第3話 松田さん1
松田さんが姿を現したとき、僕は暇を持て余していたところだった。時刻は、15時くらいだったと記憶している。
その頃僕は、ハンバーガー・ショップでアルバイトをしていた。そのハンバーガー・ショップは、百貨店の地下フロアによくあるフードコートの一角にあった。ハンバーガーショップの他に、うどん屋やお好み焼き屋、ラーメン屋に、アイスクリーム屋まであった。それらの店は、ちょうどカタカナの“コの字“型に並んでいて、“コの字“の内側スペースに、沢山のテーブル席が並んでいた。
15時の広いテーブル席は、まさに閑古鳥が鳴いていた。退屈そうな顔をした母子が一組、座っているだけだった。僕と店長は、店のバックヤードに椅子を並べて、退屈しのぎに世間話をしていた。
そんな気の抜けたフードコートで、松田さんの姿は際立って見えた。その日は、4月のとても暖かい日だった。松田さんは、春らしく白いショートパンツを履いていてた。ショートパンツから伸びた、細い両足は光り輝いていた。軽く羽織った淡いオレンジ色のカーディガンが、松田さんの清廉さを強調していた。
松田さんと僕は、高校三年生の時の同級生だった。同級生だったが、高校三年の一年を通して、僕は彼女と一度も話したことがなかった。
その頃の僕は、女の人と話すのがとても苦手だった。話しながら、自分は彼女にどう思われているんだろう?、今こう話したら彼女は自分をどう思うだろう?僕はそれが気になって、そしてとても怖かった。だから僕は、結果的に女の子との接触を避けた。クラスメイトの女の子たちと、僕はほとんど言葉を交わしたことがなかった。
僕と松田さんが初めて会話をしたのは、卒業式直後に企画されたスキー旅行の時だった。僕らは、昼のうちはスキーを楽しみ、夜になると毎晩車座になって高校の思い出話に花を咲かせた。僕はもっぱら、聞き役だったけれど。
最終日の夜、僕は松田さんともう一人、男の同級生と三人で話をしていた。時間は朝の四時くらいだったと思う。男の同級生が寝てしまったので、僕は松田さんと二人きりで話すことになった。
松田さんは、とても優しかった。僕の緊張を解きほぐすような、親しみやすい笑顔を浮かべて、ゆっくりとしたテンポで彼女は話をしてくれた。僕は彼女に、すっかり身に纏っていた鎧を解かれた。すっかり饒舌になり、僕は胸にしまっていた本音を彼女にぶつけた。松田さんはにっこりと笑って、僕の話を聞いてくれた。彼女はまるで、僕のお母さんのようだった。
彼女と二人で話したのは、一時間くらいだと思う。話題は、恋愛についてだった。その頃の僕は、ある同級生の女の子に恋をしていた。その彼女は、坪田さんといった。彼女は僕が働いているハンバーガー屋で、平日に一日だけ働いていた。想像を絶するほど、彼女は美しかった。僕は、たちまち坪田さんに恋をした。
三年生のクラス替え、坪田さんと僕はクラスメイトになった。僕が彼女に恋していることは、もはやクラス中で周知の事実だった。だからと言って、僕は彼女に言い寄ったりはしなかった。彼女がすでに、彼氏がいることも知っていた。彼女にアタックする無茶な勇気など、僕はかけらも持っていなかった。結局僕は、坪田さんともほとんど会話をしなかった。そうして、高校三年の一年間は終わった。
その夜松田さんと話した時、最初の話題は坪田さんだった。そのうテーマは、恋愛全般にに移った。
「愛のためなら、僕は死ねる」
と僕は松田さんに宣言した。松田さんは、微笑んだまま僕の話に耳を傾けていた。彼女は僕の宣言に対して、批評をしたり嘲笑したりはしなかった。
「ねえ、太田くん」と、松田さんは落ち着いて言った。
「うん」
「気持ちは、わかるけど」と、松田さんは慎重に答えてくれた。「私たち、そんなに無理しなくていいんじゃないかな?」
「え?」僕は、松田さんの言わんとすることがピンとこなかった。
「つまりね」と彼女は言って、またにっこりと笑った。「私たちにできることは、限られてると思うの。まだ、子供だし。知恵もないし」
「それは、そうだね」と、僕は同意した。
「太田くんは、スーパーマンじゃない。私だって同じ」
「うん」
「だから、できることをやろうよ。18の私たちに、できることを」
「なるほど」
まもなく僕らは、部屋に戻って眠った。わずかな時間だったが、僕は久々に自分の胸を開いて人と話した気がした。おそらく松田さんも、同じ心持ちだったと思う。
松田さんが 、僕のバイト先に来るのは初めてだった。僕は彼女に、アルバイトをしていることを話していなかった。おそらく彼女は、人づてに話を聞いてここを訪れたのだろう。しかし、僕の勤務日について、彼女は知りようもないはずだった。僕は基本的に、土日の午後働いていた。だが、休むこともあった。だから僕は、松田さんと会ってとても驚いた。
