第7話 小鴨さん1
七月のその日、僕はお昼頃予備校に到着した。「有名私大コース」の授業が終わったところだ。
宅急便屋のバイトは、三日前に終了した。昨日24万円を受け取り、すぐに郵便局へ行って現金書留で松田さんに送った。僕は身勝手な達成感を感じた。だから久々に、予備校に行く気になったのだ。
僕はまっすぐ、最上階の自習室に向かった。お昼の自習室は、ほとんど満席だった。昼食を取っている人が大半だったが、飯も食わずに勉強に集中している奴もかなりいた。知り合いの顔を探すと、境を見つけた。彼は一人で、壁際の二人掛けの席に座っていた。彼と目が合ってしまったから、礼儀として彼のところへ向かった。空いている、隣の席に腰を下ろした(本当は、境と話したくなかったのだが)。
「久しぶりだな。お前、全然学校来てないだろう?」境は、昼食のサンドウィッチを頬張りながら言った。
「家で勉強してる」と僕は答えた。それについて、境は何も言わなかった。そもそも僕のことなど、彼は興味がないのだろう。
それから僕らは、しばらく予備校の同級生や、高校時代の同級生の近況について話をした。と言っても、話していたのはずっと境だった。僕は、相槌を打っていただけだ。
「そういやさあ」と境は、話題を変えるような様子を見せ、それから少し黙った。不思議な間があった後、彼は話を再開した。
「小鴨なんだけどさ、自殺しようとしたんだって」
境はニヤニヤしながら、周りの生徒たちに聞こえないような小さな声で、僕の耳元に顔を寄せてささやいた。とっておきの特ダネを報道する記者にように、彼は得意そうな顔をした。その時僕は、ズンッと全身が揺れるのを感じた。大きな縦揺れの後に、すうっと血が引いていくのがわかった。目眩を覚え、目の前がしばらく真っ白になった。
「何で?」大分経ってから、ようやく僕はそれだけ言った。
「俺だって知らないよ、そんなの」と、境は少しムッとした様子で言った。そんなことは、俺には関係ないと考えているようだ。
「で、大丈夫なの?」
「俺も、聞いただけだから。詳しいことは知らないんだけどさ」と境は断った。「何でも、自宅で手首を切ったらしいよ。すぐに、お母さんが見つけて病院に行ったって。だから怪我はすぐに治ったそうだ。ただ、いわゆる心の病らしくてさ。そのまま、精神科に入院しているらしい」
そんな小鴨さんの現実について話しながら、境は感情の揺れをまったく見せなかった。彼は、同級生が〇〇大学でサッカー部に入って活躍している、なんて噂話をするのと同じ口ぶりで彼女について語った。とても不自然なのだが、境にはそんな芸当が簡単にできた。
「お前、五月の終わりから予備校来なくなったよな?」と、境は僕に聞いた。
「ああ」僕は、うなずいた。
「だからお前は知らないだろうけど、小鴨も六月に入ってからパッタリ来なくなったんだよ」
「どうして?」
「知らないよ。分かるわけないだろう」とまた境は、腹を立てた口調で答えた。
僕は、教室の最前列に座って、必死にメモを取っている小鴨さんの後ろ姿を思い出した。彼女は右肩を小刻みに震わせながら、講師の説明をノートに力を込めて書き取っていた。首を上げたり下げたりしながら、彼女は授業にのめり込んでいた。教室の最後尾の列に座って、物思いに耽っていた僕とは正反対だった。その彼女が、六月から予備校に来なくなった?なんで?僕には全く理解できなかった。そして、自殺未遂を起こした?いったい・・・。
「何で、そんなことになったんだ?」
「だから知らねえって、さっきから言ってるだろう」境はますます強い調子で言った。「俺も、聞いただけなんだから」
そして境は、自分の考えを披露した。
「小鴨ってさあ、最初から変だったじゃん。早慶上智、早慶上智って騒いでさ。大して偏差値も高くないのに。だからさ、あっちに行っちまったんだよ」
「あっちって?」
境は自分の右手を、頭の右側のこめかみのあたりに持っていた。そして人差し指で自分の頭を指し、くるくるくると三回回した。そして僕に言った。
「いっちゃったんだよ。あいつはもう駄目だな」
そう言ってから、彼はにっこりと笑った。とても楽しそうに。この男は、昼間のワイドショーのように、小鴨さんの身に起こったことを語っていた。彼女が死にかけたという事実に、彼は何の感慨もないらしかった。彼女が自ら死を選ぼうとしたことに、それほど彼女が追い詰められていたことに、彼は何とも思わないらしかった。
