第14話 ダンス
8月も半ば近くなり、暑さは最高潮に達した。僕は、近所のドン・キホーテを訪れた。パーティ・グッズを買うためだ。
まずは、と“着ぐるみ”を探すと、パンダと熊と牛があった。パンダと熊と牛。果たして、どれが一番面白いだろうか?僕は悩んだ末に、牛を選んだ。
次はお面だ。僕はハゲ頭に、両脇に赤毛が5cmくらいずつ飛び出たカツラを手に取った。悪くない。僕はそれを、買い物かごに放り込んだ。最後に、赤い団子鼻付きの黒縁メガネを選んだ。よし、これでいい。僕はそれらを全て購入し、満足して家に帰った。
家に帰ったら、最後の特訓だ。僕は買ったばかりの、牛の着ぐるみを袋から出した。早速、それを着てみた。サイズは、ピッタリだった。問題は、どれだけ踊れるかだ。僕は、”牛“のまま三面鏡の前に行った。ヘッドフォンでセプテンバーを聞きながら、繰り返し練習をした。イントロはアップでリズムだけ取る。ブラスセクションが入ってくると、ボックスステップに変える。歌が始まると、今度はスマーフにする。控えめに、小さく踊る。そして歌の途中からリーボックにする。そしてサビだ。ここはポップコーンを踊る。サビの後半に入ったら、ランニングマンだ。そして2番に戻る。着ぐるみのせいで、大汗をかく羽目になった。だが、動きにくくはなかった。よし、これなら行ける。僕は14時から17時まで、3時間練習した。
夕方になって、汗みどろになった着ぐるみを脱いだ。でかい着ぐるみを、洗濯機に押し込んだ。洗濯の最中に、日課の腕立て伏せ、腹筋、スクワットをこなした。洗い終えた着ぐるみを、今度は乾燥機に入れた。こいつが頑張ってくれないと、話にならない。
僕は部屋に戻り、道具の準備とチェックを始めた。ロープを小さなリュックにとぐろ巻きにして詰めた。カラビナを、予定より多めにリュックのポケットに入れた。現場では、何が起こるかわからない。
買ってきたカツラと眼鏡を、忘れないようにロープの下に潜り込ませた。牛の着ぐるみは、僕が用意した小さなリュックに入らなかった。仕方ないので、ドン・キホーテがくれた黄色いビニール袋に入れて運ぶにした。
「おいおい、何を企んでるんだ?」
ヒロシはいつもより早く、僕の部屋に現れた。僕は彼に、何も説明していなかった。相談しても止められるだけだ。だから、彼には言わないつもりだった。
「壁を登るんだ」
ロープの状態をチェックしながら、僕は答えた。ロープは一番重要だ。これに僕の全体重をのせるのだから。新品のロープを用意したが、ほつれやたるみ、緩みがないか、僕はしつこく確認した。
「壁でも崖でも、好きなところを登ればいいよ」と、ヒロシは言って笑った。
「ヒロシ、人はなんのために生きてると思う?」道具をチェックしながら、僕は言った。
「何だよ、いきなり。とうとうおかしくなったのか?」
「答えてくれよ」と僕は迫った。
「うーん。月並みな言い方をすれば、幸せな人生を送るためじゃないか?いい大学に行って、いい会社に入る。出世して高い報酬を得て、豊かな暮らしをする。みんな、それを目指して頑張っているんじゃないか?」
「自分のことだけを考えれば、そうだろう」と僕は言った。「だけど、それだけじゃ足りない気がするんだ」
「お前は、松田さんと小鴨さんのことを言ってるのか?」
「そう」
「お前が満ち足りていても、彼女たちが不幸だったら意味がない。そう言いたいのか?」
「そう」
僕はヒロシの問いに答えてから、洗面所に行った。パリパリに乾いた牛の着ぐるみを、乾燥機から出した。それを丁寧にたたみ、ドン・キホーテのビニール袋にしまった。
「その着ぐるみで、彼女たちを幸せにできるのか?」とヒロシは聞いた。
「わからない。でも、やってみるしかない」
「お前がそんな話をするんなら、俺も難しい話をしよう」とヒロシは言った。「お前は、考え抜いた末にある結論に達したとする。どう考えても、何度考えても、同じ答えに達したとする。この答えは真実か?」
「・・・」ヒロシのあまりに難しい質問に、僕は答えられなかった。黙っている僕を見て、ヒロシはニヤリと意地悪く笑った。
