第13話 松田さん5
松田さんから、電話がかかってきた。彼女が30分以上泣いた夜から、きっかり二週間後に。時間は、ぴったり20時だった。
「ねえ、太田くん。今日は、何も質問しないって約束して。今夜は、私が太田くんに質問するの。それだけにするの。いい?」と松田さんは、最初にそう言った。
「わかった。僕は、松田さんに質問しない。僕は、松田さんの質問に答える。それでいいんだよね?」
「そう、それでいいの。それが今夜のルール」そう言って、彼女は軽やかに笑った。気持ちが落ち着いていることが、すぐに理解できた。
「ねえ。毎日、何してるの?」と彼女は聞いた。
「今は夏休みだから、毎日家にいるよ。というか、実は五月の終わりから予備校には行ってないんだ」と僕は白状した。
「なんで予備校行かないの?せっかく授業料も払ってるのに、もったいないじゃない」
「それはその通りなんだけど、なんかバカバカしいんんだ」
「予備校が?」
「そう」
「ふうん」
松田さんはそう唸って、しばらく黙っていた。そのことについて、考えてくれているようだった。
「ねえ、どこかバカバカしいの?」
「大学の試験問題は、ほとんど引っ掛け問題なんだ。普通の人が気がつかないところに、答えを隠してる。予備校は、その引っ掛け問題に引っかからない方法を教えてくれる。でも、そんなことばかり覚えたって、僕には何の役にも立たない気がするんだ。だから、行くのをやめた」
僕がそう言うと、その意味について松田さんはまた考え込んだ。僕らは、電話中の沈黙を全然気にしなかった。お互いに、黙りたいだけ黙っていていい。話したいと思ったときに話せばいい。それが、いつの間にかできたルールだった。
「それで、予備校に行かないで毎日何をしてるの?」
「本を読んでる」と僕は答えた。「それから、ギターを弾いてる。ビアノを練習してることも多いな」
「ピアノも弾くんだ?!」松田さんは、とても驚いていた。
「浪人生になってから、独学で始めたんだ」
「そうなんだー」
「うん」
「文化祭で、ギター弾いてたよね。私、太田くんのバンド聴いたよ」と松田さんは言った。
「我ながら、下手くそなバンドだったよ。聴いてもらって申し訳なかった」と僕は謝った。
「ビートルズのバンドだったよね。ビートルズが好きなの?」と松田さんは僕に聞いた。
「ビートルズはすごいよ。この世を変えちゃったんだ。そのことに気がついてから、大ファンになったんだ」と僕は答えた。
「ビートルズの何が凄いの?」
「うーん、そうだな。説明が大変なんだけど。松田さん、何か楽器習ったことある?」と僕は聞いた。
「私もピアノ。小学校一年から習ってた。小学校高学年になってから、エレクトーンに代わって、クラシックじゃなくて普通のポップスも演奏してたよ」と松田さんは答えた。
「それなら話は早い」と僕は言った。「コードもわかるよね?」
「もちろん!」
「楽典も知ってる?」と僕はたずねた。
「ええ・・・、そっちはあんまり強くなかったな。だって、難しいんだもん。私は目の前の曲が弾ければ良かった。音楽理論には、あんまり興味が持てなかったな」と松田さんは答えた。
「それが自然だよね。なぜなら、作曲理論を作る人は作曲家じゃないんだ。作曲できない人が、ショパンとかシューベルトとかベートヴェンとかの曲を研究して作曲理論を作ってるんだ。作曲理論を語る人が、いい曲を作ったなんて話は聞いたことがない」
「そう言えば、そうだね」と松田さんは僕の意見に同意した。
「僕は、いわゆる楽典から、ポップスの作曲理論を解説した本まで何冊も読んだんだ。でもさ、何冊読んでも、ビートルズの曲を説明できない。これは、本当に困ったよ」
「何が説明できないの?」と松田さんは聞いた。
「専門的な話になっちゃうんだけど・・・」と僕は最初に断った。
「キーがCとするよね。僕の謎は、Bbメジャーだったんだ」
「それのどこが謎なの?」