僕は、目の前に座っているこの男に、猛烈に腹が立ってきた。もともと好きではなかったが、今日のこいつの態度は決定的だった。こいつをぶん殴ろうかと、本気で考えた。しかし僕は、ギリギリで踏みとどまった。その代わり、もう一秒たりともこいつと一緒にいたくなかった。
だが、沸き起こる怒りをなんとか堪えた。僕は、彼から教えてもらわねばならないことをたずねた。
「小鴨さんは、今どこにいるの?」
「大学病院だって」と、境はつまらなそうに答えた。それだけ聞くと、僕は急いで立ち上がった。
せっかく二時間近くかけて来たけれど、予僕は文字通り校舎を飛び出した。そしてまっすぐ駅に向かい、電車に飛び乗った。大学病院なら、市内には一つしかない。僕は、そこに小鴨さんがいると信じた。今ずぐ一直線に、そこへ向かうつもりだった。
小鴨さんに会おうと、僕は心に決めた。今すぐ。しかし、と電車の中で僕は考えた。僕は小鴨さんとも、ほとんど話したことがなかった。三年のクラスメイトで、予備校の同じクラスでもあったのに、僕は彼女にとって何の存在でもなかった。ただの顔見知りでしかなかった。自習室に高田校出身者で集まった時も、小鴨さんにとって僕は観葉植物と変わりなかった。松田さんとの関係よりもひどかった。
その上僕は、今日まで小鴨さんのことを真面目に考えたことがなかった。彼女は受験戦争に勝利し、きっと成功するのだろうぐらいしか思っていなかった。かたや僕は、全く勉強をする気になれない。僕と彼女は、何の共通点も見出せなかった。
昼間のがら空きの電車が、地下から地上へと出た。すぐに川に差し掛かり、電車は橋を渡ってガラガラと大きな音を立てた。午後の暖かい光が、川沿いの道や、その隣の住宅街や、高層マンションを優しく照らしていた。その光景は、ここに沢山の、数え切れないほどの幸福な生活があることを示していた。
橋を過ぎると、周りは無限に続くかと思うほど、戸建住宅や、2階建のアパートや、5階建くらいの公共団地や、それらを見下ろす高層マンションなどがひしめき合っていた。みんなそれぞれに、自分の幸せを求めて努力しているのだ。
しかし、そんな風景を眺めている僕の頭は、死が支配していた。この世からなくなってしまうこと、そしてそれを自ら選択すること、僕はそれについて考え続けた。しかし、いくら考えてもわからないことだらけだった。僕は、激しく混乱していた。物事をまともに考えられる状態ではなかった。
電車が終点に着いた。駅から出ると、まず花屋を探した。手ぶらで小鴨さんに会いに行くわけにはいかない。動揺した僕も、さすがにそれくらいの常識に気がついた。駅前をくるくると彷徨って、駅から線路下に続くショッピング・モールに立派な花屋を見つけた。
しかし、どんな花を買えばいいのかさっぱり分からなかった。花屋には、それはそれは様々な花が並べられていた。普段、花に全く興味のない僕は、薔薇しか名前がわからなかった。
「何かお探しですか?」
しばらく店の前で立っていると、女性の店員が僕に声をかけてくれた。少し太った、三十くらいの人だった。彼女は少し汚れたエプロンをして、ジーンズを履いていた。その格好の方が、花屋の仕事には合っているのだろう。結構重労働な仕事そうだと、僕は初めて知った。
「あの・・・、病院のお見舞いなんですけど・・・、どれがいいかわからなくて」と、僕は正直に事情を伝えた。
「その方は男性?それとも女性?」
「女性です」
「おいくつの方?」
「19歳です」
すると彼女は、真っ赤な薔薇をメインに間に色々な花を差し込む花束をアレンジしてくれた。しかし、自ら死を選ぼうとした人に、赤い薔薇はいいのだろうか?でも、異を唱える知識もないので、僕は彼女の選択に従うことにした。全部で8,000円かかった。
さて、次は病院だ。広いバスロータリーがあったが、何番に並べば大学病院に行くのか僕は知らなかった。悩んでノロノロしているのも嫌だった。僕はタクシーに乗り、目的の大学病院に向かった。
