第9話 子供(松田さん4)

 その年は、殺人的に暑い夏だった。熱帯夜が何日も続き、僕は毎晩汗みどろになって眠った。しかし僕はクーラー嫌いだったので、タイマー付き扇風機で毎晩を切り抜けた。 

七月の下旬、今日も熱帯夜の予想が出ていたある夜に、松田さんから電話がかかってきた。僕は六月のあの夜以来、毎日のように松田さんのことを考えた。僕から電話しようかと、電話機を握り締めたことも何度かあった。金は送った。しかし、その度僕は思い止まった。その理由は第一に、彼女の邪魔をしたくなかった。第二に、自分に自信がなかった。僕が電話をして、松田さんが喜ぶのか確信できなかった。

 それでいて僕は、もし松田さんから電話があったら、あることを伝えようと心に決めていた。松田さんから電話をもらった夜、お腹の中の子供は14週間を迎えていた。もう時間は、ほとんど残されていなかった。


 時間は23時を回っていて、僕は部屋でぼおっとしていたところだった。

「遅くにごめんなさい。」と松田さんは最初に謝った。

「大丈夫だよ。寝るのはいつも遅いから。」

「お金は、なんとかなりそうなの。」と松田さんは言った。「お母さんが全部出してくれることになったの。だから、全然心配なくなったんだ。だから、太田くんからもらったお金を使わなくても大丈夫」

「そう。良かった」

「太田くん」

「うん」

「私のために、本当にありがとう。もらったお金は、現金書留で送るね」

「うん」

 そう話しながら、松田さんの声は沈んでいた。中絶手術の見通しが立ったというのに、彼女の口調はまるで家族のお葬式に参列するように暗かった。

「彼の方は?」

「全然連絡取れないの。彼はピザ屋をやめて、今は運送会社で働いてるの。新しい仕事先に、何度も連絡したの。でも、一度も電話口に出ないし電話もかかってこない」

「そう」

「そうなの」

「彼に、子供ができたことは伝えられたの?」

「うん。思い切って、新しい会社の人に伝言を頼んだ。だから、わかってくれてると思う。でも、彼から連絡はないままなの」

 それから、松田さんと僕は黙り込んだ。お互い受話器を握ったまま、しばらく何も言わなかった。松田さんと僕の電話は、話しているより黙っている時間の方が長かった。それだけ、問題は深刻だった。僕らはただ、相手が電話の向こう側にいることを感じて、気持ちを安らげようとした。

 そいつは、このまま逃げ切るつもりなんだろう。僕はそう確信した。だが、口にはしなかった。

「ねえ、松田さん」と僕は話しかけた。

「なあに?」と松田さんは答えた。いつもの、優しい答え方だった。僕は、息を思い切り胸に吸い込んだ。それから両肩に力を入れ、背筋をしゃんと伸ばしてから息を大きく吐いた。勇気を出せ。勇気を絞り出すんだ。そしてこの一ヶ月、考えに考えた結論を僕は松田さんに伝えることにした。

「僕は、子供を産んだほうがいいと思うんだ。」

「えっ!?」

 松田さんは、絶句した。僕は想像した。電話口で、彼女が呆然としている様子を。僕は、たたみかけるように話を続けた。

「なぜそんなことを考えるかというと、松田さん、堕ろしてしまったら君は絶対後悔すると思うからなんだ。10年たっても、20年たっても、君はお腹にいた子供のことを思い出すんじゃないだろうか。そして思い出すたびに『もしも生きていたら』と考えると思うんじゃないか。今中絶してしまったら、松田さん、君はずっと苦しむことになるよ。それは君にとって、とても良くないことだよ」

「何、勝手なこと言ってるの!?」

 松田さんは、まだ僕がしゃべっている途中から大きな声でそう言った。

「他人事だと思って、好き勝手なことぺらぺらしゃべって、バカじゃないの!?」

 松田さんは、電話口でそう怒鳴った。松田さんが、こんな態度を取るのは初めてだった。

「だいたい、あんたなんか、全然関係ないでしょ!」

 いつもの松田さんではなかった。彼女は本気で怒っていた。怒りのあまり声が上ずり、早口になって舌が回っていなかった。

「わかってる。確かに僕は関係ない。でも僕は、松田さんに後悔してほしくないんだ」

「後悔、後悔って、簡単に言わないでよ。だってさ。あなたは私が子供を産んでも産まなくても、何も傷つかないじゃない」

 松田さんは電話口で、大声で怒鳴り続けた。

「関係ないから、平気で人に『産め』なんて言えるんでしょ?それで私がどれだけつらい思いをするかなんて、全然考えてもいないんでしょ?」

 僕はずっと黙ったまま、松田さんの言葉を聞いていた。その言葉の一つ一つに、僕は返す言葉を持っていなかった。

「ねえ。もし産んだら、私は19で母親になるんだよ。そんなの怖いよ。産むことだって怖いよ。こんなこと、あなたには一生わからないでしょ?男なんだから。だから勝手なこと、平気で言えるんでしょ?」

