第8話 小鴨さんのお母さん1

 小鴨さんのお母さんから電話をもらったのは、手紙を出してから三日ほど経った日の夜だった。

「こんばんは。沙希の母でございます」と、小鴨さんのお母さんは、子供の僕に礼儀正しく挨拶した。「娘に手紙を下さいまして、本当にありがとうございます」

「いえ、いえ、そんな・・・」僕は、すっかり恐縮してしまった。

「夜分に失礼だと思いましたが、太田様にお礼を申し上げたくて、お電話してしまいました」

「私の方こそ、お電話をいただいて本当にうれしいです。ありがとうございます」

「勉強の最中に、お邪魔をして誠に申し訳ございません」小鴨さんのお母さんは、謝罪を重ねた。

「あの、まったく、お気になさらないでください。僕は、その、あんまり真面目な浪人生ではなくて・・・、そう、沙希さんみたいに一生懸命勉強するタイプではないので・・・。時間のことは、まったく気にしないでください」と僕は説明した。

 それから、小鴨さんのお母さんは、しばらく黙った。とても居心地の悪い沈黙だった。彼女は、何か思案しているらしかった。そしお母さんは、早口でこう言った。どこか、振り切るような調子で。「娘が元気になりましたら、太田さんに連絡するように言います」

 引っかかる言葉だった。僕は思わず、彼女に聞いてしまった。

「小鴨さんは、今お元気なんですか?」

「・・・」小鴨さんのお母さんは、電話口で沈黙した。お母さんの戸惑いを、僕は感じた。詳しいことを、僕には話したくないのだろう。

「立ち入ったことを聞いてしまって、申し訳ありません。取り消します」と僕は言った。

「・・・娘が良くなったら、電話させます。今日は、太田さんに一言お礼を申し上げたかったのです」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

 僕たちはお互いにお礼を言って、受話器を置いた。


「お母さんの気持ちを、察してやれよ」とヒロシは言った。「自殺未遂を図った娘のことを、赤の他人に話したくないだろう。手紙の礼を言ってくれただけでも、感謝しろよ」

「うん」

「まあ、お前は詳しいことを聞きたいだろうけどな」

「うん、知りたいよ。本当は」

「でもお前が、詳しいことを知って何になるんだ?」とヒロシは言った。きつい言葉だった。

「・・・」

 自分の無力さを感じて、下を向くしかなかった。しかし、僕の内部はそう考えなかった。何か行動しろ。できることは何でもしろと。しかし、その方策が思いつかなかった。僕はただ唇を噛んで、黙りこくった。

「心の病気は、難しくて恐ろしいものだ。素人が首を突っ込むものじゃない。お前にできることはない。諦めろ」とヒロシは言った。

「そうだな」

 僕は右手に握った、水割りのグラスを見た。そしてゆっくり溶けていく氷を睨んだ。そして考えた。ただただ、考え続けた。


 それから一週間後に、今度は僕が小鴨さんの家に電話をかけた。時間は、午後一時過ぎだった。十コールくらいベルが鳴った後、留守番電話に代わった。

「こんにちは。太田賢一郎と申します。お忙しいところ恐縮ですが、またお電話させていただきます。よろしくお願いいたします」そうメッセージを残して、僕は電話を切った。

 それから僕は、電車に乗って大きな神社へ出かけた。

 外はもう、本物の夏になっていた。梅雨は明け、太陽がじりじりと歩道の路面や脇のオフィスビルを焼いていた。僕は吹き出す汗をハンカチで拭いながら、その神社を目指した。

 広い神社の境内は、閑散としていた。僕は水で手を清め、参道を進んだ。そして本殿の賽銭箱の前に立った。僕はまず、小鴨さんの一日も早い回復を祈った、そして次に、松田さんの幸せも祈った。普段は初詣すらしないのに、困ったら神頼みをするとは勝手なものだ。僕は賽銭箱に、千円札を放り込んだ。

 後で知ったのだが。この神社は合格祈願で有名なのだそうだ。それなら自分のことも、お祈りすべきだったか?でも今の僕は、自分のことなど頭に浮かびもしなかった。

 境内を出ると、小さなお店があってお札やお守りを販売していた。かなり迷った末に、僕はお守りを買うことにした。お守りは、小鴨さんの分だけにした。松田さんにお守りを買ったら、まるで安産を祈願しているみたいだ。それは、さすがにまずい。

 お守りを購入すると、まっすぐに家に帰った。便箋に簡単な文章を書いて、それをお守りと一緒に封筒に入れた。それを近くの郵便局に持っていき、重さを測ってもらって郵便料金を払った。速達にしてもらった。その数日後、小鴨さんのお母さんから電話がかかってきた。

 型通りの挨拶を交わしてから、小鴨さんのお母さんはまずお守りのお礼を言った。

「沙希のために、お気遣いくださりありがとうございます」

「いえ、私の方こそ、勝手なことばかりして申し訳ありません」と僕は答えた。

「あの・・・、誠に申し訳ないのですが・・・」と言って、小鴨さんのお母さんはいったん言葉を切った。。

「はい・・・?」

「もう、こういうことは、これっきりにしていただけませんか?」と小鴨さんのお母さんは言った。僕には、その言葉が突き刺さった。心臓に、千枚通しを刺された気分だった。小鴨さんのお母さんは、話を続けた。

