第10話 小鴨さんのお母さん2

 次の日の朝、僕は混乱したまま目を覚ました。僕は起き上がるとすぐに、昨夜の出来事を考えた。自分が、松田さんに伝えたことについて考えた。果たして僕は、正しいことを言ったのだろうか?僕はわからなくなった。昨夜の自信は、僕の身体から消え失せていた。僕はたまらなく不安な気持ちに襲われた。

 時計は、午前11時半を指していた。我ながら、メチャクチャな生活だ。朝食兼昼食を取ろうと、僕は布団から起き上がった。そして台所に向かった時、電話が鳴った。現実は、どこまでも過酷だった。現実は僕を、そしてみんなを、そっとしておいてはくれなかった。


 電話は、小鴨さんのお母さんからだった。

「こんな時間にお電話をしてしまって、お邪魔ではないでしょうか?」と、小鴨さんのお母さんは言った。その声は弱々しく、少しかすれていた。名乗ってくれなかったら、僕は小鴨さんのお母さんだと分からなかったろう。それくらい、彼女は声が違っていた。そのただならぬ様子に、僕はすぐさま嫌な予感がした。けれど僕は、できる限り平静を装って答えた。

「ちょうど、お昼にしようと思っていたところです。全然大丈夫ですよ」

「あの・・・、迷ったのですが、・・・」とそこまで言って、小鴨さんのお母さんは言葉を切った。

「何かあったんですか?」僕は彼女を急かすように、早口でたずねた。

「はい・・・」

 そう言ってから、小鴨さんのお母さんはまた黙った。沈黙が、僕をさらに不安にさあ、心臓の鼓動がだんだん早くなるのを感じた。

「・・・娘が、沙希が、また自殺未遂をしました」

 お母さんは突然、覚悟を決めたようにそう言った。早口で、感情を込めずに、彼女は語った。まるで、ニュースでも報道するように。

 僕の嫌な予感は、残念なことに的中した。心の準備ができていたから、僕は衝撃をある程度受け止めることができた。だけど、ことの重大さを僕は理解した。理解できたから、僕はさらに激しい恐怖に包まれた。

「どうして・・・?」

 僕は、それしか答えられなかった。お母さんの話では、自殺につながるものは全て排除しているはずだった。そんな状況で、どうやって小鴨さんが自殺を企てたのか?それが、わからなかった。そんな僕の疑問を解くように、小鴨さんのお母さんは事情を説明し始めた。

「投薬治療のおかげで、症状は改善されたと先生がおっしゃったんです。それで、久しぶりに外に出て、病院の庭を軽く散歩させることにしたんです。もちろん、先生は散歩を許可してくれました。もう一ヶ月近く、沙希は部屋にこもりきりでした。だから、体力がすっかり衰えて、食欲もなくなってやせ細ってしまってしまいました。だから、軽い運動も兼ねて散歩させることにしたんです」

「はい」

「私と、主人と沙希の三人で、病院の庭に出ました。沙希は、ちっとも楽しくなさそうな顔をしていました。でもあの子は、病院の庭をキョロキョロと見回していました。娘はその庭を、一度も歩いたことがなかったのです。

 病院の庭は小さくて、中央に丸い池があって、その周りに遊歩道があり、その周囲に樹々が植えられているだけでした。とても簡素な庭でした。広さも、縦横100mくらいしかありませんでした。それでも、娘にはいい気分転換になるだろうと思ったのです」

「はい」

「私たちは三人で、遊歩道にあるベンチに腰掛けました。まだ朝8時で、そんなに暑くもありませんでした。私と主人が、ちょうど沙希を挟むように座りました。沙希は、黙ったまま空を見上げました。庭に出た直後より、落ち着いたように見えました。だから、私たちは油断してしまったんです」

 僕は、ゴクリと唾を飲み込んだ。と同時に、激しい喉の渇きを覚えた。

「沙希は、突然立ち上がって走り出しました。私と主人は、完全に虚を突かれました。一ヶ月寝たきりだった娘に、そんな体力が残っていると思いませんでした。娘は一目散にもと来た道を戻り、病院の中に入りました。私と主人は、あの子を追いかけました。しかし、追いつくことができませんでした。私は力一杯叫びました『娘を止めて。沙希を止めて』と。