「クラシックを基にした、作曲理論の本をいくら読んでもね、キーがCでBbメジャーの和音を使うと解説をしているものはないんだ。答えは、そこにはなかったんだよ」
「どこにあったの?答えは」
「古いロックンロールだね。一番シンプルなロックンロールは、キーがCなら『C7ーF7−C7−G7−F7−C7』という12小節の繰り返しになる。古いブルースも同じだね。ここで問題は、C7の7だ。これはBbなんだよね。C7-G7の進行の時に、このBbを弾きっぱなしにすると、G7はGm7に変わっちゃうんだよ」
「ふうん、言われてみればそうなるね」
「ビートルズはこの事実に気がついて、さらに先に進んだ。Gm7の代わりに、Bbメジャーを弾くことにした。つまり、BbメジャーはGm7の代理コードだったんだよ。これを知って僕は、やっとBbメジャーがロックで頻繁に使われる理由がわかった。
もちろん、曲の中でBbメジャーを使った人は、ビートルズ以前にも沢山いたよ。でも、それをG7の代理コードとして意図的に使ったのは、ビートルズが最初だと思う」
「私、ヘイ・ジュードなら弾いたことあるけど、そんなに難しいと思わなかったよ」
「ヘイ・ジュードのメインメロディは、わざとベートーヴェンみたいなコード進行になっている。狙ってそうしたんだろうな。後半との落差をつけるために。そして最後に、Bbメジャーが出てくる。『ナナナ、ナナナナー、Hey Jude』のところは、キーをCにすると、Cメジャー-Bbメジャー−Fメジャー−Cメジャーになっている。この繰り返しが、何度聴いても飽きない。強烈なコード進行だ。しかもシンプルだ、すごく」
「そう言えば、そうだった。でも、私は楽譜を追ってただけだから、全然気がつかなかったな」
「ビートルズは、これで終わりにしなかった。BbメジャーがGmの代わりなら、FmもCmの代わりも作ることにした。Fmの代わりにAbメジャー、Cmの代わりにEbメジャーを使った。でも、これをCメジャー、つまりCの長調で使ったんだよ」
「長調なのに、短調のコードを使ったってこと?」
「その通り。だからビートルズの曲は、一曲の中で長調と短調がごちゃ混ぜになっていることが多い。でも聴き手には、ほとんど気付かせないように作っている。だからすごいんだ」
「太田くんって、本当に面白い人だよね。そんなに音楽に詳しいなんて、私全然知らなかった」
「いや、そんなに詳しい訳じゃないよ」と僕は弁解した。「ただ、知りたいと思ったらのめり込んじゃうんだ。ちなみに、BbメジャーもAbメジャーもEbメジャーも、ロックの世界では当たり前になっている。ビートルズが編み出したコード進行を、同時代のプロミュージシャンたちがこぞって真似したから。だけど作曲の理論書には書いてない。クラシックの理論一辺倒だ。おかしな話だよ」
「大事なのは『知りたい』って、思うことなのね。私にとってピアノやエレクトーンは日常的過ぎて、演奏するだけで満足してた。それぞれの曲の仕組みなんて、作曲家の仕事であって私には関係ないと思ってた」
「僕はね。ビートルズの曲の作り方、そしてメロディーの組み方を勉強して、ものすごく頭が良くなった気がしてるんだよ。人からみれば、たかがロック・ミュージックだ。でもね、その組み立て方はとても計算されてて、かつ大胆な発想の転換に溢れてるんだ。僕は彼らの編み出した考え方を、違う分野に応用してる。するとね、するっと理解できるんだ、いろんなことが。僕は、ビートルズのアイデアを他に援用して、いろんなことを覚えてる。そんな気がする」
松田さんとビートルズの話をするのは、とても楽しかった。その一方で、僕は松田さんの体調が心配だった。四月のあの日から、16週間が過ぎていた。つわりが激しい時期のはずだ。これも個人差が相当あるらしいので一概には言えないが、松田さんが不調をこらえて、僕に電話しているのかもしれないと考えると胸が痛んだ。
そして、中絶手術出来る限界が目前に迫っていた。彼女は、手術の手続きを進めているのだろうか?でも今日は、僕は質問しない。そういう約束だった。