病院には着いた。だが、精神科はどこにあるのだろう?内科や外科ならわかるが、精神科は未知の世界だった。それから、到着してから思いついたのだが、僕は小鴨さんと何を話せばいいのか、一つのアイデアも持っていなかった。それにそもそもだが、小鴨さんが今、面会できる状態かもわからなかいじゃないか。
しかし、ここまで来て後に引くわけにはいかない。僕は巨大な花束を抱えて、広い病院の1階にある総合受付へと向かった。そして、受付に座っていた中年女性に「ここに、小鴨沙希さんという方が入院していると聞いたのですが。彼女の病室はどこですか」と尋ねた。
彼女は、受付の奥の部屋に引っ込んだ。入院者名簿から、小鴨さんを探してくれた。五分ほど待ったあと、彼女は僕に小鴨さんという人はこの病院に入院していないと告げた。
「本当ですか?ここだと、私は聞いたんですが」
「よく市立病院と間違える方がいるんですよ。市立病院に聞いてみますね」とその女性は言い、もう一度奥の部屋に入った。どうやら市立病院に電話をしてくれたらしかった。彼女は、とても親切だった。また五分ほどして、彼女は戻って来た。そして、小鴨さんは市立病院にもいない、と僕に教えてくれた。
「本当に、この病院と聞いたんですか?」
「いや、実は大学病院だと聞いただけです」
「もう一度、確認していただけますか?」
「わかりました。そうします」
考えてみれば、あまりにも早計だった。大学病院と言っても、世の中にはいろんな大学の付属病院があるじゃないか。境は知らないだろうから、せめて小鴨さんの家に電話をして病院を聞くべきだった。
「僕は、阿呆だな」
僕は肩を落として、病院の玄関を出た。出直しだ。さて、この花束はどうする?鮮度が落ちれば、価値は無くなってしまう。病院出口の生垣に、僕は8,000円かけた花束を突っ込んだ。やってみると、この病院に入院している人全てに花束を渡したような気分になった。夕陽を浴びて、赤い薔薇はキラキラと輝いた。金をかけただけのことはあった。悪くない。僕は、駅に戻るバスに乗った。それから、家に帰った。
「また厄介な問題を、持ち帰って来たもんだ」ヒロシは呆れて、僕にそう言った。
「僕が選んだわけじゃない」
「そりゃそうだけどさ。だいたいお前は、その小鴨さんと親しくないんだろ?好きなわけでもないんだろ?」
「うん」
「ならなんで、そこまでするんだ?何でまた、今日の今日で彼女に会おうと思ったんだ?」
「わからない」
「俺たちは長い付き合いだが、今日のお前の行動はよくわからないよ」
僕だって、実は同じ気持ちだった。なんで、親しくもない小鴨さんに、こんなに心を揺さぶられるのだろう?
それはおそらく、死のせいだった。彼女は、自分で手首を切って自殺を図ったという。運よく家族が見つけて一命を取り止めたから良かったが、そうならない可能性だってあった。そして一度そこまで思い詰めた人間が、そう簡単に立ち直るとは思えなかった。
何かしなくては。自分が何かをしても、大した効果はないことはわかっていた。もし仮に今日、小鴨さんと会えたとしても、彼女は喜びはしなかっただろう。田崎や境なら、彼女に僕よりずっと大きなインパクトを与えることができるだろうに。しかし、少なくとも境にその気はさらさらなかった。あいつは人の“生き死に”を聞いても、ヘラヘラ笑っているだけの男だ。
ヒロシと話しながら、僕は次のアクションを開始していた。帰ってくる途中に、僕は文房具屋で高価な便箋と封筒を買った。その便箋に、僕は小鴨さんに宛ての手紙を書いていた。自宅の住所なら、卒業名簿でわかる。自宅に手紙を送れば、家族が小鴨さんに渡してくれるはずだ。後ろでヒロシが何かしゃべっていたが、僕は生返事をしていた。僕は、手紙を書くことに集中した。
その手紙に何と書いたのか、実は全く覚えていない。ひどく興奮していたせいか、記憶がすっかり飛んでいるのだ。確か、かなり長い手紙を書いたと思う。おそらく、君が入院していることを聞いた、とても心配している。それだけは書いたと思う。だが、それだけなら便箋一枚で済む手紙だ。当時の僕は、どうやらいろんなことを書いたらしい。しかし、何も覚えていない。綺麗さっぱりと忘れてしまった。僕はその晩のうちに、手紙を書き上げた。そして翌日には、ポストに投函した。
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