彼女が僕に会いに来たことは、間違いなかった。僕がいないかもしれないのに、彼女はこのフードコートを訪れたのだ。まさか遠くから、僕の焼いたハンバーガーを食べに来るわけがない。何か用があって、松田さんはここに来たのだ。
「やあ、松田さん。こんにちは」
出来る限り平静に、僕は挨拶をした。でも僕は、そのとき緊張していた。怖いくらいだった。
松田さんは、Sサイズのオレンジジュースを一つ買った。それから彼女は、ガラガラのテーブル席の一つにポツンと腰掛けた。彼女は、何も言わなかった。挨拶の言葉以外は。
店長が、気を使ってくれた。
「太田、少し休んでいいぞ」
「ありがとうございます」と言って、僕は店を出た。小走りで、松田さんが座っているテーブルへと向かった。
松田さんは、どこか寂しそうだった。よく考えると、それは現れた時からだった。卒業旅行の夜の、自信に満ちた彼女ではなかった。僕が正面に向かい合って座っても、彼女はあまり感情の抑揚を見せなかった。微笑を浮かべているのだが、心はここにないようだった。僕は彼女の様子に、強い興味と得体の知れない恐れと同情に覚えた。
「松田さん、こんにちは」と、僕はもう一度挨拶した。
「うん。来ちゃった」と松田さんは言い、それから照れくさそうににっこり笑った。笑ったおかげで、寂しい表情は一瞬消えた。
「卒業旅行以来だね。」と僕は言った。あの卒業旅行からは、ひと月が経過していた。松田さんは短大に進学し、僕は不安定な浪人生になった。二人の間には、大きな溝がある気がした。まともな人間と、まともでない人間との間にある溝だ。浪人生は、世の中の落ちこぼれだ。当時の僕は、そう本気で考えた。
僕と松田さんは、しばらく高校時代の同級生の噂話をした。誰がどこの学校に進学したとか、誰はどこの予備校に通っているとか。どうでもいい、いつまでも続けることのできる話だった。他に話題のなかった僕は、この噂話をずっと続けるつもりだった。しかし松田さんは、突然話を打ち切った。スイッチを、ブチっと切るように。唐突に、強引に。
「ねえ、太田くん」松田さんは笑顔のまま、そう話を切り出した。しかしその笑顔は、今までのそれ全く異なるものに変わった。その笑顔は凍りついていた。僕には、そう見えた。
「うん、どうしたの?」僕は、彼女のただならぬ様子に戸惑いながらたずねた。
「私ね、男の人と寝ちゃった。」
僕はこのとき、文字通り椅子から飛び上がったと思う。おそらく10センチくらい。他愛のない噂話から、突然話がセックスに切り替わったのだ。僕はまったく心の準備が出来ていなかった。まだ18歳の二人に、セックスの話題は重すぎた。
「だ、誰と?」僕は、かろうじてそう聞いてみた。
「合コンで、初めて会った人」
さっきほどではないけれど、再び僕は飛び上がるほど驚いた。松田さんは、いわゆる軽い女ではなかった。むしろ、その対極に位置する人だった。怪訝な表情の僕を見て、松田さんは言い訳するように言った。
「初めて会ったんだけど、すごくしっかりした人なの。ほら、田崎くんみたいなタイプ。私、彼みたいな人好きだから・・・」
田崎も、高三のクラスメイトだ。はっきりと自己主張するタイプで、いつもクール、かつ自信満々だった。その上顔も良く、スポーツも万能だった。さらに彼は、とても頭が良かった。高校一年の頃から、教師を言い負かしてしまうほどだった。田崎は僕と、まったく違うタイプの人間だった。
彼には、高校二年の頃から同級生の可愛い彼女がいた。田崎とその彼女のことは、同学年全員が知っていたと思う。とはいえ、松田さんによれば、田崎に似ていることが、合コンで会った男と寝た理由らしかった。。
「は、初めてだったの?」
僕はしなくてもいい、間抜けな質問をした。答えを聞いたところで、何にもならない質問だった。だけど松田さんは、小さく頷きながら「うん」と答えてくれた。
そのあと二人で、いったいどんな話をしたのか?僕は、まったく覚えていない。何かを話していたようだが、僕の頭は完全にショート状態だった。
その日は二人で、30分くらい話した。それから、松田さんは帰っていった。どんな別れの挨拶をしたのか、それすら僕には記憶がない。
とにかく僕は、ショックだったのだ。松田さんのような人が、簡単に男と寝てしまうことが。
「短大生になって、浮かれて合コンして好みの男と寝た。ただそれだけの話だろう」と、その夜ヒロシは僕に言った。
「そうかもしれない」と僕は答えた。だか僕は、ヒロシの顔を見なかった。机に両肘をついて、頭を抱えていた。時折思い出したように、両手で髪をかきむしった。それからまた、下を向いて両眼を閉じた。僕は、押し寄せる様々な感情の海を漂った。
