。一息つくと、穏やかな気分になれた。僕は会議室で、成り行きをじっと見守った。

 僕はその夜、留置場に泊まるのだろうと予想していた。しかし20時頃、僕はあっさりと釈放された。微罪処分という扱いで、起訴もされなかった。それは小鴨さんやご家族、それから他の患者さんや病院も含め、誰も僕を告訴する気がないこと、再発の可能性が極めて少ないこと、僕が非を全面的に認めていることなどを総合的に考慮した結果だった。

 ずっと後になって聞いたのだが、深緑のスーツ男は僕の両親に、「どうやったら、あんな子供ができるんですか?」と聞いたそうな。父親は、「心当たりがない」と言って沈黙した。母親は、「私は何もしていない」と即答したらしい。うちの両親らしいエピソードである。


 市ヶ谷から最寄駅までは退屈だった。両親は、僕に何も聞かなかった。もう散々刑事から一部始終を聞いたのだろう。このある種のバケモノにまで成長した我が子を、これからどう処分しようか。そんなことを考えていたのかもしれない。

 家にたどり着いたのは、22時過ぎだった。自分の部屋に入るとすぐに電話のベルが鳴った。小鴨さんのお母さんからだった。ヒロシもすぐに窓から部屋へ入ってきた。

「太田さん、大丈夫ですか?」小鴨さんのお母さんは興奮して僕に聞いた。「何時になっても電話が繋がらなくて、こんな遅い時間にお電話してしまい本当に申し訳ありません」とまず彼女は、深夜の電話の非礼を詫びた。

「今、警察から帰ってきたところです」と僕は答えた。「微罪処分ということで、要するにお咎めなしですみました」

「良かった・・・。本当に良かったです・・・」彼女は心から安堵した様子を見せた。相当小鴨さんのお母さんに心配させてしまったらしい。僕は本当に申し訳ない気持ちになった。

「ご心配をおかけして、すみませんでした」

「とんでもない。とんでもないですよ」と彼女は興奮して答えた。そして、「ちょっと待ってください。家族に聞かれない部屋に移ります」と言った。ゴソゴソ、ガタガタという音がしばらくしてから、彼女は長い話を始めた。

「今日、13時に娘の部屋に行ったんです。そしたら、娘の様子が豹変していてたまげました。沙希は溢れそうな笑顔で『セプテンバー、セプテンバー』と騒いでいました。『セプテンバーを用意してくれ』って、言うんです。今は8月です。来月を用意しろとは、またおかしくなったのかと私は不安になりました。そこへすぐ看護婦さんが来られて、事情を説明してくれました。話を聞いてすぐ、私は太田さんが来てくれたんだと理解しました。雷が落ちたみたいに、一瞬で理解できたんです。そして、沙希が求めているのはアースウィンド&ファイアーの『セプテンバー』だとわかったんです。

 私はすぐに沙希の兄の、昂行の携帯に電話しました。昂揚の昂の字に行くと書いてたかゆきと言います。そして、沙希がアースウィンド&ファイアーの『セプテンバー』を聴きたがっているからすぐ用意しろ、と私は言いました。幸い、昂行はアースウィンド&ファイアーの『セプテンバー』が入ったベストアルバムのCDを持っていました。昂行は学校で実験中でしたが、それを放り出して家に帰りました。そしてそのCDとヘッドフォンで聴くCDプレーヤーを持って、病院に駆けつけました。時間は16時くらいです」

 そこまで一気にしゃべって、小鴨さんのお母さんはいったん口を止めた。そして、ため息をつきながら話を続けた。

「電子機器を持ち込むには、先生の許可がいるんです。先生は、午前中の太田さんがしてくれたことを理解されていました。すぐに許可をくれました。そして私と昂行でCDを渡したら・・・。ああ、あんな笑顔の沙希は、あんな楽しそうな沙希は、見た記憶がありません。私も昂行も呆然として沙希を見ていました。沙希はベッドの上でセプテンバーを聴き、踊り出しました。そして途中から、歌詞のわかるところは歌いました。私も昂行も、信じられない光景を見ている気分でした」

 小鴨さんのお母さんは、そこで感極まったのかしばらく泣いた。僕は黙って、彼女が泣き止むのを、落ち着くのをじっと待った。

「昂行は、沙希のことで深く傷ついていました。沙希が理系科目がダメで国立を諦めた時、沙希に『最低でも早慶上智に行け』と言ったのは昂行なんです。沙希が自殺未遂を犯してから、昂行も人が変わってしまいました。息子は、沙希を追い詰めたのは自分だと考えたのです。学校はかろうじて通っていましたが、大好きだったラグビー部を退部してしまいました。家に帰ってきても塞ぎ込んで、すぐに自分の部屋に閉じこもってしまう毎日でした。沙希と一緒に、昂行もおかしくなってしまったのです」

 僕には何も言えなかった。語るべき言葉が、一つも思いつかなかった。小鴨さんの病気のために、深く傷ついてしまったお兄さん。聞いていてつらい話だった。悪くすれば、共倒れになりかねない話だ。

「太田さん」と小鴨さんのお母さんは僕を呼んだ。

「はい」

「あなたのおかげです」

「えっ?」

「昂行は、沙希と一緒にセプテンバーを歌い出しました。ヘッドフォンだから音楽は聴こえないのに、沙希に合わせて歌い出したんです。もともと昂行もセプテンバーは好きだったので、歌詞は全部覚えていました。だから歌えたんです。それなら私もと、二人に加わりました。セプテンバーは、私にとっても青春の思い出の曲でしたから、うろ覚えで歌えました」