「お守りを送って貰ったり・・・、あの、こういうことをされても、私たちは困るんです。どうか娘を、私たちを、そっとしておいてくれませんか?お願いです」

お母さんの声は、明らかに静かな怒気を含んでいた。手紙をかいたり、電話をしたり、お守りを送ったりする僕に、彼女は腹を立てていた。

「・・・わかりました」と僕は、弱々しい声で答えた「ご迷惑ばかりかけて、申し訳ありませんでした。もう、何もしません。ご連絡もしません。そう、お約束します」と僕は、小鴨さんのお母さんに言った。

「お願いします」

 短くそう言って、小鴨さんのお母さんは一方的に電話を切った。僕はショックを受けて、電話口に立ち尽くした。混乱し、何も考えらなくて、ただ電話機を睨んでいた。


「だから、手を引けって言っただろう!」と、ヒロシは僕に怒鳴った。「お守りなんか送って、相手が処置に困るくらい思いつかねえのか?」

僕は黙って、ヒロシの話を聞いていた。

「お前のやってることは、身勝手なおせっかいだよ。そうすることで、自分を満足させてるだけだ。ただのオナニーだ。気持ち悪いんだよ」

 ヒロシの言葉は、僕に何発もぶん殴られたような衝撃を与えた。だが、よく考えればその通りだった。僕が小鴨さんに対してしたことは、自己満足でしかなかった。相手の気持ちを、ほとんど考えてなかった。ヒロシの言う通りだった。

「わかった。もう何もしないよ」と僕はヒロシに答えた。僕はもう、マットに倒れる寸前だった。

「お前の気持ちも分かるよ」とヒロシは、一転して冷静に言った。「それは、一言で言って『死の恐れ』だ。それは分かる。だがな、一人で思いつめて行動したってダメなんだ。お前は、お前の周りを取り囲む人々の、賛同を得て行動しなければいけない。周囲の人の気持ちを無視して行動すれば、オナニーどころか暴力にだってなりうる」

「うん」僕は、大きくうなずいて同意した。

「俺はお前に、この件は諦めろと言った。それなのに、お前は俺の意見を無視した」

 僕は唇を噛んで、沈黙した。何も答えられなかった。確かに僕は、独断で行動した。

「せめて、小鴨さんのお母さんに電話をしろよ。”最初の手紙“を、『出していいですか?』とたずねろよ。自分だけの思いで、正義の味方気取りで長文の手紙なんか出すな!」

「・・・」

「なあ、娘が自殺未遂をして、お母さんは心労が溜まっているときなんだ。そんなときに、彼女の心をさらに騒がせる真似はするな。相手の気持ちを考えろ」

 僕はひどく落ち込んだ。激しい自己嫌悪に包まれて、水割りを飲む手も止まってしまった。だが、小鴨さんへの気持ちは消えたりはしなかった。僕が犯した罪は、全部認める。でも僕は、小鴨さんが以前の彼女に戻ってほしかった。出来るだけ早く。

 だけど、彼女に手を差し伸べるべき人は、僕ではない。そういうことだ。僕が何かしても、不気味なストーカーみたいで迷惑だということだ。僕は小鴨さんに対して、無価値なのだ。僕は、自分という存在を自己否定した。全部が間違いだった。僕がしたことも、僕という人間も。

 僕が黙っているので、ヒロシはいつの間にか帰ってしまった。その夜は、なかなか寝付けなかった。照明をすべて消して、闇の中で僕は椅子に座っていた。座ったまま頭を抱えて、髪をかいたり拳で頭を叩いたりした。やがて、窓の外が明るくなってきた。朝になっても、自己嫌悪は去ってくれなかった。僕は頭を左右に何度も降って、自分の身についた穢れを振り払おうとした。

 七時過ぎ、僕はようやくベッドに横になった。眠気はまだ感じなかったけれど、身体は激しい疲労を感じた。多分寝付いたのは、九時くらいだったと思う。

 

 梅雨が明け、猛暑の日々が始まった。夏休みに入り、「一流私大コース」の授業は九月から再開となった。貪欲な予備校は、夏休みの間に“夏期特別講習”と銘打って別の授業を組んだ。受講料は、別途支払う必要がある。浪人生に、夏休みは不要だと思う。ゆえに、真夏の間も「一流私大コース」を開講すべきだ。いずれにしても、僕は行かないからいいけれど。

 ごく普通の浪人生たちは、疑うことなくその特別講習とやらに申し込んだ。炎天下の中、彼らは高田馬場の予備校に通い続けた。一方僕は、部屋で扇風機にあたりながら本を読んだ。

 最近読んだのは、「フェルマーの最終定理」という本だ。x2 + y2= z2という、誰でも知っている直角三角形の公式について、フランスのアマチュア数学者フェルマーが、「この公式は、3以上では成立しない」と宣言した。しかし彼は、その証明を書き残さなかった。

 彼の死後、息子が彼の仕事を本にまとめて出版した。その本には、フェルマーがその生涯で見つけた数学の難問が山のように記されていた。それらの難問に、数学者たちはみんな頭を抱えた。しかし彼らは、一致団結した。時間をかけて、フェルマーが遺した問題を一つずつ解決していった。出版後100年が経過したころには、難問は残りわずかとなった。

 だが、x2 + y2= z2の問題だけは、300年経っても誰も解けなかった。何人もの超一流の数学者が、莫大な時間をかけてこの問題に挑んだ。しかし、みんな失敗に終わった。二十世紀に入ると、数学界には諦めムードが漂うようになった。この問題は、解決できないんだと。そしてついに、真面目に取り組む人はいなくなった。