 私と主人が、病院の一階のロビーに戻った時、沙希の姿はどこにもありませんでした。私たちは自分の娘を、完全に見失ってしまったのです。私は一階のロビーでも叫び続けました。『娘を止めて。娘を止めて』と。お恥ずかしながら、その時点で私は泣いていました。泣き叫んで、半狂乱のようになってました。1階のロビーにいた病院の職員も、患者さんやその家族も、みんな私のことを見ていました。でもそんなこと、私は気になりませんでした。私は力一杯、声を張り上げて叫びました。

 そのとき娘は、階段を駆け上がって5階建の病院の屋上まで行っていたのです。通常、5階から屋上に行く階段は施錠されています。ですが、その時間はたまたま掃除係の方が、屋上で洗濯物を干していたのです。だから偶然、鍵が空いていたんです。

 幸い、私の叫び声を聞いたお医者さんや看護師が、娘を追いかけてくれました。娘は屋上に出ると一目散に屋上の柵に向かい、それを乗り越えたそうです。もう飛び降りる気なのは、間違いありませんでした。あの子に追いついた三人の男性看護師と先生が、娘をすんでのところで取り押さえたそうです。その時、娘は訳の分からない奇声を上げ続けていたそうです。そして次に、大声で泣き出したそうです。私と主人が屋上に着いた時、娘は先生たちに抑え込まれながら、わんわんと泣いていました。私は、沙希がまだ赤ん坊だった頃を思い出しました。沙希は、赤ん坊に戻ってしまったんだと思いました」

 小鴨さんのお母さんから聞かなかったら、僕はこの話を信用できなかっただろう。今でも僕の頭の中で、小鴨さんは教室の最前列に座っていた。教壇の講師をじっと見つめ、彼女は真剣に授業を受けていた。

「小鴨さんは、とても勉強熱心でした。どうして、どうして変わってしまったのでしょうか?」

 それは、今のお母さんには酷な質問かもしれなかった。小鴨さんは、二度目の自殺未遂を図ったのだ。でも僕は、思わず聞いてしまった。

「太田さん」と小鴨さんのお母さんは言った。驚いたことに、お母さんは冷静な様子だった。それは、ある種のことを諦めたせいかもしれない。「今年の春に、娘は私に質問しました。『ママ、私は本当にパパの子なの?』と。私はばかなことを言うなと、叱ろうかと思いました。でも、沙希の目の真剣さに私は言葉を飲み込みました。娘は、私を疑っていたんです。自分が違う父親の子なんじゃないかと。『なんで、そんなこと聞くの?』と私は娘にたずねました。そうしたら、『どうして、私だけこんなにバカなの?パパや兄ちゃんと、どうしてこんなに成績が違うの?』と言いました。私は娘に、何も言えませんでした。

 私は、高校しか出てないんです。高校を出てすぐ、地元の政治家の事務所に就職して、簡単な事務をしていました。そこで、主人と出会ったんです。主人が私と結婚すると宣言すると、彼の家族や親族に猛反対されました。ご存知と思いますが、主人の家は、政治家の家系です。ですので、縁故の婚姻話はいくらでもあったんです。でも主人と私は、周囲の反対を押し切って結婚しました。若かったんですね。結婚式はできませんでした。高卒の女との結婚式に、親族や地元の有力者は呼べない。主人の両親や親族たちは、本気で私にそう言いました。・・・、すいません。お若い太田さんに、こんなつまらない話を長々として・・・」

「いいえ、とんでもないです。そんな詳しいお話を教えて下さって、本当にありがとうございます」と僕はお礼を言った。

「つまり、私がお話ししたかったのは・・・」そこまで言って、小鴨さんのお母さんは声が詰まった。「ぐうっ!」と、彼女は苦しげにうめいた。彼女は、嘔吐するのを必死で耐えた。でも喉に込み上げたのは、嘔吐物ではない。感情だ。もっともつらい、悲しみの感情だ。

