第4話 予備校の生活

 予備校生活が始まった。すると僕ら高田高校出身者は、校内で頻繁に集まるようになった。お昼休みや、講義の間の休憩時間に。総勢10人。男が8人、女が2人だった。高三のときのクラスは、バラバラだった。でも地元を離れて、僕らは今や都心の高田馬場にいた。だから同じ高校出身というだけで、僕らは互いに親近感を覚えた。こういうことは、よくある話だろう。

 イニシアチブを取るのは、いつも境晃二だった。境は高校時代テニス部に所属していて、いわゆる女の子にモテるタイプだった。彼は肩を超えるまで伸ばした髪を、整髪料を使って見事に逆立てていた。その見事な出来栄えから想像するに、毎朝ヘアセットに大変な時間をかけているのだろう。僕には、とても真似できなかった。僕の髪型はほとんど生えたまま、軽く七三に分けただけだった。

 集合場所は、予備校の最上階にある自習室だった。その部屋はとても広く、高校の教室を四つ足して壁を取り払ったくらいのスペースがあった。座席が200くらいあり、窓際には四、五人が座るための丸テーブルが並んでいた。僕らは毎日、新宿方面が見える西向きの一角に集まった。僕らがいつもその場所を占領するので、他の生徒たちはそこに近寄らなくなった。

 自習室の窓からは、新宿に聳える高層ビルがすぐそばに見えた。さらに、林立する新旧のビル群、その無機質で素っ気ない建物がどこまでも続く、“大都市東京”の街を見下ろすことができた。ここが日本の中心だった。

 僕らはまもなく、この果てしない社会の海の中に参加しなくてはならない。知恵とタフさがないと生き残れない。未熟さや弱さや見せれば、きっと切り捨てられる。僕は窓の景色を見るたびに、厳しい現実に武者震いをした。だがまず手始めに、僕らは大学に合格しなくてはならなかった。それができなければ、この街への参加資格すら得られないのだ。


 二人の女の子は、それぞれ小鴨沙希さんと矢渡美香子さんという名前だった。小鴨さんは、僕の三年の時のクラスメイトだったが、矢渡さんは別のクラスだった。しかし、その美貌により、同級生で彼女を知らない者はいなかった。

 女の子の浪人生は、とても珍しかった。矢渡さんはこの春、偏差値の低い大学には合格した。しかしそれを全て蹴って、彼女は浪人する道を選んだ。それに対し、小鴨さんはどの大学も受からなかったらしい。僕らのほとんどは、「一流私大文系合格コース」という名のクラスに所属していた。国立コースや理系コースのクラスに入っているのは、十人の中で男二人だけだった。

 僕らの話題は、いつも大学の話だった。今の予備校生たちも、きっとまったく同じだろう。とくに小鴨さんは、「最低でも早慶上智に行く」と公言していた。小鴨さんのお父さんは、何と現役の国会議員だった。お兄さんは、東大の理工学部だった。きっと彼女も、お父さんやお兄さんと同じ人生を歩むつもりなのだろう。彼女には、いわゆる“MARCH”という選択肢すらなかった。

 小鴨さんは、とても小柄な女の子だった。身長は150センチ代、その上とても華奢な身体つきだった。胸も小さくて、申し訳程度に膨らんでいるだけだった。しかし彼女は眉毛が太く、いつも口を尖らせながら力強く自論を主張した。目はとても大きくて、グリグリっせり出して見えた。彼女が、「最低でも早慶上智」と主張しているとき。見開かれた目の奥の瞳は、日光や自習室の照明を浴びてキラキラと輝いた。

 彼女の鼻は少し団子鼻で、口は小さいが唇は少し厚めだった。彼女はいわゆる、個性的な顔立ちだった。しかし、決して不細工な訳ではなかった。彼女は彼女なりに、とても魅力的な女性だった。しかし、「最低でも早慶上智」という割には、彼女の成績はあまり目立たなかった。毎週月曜日のテスト結果は、成績50位の氏名が予備校1階のロビーに張り出された。何かの間違いで、僕は一回だけそのリストに載った。だが、小鴨さんの名前が掲載されたことは一度もなかった。

 矢渡さんは、いろんな点で小鴨さんと異なっていた。彼女は若くして、自分の世界を確立していた。彼女は「自分が綺麗であること」を、よく理解していた。そのせいか、彼女は少しも焦りを見せなかった。小鴨さんが熱く語っている隣で、矢渡さんは何も言わなかった。彼女は、静かに微笑を浮かべるだけだった。