 だが、アンドリュー・ワイルズという数学者は違った。彼は小学生の頃から、この問題に魅了された。以来ずっと、密かに取り組み続けてきた。そして40歳を超えて、ついこの謎を解いた。彼は、フェルマーの主張が正しいことを証明した。「x2 + y2= z2は、3以上では成立しない」のだ。

 彼の証明は、何十個も積み重なった論理ステップからできている。一つ、また一つと展開される個々の論理を完全に理解していかないと、次のステップが分からなくなる。それはまるで、精巧に作られたガラス細工のようだった。

 うわあ、数学ってこんなに面白かったのか。それが、その本を読んだ僕の第一印象だった。これならば、数学を真面目に勉強しておけばよかった。しかし実際の僕は、高校一年の半ばで数学に対する興味を失った。授業中、寝てばかりいた。もったいないことをしたもんだ。

 私は図書館に通い、数学の歴史が書かれた本をギリシア時代から現代までたくさん読んだ。ゼロやマイナス、i(イマジナリー・ナンバー)の創設、そこから複素数。無限の数学化から、ゲーデルの不完全性定理まで。心踊る体験だった。数学のおかげで、僕は自己嫌悪から脱出した。

 そんなころ、僕はなんと矢渡さんから電話をもらった。僕はびっくりした。本当に、びっくりした。

「あんたさ、生きてんの?」と、矢渡さんは言った。

「うん。なんとか」

「予備校、辞めたの?」

「辞めてはいないよ」僕は少し考えてから、彼女に答えた。「気が向いたときは、行ってるよ」

「・・・呆れた」と、矢渡さんはため息をついた。

 なんとも、不思議な気分だった。僕という人間は、矢渡さんと話すべきではない。住む世界が違うし、そもそも彼女は美し過ぎた。けれど、彼女の過度な美しさのおかげで、僕はかえって緊張せずに済んだ。火星人と話しているようなものだ。火星人に嫌われても、僕は傷つかない。

「何か、用事があるのかな?」僕は、彼女に聞いた。

「当たり前じゃん!」と、彼女はムッとした様子で答えた。「あのさ、これから学校に来てくれない?」

「これから?」時計を見ると、14時だった。「何時に?」

「あたしの授業が、終わる時間」と、彼女は言った。「16時に、一階ロビーに来て」

「台風だけど」

 その日は、夜に台風通過が予想されていた。まだ雨は降っていなかったが、すでに強風が吹き荒れていた。

「いいじゃん、別に」と、矢渡さんは平然と言った。「16時だよ」と言って、彼女はガチャンと電話を切った。乱暴だけど、それが似合っている。一種の才能だな、と僕は思った。

 16時10分前に、一階ロビーに到着した。昔から僕は、時間に正確な性質だった。一階ロビーの隅に、キオスクみたいな小さい売店があった。その脇に、矢渡さんが立っていた。文句なしの美貌、抜群のスタイル、光り輝くロングヘア。ブランド物の洒落たTシャツに、白いフレアスカート。彼女は、僕を見つけてニコッと笑った。トコトコと、僕にかけ寄った。

 ここに至って、僕は青ざめた。ロビーにいた全員が、矢渡さんを目で追った。視線の先に僕を見つけ、誰もが不審な表情を見せた。「なんだ、こいつ」「なんで、こいつが?」そんな無言のクレームを、いっせいに受けた気分だった。

「さあ、行こう」

 そう言って、矢渡さんは颯爽と出口に向かった。慌てて僕は、後をついて行った。無言のクレームからも逃げ出した。

「知ってる店があるから」と、彼女は歩きながら言った。「そこに入ってから、話そう」

「うん」

 そう答えたものの、僕はまだ不思議だらけだった。矢渡さんと僕に、共通の話題はない。僕は彼女とも、話したことがほとんどない。それなのに、電話をもらったときから、二人はまるで友だちみたいだった。

 矢渡さんは、高田馬場の早稲田通りを大股で歩いた。まるでファッション・ショーのモデルみたいな歩き方だった。いや、そうではない。矢渡さんのルックスが、僕たちにファッション・ショーを連想させるのだ。行き交う人の大半が、彼女に目をとめた。男女関係なしに、つい目を奪われてしまうのだ。

 台風は、そこまで接近しているようだった。ものすごい強風が、矢渡さんと僕を襲った。彼女は素敵な帽子を被っていて、それを片手で必死に押さえていた。もう片方の手には、高価そうな鞄を持っていた。だから、スカートが無防備だった。

 僕ら二人を、突如猛烈なビル風が襲った。その風はビルの谷間を走り、通りに出て上昇気流に変身した。その上昇気流が、矢渡さんのフレアスカートに牙をむいた。

「やっ!?」

 矢渡さんは、帽子を握ったまま、鞄でスカートの前半分を抑えた。それが彼女にできる限界だった。彼女のスカートは、見事にめくれ上がった。マリリンモンローの有名な写真のように、フレアスカートの後ろ半分は天へ向かって舞った。

 僕は、矢渡さんの真後ろにいた。早足の彼女を追いかけていたら、自然にそうなってしまった。僕の目の前で、白いスカートが矢渡さんの背中に張り付いた。彼女は素足だった。お洒落なサンダルに、細くて長い両足。それも素晴らしかったが、何より素敵だったのは彼女のパンツだった。白いパンツは、矢渡さんにしては子供っぽかった。