「でもなんで、Bbメジャーの秘密がそんなに知りたかったの?」と松田さんは、ビートルズの話を続けた。今日の松田さんは、体調がいいのかもしれなかった。
「曲が作りたかったから」と僕は答えた。
「太田くん、作曲するの?」
「うん」
僕はビートルズから知ったコード進行を基に、それを少しだけ変えて自分の曲を作っていた。当時はまだDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)が世の中に現れたばかりで、とても高価だった。僕はパソコンは持っていたけど、とてもDAWは買えなかった。その代わり、簡易なシーケンサーソフト(パソコンに音を打ち込んで、パソコンに演奏させること)で満足した。
「すごいね、作曲できるなんて」
「全部ビートルズの真似だよ。それに、全然大したもんじゃない」と僕はまた弁解した。
「ねえ、いつか聞かせてよ」
「うーん、そうだねえ。あんまり明るい曲じゃないんだよ、僕が作るのは。というより、すごく暗いんだよ。だから、松田さんには合わない気がする・・・」
僕が作るのは、政治や歴史や犯罪に関する歌だった。恋愛の曲は、一つもなかった。特に犯罪については、罪を犯した者をどうしたら赦すことができるか、が僕のテーマだった。僕は犯罪者にある種のシンパシーを感じていた。だから僕の作る曲は、普通ではない歌詞になった。
「暗くてもいいよ。太田くんの作る曲、是非聞いてみたい!」
「今度、高校時代のバンドメンバーを集めて、録音してみるよ」
「うわあ、すごい楽しみ!」
松田さんと話しながら、小鴨さんのことは一言も話すまいと決めていた。高校の同級生だから、きっと松田さんも小鴨さんんの噂話に聞いていただろう。だけど僕は、松田さんに余計な心労をかけたくなかった。だから敢えて黙っていた。
「ところで太田くん、肝心の受験勉強はしてるの?」
「全然やってない」と僕は正直に言った。
「ねえ」と松田さんは僕に語りかけた。包容力のある、あのお母さんのような優しさに満ちた話し方だった。
「もう夏なんだよ。そろそろエンジンかけないと。引っ掛け問題が好きになれなくても、それが大学入試の問題なんだから。好き嫌いの問題じゃなく、その世界に合わせていかないと」
「はい」
先生に怒られた生徒のように、僕は返事をした。ぐうの音も出なかった。そろそろ本腰を入れないと、二浪するぞ。僕もそう思った。
松田さんとの電話を終えた。僕は、部屋の照明を消した。でも、小さな電気スタンドだけ点けて、机の隣にあるピアノに向かった。ピアノと言っても、3万円くらいの安い電車ピアノだ。でも今の僕には、これで十分だった。
譜面台に楽譜を開いて置く。それは、Bill Evans の作品集だった。開いたページは、「B minor waltz 」。大好きな曲だ。
でもこの曲は、ピアノ初心者には難しすぎた。とくに、左手で弾くコードは地獄の責め苦だった。僕は、「つっかえ、つっかえ」ではなく、一秒ずつこの曲を弾いた。曲の“一秒”を、毎回十五秒くらいかけて弾いた。
でも僕の耳には、Bill Evans の演奏が聴きえた。彼が弾く「B minor waltz 」が、ずっと流れていた。
この曲の練習を始めた頃、僕は坪田さんのことを思い出した。でもやがて、松田さんと小鴨さんに代わった。この曲を弾くたびに、二人のどちらかが現れた。彼女たちは、僕の耳元で何事かを伝えた。だが僕は、彼女たちの言葉を聞き取れなかった。もどかしい体験だった。それから、無力感に襲われた。
「B minor waltz 」を、ピアノで弾くこと。それは僕にとって、第一に「心を揺さぶられ胸に痛みを覚えること」だった。それは、現在でも同じだ。第二に、松田さんと小鴨さんを想うことだった。もう、坪田さんではなかった。仕方のないことだった。
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