「ぐうううううう・・・っ」

 小鴨さんのお母さんは、とうとう泣き出した。彼女は、我慢の限界だったのだ。彼女の泣き声は、聞いていてつらい泣き声だった。昨日の松田さんとはまた違う、年輪を重ねた悲しさが加わっていた。僕にはもう、お母さんが言いたいことがわかった。それを本当に口にするかは、彼女が決めることだ。とにかく、ボールが飛んできたら、僕はそれを受け止めよう。そっくりそのまま、ありのままに。そして、打ち返す。リターンエースを取る。

「沙希は、沙希は・・・。私に、似てしまったんです。だから、こうなったんです・・・」

 小鴨さんのお母さんは泣きながら、その最中にそれだけ絞り出すように、叫ぶように言った。そしてまた泣き続けた。「ぐううっ、ぐーっ、うううっ、ううっ、・・・」


「お母さん。お話ししにくいことを、教えて下さってありがとうございます」

 僕は、泣き声が小さくなるのを待った。受話器を握り、ひたすら待った。そして、よし、いいだろう。そう判断して、泣き続ける小鴨さんのお母さんに話しかけた。お母さんは、まだしくしく泣いていた。昨夜と同じく、僕はもう一度勇気を振り絞った。

 戦え、現実と。と僕は思った。それがどんなに、過酷で困難であっても。僕らは、戦わなくてはならない。その勇気を持たなくてはならない。

「お母さん。お言葉ですが、お母さんのご意見に僕は反対です」と僕は言った。と言うより、怒鳴った。

「えっ!?」

 僕のあまりのきつい言い方に、小鴨さんのお母さんの泣き声がいったん止まった。僕の剣幕に、びっくりしているようだった。無理もない。僕は沙希さんと同じ年なのだ。自分の娘と変わらない子供に、自分の結論を否定されたのだ。長い苦しみの果てに、たどり着いた結論をだ。もちろん僕は、それをわかっていた。その上で、彼女の意見を全否定するつもりだった。僕は小鴨さんのお母さんを、叱りつけるように話を続けた。

「沙希さんはきっと、お母さんに似ているのでしょう。いいことじゃないですか。素晴らしいことです」

「はあ?」

 小鴨さんのお母さんは、いまや完全に泣き止んだ。僕が、無理矢理止めたと言うべきかもしれない。

「人間の能力は、遺伝ではないと僕は思っています。100%後天的に身につけるもです」と、僕は断言した。「沙希さんの成績があまり良くないのは、お母さんに似ているからじゃありません。沙希さんの、勉強の仕方が悪いんです」

 小鴨さんのお母さんは、電話の向こう側で沈黙した。僕の勢いに押されたのかもしれなかった。僕が突然、とんでもない話を始めたのにびっくりしたのかもしれなかった。だが、僕はここで怯むわけにはいかなかった。自分の全エネルギーを傾けて、小鴨さんのお母さんを説得せねばならない。

「1から100までを、全部足す話をご存知ですか?」

「はあ!?」

 小鴨さんのお母さんは、また素っ頓狂な声を出した。いったいこいつは何だ?と、訝しげな雰囲気だった。

「普通の人は、1+2+3+4・・・と地道に足し続けます。でも、視点を変えたら違う見方ができる。1と100を足したら101です、2と99を足しても101です。3と98を足しても101です。もうお分かりでしょうが、これを続けたら、50と51を足しても101という事実にたどり着きます。つまり、1から100まで足すことは、101x50なんです。答えは5050です。これに気が付いている人は、この問題を3秒で解きます。でも気がつかない人は3分くらいかかって、1+2+3+4・・・と足し続けます。もっとかかるかもしれません」

「・・・」

 小鴨さんのお母さんは、呆気に取られたように黙っていた。僕はさらに攻め続けた。攻撃するんだ。そして、彼女の厚い“悲しみの壁”をぶち壊せ。「あなたの仮説は、完全な間違いだ」と証明しろ。僕の良心が、そう僕に命じていた。