 パンツのお尻には、茶色いクマさんのプリントがデカデカとついていた。ディズニーに出てきそうな、可愛らしい動物キャラクターだ。僕はビル風が矢渡さんを襲っている間、そのクマと見つめあった。クマは、とても人なつこいタイプに見えた。

「見た?」

 風が通り過ぎ、スカートが元に戻った。矢渡さんは、少女のような笑顔になって、僕の方へ振り返った。

「クマ!」と、僕は答えた。すると、矢渡さんはゲラゲラ笑い出した。僕も、釣られて笑った。

「あたしね。この”クマさん”が大好きなの」

 矢渡さんは、鞄を開けた。彼女は、自分の財布やハンカチやハンドタオルやらを、一つずつ取り出して見せてくれた。全部、あのクマだった。

「私の、守り神なの」そう説明する彼女は、すっかりくだけて上機嫌だった。

「わかる。なんか、わかる」と、僕は答えた。

「わかってくれるー!?」そう言って、矢渡さんは楽しそうに笑った。

 こうして僕らは、すっかり打ち解けたムードになった。

 高田馬場駅から、早稲田通りを五分ほど歩いた。そこに、目的の店はあった。古めかしいビルの階段を、僕らは二階へ上がった。上のフロアには、店が三軒あった。いわゆるスナックだった。そのうち一つが、「Providence」という店だった。扉には、「closed」という札がかかっていた。けれど矢渡さんは、その店の扉を開けて中へと進んだ。

「閉店中、じゃないの?」と僕は聞いた。

「大丈夫。開けてって頼んであるから」と、彼女はなんでもなさそうに答えた。

 店内には長いカウンター席と、窓際の丸椅子の席があった。カウンターの中には、蝶ネクタイのバーテンダーがいて、僕たちを待っていた。「こんばんは」と、彼は挨拶した。二十代の、長髪でスマートな男性だった。

「こんばんは。ヨロシクね」と、矢渡さんは挨拶を返した。「今日は、こっちにするから」そう言って、彼女は窓側の席を指差した。「シンガポール・スリング。太田、あなたは?」

「あ、ウイスキーの、水割りで・・・」僕は、ちょっと緊張しながら答えた。こんな格好いい店は、生まれて初めてだった。

「ウイスキーは、何にします?」と、バーテンダーは聞いた。

「あ、あの。サントリーで・・・」

「山崎に、しておきますね|

「?」僕は、山崎さんという方を知らなかった。

 背の高い丸椅子の隣に、狭い丸テーブルがあった。矢渡さんと僕は、丸テーブルを挟んで向かい合い、椅子に座った。すぐに、飲み物とミックスナッツが届いた。

「音楽、かけてくれる?」と、矢渡さんが頼んだ。

 静かだった店に、マイルス・デイビスの「Bitches Brew」が流れた。難解だが軽快な音楽が、大きなボリュームで店内の空間を埋め尽くした。

「ちょっと、うるさいけど。あんまり、人に聞かれたくないからさ」と、矢渡さんがボリュームの理由を説明した。これも彼女のオーダーのようだ。

「なるほど」と僕はあいづちを打った。

 彼女はとても自然に、鞄の中からたばことライターを出した。すぐに一本くわえて、火をつけた。深呼吸をするように、煙を深く吸い込み、時間をかけて吐いた。たばこを吸う間、矢渡さんは店内を見回した。視線をあちこちに彷徨わせた。一本を吸い終え、灰皿に押し付けて火を消した。それから、話が始まった。

「境から聞いたんだけど」

「うん」

「あなたが、小鴨の話聞いて動揺してるって」

「そう、だね」と僕は、戸惑いながら答えた。

「あたし、よくわかんないだよね」

「え?」

「太田って、私たちと絡みたがらないじゃん」と、矢渡さんは言った。「小鴨もあたしも、眼中にないんだと思ってたよ」

「あー、いやあ・・・」僕は、説明に困った。僕は僕で、みんなに相手にされていないと思っているのだ。

「あなたって、あたしよくわかんない」と、矢渡さんは言った。「太田は、あたしに媚びない。飲みにも誘わないし、話しかけもしない」

「いや・・・、そういうわけじゃ・・・」

「でもさ。なんか、わかるよ」と、矢渡さんは言った。「太田は、自分に自信があるんだよね?だから、周りに左右されない。だから予備校に来なくても、平気なんだよね?」

「自信が、あるわけじゃないよ」と、僕は弁解した。

「了解、了解。本当のあなたは、自信はないんだね」そう言ってから、矢渡さんはクスクス笑った。「でも、世の中のルールは無視する。受験戦争に、興味を見せない」

「あー、いやー・・・」

「でも、小鴨の話には反応する。自殺未遂って聞いたら、顔色変える。そういうことだよね?」

「うーん。そうかもね」

「そうなんだよ、きっと」そう言って、矢渡さんは満足そうに笑った。自分の推理が正しいと、確証を得たようだ。彼女は、二本目のたばこに火をつけて美味しそうに吸った。でもたばこを消した後、矢渡さんは厳しい表情になった。束の間の休息のあと、現実がふりかかるように。

