第5話 松田さん2

 GW中のある日、昼間に松田さんから電話がかかってきた。

「今、話しても大丈夫?」と松田さんは言った。浪人生の僕に、気を使ってくれているのだ。

「大丈夫だよ。本を読んでたところだから」

「何の本?」

「ええと、太平洋戦争の本」と僕は答えた。それは、防衛大学と他の大学の教授たちが共同編集した、なぜ日本はアメリカに負けたのかを徹底的に分析している本だった。とても面白かったが、世界史専攻の僕には役に立たない本だった。

「へえ、難しい本読んでるんだね」と松田さんは、本当に感心したように言った。

「松田さんは、学校の方はどう?」

「微妙かな」と、松田は皮肉っぽく答えた。電話の向こうで、爽やかに苦笑する彼女が想像できた。「今ね。アメリカの大統領選挙の仕組みについて授業を受けててね、これが面白いの。だけど、つまんない授業もたくさんある」

「大統領選挙の授業は面白そうだね。僕も受けたいな」

「でも、それは例外。政治学だから、必修科目じゃないし」

「松田さんは、何学科だったっけ?」

「アメリカ文学。はっきり言って失敗した」と言って、松田さんは笑った。彼女の笑い方はそよ風のようで、人をとても心地よくさせる力を持っていた。僕は驚くべきことに、全く緊張していない自分に気づいた。でもその理由は、すぐわかった。それが、松田さんの力なのだ。

「失敗って、本当はどれが良かったの?」

「私、政治学科に行けば良かった。文学なんてちっとも面白くない。古い英語ばかり勉強して、現代の英語じゃないから将来ほとんど役に立たないの」

「じゃあ、二年になるときに専攻を変更したら?」

「それも考えてる。でも、うちの短大には政治学科なんてないの。強いて言えば、法律学なんだけど、私は法律に興味があるわけでもないんだよね」

「そりゃ困ったね」

「うちの女子大、そもそも学科が少ないの。今更だけど、四年制の普通の大学を目指せば良かった」

「松田さんは、何で短大にしたの?」

「私ね」と松田さんは、さらに親密な調子で言った。どこか甘い雰囲気の、舌が絡むような話し方だ。「高校を出て、さらに四年も学生なんて長過ぎると思ったの。時間がもったいないって」

 四年が長過ぎるとは、僕は考えたこともなかった。大学は四年。それが当たり前だと思って、疑いもしなかった。おまけに僕は浪人生だ。五年かかることになる。松田さんの考えに従えば、膨大な時間の浪費だった。

「でもね、短大に入ってみるとさ。今度は、時間が足りないの。来年になったら、もう就職活動だよ。短大なんて、実質一年なの」そう言いながら、彼女は少し笑った。まるで僕らは、親しい友人のようだった。

「そうかあ、言われてみればその通りだね」

「短大に行きながら受験勉強して、来年四年制の大学を受け直すことも考えてる。そうすれば、政治学科なんて沢山の大学にあるし。別に、大した大学じゃなくてもいいの。自分の勉強したいことに、時間を使いたいと思うの」

「でもそしたら、学生生活が五年かかっちゃうよ」

「うん、そこが悩みどころ。どうしようか、本気で悩んでる」

 そんな調子で、僕と松田さんは大学について話し合った。それから僕ら二人は、明らかにあの話題を避けた。松田さんが寝た男のことだ。僕は、松田さんが触れない限り、その話題を持ち出すまいと心に決めていた。結局彼女は、その男の話をしなかった。

