第12話 戦闘準備2
転院の話をした夜、僕は真夜中に家を出た。目的は、TSUTAYAだった。見たい映画があった。それは、ウッディ・アレンの「ハンナとその姉妹」という作品だ。1988年製作の古い映画は、幸いレンタルされていなかった。僕はTSUTAYAでその一本だけを借り、家に帰った。家に戻ると、それをプレーヤーにセットし、ヘッドフォンをして映画を見始めた。音が聞こえないヒロシは、何も言わずに帰ってしまった。
「ハンナとその姉妹」は、三人の姉妹をめぐる3つのストーリーが同時進行で進むという、ウッディ・アレンらしい複雑な造りの映画だ。その上、ウッディ・アレン自身が「自分がいつか死ぬ」という事実に悩む中年男性を演じていた。僕のお気に入りで、すでに何度も見た映画だった。だが今見ると、死に悩むウッディ・アレンのセリフに僕は強く惹きつけられた。
「ニーチェの永遠回帰なんて、テレビの再放送とどこが違うんだ?」
ウッディ・アレンのセリフは、死の恐怖に怯えながらもユーモアに溢れていた。死という深刻な問題なのに、僕はくすくす笑いながら映画を見た。真夜中に一人で。我ながらおかしな奴だ。だいたい、映画なんか見てないで勉強しろよ。わかってるさ、と僕は自分に答えた。でも僕には、もっと重要な問題がある。それに取り組まなくてはならない。
映画を見終えた時、すっと答えが降ってきた。まるで雪みたいに。今日は7月だったが、僕の頭にはパウダースノウが舞っていた。
「笑いだ」
僕は、そう独り言を言った。笑うことを取り戻せ。僕の心は決まった。
次の日から僕は、早朝ランニングを始めた。初日は、ゆっくり。でも、ゆっくり走っているのに、たった1kmでヘトヘトに疲れた。僕は2km地点で走るのをやめ、歩いて家に帰ってきた。我ながら、ここまで体力が落ちている事実に愕然とした。だが、なあに、徐々に身体を慣らしていけばいい。一週間もすれば楽になるさ。僕は自分で自分をそう説得した。
家に戻ると、腕立て伏せ、腹筋、スクワットをやった。僕はもう、腕立て伏せも腹筋も10回できるようになっていた。進歩している。僕は、昼も夜もそれを繰り返し、明日からは20回にノルマを伸ばすことにした。
昼間に、駅前の本屋へ行った。僕はなんと、「はじめてのリズムダンス」という本を購入した。ダンスは、昨日までの僕には無縁の代物だった。だが、今日からは違う。これは、強烈な武器だ。これを、なんとしても身につけなくては。
本はまず、ストレッチの解説から始まった。僕は山岳部だったので、ストレッチは全部知っていた。しかし、次の章に入って僕はぶったまげた。それは「アイソレーション」の解説だった。
アイソレーションを簡単に解説すると、全身を固定した状態で首、肩、胸、腰のどれか身体の一部分だけ動かすことだ。他の全てを動かさずに、そこだけ前後左右に動かすという。しかもこれが、現代ダンスの基本中の基本だそうだ。これができなければ、何も始まらないらしい。
僕の家は中古のマンションで、洗面台に大きな三面鏡があった。朝食を食べて少し休んだ後、僕はその三面鏡の前に立ってアイソレーションの練習を始めた。
「お前、とうとう頭がどうかしたのか?」
鏡の前で踊る僕を見て、出勤寸前の父は驚いて言った。しかし頑固な僕が、両親のアドバイスを聞くわけもないので「勝手にしろ」と言って父は家を出て行った。そんな父と僕のやり取りを見て、母はただ肩をすくめただけだった。アイソレーションは朝、昼、晩一時間。腕立て伏せ、腹筋、スクワットの後に行うこととした。
同時に、アップとダウンのリズムを取る練習をやった。僕はギターでビートルズを弾いていたので、これは理解しやすかった。ギターもダウンとアップのストロークで曲を弾く。しかし理屈はわかるが、できるかはまた別の問題だ。僕は洗面台の前でヘッドフォンで音楽を聴きながら、アップ、ダウンのリズム、そして反対のダウン、アップのリズムを繰り返し練習した。
さらに僕は、ネットでボルダリングができる場所を探した。ボルダリングとはロープを使わずに、小さな手がかりや足掛かりを頼りにして、岩をよじ登るスポーツのことである。僕は、これもマスターしなくてはならなかった。天王洲に、二時間で2,000円のボルダリング・ジムを見つけた。ちょっと高いが仕方がない。ハンバーガー屋のバイト代を使えばなんとかなる。僕はバイトがない平日の昼間に、天王洲のジムに通って二時間壁と格闘した。