 矢渡さんは、二杯目にダイキリを頼んだ。それが届くまで、彼女は黙って待っていた。テーブルの上で両手を組み、彼女は自分の手をじっと見ていた。

「あたしもさ。責任を感じてるんだよ」

 矢渡さんは、ダイキリを一口飲んでからそう言った。彼女はなぜか、視線を右下の床に落とした。僕の目を見なかった。

「そうなの?」矢渡さんに、”責任”という重い言葉は不釣り合いに思えた。

「だってさ。あたしは、小鴨を見捨てたから」

「それはつまり・・・」と、僕は言葉を選びながら聞いた。「ある時から、並んで座らなくなったことを言っているのかな?」

「それも、あるね」と、矢渡さんは言った。「でも、それは結果かな」

「結果って?」

「衝突、だね」と、彼女は言った。「私が、小鴨のお兄さんを悪く言った。小鴨は、私に激怒した。それが、衝突」

「そうだったんだ・・・」僕は、なんとなく事情を理解ができた。

「わかる?」と、矢渡さんは僕に聞いた。

「わかると思う」と、僕は答えた。

「助かるよ」そう言ってから、矢渡さんはやっと僕の目を見てくれた。彼女の視線の威力は強烈だった。もし嘘をついたら、すぐ見抜かれるようなパワーがあった。

「小鴨のね、右腕なんだけど」と、矢渡さんは話題を変えた。

「うん?」

「手首から肘まで、傷だらけなの」

「え?!」

「いわゆる、リストカット。小鴨はね、ずっと昔から自分を傷つけてるの。ずっと、続けてるらしいの」

「・・・」

「あなたは知らないかもしれないけど」と、矢渡さんは前置きした。「女の子では、わりとよくある話だよ。知ってた?」

「知らなかった・・・」と、僕は白状した。本当に僕は、何も知らない。

「つまりさ。もともと、小鴨は不安定な子だったんだよ」

「うーん」

 矢渡さんの話を、僕はうまく受け入れることができなかった。あんなに前向きに熱心に勉強する人が、僕らの中心に立って話していた人が、裏側では自ら腕を傷つけていた?

「あたしも、浪人生になってから知ったんだ」

「それは、小鴨さんの傷のこと?」

「うん」と、矢渡さんはうなずいた。「あの子はね。高校時代、一年中長袖のブラスを着ていたの」

「それは・・・」と、僕は言いかけた。

「傷が、バレないためだよ」と、矢渡さんは言った。とても、クールに。これが現実だ、とでも言いたげに。

「ねえ。教えてくれないかな」と、僕は言った。「さっき、小鴨さんと衝突したって言ったよね?」

「うん」そう答えて、矢渡さんは左手の爪を見た。でも爪が見たいのではなく、バツが悪いから見たような気がした。

「お兄さんって、確か東大生だよね?」

「そう」

「そのお兄さんのことで、なんでケンカしたの?」と、僕は言った。「確かに、小鴨さんは気が強そうだ。でも、離れて座ることになるほど、ひどいケンカだったのかな?」

「それはね」と言って、矢渡さんは丸椅子に座り直した。それからまた、たばこをくわえて火をつけた。一口吸ってから、彼女は話を始めた。

「小鴨ってさ。一年中、お兄さんの話してるの。それも、自慢話」

「そうなんだ」

「そんな話、つまんないじゃん?」そう言ってから、矢渡さんは“目で”僕に同意を求めた。彼女のパワフルな視線に、今回は『すがる』ような要素が含まれていた。僕は抵抗不可能だった。

「そうだね。確かに」と、僕は賛同した。

「それにね」と、彼女は続けた。「小鴨の話は、何かを隠してるの」

「隠してるって?」

「ごめん。説明が悪いわ」と言って、矢渡さんは苦笑した。「彼女の話は、何かを意図的に省いてるの。だから、いつも辻褄が合わないの。起承転結がないの。だからいつも意味不明だし、とってもつまんないの」

「なるほど」

「あたしさ。この予備校に入ってさ。小鴨とは元クラスメイトで女同士だし、仲良くやろうと思ってたわけ」

「うん」

「でも、二ヶ月しか持たなかった」と、彼女は言った。顔は真剣と悲しさの中間のような、複雑な表情をした。

 お店に、男が一人入ってきた。真っ赤に染めた革ジャンに、細い黒のジーンズ。短い髪を逆立て、無精髭を生やしていた。年齢は、二十代前半。彼は、「美香子!」と、矢渡さんを大きな声で呼んだ。

「下で待ってな」と矢渡さんは、彼を見ずに怒鳴った。「話は、まだ済んでない」彼女は怖い目で、カクテルグラスを見ていた。赤い革ジャンの男は、うなだれて店を出て行った。

「いいの?」と、僕は聞いた。

「いいの」と、矢渡さんは答えた。

「ある時ね。あたしは小鴨に、『お兄さんから卒業しろ』って言ったの。家族じゃなくて、周りに目を向けろって」

「なるほど。それはそうだね」と、僕は同意した。

「そしたら、小鴨が怒った、怒った」と言って、彼女は怯えるように眉をひそめた。「話はエスカレートしちゃってさ。あたしは、小鴨のお兄さんなんて大したことないって言ったら、あいつはあたしに、『あんたは、男と遊び過ぎだ』って言って。まあ、その通りだけどね」

