第11話 戦闘準備1
次の日、僕は朝7時に目を覚ました。そしてまず、腕立て伏せを10回、腹筋を10回、スクワットを100回やってみた。僕は高校時代、山岳部に所属していた。だから、下半身には自信があった。しかし上半身は、皮と骨しかなかった。腕立て伏せを10回しただけで、両腕はブルブル震えた。やっとの思いで、僕はノルマをやり遂げた。それくらい、僕には上半身に筋肉がなかった。
腹筋はさらにひどかった。5、6回目くらいから、身体がピクリとも上がらなくなった。お腹が燃えるように熱くなり、僕は10回のノルマをこなせなかった。僕は大汗をかきながら、自分に課した肉体の課題と格闘した。
最初のふたつに比べれば、スクワットは楽勝だった。200回に増やしてもいいな、と自分で思った。僕は今日から、この課題を朝、昼、晩の三回やろうと心に決めた
身体をいじめた後で、僕は朝食を食べに台所へ行った。両親はびっくりした様子で僕を見ていた。昨日までの僕なら、昼まで寝ていたのだから。驚くのは当たり前だった。
「お前、どうしたの?」と母親が聞いた。
「図書館で、勉強することにしたんだ」と僕は答えた。
それは、半分嘘ではなかった。僕は8時に家を出て最寄りの駅に行き、電車に乗った。終僕はまっすぐに市立図書館へと向かった。僕が到着したとき、まだ開館10分前だった。入り口に立って、ドアが開くのをじっと待った。
市立図書館は、広い森林公園の中にあった。木立が何重にも並び、沢山のセミが一生懸命に鳴いていた。彼らの命は、一週間なんだと僕は思った。考えてみれば、切ない生き物だった。その代わり彼らは、種類によるが地中で何年も生活をしていた。真っ暗闇の中で、いつか地上に出て精一杯鳴くことを思い描きながら、つらく苦しい地中生活を過ごすのだろうか?
いや違うな、と僕は思った。セミにそんな思いを寄せるのは、人間の理性のせいだ。理性が、セミはつらいとか、悲しいとか、知りたいとか、成長したいと想像するだけだ。セミには、余計なお世話かもしれない。
セミのことを考えているうちに、図書館が開館した。制服を着た可愛らしい二十代の女性が、入り口の鍵を解いて僕を中へ入れてくれた。僕はまっすぐに階段に向かい、2階へ登った。そして、「医学」と案内板が掲げられた一角へ向かった。
精神医学のコーナーは、すぐに見つかった。そこには、素人向けの入門書から、分厚い専門書までずらっとそろっていた。
臨床、臨床、臨床と、僕は何度も唱えた。僕は片っ端から手を出して、本を開いて読んだ。デタラメに開いて数ページ読み、すぐに本棚に戻した。僕はそれを、何度も繰り返した。
これは、僕の経験談だ。本とは、数ページ読めば筆者の実力が分かる。難しいことを。簡単に説明できるのが本物の文章家だ。だが残念ながら、ある分野で優れた実力を持つ人が、同時に優れた文章家であることは少ない。だから何かを知りたければ、分かりやすい本も、分かりにくい本も読む必要がある。
カントが、格好の例だ。主張していることは素晴らしいのだが、あまりにも文章が下手くそだ。同じことをくどくどと何度も繰り返して、かえって読んでいる側を混乱させる。でも、彼の哲学は、永遠に残る価値がある。だから、文章の良し悪しだけで判断してはいけない。
僕は一時間ほどかけて、精神医学について入門書から専門書まで組み合わせた10冊を選び出した。市立図書館は、一度に10冊まで借りられる。僕は図書館のカウンターで、その10冊を借りる手続きを済ませた。そして本をリュックに詰め込み、急いで家に帰った。
家に戻り、自分の部屋の机に座った。さあ、始めるぞ。僕はまず、一番簡単な文章の本から読み出した。その入門書の本は、一時間もすれば読み終えた。すぐに、僕は次の本に手を伸ばした。そしてまた読み終えると、次の本に手を出す。僕はそれを繰り返した。
同じ分野の本を続けて読むと、その分野のコアが見えてくる。なぜなら、書き方は違えど、みんな同じ問題を論じているからだ。そのコアがおぼろげに見えてくると、僕は最初に読んだ本を読み返す。すると、コアを知った僕は、すでに読んだ本を最初よりさらに深く理解できるようになる。れを延々と繰り返す。次第に僕には、精神医学についての『像』が見えてくる。
ここまでたどり着いたら、僕はノートを広げる。真っ白なページの中央に、“これがコアだ”と思う言葉を2行くらいで書き込む。それを、丸で囲む。さらに、そのコアに派生する言葉もノートに書き込む。本を読みながら、派生語をどんどん書いていく。派生語を丸で囲んで、“丸で囲んだコア”と線でつなぐ。派生語の、さらに派生語も書いて丸で囲む。沢山の丸がノートを埋め尽くし、それらが無数の線で繋がれる。