 良かった、と僕は思った。物事はいい方向に回り出しているらしい。これを継続しなければ。継続することは難しい。だが、今の小鴨さんには電子機器の持ち込みを許可する先生がついてくれているようだ。電子機器だって、分解すれば手首や首を切ることができる。それを大丈夫だと判断できる先生がついてくれていると知って、僕は一安心した。小鴨さんのお母さんもそのことを指摘した。

「今の先生は、若いのに本当にいい先生なんです。病院を移ってから、すぐに沙希の容態は安定したんです。これも太田さんのおかげです」

「いえいえ、お父さんの力のおかげでしょう」と僕は言った。国会議員の持つパワーをフル活用して、その病院にねじ込んだに違いないのだ。

「太田さんは、自分の力を軽くおっしゃりたがる。そういう方なんですね。でも、これだけはわかってください。あなたのおかげで、沙希だけでなく私たち家族全員が救われたんです。それは認めてください。」

 病院を変えろ、と言ったのも僕なんだよな。我ながら、差し出がましいことを言ったものだ。失敗していたら大変なことになたかもしれない。だけど、と僕は思った。前の病院は変わるべきだと、僕の良心が僕に言ったのだ。

「沙希の容態が安定しだした時、先生の許可をもらって太田さんの手紙を娘に渡しました。『太田さんからの手紙だよ』と言ったら、娘はきょとんとした顔をしてました。太田さんが言われた通り、娘はあなたのことをクラスメイトとしか思っていなかったようですね。太田さんから手紙をもらって、びっくりしてました。

 でも手紙を読んだ後から、沙希の様子が変わりました。時折、すごく真剣な表情をするんです。なんというか、覚悟を決めているような、そんな表情に思えます。もちろん、前向きな覚悟ですよ。私はそう解釈しています。あ、手紙は、私読んでませんよ」

 そう言って彼女は笑った。小鴨さんのお母さんが笑うなんて、今まであったっけ?僕は今までの小鴨さんのお母さんとの会話を振り返ったが、思い出せなかった。そして何より、僕は自分が書いた手紙の内容を覚えてないのだ。あの時僕は、HIGHになって全く記憶が残ってなかった。


 電話を置いたのは、23時を過ぎていた。ずっと電話が終わるのを待っていたヒロシが口を開いた。

「まったく、無茶なことをしたもんだ」

「わかってるよ」

「一歩間違えれば、死んでたんだぞ」とヒロシは脅した。

「でも、上手くいったよ。誰も僕を告訴しなかった。だから今夜、家に帰ってこれたんだ」

「終わりよければ全て良し、だな」とヒロシは言って苦笑した。

「これで小鴨さんは、大丈夫だと思う。いい病院に入院していることもわかったし、家族とのつながりも復活できそうだ」

「小鴨さんのお母さんは、みんなお前のおかげだと言ってたな。そう思うか?」

「まさか。僕は小鴨さんに手紙を書いて、病院を変えるよう言って、そして今日彼女の部屋の前で下手なダンスを踊っただけだ。小鴨さんのご家族や、小鴨さんの先生や看護婦さんたちに比べたら、大したことなんかしてない」

「でもお前は、節目節目でクサビを打った。小鴨さんのお母さんが言ってくれるように、それだけは認めろよ」

「まあ、そうだな。やれるだけはやったよ」と、僕は答えた。


「ところで、例のアイスクリーム屋の女の子はどうした?」とヒロシは僕に聞いた。

「やっべえ!」

 僕は彼女のことを思い出して、急に焦り出した。自分を好きだと言ってくれる、この世で唯一の人間に対して僕は何もしていなかった。松田さんや小鴨さんのことで頭がいっぱいで、彼女のことまで頭が回らなかった。普通、順序が逆だろう。僕は、彼女をほったらかしにしていたのだ。

「何もしてないようだな」とヒロシは僕に聞いた。

「うん」と僕は白状した。

「松田さんや小鴨さんと同じように、アイスクリーム屋の彼女も十代ならではの悩みを抱えているはずだよ。話しかけろ、勇気を出して。そして、彼女の力になれ」とヒロシは言った。


 しかし気付くのが遅過ぎた。次の日僕は、仕事の日でもないのにハンバーガー屋のある百貨店に行った。そして、まっすぐにそのアイスクリーム屋に向かった。

「あら太田くん、おはよう」と40代の女性店長が僕に挨拶をしてくれた。僕は高校一年生の時からここでバイトをしていたので、この店長とももう3年の付き合いだった。僕は、その小さなアイスクリーム屋の店内を覗き込んだ。例の彼女はいなかった。

「あの・・・。例の彼女のことなんですけど・・・」と僕はもじもじしながら、小さな声で店長にたずねた。そういえば、僕は彼女の名前も知らなかった。

「ああ、渡さんのこと?太田くんのことが好きな」

「はい。彼女のことです」

「渡さんね、先月一杯でやめちゃったんだよ」と店長は教えてくれた。

 僕は一瞬、頭が真っ白になった。

「高三の受験生だからね。勉強に専念するって、バイトはやめちゃったの」

 タイミングを逸した。店長から、渡さんの電話番号を聞き出すこともできたかもしれない。でも僕は、そうすべきではない気がした。彼女は何も言わずに、僕の前から去ったのだ。もう僕には用はないのだろう。

 明らかに肩を落としている僕を見て、店長は言った。「彼女ね、『今で十分幸せだ』ってよく言ってたよ。ここから、ハンバーガー屋で働いている太田くんを見ているだけで幸せなんだって。私には、よくわからないけど」

「そうですか・・・」

 僕にも、彼女の気持ちはよくわからなかった。しかし、彼女が『幸せ』と言ったのなら、そうなんだろう。そして彼女はバイトをもうやめた。僕の出番はなさそうだ。僕はとぼとぼと歩いて、そのアイスクリーム屋を後にした。

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