「つまり、こじれちゃったんだね」と僕は言った。

「こじれた」と言って、矢渡さんは目の前でガクンと両肩を下ろして見せた。表現豊かな人だ。「で、それっきり。そしたらさ、あいつが予備校休むようになって。家で勉強してるのかな?と思ったら、自殺未遂したって聞いた」

「・・・」

「あたしが知ってるのは、これだけ。基本はね」

「うん」

「知ってるけど、太田に言えないこともある。それは、わかってね?」

「わかった」と、僕は答えた。

「ありがとう」と、矢渡さんは言った。その言葉には、真剣さがこもっていた。彼女はきっと、自分のことを僕にわかってほしいのだ。小鴨さんの問題については。

 その後、僕らは店を出た。

「会計は、あいつに払わせるから」と、店を出る前に矢渡さんは言った。

「あいつって?」

「下にいる男」

 僕らは店を出て、階段を降りた。通りに出ると、真っ赤なフェラーリが路上駐車していた。車の脇に、さっきの赤い革ジャンの男がいた。彼はイライラした様子で僕らを待っていた。雨はまだ降っていなかったが、風はさらに強くなっていた。

「今日は、ありがとう。おやすみ!」と言って、矢渡さんは、フェラーリの助手席に乗り込んだ。僕はおやすみの挨拶を言うタイミングを逸した。

 電車は、すでに止まっていた。強風で木が倒れ、電線が切断されたらしい。しかも、あちこちで。僕はその夜、高田馬場のインターネット喫茶で一夜を過ごした。お店は、僕のような客でいっぱいだった。


「矢渡さんはさ。自己弁護をしておきたかったんじゃないかな?」と、ヒロシは解説した。

「どういうことだい?」と、僕は彼にたずねた。

「つまりさ。小鴨さんが自殺未遂をした。このニュースは、元クラスメイト中に流れているだろう」

「そりゃそうだろうね」

「そこにお前が、大騒ぎを始めた」と、ヒロシは辛辣な言い方をした」

「してないよ」

「いや、だからさ。矢渡さんには、そう見えた。お前が、小鴨さんのことで大騒ぎをしてるって」

「何が言いたいんだ?」僕は、ムッとして彼に聞いた。

「矢渡さんは、お前が自分を悪くいうのを恐れたんじゃないかな?つまり、『小鴨さんと矢渡さんは、仲が悪くなった。その後で、小鴨さんは自殺未遂をした』って」

「そんなこと、言わないよ」僕は、即座に否定した。

「だ、か、ら」と、ヒロシはイライラした調子で言った。「矢渡さんは、お前と話して確かめたかったんだよ。自分をこの事件の原因と思っていないか?それを確かめたかったのさ」

「ふうむ」

「彼女は、本物の悪女だよ」と、ヒロシは断定した。

「そうかな?」

「そうだよ」

 僕は矢渡さんのことを、悪く思わなかった。ひろしの言う通り、彼女は自分の評判を心配したのかもしれない。僕が彼女を、悪く言うのを恐れたのかもしれない。けれど、僕が相対した女性は、普通の人だった。カッコつけているけれど、子供っぽい面も持つ、かわいい女の子だった。その印象は、外面のパーフェクトな矢渡さんとは別物だった。

 僕の思考は、再び小鴨さんに戻った。現在の彼女について、考えてしまった。今彼女は、どこにいて、どうしているのだろう?いや、やめろ!と、僕は自分に命じた。彼女に手を差し伸べるべき人は、僕ではない。彼女を救う力のある者が、彼女を救うべきだ。僕には、その力はない。この現実を自覚しろ。

 僕はそんなことを考えていた。すると、また夜が明けてしまった。


 彼女から電話をもらったのは、19時頃だった。小鴨さんの、お母さんだ。僕はびっくりした。だって、もうお母さんと二度と話すことはない、そう思っていたから。

「あの・・・、お電話をして、ご迷惑ではないでしょうか?」と小鴨さんのお母さんは僕にたずねた。

「いいえ、いいえ。まったく問題ありません。以前お話した通り、私は真面目な受験生ではないので。受験勉強に関係のない本を読んでいたところです」と僕は答えた。

「あの・・・、あのう・・・」と小鴨さんのお母さんは、電話口でためらっていた。彼女が逡巡することは一向に構わないが、そもそも僕らはなぜ話しているんだ?僕らの間で話すべきことは、もう一つもないはずだった。

「あの、昨夜、沙希のお友だちが電話を下さったんです。その方は娘を心配してくれて、もう何度もお電話を下さっているんです」

「はい」

小鴨さんは、高三のクラスで誰と仲良かったっけ?そもそも高三の頃は、僕は小鴨さんに注意を払っていなかった。だから、小鴨さんが誰と親しかったのか、僕にはわからなかった。

「その方と話しているうちに、太田さんの話になったんです」

僕の話?