さらに本を読み進めると、自分が書いたコア関連図が「全くの勘違いだった」ことに気づくことがある(=最初の図は、ほぼ100%勘違いだ)。これも、よくあることだ。僕はそのページいっぱいにバツを書き、そのページを捨てる。そして新しいページの中央に、新しいコアを書く。派生する言葉を並べ直して、また中央のコアと線でつなぐ。
そろそろ本格的な専門書に手を出し、それから学んだ言葉を図に加える。ダメだと思ったら、潔くぺージ全体にバツと書く。また、新しいページに進む。言葉はどんどん並べ替えられ、言葉と言葉を結ぶ線は編み変えられる。一番最初とは、全く違った関連図になる。それでいい。これは、いくらでもやり直せるのだ。こうして僕は、問題のコアを磨き上げていく。
まったく、これくらいのエネルギーで受験勉強をすればいいのにな。僕は、我ながらそう思った。しかし僕は、精神医学に熱中していた。頭はフル回転し、情熱は燃え上がっていた。こんな気持ちで、受験勉強することは僕にはできない。
僕はこの作業を、丸三日間続けた。この世には、それはそれは“様々な心の病”があった。いったいどうしてそうなるのか、理解に苦しむ事例も沢山あった。しかし、それらの事例は、硬く死へと結びついていた。無数に編まれた蜘蛛の巣が、一本の主糸によって支えられるように、心の病はことごとく死へと向かっていた。
僕が選び出した10冊の本の著者たちは、それぞれの方法で死の問題と格闘していた。患者を救えなかった事例を、勇気を出して語る人も沢山いた。きっと、つらかったに違いない。たが彼らは、未来を見据えて本を書いているのだ。自分の失敗を明らかにして、これからの人が同じ失敗をしないで欲しいと願っているんだ。僕はそれが理解できた。
三日経って、僕はある仮説に到達した。『小鴨さんは、薬が合っていない』と。精神医学の治療において、精神科医は、その患者に必要な薬を調合する。その薬は、患者の脳のある部分に働き、それを活性化させるか、または不活性化させる。そうすることで、患者の不安や興奮、不安定さを抑制させる。小鴨さんは、投薬を受けながら二度目の自殺を試みた。すると小鴨さんは、“不安定さの制御”が機能していなかったと言える。つまり医者が、小鴨さんに適切な薬を渡していない。医者が、彼女の症状を見誤っているということだ。
次の日の朝、もはや日課となった腕立て伏せ、腹筋、スクワットをした。僕は朝食を食べ、それからじっと10時になるのを待った。小鴨さんのお母さんに電話をするためだ。失礼のない時間は、10時だと僕は仮定した。
10時きっかりに、僕は電話のダイヤルをプッシュした。ベルが2回鳴っただけで、小鴨さんのお母さんは電話に出た。
「もしもし、おはようございます、太田です」と僕は、早口で名乗った。
「ああ、太田さんですか。先日は本当に失礼しました。本当に年甲斐もなく取り乱してしまって、本当に恥ずかしくて申し訳ない気持ちでいっぱいで・・・」
小鴨さんのお母さんがまだしゃべっているのに、僕はそれを断ち切るように話を始めた。
「小鴨さんに、今のお薬は合ってないと思うんです」と僕は言った。
「・・・」
突然の僕の話に、小鴨さんのお母さんは当惑されていた。「いったい何の話だ?」と思われているのを、僕はひしひしと感じた。しかし、引き下がるつもりはなかった。
「薬が効いているかどうかは、血液検査である程度判断できます。今の先生は、小鴨さんの症状が改善していないのに、散歩する許可を与えたんです。これは致命的なミスです。数値を読み違えたか、読み取るのを怠ったか、あるいは小鴨さんの症状について完全な勘違いをしているのか、それのいずれかか、全てかです」
「そうなんですか?」しばらくして、小鴨さんのお母さんはようやく口を開いた。僕の言っていることに、まだピンときていないようだった。
「お母さん」と、僕は力を込めて言った。「病院を変えましょう」
「はあ?」
「今の先生はダメです。そんな先生に、小鴨さんのような危険度の高い患者を任せている病院もダメです。もっと小鴨さんの症状に合った、優れた先生がいる病院に移りましょう」
「・・・あの、今の病院は、主人と懇意にして下さっている方が院長をされているところなんです。そんな簡単に移ることは・・・」