「いずれにしても、お前にゃ関係ない話だ。しかし松田さんは何で、お前にそんな話しに来たんだろうな?」
「わからない」と僕は、短く答えた。頭を抱えたまま。
28歳になった今でも、僕にはわからない。なぜ松田さんが、わざわざ僕のバイト先まで来てあんな告白をしたのか?その理由の見当がつかない。彼女は、際立った美貌の持ち主ではなかった。けれどその代わり、特別な魅力を持つ人だった。簡単にいえば、彼女は正統な清純派女優のようだった。人を包み込むような、笑顔と優しさを持った人格者だった。
松田さんならば、友達は女でも男でも山ほどいだろう。なのになぜ彼女は、卒業旅行の夜、たった一時間だけ話しただけの僕に、そんな重要な話をしたのだろう?それは、今もって謎だ。
当時の僕の気持ちを簡潔にいえば、ただ虚しくて悲しかった。やるせなさが込み上げて来て、陰鬱な気分が僕を支配した。僕は、ヒロシと会話を交わすことも億劫なほど落ち込んでいた。
その理由は、今ならば説明できる。僕の友達の一部は、一夜限りの女漁りをしていた。彼らは女の子をナンパし、口説き落としてはホテルに連れ込んだ。そして女の子を、その夜限りの性欲処理に利用した。そして夜が開けたら、すっかり白けて彼女たちを放り出した。それでいて、また夜がくると、別の女の子に同じことをした。
28歳の今ならば、彼らの気持ちも僕には分かる。彼らは18才にしてすでに、多かれ少なかれ手酷い失恋を経験していた。そのせいで、女というものを信じることを諦めたらしかった。
「女とは、自分を簡単に捨てるものだ。だから自分も、簡単に女を捨てても構わない」
それが、彼らの言い分だった。毎晩のように女漁りをしては、片っぱしから女を捨てた。それは、ただのゲームだった。ただの暇つぶしだった。そんな彼らにとって、後を引きづる女は面倒でしかなかった。
当時の僕では、そこまでわからなかった。けれど、松田さんの相手が、彼女を一夜限りの関係だと思っていることは容易に想像できた。
女性の側が、僕の男友達と同じように傷ついた女の子ならよかった。その子も男を容易には信用せず、これは今晩限りだと割り切れただろうから。しかし、松田さんは違うのだ。彼女は田崎のような男を求め、ある夜出会った男に恋をしたのだ。それは、継続するべきものだと松田さんは思っていたはずだ。だが、それは違う。上手くいかないと、当時の僕は直感した。だから、たまらなく嫌な気分になったのだ。
「松田さんと、その相手はうまくいかないよ」とヒロシは言った。
「わかってるよ」
「ともかく、彼女が自分の意志でしたことだ。お前は関係ない。放っておけよ」とヒロシは言った。しかし僕は、「放っておけよ」というヒロシの言葉に、全く説得されなかった。僕がずっと黙っていたので、まもなくヒロシは出ていった。
二、三日経ってから、僕は思い立って松田さんに電話した。ドキドキしながらダイヤルをプッシュし、電話口に出た松田さんのご家族に電話を取り次いでもらった。
「太田くん、こんばんは」と彼女は、明るく挨拶をしてくれた。不安と緊張で心臓がバクバク言っている僕をよそに、松田さんはとても冷静だった。彼女は、いつもの松田さんに戻っているように思えた。
「ま、松田さん、だ、大丈夫?」声を震わせ、つっかえながら僕は彼女にたずねた。
「うん、大丈夫だよ」彼女は、そうさらりと答えた。とても自然な口調で。
「その彼とは、どうしてる?」
僕は松田さんとその男が、いわゆる幸せなカップルになることを期待した。他人事なのに、その可能性が低いことがわかっているのに、僕はそう希望した。それは、不思議な感情だった。僕は、松田さんが好きなわけではなかった。彼女に、特別な感情を持っているわけではなかった。しかし、松田さんは僕にとって大切な存在になりつつあった。彼女に、傷ついてほしくなかった。僕は、彼女の魅力にふさわしい成果を期待した。「徳ある人は、幸福になるべきだ」僕は素朴に、それが正しいと考えた。
「うん。彼は仕事が忙しいみたいで、全然会えないの」と松田さんは答えた。
事態は、あまり好転しそうもなかった。その彼にとって、すべては終わったことなのだ。松田さんとの関係を、その夜限りにする気なのだ。
「でも、大丈夫だよ」と松田さんは、努めて明るく言った。
「こんな話、初めて聞いたから心配だったんだ」と僕は言った。
「ごめんね、心配させちゃって」と彼女は言った。「でも、大丈夫だから」
彼女がそこまで言うのなら、僕にできることはなかった。そもそも、僕らは友達ですらなかった。たった一回話しただけの、疎遠なクラスメイトだった。僕らは、おやすみの挨拶をして電話を切った。
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