「その方はおっしゃいました。太田さんは、信頼できる人だと。その方に私は、太田さんか手紙を貰ったことをお話ししました。そうしたらその方は、大田さんの手紙を沙希に渡すよう勧められました」

 信頼できる人?僕は、そんな大それた人間じゃない。

その人とは、いったい誰だろう?松田さん?いや、彼女は小鴨さんと仲が良さそうには思えなかった。高三のクラスでも、松田さんと小鴨さんが話しているのを見た記憶がない。では、別の誰かだ。でもそれが誰なのか、僕は見当がつかなかった。

「申し訳ありません。私は太田さんに対して、私は大変な勘違いをしておりました。本当に、お詫びの言葉もございません。申し訳ありませんでした・・・」

何と答えていいのか、まったくわからなかった。僕は電話口で、困惑のあまり沈黙していた。

「・・・お詫びがまだございます。実は沙希に手紙を渡せていないんです」

「えっ?」

「本当に、申し訳ありません」

「はい・・・?」

「あの、先生から、極力外部からの影響を与えないようきつく言われているんです」と小鴨さんのお母さんは言った。

 どういうことだ?外部からの影響を避ける?僕は、いわゆる心理学の本もいくつか読んでいた。フロイトの本も読んだことがあった。だから心の病というものについて、一定の知識は備えていた。しかし、それはいわゆる理論であって、実際の治療については何も知らなかった。

「あの、太田さんがどこまでご存知かわかりませんが・・・、沙希は自殺しようとしました」

「はい。知っています」と僕は静かに答えた。そして、小鴨さんのお母さんにたずねてみた。「それは、いつのことなんですか?」

「6月の24日です。実は、6月25日が、沙希の誕生日なんです。家族全員集まって、誕生日パーティーをする予定だったのに・・・」

 そこまで話したところで、小鴨さんのお母さんは小さな声で泣き出した。大人らしい、感情をできる限り押し殺した泣き声だった。できれば彼女は、僕に泣くところなど聞かれたくなかっただろう。だが、堪え切れなくなったのだ。僕は、彼女の高ぶりが治まるのを辛抱強く待った。

「すみません。・・・みっともなく取り乱して・・・、本当に申し訳ございません」と、お母さんは鼻を何度もすすりながら僕に謝った。

「いいえ、何も気になさらないで下さい」と僕は、自分の母親くらいの女性に言った。「それで今、沙希さんはどうされてるんですか?」

「個室の病室にいて、極力人と接触しない生活をしてます。部屋には、テレビもラジオも新聞もありません。先生が言うには、『今はとにかく、心を落ち着けるときだ』と言うことです。最初の二週間は、私たち家族ですら会わせてもらえませんでした」

「本当ですか・・・!?」

 想像以上に、小鴨さんの病状は深刻なようだった。

「太田さんはきっと、娘のことをもっとお知りになりたいですよね?」と小鴨さんのお母さんは僕に聞いた。

「はい」と僕は、はっきり答えた。「差し支えのない範囲で、教えていただけませんか?」

「娘の部屋には、刃物はもちろん、フォークやボールペンのような尖ったものは、一切持ち込めません。そういうものを見つけると、娘はすぐ手首を傷つけて血管を破ろうとするんです。ベルトやタオル、それからブラジャーも持込禁止です。首を吊る可能性があるからです。娘の部屋は、外から鍵がかかるようになってます。自分で外出したら、それこそ何をするかわからない状態なんです」

「・・・!?」

 僕は、絶句するしかなかった。リストカットだ。これで、矢渡さんの話は証明されたことになる。だけど、だけど。これがあの、小鴨さんの現在なのか?にわかに信じられなかった。早慶上智と言って、必死に勉強していた小鴨さんなのか?少なくとも、僕が知る限り、彼女はやる気に満ちて自信満々だった。それなのに、一月と経たずににすべてが変貌してしまった。

「あの、お願いなのですが」と、小鴨さんのお母さんは言った。「私が話したことは、どうか内密にしていただけないでしょうか?」

「わかりました。誰にも言いません」と僕は約束した。しかし、ヒロシにだけは隠せなかった。彼はまたいつものように、部屋に来ていた。僕と小鴨さんのお母さんの話を、途中から聞いていた。

「時が来たら、必ず大田様からの手紙を娘に渡します。もう少しお時間をいただけないでしょうか?」

「もちろんです。いつでも結構です」

 そこまで話して、僕と小鴨さんのお母さんは電話を切った。


「想像以上、だったな」と、電話が終わるとヒロシが言った。

「うん、ひどいな」

「俺は医者じゃないから、滅多なことは言えないが」とヒロシは断った。「おそらく彼女は、自分に過度にプレッシャーをかけたんだよ」

「つまり?」

「彼女の成績じゃ、早慶上智なんて無理なんだよ。実力相応の大学を目指せばいいんだ。でも彼女のお父さんは国会議員で、お兄さんは東大生なんだろ?自分だけ、レベルの低い大学ってわけにはいかない。そう自分を追い詰めたんだ」

「なんでそこまでわかる?なんでそこまで、言い切れる?」僕はヒロシに食ってかかった。

「自殺を試みたのが、6月24日だろ。誕生日の前日だ。家族でパーティーをやる予定だったんだろ?国会議員のお父さんも、東大生のお兄さんも、家族みんな集まるわけだ。それなのに、自分は全然大した成績じゃない。自分の理想とあまりにもかけ離れている。それで絶望したのかもしれない」

「だけど、まだ6月だよ。これから取り返せばいいじゃないか」と僕は反論した。

「もちろんそうだよ。理屈はそうさ。だが、現実はそうじゃない。大学受験は、ある意味ねじ曲がってる。真っ当な人は負ける仕組みになっている」

「いったい、どういう意味だよ。それ」

「こういうことがわからないから、お前はまだダメなんだよな」とヒロシは、バカにした様子で僕に言った。僕は思わずカチンと来た。

「どういうことか、説明してくれよ」僕は明らかに強い調子で、ヒロシに迫った。

「つまりさ、大学入試なんて人を落とすための試験なんだ。教科書に書いてあることを、普通に問題にしてみろよ。真面目なやつは、みんな100点取っちゃうぜ。つまり、不合格者が出ないんだよ。それじゃ大学は困る。だから、大学で習う知識を平気で入試問題に出す。あるいは、とんでもなくひねくれたひっかけ問題を出す。そうすることで、ある意味真っ当な奴をふるい落すんだ。そうすることで、まあ適正な数の合格者数になる。