「これが、主客一致の問題だ。主観(=自分の答え)と客観(=真実)が一致するか、という哲学上の大問題だ。カントという哲学者は、これをこう解いた。主客一致の問題は解けない。主観(=自分の答え)が客観(=真実)かを、人間は知ることはできない。なぜならば、この世界には「自分の答えが正しい」と主張する人がたくさんいる。正しい者同士が、いつまでも対立する世界だからね」
「うん」
「もしも、誰もが“誰にも正しいと思える行動”を取るならば、対立や争いのない調和した世界を作ることができる。『君の意志の格律が、いつでも同時に“普遍的立法の原理”として妥当するように行為せよ』。これがカントが提示した答えだ」
「・・・確かに、その通りなんじゃないかと思う」と僕は答えた。でも、あまり自信はなかった。
「この答えは一見良さげだが、致命的な弱点がある」
「何?」
「今のお前は、自分が考えていることが“絶対に正しい”と確信している。誰にとっても正しいと確信しているだろう。だからお前は、そんなに自信満々なんだ」とヒロシは言った。「でもね。誰かがお前に、『お前の行動は間違っている』『お前の考えは間違っている』と言う可能性がある。みんな自由に物事を考える権利を持っているからね。お前の考えに、どうしても納得できない人はいるんだよ」
「うん」
「つまり、『君の意志の格律が、いつでも同時に“普遍的立法の原理”として妥当するように行為せよ』と命じるのは、独りよがりな考え方から脱してないんだよ。」
「ヒロシ、悪いがお前の言ってることがよく理解できないよ」
「そりゃ、そうだろうな。むちゃくちゃ難しい話をしてるんだから。でも、お前が最初に始めたんだぞ」とヒロシは笑いながら言った。しかし笑い顔に、意地悪さは消えていた。
「僕が絶対に正しいと思っても、正しくない可能性があるってこと?」
「その通り。自分が絶対に正しいと思って譲らなかったら、傲慢で強引なリーダーになる。最後には独裁者になる。僕らは10年前、社会主義国家が次々に崩壊して行くのを目撃した。あれが、今の話の典型的な例だ。社会主義国家は、一部のエリートが政治の実権を握り、経済の実権を握り、権力の実権を握った。エリートたちは、自分たちが絶対に正しいと思っていた。自分たちの考えは、国民全員にとっても正しいと信じていた。だから、自分を疑ったりしなかった。反対する者がいたら、迷わず刑務所にぶち込んだ。かくして社会主義国家は、独裁国家となんら変わらなくなってしまった。だから、一部の例外を除いてみんな崩壊してしまった。なぜだと思う?」
「自分の正しさを押し付けたから?」
「その通り。これ、随分前にもおんなじ話したよな?」
僕は記憶を辿ってみたが、思い出せなかった。
「ここに、ある理想がある。素晴らしい理想に見えるかもしれない。しかしこの世には、沢山の考え方があり、沢山の幸せのなり方があるんだ。一つの理想を押し付けたら、沢山の人の考え方を否定し、たくさんの人の幸せの邪魔をすることになる。だから、一つの理想に固執するのはダメなんだ」
「僕は、どうしたらいいんだ?」
「おや、弱気なこと言い出したな」とヒロシは言って苦笑した。
「さっき、お前は言った。お前が満ち足りていても、彼女たちが不幸だったら意味がないと。その通りなんだ。自分が幸福でも、自分の周りの大切な人たちが不幸なら、完全な満足は訪れない」
「なら、どうする?」
「どうするか、もう決めてるんだろ。やってみろよ。ただし、だ。自分が絶対に正しいとは思うな。自分が正しいと思うことを、相手に提示するんだ。そして耳を澄ませ。相手の声を聞くんだ。お前と松田さん、お前と小鴨さん、それぞれの間で、“僕らが正しいと思うこと“を、共同して練り上げて行くんだ。絶対に正しいことなんて、どこにもない。それは、友達と、仲間たちと、周囲の人と意見をぶつけ合い、批評し合ってその都度“正しいこと”を作り上げて行くしかないんだ」
ヒロシの言っていることを、僕はよく考えてみた。答えは、「やってみよう」だった。行動するしかない。どう評価されるかは、相手次第だ。ダメなら修正すればいい。そういうことか。