「ねえ、太田くん」

「うん」

「また、こんな感じで電話してもいい?」と彼女は言った。その口調から、彼女の真剣さが伝わってきた。

「もちろん大丈夫だよ。昼でも夜でも、いつでも大丈夫だよ」

「勉強の邪魔にならない?」と松田さんは心配そうに聞いた。

「全然ならないよ。むしろ、部屋に一人でこもってるとさ、やっぱり寂しくなってくるから。松田さんの電話は大歓迎だよ」

「本当?良かった」電話口で彼女が、にっこりと微笑んでいるのがわかった。あの、誰をも癒す温かい笑いだ。

 僕と松田さんは、親密な挨拶をしてから受話器を置いた。


「彼女、あの男のことを話さなかったな」その夜、ヒロシは言った。

「うん、そうだな」

 ある程度、予想通りではあった。おそらく松田さんは、あの男と一度も会っていないだろう。

「松田さんも、そいつのことは諦めていると思うよ」と、ヒロシが言った。

「そうかもしれない」

 しかし不思議だった。どうしてその男は、松田さんのような人を簡単に捨てられるのだろう?人を包み込む優しさを持った女性を?そしてそんな男に、松田さんはどうして身を任せたのだろう?僕にはわからないことばかりだった。

「『失敗の本質』は、面白かったか?」ヒロシは話題を変えた。

「うん、すごい面白かった。でも読み終えて、なんともやるせない気分になったよ」と僕は答えた。

「あの本は、俺も読んだ。実に考えさせられる本だ。あの本は、実にたくさんの教訓を学べる。だけど、今夜一つだけ話すとしたら、あの頃の日本はチームとして機能してなかったと言える」

「チームとして機能しない?何それ?」

「つまりさ、陸軍と海軍はバラバラに動いて、相手の都合など気にしてない。それから、部下が上司の言うことを聞かない。インパール作戦がいい例だ。上司が反対しているのに、部下が実行すると言って引かない。失敗するとわかっているのに決行した。さらに実行部隊の上司の命令を、その部下が聞かない。進めといっているのに独断で撤退する。部隊の一部が撤退したために、進んでいた別の部隊は孤立して、敵軍に囲まれてしまう。はっきり言って滅茶苦茶だ。これじゃ勝てるわけがない」

「確かにそうだ。そうだった」僕は、インパール作戦の章に書かれていたことを思い出しながら、そう答えた。

「俗な言い方をすれば、人は助け合わなければいけないんだ。相手の事情を慮って、自分の行動を決めなければいけない。自分勝手ではいけないってことだ」

 僕の心は、インパール作戦から離れた。僕はまた、松田さんの相手の男に戻った。

「松田さんの相手は、彼女の気持ちを考えないんだろうか?」

「そいつは、自分のことしか考えない奴だ。そいつにとって、松田さんは面倒くさいだけなんだよ」ヒロシは、突き放すように言った。彼は、たいていこの調子だった。

「そうなのかな?」

「そいつにとって、女はゲームでしかないんだよ。そいつは今晩も、女をナンパしてくどいているかもしれない。口説き落として寝るまで持ち込むことが、彼のゲームなんだ。成功することで、達成感を得られる。しかし翌朝になったら、気分はすっかり冷める。もう昨夜の相手には興味を持たない。次の日は、また新しい相手を探して夜の街を徘徊するのさ」

「そんなことして、何が楽しんだ?」

「それがゲームだからだよ。いろんな女を口説き落とすことで、自分の魅力を実感できる。俺はモテると自信を持てる。ありあまる性欲も満たせる。試しに、お前もやってみたら?」とヒロシは、からかうように僕に言った。

 僕は、そんなゲームをする気にならなかった。第一に、僕は田崎でも境でもなかった。女の子にモテるタイプではなかった。第二に、夜な夜なそんな馬鹿げたゲームをするエネルギーはなかった。ゆっくり酒を飲みながら、本を読んでいる方が僕は楽しかった。

「僕は、そんなことしないよ」

「そうだろうな。お前はそういうタイプじゃない。ふざけて言っただけだよ」とヒロシは笑った。

 僕は、今日の松田さんとの会話を思い出した。穏やかで、心が澄んでいくようなひと時だった。卒業旅行の夜から今日まで、松田さんと僕は少ししか話していない。でも僕は、松田さんに強い親愛の情を抱くようになった。僕は、彼女の幸せを祈った。政治に興味を持ったなら、大学を受け直すのも一つの手だ。とにかく何でもいいから、彼女には幸せな人生を歩んで欲しいと思った。

 しかし、現実はそうはならなかった。現実は、想像を絶するほど残酷だった。


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