「うん」

 僕は今、サンドバックのように打たれるしかなかった。矢のように次々に放たれる松田さんのさまざまな怒りを、そっくりそのまま受け止めるしかなかった。

「父親のいない、母親になるんだよ?わたし、まだ19なんだよ?そんなのひどいよ・・・。ひどい・・・」

 再び沈黙が訪れた。電話口から、すう、すうという松田さんの息遣いが微かに聞こえた。彼女はとても興奮していた。当然のことだ。僕は、彼女の呼吸に耳を澄ませ、それが落ち着くのをじっと待っていた。


「ごめんなさい」ずいぶん経ってから、松田さんは小さな声で言った。声色に、もう怒りは含まれていなかった。

「うん」とだけ僕は答えた。それしか言えなかった。

 また、二人の間に長い沈黙が訪れた。やがて、受話器の向こうから「ううっ、ううっ。」という小さな声が聞こえるようになった。それは、だんだん大きくなっていった。そしてついに、激しい嗚咽に変わった。

「ええっ、えええつ、・・・」

 松田さんは、声を上げて泣いていた。それは、人というより子猫が大声で鳴いているような、切ない苦しげな泣き声だった。僕は胸が詰まり、胃がキリキリと痛んだ。聴いていて本当につらかった。

松田さんは泣き続けた。20分も、30分も、彼女は電話口で泣き続けた。涙とは、そんな大量に身体の中にあるものなのだろうか?。僕はただ驚くだけだった。

 何十分も経って、ようやく松田さんの泣き声は徐々に小さくなっていった。浜辺で静かに潮が引くように、彼女の泣き声は静まっていった。僕は黙って、その鎮まる様子を気を引き締めて聞き取った。

「付き合ってくれてありがとう。もう遅いから、切るね。」と松田さんは、ようやく口を開いた。鼻をすすりながら、僕にそう言った。話し方はいつもの松田さんに戻っていた。

「うん。それじゃあ、おやすみ。」

「おやすみ。」

 受話器を置いて、僕は壁掛けの時計を見た。時間は12時半を回っていた。時計の下には、ヒロシが座っていた。彼は僕が松田さんと電話している最中に現れ、じっと電話が終わるのを待っていた。

「お前は、カトリックか?」とヒロシは怒鳴った。

「違うよ」

「中絶反対なんだろう?お前の言っていることは、ゴリゴリのカトリック信者だよ」

「違う」と、僕はもう一度否定した。「そうじゃないんだ。僕は、彼女に傷ついて欲しくないんだ」

「あのなあ、中絶を選択することは個人の権利だ。子供を身ごもっても、育てる経済的な環境にない人はこの世にゴマンといるんだ。育てる財力がないのなら、中絶することをその人それぞれが選択できるんだ。それを、お前は否定するのか?」

 僕はヒロシにも、何も言い返せなかった。歯を食いしばって、ヒロシに責められるがままにした。

「彼女の問題に、お前は関係ないよ。」とヒロシは言った。「子供を産め、なんてよく言えたな。今、松田さんが子供を産んだら、彼女がどうなるかわかってるのか?。短大は通えなくなるぞ。良くて休学、下手すりゃ退学だ。第一、どうやってその子を育てるんだ?。逃げ回ってる父親は、全くあてにならないだろう。お前がその代りになるつもりか?。そもそも、松田さんはお前のことが好きなわけじゃないだろう。お前だって、彼女に恋愛感情はないんだろ?。お前の言ってることは、あまりに無責任だよ」

「わかってるよ。」と、僕は吐き捨てるように言った。

「お前は田崎じゃないんだ。お前にその気が芽生えたとしても、松田さんはお前を好きになることはないよ。お前は平々凡々な、冴えない顔の男なんだ。田崎の代わりも、松田さんの子供の父親の代わりも出来ないんだよ」

 僕は部屋を出て、台所に言った。冷蔵庫を開けて冷凍庫からロックアイスを取り出し、それを大きめのグラスに放り込んだ。グラスに水を半分くらい入れて、僕は部屋に戻った。

「この問題に、これ以上顔を突っ込むな。手を引け」と僕が部屋に戻るなり、ヒロシは僕に言った。

「昨日までなら、そう出来たかもしれない。でも、今の電話の後、僕は逃げるわけには行かない」と僕は答えた。

「何で?」

「ヒロシの言う通り、僕は無責任なことを松田さんに言った。それは『無責任なことを言った』という責任を生んだと思うんだ」

「ややこしいことを言うな」ヒロシは苦笑しながら言った。

 僕は、遠く離れた場所にいる松田さんに思いを馳せた。彼女は今、自分の部屋で何を思っているだろう。

「責任ができたとお前は言うけど、お前はこれからいったい彼女に何ができるんだ?」

「わからない。今のところ、何も思いつかない」と僕は正直に答えた。本当に僕は、次のアクションについて一つのアイデアも持ち合わせていなかった。しかし、手を引くつもりはかけらもなかった。思い起こせば、松田さんはあの四月の暖かい日から僕に頼っていた。僕に助けを求めていた。だから、僕は彼女のそばにいなくてはならない。電話で言葉を交わすだけの間柄だけど、僕は彼女との会話を、彼女の発する言葉一つ一つを大切にしなくてはならない。