「今話したような計算のコツを、沙希さんのお父さんやお兄さんはご存知でしょう。でも、沙希さんには教えてくれなかったのかもしれません。

 沙希さんは、愚直に1+2+3+4・・・を繰り返しているんだと思います。それでは時間がかかり過ぎる。それから、問題の本質をつかめない。私が今お話ししたのは、単純な数列の公式で簡単に解けます。でも、その公式の意味が理解できていないと応用問題に対応できない。大事なのは、公式を覚えることではなく、それが示している意味なんです。そして、ここが一番重要なのですが、それは『繰り返し勉強すれば、誰でも身につけられます』。誰でも身につけられるんです」

 僕は、電話の向こうの小鴨さんのお母さんに怒鳴り続けた。彼女は何も言わなかった。そして、もう泣こうとはしなかった。

「残念ながら、沙希さんと僕が通っている予備校ではこういう大事なことを教えてくれません。しかし、よく考えれば誰でも理解できることなんです。どんなことでも、原理はとてもシンプルなんです。ニュートンは、重力を持つものは引き合うと定義して方程式を作った。300年経って、アインシュタインは重力は空間を歪めると書き換えた。どちらも、方程式は難しいですが、言わんとすることはとても簡単です。勉強すれば、誰でも理解できることなんです。

 小鴨さんも、それができます。今は調子が悪くても、気分が良くなれば必ず理解できます。大丈夫です。理屈をつかむコツをつかめば、お父さんやお兄さんを超えることも可能です。あんなに頑張り屋なんだから。僕が保証します」

 僕はそう、早口でまくし立てた。よくもまあ、ここまでペラペラとしゃべれるものだと我ながら驚いた。

 小鴨さんのお母さんは、しばらく何も言わなかった。僕が言ったことを、自分の中で反芻しているのかもしれなかった。ずいぶん経ってから、やっと彼女は口を開いた。

「沙希は、大丈夫なんでしょうか?」

 それはまるで、精神科の医者に問いかけるようだった。僕はまだ、19歳にもなっていない若造だった。だが、ここは医者にでも神にでもなるしかない時だった。

「大丈夫です。僕が保証します」

 我ながら、無茶苦茶なことを言っているなと思った。しかし僕らには、小鴨さんのお母さんと僕には、「希望」が必要だった。

「太田さん、沙希はどうしたら、勉強ができるようになるんでしょうか?」

「発想の転換をすることです。例えば現代文の問題で、明治時代の私小説が出るとしましょう。問題を解く前に、当時の彼らが何を問題意識として持っていたのか、それを知っていることが重要です。私小説は、物語という架空の世界に対するアンチテーゼです。そういう背景をつかんで読めばいいんです。そうすれば、彼らがなぜ、自分の実体験にこだわったのか、それをなぜこんなに過剰に表現するのか、その意図が分かります。それを知っていれば、問題は簡単に解けます」

「どうすれば、そんなことができるんですか?」子鴨さんのお母さんは、まだ腑に落ちないようだった。

「いい友達をたくさん作ることです。もっといえば、素敵な恋人を持つことです。その人たちの言葉は、沙希さんの心の最奥に届きます。そんな機会に出会えた時、人は変わることができます。頭が良くなれるんです」

 小鴨さんのお母さんは、またしばらく黙っていた。ややこしいことを言い過ぎたかな、と僕は少し反省した。しかし、「自分に似たから・・・」という彼女の理屈を、粉々にしなければならなかった。僕は頭をフル回転させた。

「娘に、こんな素敵なお友達がいるなんて、私知りませんでした」と彼女は言った。僕は、痛いところを突かれたと思い、少し動揺した。そして、今度は静かに小鴨さんのお母さんに語りかけた。

「非常に残念ですが、沙希さんは僕を友人だと思ってないと思います。彼女にとって、僕はただのクラスメイトでしかありません」と僕は正直に言った。「なぜかというと、僕は見かけが全然格好良くありません。テストの成績も、あまり良くありません。予備校も、六月から行ってません。僕はまるっきりダメな人間なんです」

