第6話 松田さん3

 六月の半ば、僕にちょっとした事件が起きた。予備校に行く時間になっても寝ている僕に、両親は激昂した。二人して、僕を怒鳴り散らした。しかし僕は、彼らを相手にしなかった。黙ったまま、布団から出なかった。

うちの両親は、両方とも働いていた。彼らには、僕を怒鳴る時間もあまりなかった。そして僕が、こうと決めたらテコでも動かない子供だと彼らは知っていた。一週間くらい、朝のドタバタ劇が続いた。その結果、父も母も僕に何も言わなくなった。僕は真夜中まで本を読み、昼間まで眠るという堕落した生活を続けた。

 予備校には行かなくなったけれど、僕はハンバーガー屋のアルバイトは続けていた。土日の決められた時間にキチンと出勤し、精魂込めて働いた。丁寧にハンバーガーを焼き、ここだというタイミングでフライドポテトを油から上げた。仕事に打ち込むことで、僕は何らかの安らぎを得ていた。

 そこへ、とんでもない話が紛れ込んできた。なんと、真向かいのアイスクリーム屋で働いている女子高生が、僕のことを好きだというのだ。

 その話を最初に聞いた時、僕は自分の話とは信じられなかった。僕は田崎でも、境でもない。パッとしない、平々凡々の男だ。そんな僕になんの魅力がある?僕は最初、これはデマだと思った。だから全然、相手にしなかった。

 しかしいつになっても、フードコートのみんなはその話を続けた。情報の発信源は、アイスクリーム屋の店長だった。その女の子が、店長に僕のことを相談したらしい。ここに至っては、僕もすべて事実だと認めるしかなかった。

 真向かいのアイスクリーム屋を見れば、彼女はそこにいた。ショートカットで、女の子にしては背の高く、スマートな人だった。目が小さくて、口も小さかった。彼女はいつも口をしっかり閉じ、視線はまっすぐに正面を向いていた。でも彼女は、人と目を見ることを避けていた。いつも向こうを見ているから、感情のわかりづらいタイプだった。

 さて、彼女が僕を好きとして、僕は何をすればいいのだ?僕には、それがわからなかった。僕はその頃、まだ童貞だった。女の子を口説いた経験なんて、一度もなかった。僕は混乱するだけだった。そして結局何もしなかった。彼女も、僕に何のアプローチもしなかった。僕らは毎週の土日、それぞれの店で淡々と働いた。


 ささやかな悩みを抱えているところへ、また松田さんから電話があった。GW以来、僕と松田さんは、およそ二週間に一度電話で話した。電話をかけるのは、松田さんの役目だった。僕からは、彼女に電話をかけなかった。僕は、彼女が話したい時に話をすればいい、と考えた。彼女が立て込んでいる時に、僕が電話をして邪魔をしたくなかった。でも振り返れば、それは冷たいと取られてもおかしくなかった。今になって僕は、その頃の自分を後悔している。

 時間は、23時を回っていた。通常なら、もっと早い時間に電話があるものだった。でも電話の液晶画面には、「松田さん」の電話番号と名前が表示されていた。僕は、少し驚きながら電話に出た。電話はコードレスで、子機が僕の部屋にあった。だから23時にベルが鳴ったとき、真っ先に僕が電話を取った。両親は、さっさと眠っていた。

「太田くん、今話しても大丈夫?」と松田さんは、声を潜めて僕に言った。

「大丈夫だよ」と僕は答えた。僕はウイスキーの水割りを片手に握りながら答えた。晩酌は、もはや日課だった。

「あのね、私ね・・・」そこまで言って、松田さんは黙った。

「なあに、何かあったの?」

「あのね・・・」とまた松田さんは言って、もう一度黙り込んだ。僕はいやな予感を覚えた。でも、落ち着いて彼女が話し始めるのをじっと待った。いつまでも、待つつもりだった。

「あのね・・・」

「うん」

「生理がないの」

「えっ!?」

 今度は、僕が黙り込む番だった。生理が来ないことが何を意味するか、僕だってすぐわかった。長い沈黙が僕ら二人を包んだ。おそらく僕らは。五分くらい電話口で黙っていたと思う。