登れない。見事なまでに登れない。登るにあたっては、三点支持というルールがある。両手両足のうち、3点を固定する。最後の一つ(手足)を動かして壁を登っていくのだ。その最初の一つが上がれない。大汗をかいて、壁の一番下で格闘していると、僕のすぐ脇を子供がスイスイと登って行った。その子はあっという間に、3mもある壁の天井に到達した。つまり僕は、自分の体重に対して、筋力が弱すぎるのだ。僕は筋トレの回数をさらに増やすことにした。
そのジムでは、毎週土曜日の午前と午後に、ロープワークの講習も開いていた。1回、3,000円。これも痛いが仕方がない。僕はロープも扱えるようになりたかった。ハーネスという安全ベルトを胴体に身につけ、それにロープをしっかり結ぶ。その状態で壁を登って行き、要所要所で“カラビナ“を、岩の割れ目や小さな穴に引っ掛けて安全を確保する。そしてそれに新たなロープを通し上に登っていく。僕はその土曜日の午前の講習に、毎週欠かさず通った。そして午後は家に戻り、ハンバーガー屋で真面目に働いた。相変わらず勉強はしなかった。
8月の初めになった時、僕は腕立て伏せも腹筋も50回できるようになった。ランニングは、自宅付近から場所を変えた。自転車で十分のところに、東京湾の人工海岸があった。そこで、海辺の道を走ることにした。浜にはレンタル自転車のお店があって。そこをスタート地点に海外沿いに走行キロ数の表示があった。このキロ数表示は、走る距離を伸ばすのに役立った。走り始めて3週間で、僕は毎日12Kmを走れるようになった。長い海岸線を走り、6kmと表示された石柱のところで折り返す。12kmの距離を、僕は楽に走れるようになった。僕は、スピードも上げた。タイムは確実に縮まった。
続いて僕は、ダンスのステップへと進んだ。ボックスステップ、スマーフ、キックステップ、ポップコーン、リーボック、ウェーブ、ランニングマン、ロジャーラビット、ブルックリンと、実に様々なステップの技が本には書かれていた。これを組み合わせて、一曲を踊るわけだ。どう組み合わせりゃいいんだ?
踊る曲は、アースウィンド&ファイアーのセプテンバーと決めた。彼らの代表曲であり、僕も大好きな曲だ。僕は親友の助けを求めることにした。
僕は、高校時代にバンドを演っていて、文化祭で下手な演奏を披露したものだった。そのバンドのボーカルだった女の子が、子供の頃からダンスを習っていた。彼女が踏むステップは、本当に優雅でエレガントだった。一目見れば素人でもわかるほど、彼女のダンスは際立っていた。彼女ならば、セプテンバーをどう踊ればいいか教えてくれるに違いない。そう思って僕は彼女に電話をかけた。
「セプテンバー?あれなら簡単だよ。リズムも取りやすいし」
事情を説明すると、彼女はすぐにそう答えた。簡単?いや、結構難しいリズムだと思うんだが・・・?
「何で、ダンスなんか練習してるの?勉強、大丈夫?」と彼女は僕に聞いた。彼女は、ある私立大学に入学していた。アイソレーションが難しいと僕が訴えると、「基本だよ、そんなの」と一刀両断にされた。
「アイソレを身につけるには、最低でも一年、いやそれ以上かかるよ。何でそんなことやってるの?」
一年かけてる時間はない。最長でも一月でマスターしなくては。いや、2週間だと僕は考え直した。
僕はその彼女に、小鴨さんの話を伏せておいた。個人のプライバシーに関わるし、ややこしい事態に彼女を巻き込みたくもなかった。僕は訴えた。とにかくセプテンバーを踊りたい。そこで、曲調に合ったステップをアレンジして欲しいと。僕は覚えたてのステップをあげ、これでセプテンバー用のコンビネーションを考えて欲しいと僕はお願いした。
「そう、そんなの訳ないよ。いくらでもやりようはあるよ。何パターンか考えるから、太田くんの好きなやつを選んで」と彼女は、なんでもないというように答えた。どの世界にも、その道のスペシャリストがいるということだ。一人で悩まず、頭を下げて頼んでしまった方が話は早い。
「でもね、アイソレをちゃんとマスターしないと、いくらステップを覚えてもダメだからね。格好だけに終わるよ」と彼女は僕に忠告した。
「わかった。アイソレ頑張るよ」と僕は答えた。しかし、僕には自信がなかった。
三日後、彼女から各四の封筒が届いた。中には3パターンのセプテンバー用コンビネーションが示された紙が入っていた。セプテンバーの歌詞があり、その下にステップ名が記入されていた。 僕はその3パターンのダンス指示書をしげしげと眺めた。そして、「これが、一番簡単だと思う」という彼女のメモを見つけた。
よし、これだ。これを2週間で覚えよう。
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