「とにかく、行動しろよ。この一ヶ月ちょっとの努力は、そのためだったんだろ?やってみろ。そして、相手の言葉や態度や仕草から、評価を読み取れ。それしかない」と、ヒロシは言った。
僕は次の日、電車でXXX病院へと向かった。小鴨さんが入院している病院だ。その病院は、山手線圏内にある大病院だった。ネットでその病院を調べると、精神科は別館だった。しかし、部屋番号などの詳しい情報はわからなかった。僕は時間を調整し、朝9時30分ぴったりにXXX病院に到着するようにした。受付が9時半から始まるからだ。最寄りの駅は市ヶ谷で、そこから僕は30分くらい歩いた。8月の朝は暑く、病院に着く頃にはびっしょりと汗をかいた。
僕は堂々と、正面玄関から中に入った。玄関には警備員が二人立っていた。僕は中へ進んで、総合受付の前に立った。
「こちらで精神科に入院されている、小鴨沙希さんに面会したいんですが」と僕は言った。
「面会時間は、午後1時からなんです」と受付の女性はすまなそうに言った。わかっているよ、そんなことは。調査済みだと思いながら、僕は「では、13時に出直してきますので、彼女の部屋番号を教えていただけませんか?」と僕は受付の彼女に頼んだ。彼女は奥に行き、パソコンで小鴨さんのデータを調べているようだった。
「申し訳ないんですが、この患者さまは面会の許可が下りていない方なんです」とその女性はさらに済まなそうに僕に言った。これも、予定通りである。
「そうですか。では、後日出直します。僕は、彼女の高校のクラスメイトなんです。次回のために、小鴨さんの部屋番号だけ教えてくれませんか」
「別館の407号室です」と、彼女は明るく答えた。よし、これで目指すべき部屋は見つかった。
「小鴨さんが、面会ができるようになったらご連絡します。お電話番号をこちらに書いてください」と受付の女性は言った。彼女は、とても親切な人だった。僕は少し、後ろめたい気分になった。彼女は、自分の職務を全うしているだけだ。何も悪くない。
部屋番号を聞いた僕は、病院の正面玄関を何事もなく出た。それから右に曲がって、本館の大きな建物と、隣のオフィスビルの間にある細い通りに入った。できる限り自然を装って、僕は病院の敷地内に侵入した。
本館の裏側に建つ、細長い病棟が別館だった。本館のような、目立った玄関もなく看板もなかった。一見すると、何の建物かよくわからなかった。建物は8階建だった。僕は、その別館から少し離れたところに立った。用心深く、あたりを見回した。よし、警備員はいない。行動開始だ。
僕は、昨日のヒロシの話を考えた。僕は行動する。これは正しいだろうか?小鴨さんにとって。正直言って、わからない。小鴨さんのお母さんや、お父さんやお兄さんにとっては?小鴨さんの診療をしている先生や看護婦さんたちや、病院で働いている人や、警備員さんにとっては?やっぱりわからない。
だが、黙っていることだけは間違いだ。僕は行動する。そして、皆さんの批評や批判を、喜んで受けよう。批評や批判から、これからの自分を修正しよう。彼らとお互いに納得できるポイントを見つけよう。これでいいんだろう、ヒロシ?もちろん、そうするさ。
僕は別館の北側の端に、屋上から伸びている雨どいを見つけた。よし、これが命綱だ。僕は雨どいのすぐそばまで近寄るとそこでしゃがみ、リュックからロープとカラビナをいくつか取り出した。次に、黄色いビニール袋から牛の着ぐるみを出した。それを、大急ぎで着た。明らかに不審な人物だ。着ぐるみの上から、腰にハーネスをつけ、ロープをしっかりと固定した。そして、すぐ出せるように、カラビナを着ぐるみの腰ポケットに数個入れた。よし、登ろう。僕は雨どいをゆっくりと登り始めた。
予想外だったのは、この建物がかなり古いことだった。雨どいも古く、腐食していた。雨どいを壁に固定しているボルトは、何箇所か緩んでいるところもあった。何だよ、定期的に直してくれよ、と僕は思った。しかし贅沢は言ってられない。僕は雨どいを固定している金属にカラビナをかけ、それにロープを通した。何箇所もかけることで、荷重を分散できる。それが僕の作戦だった。