「実は、ずっと生理がなかったの」

「うん」

「だから今日、友達と病院に行ったの」

「病院って、産婦人科?」僕は、ばかな質問をした。

「そう。10週間だった」と松田さんは言った。

 直下型地震が、起きたみたいだった。僕の身体は縦に大きく揺れた。酔いがいっぺんに吹き飛んだ。僕らはまた黙り込んだ。永遠に続きそうな沈黙だった。

「私、子供ができちゃったの」絞り出すように、苦しそうに松田さんは言った。

僕は、机の卓上カレンダーをめくった。六月、五月、・・・、十週間前へ遡った。それは、四月の上旬だった。松田さんが、僕のバイト先に現れた頃だった。

「父親は、・・・例の彼、なんだよね?」と僕は、またばかな質問をした。

「当たり前じゃない」と、松田さんは少し怒って言った。「私、軽い女じゃないんだよ」

「ごめん。わかってる。ごめん」と僕は平謝りに謝った。

「ねえ、私はどうしたらいい?」

 松田さんの問いかけに、僕は答えられなかった。落ち着け。自分にそう何度も言い聞かせた。深呼吸を何度か強制的に繰り返してから、僕は口を開いた。

「彼は、なんて言ってるの?」

「彼には、まだ話してない。というか、実はあの日以来、一度も会ってないの。電話で話したこともない」と松田さんは言った。「彼は20歳で、ピザ屋でバイトしてる人なの。携帯も持ってないから、何度かそのピザ屋に電話して、連絡をくれるよう頼んでるの。でも、一度も電話がないの」

 最悪だ。僕はそう思った。それから僕は、その彼に猛烈に腹が立ってきた。この野郎、コンドームもしてなかったのか。女漁りを繰り返している男友達から、コンドームをすると気持ちよくないと聞いたことがあった。しかしそれでは、現実に子供ができてしまうのだ。

 僕は受話器を握ったまま、固まっていた。松田さんにかけるべき、どんな言葉も浮かんで来なかった。僕はまったくの無力だった。その無力さに、今度は自分自身に腹が立ってきた。

「病院の先生からは、中絶を勧められたの」

「・・・」僕は答えられなかった。妊娠という事実も、中絶という選択肢も僕にはあまりに重すぎた。あまりに遠い世界の出来事だった。しかしそれは、今夜現実として目の前に突きつけられた。

「彼と話してみようよ。それで決めよう」ようやく僕はそれだけ答えた。

 再び長い沈黙が訪れた。また長い、長い沈黙だった。

「わかった。そうしてみる」と松田さんは言った。しかし、その言い方は自信なさげだった。


「できちゃったのか。参ったな」とヒロシは言った。

「まったく。参ったよ」僕は今夜も、頭を抱えた。それから、両手で髪をかきむしった。

「相手は、ピザ屋のバイトだって?就職もしないで、フリーターってことだろう。そんな奴、生活力ゼロだぜ」

「おまけに、あれ以来一度も会ってないんだってさ。まあ、予想通りだけど」

「ふうむ」そう唸って、ヒロシを腕組みをした。壁にもたれ、両目を閉じて彼は考えこんだ。ヒロシにとっても、これは難題のようだった。

「そいつに、父親としての責任を果たせって要求するのは、まず無理だろう」しばらく黙考した後で、ヒロシはそう言った。

「そうだろうね」と僕も同意した。

「病院は、中絶を勧めてるんだろう?」

「そうだって」

「金はどうする。彼女は持ってるのかな?」

「わからない」

 僕は、問題は金ではない気がした。金がないなら、カードローンでも組めば済む話だ。

「問題は、その子をどうするかだよ」と僕は言った。

「父親があてにならないんだぜ。堕ろすしかないだろう」

「まあ、そうだよな」

 そう答えながら、僕の心は別にあった。生命。その言葉が、“重し”となって僕の背中にどかっと積まれていた。僕はその負荷に、両足を踏ん張って耐えた。

「松田さんに、子供ができようとできまいと、すべてお前には何の関係のない話だ」とヒロシは言った。「放っておけよ」

「まあ、そうかもしれない・・・」

「何だ?納得がいかないのか?」

「当たり前だよ!」と、僕は少し興奮して言った「僕は、納得がいかないんだよ。よりによって松田さんみたいな人が、なんでこんな酷い目に合うんだろう?」

「うーん、運が悪かったとしか言いようがないな」

「運で済ませられる話かよ」僕は、少しムッとしてヒロシに言った。

「なあ、こう考えろよ」と、ヒロシは僕を落ち着かせるように言った。「松田さんは、田崎みたいな男が好きなんだろ。で、ピザ屋の父親は、田崎に似てたんだろ?じゃあ、しょうがないじゃないか」

「それはまあ、確かに」

 仕方なかったということか。松田さんは、自分の理想の男と結ばれたわけだ。たった一夜だけだけれど。その夜、松田さんは幸福だっただろう。それから彼女は、こんなことになるとは夢にも思わなかっただろう。僕は氷でだいぶ薄まってしまった水割りを、一気に胃に流し込んだ。それから台所に行き、新しい水割りを作って部屋に戻った。