「お前は、本当に頑固な男だよ」とだいぶ経ってから、ヒロシが口を開いた。「俺にとっても、お前という人間は謎だよ」

「何で?」

「お前が松田さんのことを好きなら、まだ話はわかる。でも、そうじゃないだろ。おまけに一方で、小鴨さんのことも真剣に心配している。これも、恋愛感情抜きだろ?」

「うん、まあ、そうだね」

 僕が恋愛感情を抱いているのは、相変わらず坪田さんだった。松田さんでも、小鴨さんでもなかった。

「好きでもないのに、よくそこまでのめり込むことができるよな。俺には、もう理解不能だよ」

「僕だって、よくわからない」

 僕は今度は、暗い病室に閉じ込められている小鴨さんのことを想像した。彼女は、今眠れているのだろうか?それとも悩みや苦しみのせいで、眠れない夜を過ごしているのだろうか?彼女のことを考えても、僕の胸はキリキリと軋み、強い痛みを僕に与えた。


 28歳になった今、あの頃の自分を振り返ると一つの言葉に辿り着く。それは『幸福』だった。


・人はそれぞれに、自分の好きな仕方で幸福にならなくてはいけない。


 19歳の僕は、それを言葉にすることができなかった。だが松田さんも小鴨さんも、それぞれの仕方で幸福にならなくてはいけない。僕は、心の底でそう信じていた。だから、中絶や自殺という問題に直面した時、どうしたら彼女たちは幸福になれる手かがりをつかめるだろうかと考えたのだ。座して何もしないという選択肢は、僕にはなかった。彼女たちを横目で見ながら何もしないでいることは、正しいこととは思えなかった。


「いろいろ言ったけど」と、またヒロシが話し始めた。「お前が松田さんに言ったことは正しいよ。多分」

「そうかな?」

 僕は本棚のウイスキーを手に取り、蓋を開けてグラスに注いだ。そして、シャープペンの先でカチャカチャとかき回してから、ぐいっと水割りを喉に流し込んだ。ウイスキーは、胃の中ですぐさま四方八方に広がった。グラスを握っている右手が、小刻みに震えていた。僕は、自分がまだとても興奮していることに気がついた。

「少し飲んで落ち着けよ。その調子じゃ、しばらく寝れないだろう。」

「いつも『飲むな』っていうのに。」

「今日は特別だよ。」

 僕はもう一度グラスをあおった。確かに、僕は何もできない。何の責任も持てない。居場所のない浪人生だ。そして、男としての魅力もない。だけど、と僕は考えた。このままでは間違っているんだ。

「おそらく、松田さんの周りで彼女に『子供を産め』と言ったのはお前だけだろうな」

「そうかもしれない」

「みんな当たり前のように、中絶を勧める。でも、中絶だってたまらなく恐ろしいことだよな。取りようによっては、殺人だ。おそらく彼女は、誰かに言って欲しかったんじゃないかな。『子供を産め』って」

「ヒロシ、お前だって好き勝手な、無責任なこと言ってるぞ」

「もちろんそうだ。俺は、松田さんじゃないんだから。だけど、もし彼女に端から産む気がなかったら、お前がそう言ったときに電話を切ってもおかしくないぞ」

 僕は、ふと天井を見上げた。そして、さっきの電話の一部始終を思い出そうとした。そこから、何か手がかりを見つけ出そうとした。彼女は、大声で泣いた。おそらく30分以上。それほど、泣く理由とは一体何だったんだろう。男の、そして19歳の僕には、想像を超えた感情だった。悲しいけれど、僕は彼女の気持ちを本当に理解することはできないのだろう。そう想像するとたまらなく寂しくなった。

「松田さんは俺たちが思っているよりも、ずっとしっかりした人だよ」とヒロシは言った。「彼女はきっと、心の整理がついたら連絡をくれるよ。それを待とうぜ」

「うん・・・」

 僕は空返事を返した。待っていていいのだろうか?できることはないのか?

「俺の意見に、どうやら同意してないな」と苦笑しながらヒロシは言った。「だけど、また明日彼女に電話して『子供を産め』と迫るのは絶対にやめろよ。もう、お前が言いたいことは全部彼女に伝えたんだ。彼女に考える時間を与えてやれよ。彼女を混乱させるべきじゃない」

「そうだな。確かにそうだ」

「さあ、その一杯を飲み干してさっさと眠れ。お前も落ち着く必要があるよ」

 手の震えは、ようやく治まりつつあった。そして、僕はびっくりするほど疲れ果てていることに気がついた。

「わかった。もう寝るよ」

「OK。じゃあ、俺はもう帰るよ。おやすみ」

 ヒロシは珍しく別れの挨拶をして、窓から出ていった。それくらいヒロシは、今日の僕に気を使ってくれたらしかった。

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