「あなたは、とても素敵な人だと思います」と、小鴨さんのお母さんは言った。「娘があなたの魅力に気が付かないのなら、娘がバカなせいです。調子が良くなったら、私から太田さんのことを話します。あなたの魅力を、私が言って聞かせます」

 こりゃ参ったな、と僕は思った。僕だって、本当に頭が良くないのだ。今言ったことは、ほとんどハッタリでしかなかった。

「娘の前に、まず私の友達になってくれませんか?」と、小鴨さんのお母さんは言った。

「もちろんです。是非、友達になりましょう」と僕は胸を張って答えた。

「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に心強いです。あなたとお話ができて、本当に良かった」と彼女は言った。「また、電話してもいいですか?」

「もちろん大丈夫です。昼でも夜でも、いつでもいいですよ」と僕は答えた。そうして僕らは、長く重大な電話を終えた。


「偉大なる詐欺師だな、お前は」と、ヒロシは言った。

「そう呼ばれても、仕方がないな」と僕は答えた。

「まったく、ガウスからニュートン、アインシュタインまで持ち出しやがって。相対性理論がシンプルだなんていう奴は、この世にいないぞ」

「その場の勢いだよ。仕方なかったんだよ」と僕は言い訳をした。

「まあ、お前の説明は全体として間違ってない。俺が保証するから、安心しろ」とヒロシは言ってくれた。

「しかし、お前“私小説”の作品なんか読んでたっけ?」

「読んでない。一冊も読んでない」僕がそう答えると、ヒロシは口をポカンと開けて後ろに反り返った。

「呆れた。ウソ八百もいいところだ」

「数列だけじゃ、説得力が弱いと思ったんだよ。だから、現代文を例に出したんだ」

「お前、最初からそれ考えてたのか?」

「まさか。その場で思いついただけだよ」

「驚いた。まさに即興で、小鴨さんのお母さんをやり込めたわけだ」

「やり込めたわけじゃない。ただ、小鴨さんの成績が上がらないのは自分のせいだってお母さんが言うから、これは絶対に否定しなきゃと思ったんだ。後は、その場の勢いだけ。彼女にどう思われたか、僕にはわからない」そこまでヒロシに言って、僕は深いため息をついた。

僕は正しいことをしているのだろうか?わからなかった。僕はただ、胸の奥から聴こえてくる命令に従って行動した。

「ああ、僕が田崎だったらなあ」と僕は大声で言った。「僕が田崎なら、小鴨さんも、それから松田さんも救うことが出来るだろう」

「おいおい、田崎には可愛い彼女がいるんだろう?」とヒロシは言った。「その彼女を放って、田崎は小鴨さんや松田さんの問題に首を突っ込む訳にはいかないだろう」

「うむ」と僕はうなった。ヒロシの言う通りだった。

「ここまで来たら、これはお前の仕事だ。もはや他の人にはできない」

「うん」

「根性入れて、取り組むしかない。おまけに今日、お前は小鴨さんのお母さんと友だちになったんだ。逃げ出すわけにはいかないぞ」

逃げる気など、さらさらなかった。目下の問題は、次に何をするかだった。

「松田さんは、しばらくそっとしておいてやれよ。昨日から2週間たったら、連絡すればいい。それがお前と松田さんの、暗黙のルールだろ?」

その通りだと思った。言いたいことは、昨日散々言ったんだ。後は松田さんがどうそれを消化するか、任せるしかなかった。

 問題は、小鴨さんだった。彼女は二度目の自殺を図った。僕はショックだった。お母さんの話を聞いていると、病状はさらに悪化しているように思えた。

 自分に、何が出来る?僕は、大したことのない頭を振り絞って考えた。精神分析なら、フロイトやラカンを扱った本を何冊か読んだことがあった。しかし、実践には何のヒントも与えてくれそうになかった。

「無意識は、数学のように構造化されている」

 そんなことを言ったところで、くその役にも立たないと思えた。僕には、臨床の知識が欠けている。実際に患者を治療する知識が皆無だと気がついた。よし、そこからスタートしよう。僕はそう決意した。

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