「あんまり飲むな」とヒロシが僕に警告した。

「飲まなきゃ、やってられないよ」と僕は大人ぶったセリフを返した。

「松田さんは、自分の理想を叶えた」と、ヒロシは朗読するように言った。「だが彼女は、理想の相手に裏切られた。松田さんのような人格者が、裏切られるなんて不当だ」

「まったく」と、僕は同意した。

「つまりお前は、世界にこう期待しているわけだ。『りっぱで魅力的な人ならば、幸せになるべきだ。努力して自分を律している人格者は、幸せをつかむべきだ』そうだろう?」

「そうだね」

「お前の言うことは、もっともだ」と、ヒロシは冷静に言った。「だが、お前は当事者じゃない」

「・・・」僕は、何も言えなかった。“当事者”という言葉が胸に刺さった。

「あらゆる問題は、当事者たちが話し合って解決すべきだ。それが一番上手くいく。外野が、手を突っ込んでかき回しちゃいけない」

「・・・うん・・・」

「わかったな!」ヒロシは、怒鳴るような調子で念を押した。

 その晩僕は、四時くらいまで眠れなかった。ヒロシは1時くらいに帰っていった。僕は一人で、水割りを飲み続けた。おかげでベロンベロンに酔っ払い、フラフラになって眠りについた。


翌日僕は、昼過ぎに目を覚ました。布団から起き上がると、卒業者名簿を開いた。そして、松田さんの住所をメモした。ジーンズを履き、長袖の薄いシャツを被ると、食事もせずに家を出た。

僕が向かったのは、駅前の百貨店だった。しかも女性服売り場だ。当たり前だが、そのフロアに男性客は僕だけだった。明らかに浮いていた。女性店員の、僕を見る目が痛かった。しかし尻尾を巻いて、何の成果もなく帰る訳にはいかない。

僕はフロアいっぱいに飾られた、気の遠くなるほどの数の洋服から、薄いサマーセーターを探した。ただ、セーターであればいい訳ではない。松田さんに似合う、あの聖母マリアのような微笑みに合うものが欲しかった。周囲の冷たい視線を物ともせず、僕は時間をかけて女性服売り場を徘徊した。セーターを実際に手にとって、その厚みや肌触りを確かめた。何度も店員が声をかけてきたが、僕は断った。どうせ、高い服に誘導されるだけだ。僕は自分の直感だけを頼りにした。

そしてついに、イメージ通りの洋服を僕は見つけた。それは薄いグレーのカーディガンだった。これなら、松田さんに似合うだろう。問題はサイズだ。いったい彼女にはいくつのサイズを買えばいいんだ?悩んだ末、真ん中のサイズを選んだ。カーディガンなら、多少大きめでも問題ないだろう。

「プレゼントですか?」と店員が僕に聴いた。当たり前だよ。僕が着る訳ないじゃないかと思ったが、世の中には男で女の子の服を着る人もいる。「はい。プレゼントです」と、簡潔に答えた。

綺麗に包装してもらうと、次に僕はすぐに近くのコンビニに行った。グレーのカーディガンを、松田さんの家に送った。


 翌日、松田さんから電話がかかって来た。

「ありがとう。めちゃくちゃ嬉しいよ」と松田さんは言った。

「ほら、これから暑くなるとさ。冷房がギンギンに効いた建物に入らなきゃならないでしょ。そんな時に、着てほしいなと思ったんだ」と僕は答えた。

「グレーなのが、なんか太田くんっぽい」

「そうかな?グレーなら、結構合わせやすいでしょ」

「うん。そうだね。鞄に入れて、いつも持ち歩くよ」と松田さんは言った。

僕は少し間をおいてから、松田さんに申し出た。

「お金なら、僕も手伝うよ」

「えっ?」

「大丈夫。なんとかするから」とだけ僕は言った。気を使わないでという松田さんの言葉を半ば無視して、おやすみの挨拶をして僕らは電話を切った。

 僕はその日、新聞の折り込み広告に宅急便のバイトを見つけた。勤務時間は、20時から翌朝8時まで。真夜中に、荷物の仕分け作業をするのだ。お中元シーズンに合わせた、20日間の期間限定のバイトだった。

 時給は、1,000円。一日で12,000円稼げる。これを20日間続ければ、24万円になる。ハンバーガー屋のバイトも、僕は続けるつもりだった。9時に帰ってきて、2時間ちょっと寝て12時からハンバーガー屋に行けばいい。

 今日の午後のうちに、僕は履歴書を持って宅急便屋に行った。面接を受けて、アルバイト登録をすませておいた。さっそく明日から勤務だ。僕は思い立ったら、すぐに始めてしまう性質なのだ。

仕事は、きつかった。届いた荷物を細かく地区に分けたり、その逆に遠くへ運ぶためにトラックに荷物をぎゅうぎゅう詰めにしたりした。体力も必要だったが、何より眠かった。しかし、夜に働くサイクルに身体が慣れてくると、眠気は気にならなくなった。

その一方で、僕は「僕は何をしてるんだ?」という疑問に苛まれた。僕が稼いだ金は、松田さんの堕胎を援助するためのものだ。それでいいのか?僕は、当事者じゃない。毎晩宅急便の仕分け場に通いながら、その疑問に始終襲われることになった。でも僕は働き続けた。それしか、僕にできることはなかった。

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