 この傾向は、特に私立の大学は強い。高校じゃ絶対習わない単語を使って英語の問題を出す。そういう難しい英単語を、おそらくその後の人生で”一度も使わない英単語”を、たくさん覚えたやつが試験に通る」

「そんなの、時間の無駄じゃないか。一生使わない英単語なんか僕は覚えたくないね。」

「だからさっき説明しただろう。まともな問題出したら、みんな100点取っちゃうって」

「ふうむ」僕は唸った。確かに予備校に行っていて、バカバカしいと思うことが何度かあった。世界史のテストで、ボーア人のグレート・トレックが問題に出た。オランダ系のボーア人が、後発で南アフリカに侵略して来たイギリス人の支配を嫌って北へ北へ移動した運動のことだ。僕は歴史好きという素地もあり、世界史は得意科目だった。だが、グレート・トレックは知らなかった。高校の世界史の授業はそこまで進まなくて、産業革命の後くらいで三学期を終えてしまった。ヒロシの理屈から言えば、大半の生徒が知らないだろうから試験問題にするのだ。沢山の人が間違えると、わかっているから出題するのだ。

「僕はそんな勉強なんかしたくない」

「おいおい、お前は浪人生なんだぞ。自分の立場を否定してどうなるんだ」とヒロシは言った。僕は何も言い返せなかった。

 僕は今夜も、外から鍵のかかった部屋にいる小鴨さんのことを思った。こんなことになるまで、僕は彼女のことを真剣に考えたことはなかった。ただのガリ勉少女としか見ていなかった。

 だが彼女は、ずっと苦しみ続けていた。「最低でも早慶上智」と言いながら、その目標と現実のギャップにのたうち回っていたことになる。そしてついに、自ら命を絶つ道を選んだ・・・。

「勉強なんか、どうでもいいじゃないか」僕は思わず、大きな声で独り言を言った。ヒロシがびっくりした顔で僕を見た。

「待て待て。勉強は大事だ。くだらないのは受験勉強なんだ。それを混同するな」と彼は言った。

「受験勉強じゃない勉強って、いったい何だ?」

「お前が毎日やってることだよ。お前は沢山本を読んでるじゃないか。それが第一歩だ。しかし、ただ読むだけじゃダメだ。そこから仮説を、自分なりの原理をつかみ出さなくてはならない」

「原理?」

 こいつは何の話を始めたんだ?と僕は思った。

「数学でも物理でも化学でも何でもいい。高校の教科書を引っ張り出して、じっくり読んでみろ。問題なんか解くな。それは、原理をつかんでからでいい。教科書の隅から隅まで読んで、いったいこの科目が何のためにあるのかをじっくり考えてみろ」

「ヒロシ、悪いけど君が言ってる意味がわからないよ」と僕は弱々しく白状した。

「一番簡単な、数学を例にあげよう。教科書を広げれば、山のように公式が書かれてる。お前たちは何も考えず、それを機械的に覚えようとする。そして試験問題を解くことだけに使おうとする。でもそれじゃ、本当に理解したことにはならないんだ。本当に頭が良くなることができないんだ」

「公式の裏にある、原理に気づけってこと?そんな話聞いたことないよ」

「それが、今の教育の限界だ。物事を掘り下げて考えない。例えば座標について考えてみよう。数学の座標は、何のためにあると思う?」とヒロシは僕に聞いた。

 座標がある意味?僕にはさっぱり想像がつかなかった。それは数学の授業に出て来て、機械的に沢山の公式を習っただけだ。その存在の意味なんて考えたこともなかった。

「座標をこの世で最初に思いついたのは、デカルトだと言われてる。x軸とy軸を交差させただけだ。しかし、こいつには強烈な原理が備わっている。なぜなら、それまでは図形を式でしか表すことができなかった。しかし、座標というアイデアを使うことで、図形は座標の上に乗っかった。ある三角形を座標の上に乗せたとしよう。するとその三角形は、式ではなく、3点の座標で表すことができるようになった。もう式を使わなくても、世界中のどこに行っても座標を描き、3点の座標を示すことで同じ三角形について語り合えるようになったんだ。

 もちろん、3点の座標のうち二つをそれぞれ繋げて、座標上の三つの式として表すこともできる。座標上の三角形は、3つの方程式が交差して作られているとも言える。そこから、様々な公式が生み出された。しかし、そんなものは派生物だ。大事なのは、座標というアイデアだ。これが原理なんだ。原理を理解すれば、そこから展開される公式の意味が理解できる。その公式の必要性が理解できる。これが、『原理をつかむ』ことだ」

「原理をつかんだら、どうなる?」

「本当に頭が良くなる」

「本当に頭が良くなったら、どうなる?」

「人を救うことができる。少なくとも、その可能性を持てる」

 人を救う。そのヒロシの言葉は、僕の胸に突き刺さった。深く深く。しかし、当時の僕は頭が悪かった。ヒロシの話も、ほとんど理解できなかった。

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