身体を鍛え、ボルダリングジムで腕を磨いたから、僕はあっという間に4階まで登った。さて、407号室はどこだ?北から401、402と番号を振ってくれていればいいが、それも定かではない。だから、4階全室を、この目で見て潰すしかない。そして小鴨さんが、部屋にいることを祈るしかない。
僕はロープを引きながら、4階を北から右にぐるりと回ることにした。この別館には、バルコニーというものがなかった。まあ、当然だろう。小鴨さんはひと月前に、飛び降り自殺を図ったのだから。僕は三点支持を守りながら、3階と4階、4階と5階の間にある、わずかな凹みや窓枠を使って少しずつ移動した。そうして、一部屋ずつ巡回を始めた。
一つ目の部屋は、中年男性が窓際のベッドで横になっていた。彼は突然現れた僕を見て、びっくり仰天していた。ごめんなさい。お騒がせしてすみません。僕は目で謝りながら、次の部屋へと移った。次の部屋は無人だった。住人はトイレでも行っているのかもしれない。ここが407号室だったら痛いな。そう思いながら、僕は次の部屋へと外壁を伝って移動した。
さっきの中年男性が、もう通報しているだろう。不審者が侵入した、という騒ぎになっているだろう。それも予想の範囲内だ。しかし気づかれたとしても、僕を追って4階に登ってくるやつはいない。はしご車でも用意しない限り、僕を止めることは無理だ。そこに僕の自信があった。
三つ目の部屋に、中学生の男の子だった。彼は僕を見ても驚かなかった。というか、彼の視線はとても虚ろだった。彼のそんな様子に、僕は胸が苦しくなった。なぜ彼がここにいるかは、わからない。ただ苦しんでいることだけは、間違いなかった。僕は彼の幸福を祈った。それしかできない。
この4階は、すべて個室のようだった。精神科の病棟だから、相部屋という訳にも行かないのだろう。5つ目の部屋で、僕は初老の女性の患者と、看護婦に出くわした。二人ともびっくりしていた。そう言えば、僕は今牛の着ぐるみを着ていた。驚くのも無理はない。看護婦は大急ぎで部屋を出て行った。警察を呼ばれるかもな。いや、そうに違いない。だがこれも、計画の範囲内さ。
7つ目の部屋が、小鴨さんの部屋だった。幸いなことに、彼女は部屋にいてベッドから上半身を起こしていた。彼女は、ぼんやりと外を見ていた。そこに隣の部屋から移動してきた、牛男の僕が現れたわけである。彼女は口を閉じたまま目を見開いた。驚くより、怯えた様子で僕の顔を見た。彼女は、びっくりするほど痩せていた。しかし、それでいて彼女は美しかった。僕はこの時初めて、小鴨さんを綺麗だと思った。
僕が予備校に行かなくなったのは5月の終わりだ。だから、約三ヶ月ぶりの再会だった。小鴨さんは、僕の手紙を読んだのだろうか?読んでいれば、少しは驚きも小さいだろう。読んでいなければ、僕はただの覗き魔だ。パジャマ姿の彼女を、外から見ているんだから。そんな細かいことは後にしようぜ。僕は小鴨さんを確認すると、窓枠の四方を見回した。カラビナとロープがかけられる場所を探した。しかし、残念ながらどこにも手掛かりになる場所は見つからなかった。くっそ。しかし、こんなことくらいで引き下がらないぞ。僕は窓のすぐ脇に、エアコンの室外機を見つけた。よおし、僕の命をこいつにかけた。僕はまず、小鴨さんの部屋の室外機に二箇所カラビナを引っ掛けらる場所を見つけた。素早くそこにカラビナをかけロープを張ると、今度は隣の部屋まで戻り、そこにある室外機にカラビナとロープをかけた。
「おーい。貴様、降りてこい」
下で誰がが怒鳴った。見下ろすと、年配の警備員が二人僕の真下に集まっていた。
「真下にいると、危ないです。下がってください」と僕は彼らにそう叫んだ。僕が落ちたら、彼らにぶつかる可能性がある。僕が命をかけるのは、僕の勝手だ。だが、二次被害は避けたかった。彼らも理解してくれて、僕の真下から少し離れた。