「お母さん、事態は一刻を争う状況だと思っています」と僕は言った。「その院長には、『セカンド・オピニオンを得たい』とお父さんから説明して下さい。次の選挙で院長は、お父さんに票を入れないかもしれません。でも、そんなことどうでもいいじゃないですか」
僕はまた、興奮して怒鳴り始めていた。一歩間違えば、ただのクレーマーだった。でも、どう思われても僕はよかった。小鴨さんの命を守れるのならば、他の全てはどうでもいいことだった。
「お父さんは、国会議員ですよね。いろんなお付き合いやパイプがあるでしょう。それをフル活用して下さい。望む限り最高の医療を、小鴨さんに与えて下さい」
「どうして、病院を移った方がいいとあなたは思うのですか?」と、間が空いてから小鴨さんのお母さんは僕に質問した。
「勉強しました。そして、今の病院ではまずい、危険だと思ったんです」と僕は言った。
「わかりました」と、彼女は今度はすぐに答えた。「太田さんを信じます。主人は、私が説得します。何としても説得します。それが、正しいんですよね?」
「はい、それが沙希さんを救う道です」と僕は言った。
その日の夕方に、小鴨さんのお母さんから電話がかかってきた。さすが国会議員だ。やる気になったら速い。
「XXX病院に移ることになりました。主人は、最初ブツブツ言ってました。「沙希は、あの病院で治療を受けたのにもう一度死のうとしたんだ」と言うと、病院を変えることに納得しました」
「良かった・・・」
XXX病院の医師が書いた本を、僕は一昨日読んでいた。彼は患者の個性を尊重し、それぞれに最も合う治療を模索していた。もちろん失敗もあった。命が失われたこともあった。つらい記憶も、彼は隠さず本に記していた。その真摯な姿勢に、僕は共感した。小鴨さんのお母さんと電話しながら、僕はその本を手に取った。裏表紙の発行日を確かめると、去年出版されたばかりだとわかった。こういう医者がいる病院なら安心だ。
「XXX病院なら、大丈夫です」と僕は、偉そうに言った。
「なんで、大丈夫だとわかるんですか?」
「その病院の先生が書いた本を読んだんです。いい先生です。池畑さんという方です。いい先生が存分に働けるということは、いい病院だということです」
「今夜、XXX病院に移ります。一刻を争うんですからね」
「お母さんの言う通りです」
「ねえ、太田さん」と小鴨さんのお母さんは言った。それから、しばらく黙っていた。
「はい、なんでしょうか?」と待ち切れなくなって僕は彼女に聞いた。
「娘は、沙希は私に似て良かったんでしょうか?」
それは重い質問だった。僕が「自分が田崎なら」と思うのとよく似た疑問だった。しかし、その思いは格段に彼女の方が深刻だった。間を置くな、隙を見せるな、一瞬たりとも。そう僕の良心がささやいた。
「当たり前じゃないですか。沙希さんは、とても魅力的な女の子ですよ。おまけに大変な努力家です。素晴らしいことですよ」
「太田さん」と小鴨さんのお母さんは僕に呼びかけて、またしばらく間をとった。そして、話を再開した。「太田さん。あなたが、そうおっしゃってくれるとわかっていました」と彼女は言った。
「いえいえ、ただ思ったことをお話ししているだけです。自分が正しいと思ったことを、言葉にしているだけです」
「太田さん、あなたは私の親友です。」
いやあ、参ったなと正直思った。しかし、後には引けない。まず第一手は打った。次は何をすべきかだ。そう考えながら、僕らは電話を置いた。
「病院を、変えさせるとは」と言って、ヒロシは絶句した。「俺は、お前のすることに驚きだよ」
「当たり前だろう」とすぐ僕は言い返した。「小鴨さんは、ずっと自殺するチャンスを探してたんだ。そんな患者に、病院の庭とはいえ外出許可を出すか?彼女は飛び降り自殺を試みたけれど、病院の外に出て、走っている車に飛び込むことだって出来たんだ。患者がそういう状態だと気付けないヤツは、間違いなくヤブ医者だ」
僕の勢いに、ヒロシは首をすくめた。
「確かに、お前の考える最悪のシナリオの可能性はあった。お前はリスクを極小にしようと手を打った。人を動かした。すごいよ」
「だが、まだ足りない。僕はそう思う」
「まだ、何かする気なのか?」
「当然だよ。相手は“死にたいと心から願っている人“なんだ。それをこちらに引き戻すのは、並大抵のことじゃない」これは、図書館から借りてきた10冊の本が教えてくれたことだった。
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