 矢渡さんも小柄で、身長も小鴨さんと同じくらいだった。でも矢渡さんは、均整の取れた素晴らしいスタイルの持ち主だった。「矢渡さんが、モデルだかアイドルだかでスカウトされたらしいよ」そんな噂話を、何度も聞いた。しかし彼女は、それを片っ端から断ったらしかった。髪は見事なストレートのロングヘア。顔立ちは完全だった。どの部分も完璧で、説明することが不可能なほどだった。僕らのほとんどが、境や小鴨さんが話しているときも、実は上の空だった。みんな矢渡さんに、うっとりと見入っていたから。

 しかしなぜか、僕は矢渡さんにも小鴨さんにも近づきたいと考えなかった。僕はまだ、坪田さんを忘れられなかった。それに僕は、毎日のように松田さんのことを考えていた。だから僕は、この二人のことで頭がいっぱいだった。

 しかし、他の連中は違った。境を筆頭に、誰もが矢渡さんを狙っていた。できることなら、彼女を恋人にしようと企んでいた。矢渡さんは高校時代、バトミントン部のエースだった山本と付き合っていた。しかし最近、二人は別れたらしいというのが、もっぱらの噂だった。だから誰もが、後釜の座に座ろうとしていた。

「早稲田なら、やっぱり政経だろう。一番潰しが効くよ」

「でも、偏差値72は必要だろ。きついよな」

「文学部なら、68くらいだ。その方が現実的だ」

「お前、文学に興味あるのか?」

「いや、ない」

「じゃあ、文学部に行く意味ないじゃん」

「早稲田なら、どこでもいいんだよ」

 僕らは高田馬場にいたから、すぐそばに早稲田大学があった。だから僕らの話題は、自然と早稲田大学が中心になった。

「俺は早稲田より、上智がいいな。あそこの雰囲気が好きなんだよ」

「でも上智じゃ、就職は不利だろう。親父が言ってた。上智出はプライドだけ高くて、仕事できないって」

 上智大学関係者が聞いたら、激怒されそうな話を僕らはしていた。でも僕らは、各大学の内情など何も知らなかった。僕らは自ら描いた、勝手なイメージだけで大学を判定していた。まったく僕らは子供だった。


 僕はいつも、この高田高校出身者の輪の一番外側にいた。僕はほとんど発言しなかった。僕はすぐに、この会合に飽きてしまった。休憩のたびに集合するのが、すっかり億劫になった。五月に入って、僕は駅前の定食屋で食事をするようになった。あの会合からは、静かに退会した。

 「一流私大文系合格コース」の授業は、絶望的に退屈だった。僕は100席の大教室の、一番後ろの列に座って授業を受けた。面白い授業も少しあった。でもそれは、試験問題から逸れて講師が雑談をするだった。それは政治問題だったり、三島由紀夫の文学論だったり、60年代の全共闘世代の思い出話だったりした。そういう話題になると、僕は目を輝かせて講師の言葉に聞き入った。そして、予備校の帰りに自宅そばの図書館に寄り、今日聞いた話に関連する本を借りて読んだ。僕はさっぱり、受験勉強をしなかった。


 退屈な授業を受けているうちに、僕はささやかな変化に気がついた。小鴨さんと矢渡さんが、離れて座るようになったのだ。四月のうち二人は、前から三列目の二人掛け席に並んで座っていた。しかし、五月に入ると、小鴨さんは最前列、講師の目の前の席に座るようになった。彼女は講師を睨むように見つめ、猛スピードでメモを取っていた。矢渡さんは、教室の中央より後ろに席を変えた。すると彼女の隣には、しょっちゅう境が座っていた。休み時間になると、境は熱心に矢渡さんに話しかけていた。

 予備校ははっきり言って、バカバカしかった。そもそも僕は、受験勉強をする気が全くないのだ。たまに聞く無駄話は楽しかったが、それだって本を読めば済む問題だった。それから、高田高校出身者たちの人間関係相関図に関わるのもごめんだった。そんなこんなで、僕は六月になると、すっかり予備校に行かなくなってしまった。夜遅くまで本を読み、昼まで眠って過ごした。気が向いたらときだけ、午後の授業に出ることはあった。しかし僕は、月曜日の午前に行われる試験を完全に無視した。だから僕は、自分の偏差値いくつなのか全くわからなくなった。


 でも、全然平気だった。

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る