さてさて。今の状態では。壁に張り付いているだけだ。上から吊り下がるのが望ましい。頭上を見ると、六階部分にバルコニーがせり出しているのが見えた。おそらく六階は、医師や看護婦の執務室になっているのだろう。私は窓枠や凹みを使って、六階まで登った。しかし残念ながら、そのバルコニーにカラビナをかける場所が見つからなかった。
いやいや、なんのなんの。僕は、周囲を見回した。そして、バルコニーの下部に、排水溝を見つけた。バルコニーの底から下へと伸びる。プラスティック製のパイプを見つけた。これだ、これで全身を吊るすぞ。それに近づくと、これまた想像上以上に古く頼りなかった。まあ、いいさ。カラビナと縄を絡ませて、そのパイプに輪をかけた。完了したら、ゆっくりと四階まで降りた。
さてと、成果を見せるのはこれからだ。僕はリュックからまずカツラを出して被った。次に団子鼻付きの眼鏡をかけた。そんな僕の様子を、小鴨さんは食い入るように見つめていた。僕は彼女に、腰を折って深々とお辞儀をした。
僕はリュックに入れていた、小型のスピーカー付きMDプレーヤーに手を伸ばしやた。手探りで、再生ボタンを押した。大ボリュームでアースウィンド&ファイアーのセプテンバーが流れ出した。ボリュームは、最大にセットしておいた。さて踊れ。僕は満面を笑顔を作って、準備した通りのステップで踊り出した。しかし、いかんせん空中である。実力の半分も発揮できそうになかった。僕がサビになってランニングマンを始めると、室外機に取り付けたカラビナがきいきい言い出した。
死ぬかと思った。しかし、笑おう。最後まで。僕はやけくそで、さらに振りを大きくした。
途中から自然に、僕は歌い出した。自分でいうのもなんだが、僕はまあまあ歌が上手いのだ。すると、小鴨さんが笑いながら、身体をゆすり出した。彼女はリズムを取って、ベッドの上で踊っていた。僕はさらに大きな声を出して歌った。
ねえ 鐘が鳴り響いているよ
僕らのソウルが歌っているよ
小鴨さんは、両手を肩まで上げた。拳を握り、それを左右に振った。愛らしい踊り方だった。サビの「Ba De Ya」のところでは、彼女も口を開いて歌った。
窓は閉まっていたから、彼女の声は聞こえなかった。でも僕は彼女に負けないように歌おうと思った。精一杯、声を張り上げた。今、小鴨さんは笑っていた。心から楽しそうに。これだよ。これなんだよ、僕がしたかったことは。
僕は踊り終えると、もう一回深々と小鴨さんにお辞儀をした。それからまず六階の縄を外し、次に四階の固定したポイントも全て外した。そしてフロアを慎重に伝って北側の雨どいまで戻った。そして、雨どいを固定している金属から一つずつカラビナを外しながら下りていった。雨どいを固定しているボルトは、僕を支えたせいでさらに緩んだ気がした。
これも、弁償しなくちゃな。僕はそう思いながら、地上に戻った。そこには、二人の警備員に加えて、制服姿の若い警察官が二人到着していた。彼らの前で、まず僕は急いで牛の着ぐるみを脱いだ。暑くて耐えられなかった。
「お前、名前は?」と警察官の一人が言った。僕がフルネームを名乗ると今度は、「住所は?」と来た。それも答えると、「証明できるものを見せなさい」とまた命令した。
僕は運転免許証と、予備校の学生証を彼に渡した。「そうか。予備校生なのか」とそれらを手にした警察官は、独り言のように言った。他の三人は、彼の両脇から覗き込んで、僕は運転免許証と予備校の学生証を見ていた。
本館と別館の間の道路には、すでにパトカーが停まっていた。そのパトカーのそばに、深緑のくたびれたスーツを着た中年男性が立っていた。彼は、退屈そうに車の脇で煙草を吸っていた。年に似合わず、彼は髪を肩まで伸ばしていた。
「乗れ。署で詳しい話を聞かせてもらう」と、免許証と学生証を奪った警察官が僕に言った。「これは、しばらく預っておく」とも言った。
こうして僕はパトカーに乗り、警察署へ向かった。
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