第2話 世紀末
世界はまもなく、2000年の世紀末を迎えようとしていた。
僕を取り巻く環境は最悪だった。春の大学受験に、僕は全て失敗した。十校受けて、全て不合格だった。なので仕方なく、高田馬場にある予備校に入学を申し込んだ。早稲田大学に近い、老舗の予備校だった。僕は四月から、”浪人生“というなんとも不思議な社会的存在になった。
長引く不景気は深刻だった。不況は、僕たち浪人生にとっても切実な問題だった。相当なレベルの大学に行かない限り、まともな就職先は見つからない。それが、19歳だった僕らの常識だった。
「A大学に行った○○先輩が、就職試験30社受けたって。それなのに、一つも内定もらえなかったらしいよ。全滅だって」
「じゃあ、やっぱりA大学じゃダメだね。」
浪人生たちが集まると、しょっちゅうそんな会話になったものだ。しかし、相当なレベルの大学に合格できる人は、当たり前だが”ほんの一握り“の人だけだ。僕らは、僅かなパイを奪い合っていた。有名お菓子屋の前に、早朝から長蛇の列を作った。だがパイは、すぐに売り切れる。
浪人生たちは常に、両肩に掛かるプレッシャーをひしひしと感じた。天気は良くても、心はどんよりと厚い灰色の雲が覆っていた。朝から晩まで、雨がしとしとと降っていた。不快なほど湿度が高く、暑いためか怯えのためか、いつも汗をかいている。牢獄にいるような毎日だった。そこまで追い詰められながら、いや追い詰められた反動か、僕はさっぱり勉強に集中できなかった。
僕は、逃げたかったんだと思う。目の前に広がる冷徹な現実を、そのまま受け入れられなかった。できることなら、別の道を見つけたかった。別の道とは、自分が”本当に頭が良くなる“道だ。受験勉強を放り投げて、その道を僕は探した。毎日のように図書館に通い、難しそうなテーマの本を片っ端から読んだ。そうすることで、受験勉強から逃げた。僕は、高度な勉強をしているんだ。だから、遊んでいるわけではないんだ。そんな言い訳を自分勝手にでっち上げ、僕は現実世界から逃避した。
ヒロシは、毎晩のように僕の部屋にやってきた。僕は、市営の集合団地の5階に住んでいた。僕の部屋は、北側の渡り廊下に面していた。真夜中になると、ヒロシが玄関からではなく、ぼくの部屋の窓を外から開けて中に入ってきた。彼はいつも、僕に挨拶をしなかった。「こんばんは。」とも「入るよ。」とも言わなかった。自分の家のように当たり前に部屋に入ってきて、壁を背に寄りかかって胡座をかいた。そして、言いたいことをペラペラとしゃべり、しゃべり疲れたら帰っていった。彼はとにかく、マイペースな男だった。僕はヒロシの身勝手を、”自由奔放“と解釈した。僕はヒロシを、結構気に入っていた。
ヒロシは、現役でしっかり入試をパスしていた。僕は、大学生であるヒロシが羨ましかった。浪人生という、つかみどころのない立場の自分。僕は大学生という、確固たる立場が羨ましかった。だが大学生になりたいなら、勉強をしなくてはいけない。相当なレベルの大学に行きたいなら、さらに勉強せねばならない。
「今日は何してた?」とヒロシは僕に聞いた。
「うん、本を読んでた」
「どんなの?」
「スペイン戦争の本」
「ほお、いいテーマの本を読んでるな。どう思った?」
ヒロシは、僕とは比べられないほどの読書家だった。彼はなんでも知っていた。僕が本を読んで新しく知ったことを、たいてい彼はすでに知っていた。
「当時のスペインの民主主義勢力は、一枚岩じゃなかった。お互いに相容れない勢力の、寄り合い所帯だったんだ。だからフランコのファシズムに勝てなかったんだと思う」と僕は答えた。
「いい理解だ。あの頃のスペイン民主主義勢力は、穏健派から共産主義、アナーキズムまでの混成部隊だった。対フランコでは一致できても、イデオロギーはバラバラだった。仮にフランコに勝てたとしても、その後の国家運営はまた政争に明け暮れただろうな。それは血で血を洗う、凄惨なものになっただろう」
僕はウイスキーの水割りを、グイッと喉に流し込んだ。ちっとも美味いとは思わなかった。しかし、これも浪人生になってから覚えた、現実逃避の一手段だった。
「イデオロギーとは、個々人が描く理想を具体化したものだ。ある人はAがいいと言い、別の人はBがいいと言う。また別の人は、Cがいいと言う。はっきり言って、これはキリがないんだよ。それぞれが『自分のイデオロギーこそ正しい』と言う。自分の知っている理想こそ完全だと言う。だがこれではどん詰まりだ。必要なのは、ABCを調停することなんだよ」
ヒロシの言うことは、いつもこの調子だった。彼の言葉は、常に“謎かけ”だった。調停ってなんだ?そんなことできるのか?スペイン戦争の本を読んだ直後では、調停は不可能なことに思えた。
「調停なんて、できるのかい?」と僕はストレートにヒロシにたずねた。ヒロシは胡座を組み直しながら、平然と僕の質問に答えた。
「もちろん、それは難しい。恐ろしく難しい。だって、調停が簡単に成立するなら、この世から戦争はなくなってるはずだからね」
確かにその通りだった。
「だからって諦めてはいけない。諦めたら、政争に勝った一派閥の独裁政治になるから。政権に異議を唱えるものは、捕まって殺される。歴史上、何度も繰り返されてきた悲劇だ」
「確かに、妥協と譲歩は大切だと思う」と僕は言った。「できるかどうかは、分からないけれど」
「妥協や譲歩と言ったら、語弊がある。なあ、ABCのイデオロギーには、“どれもがどこかに欠点がある”。そのことに気付くことこそが、『全的に知ること』なんだ。妥協や譲歩とは、大きな違いがある」
ヒロシの話していることを、僕は半分も理解できなかった。彼の言うことは、とても難しかった。
「俺たちは、“調停ができる”と考えなくてはならない。僕らは、若者だからね。若者が絶望したら、その国は滅ぶ。これも歴史上の事実だ」と、ヒロシは真剣な顔で言った。
僕らは真夜中に、こんな調子で社会の難題について語り合った。そうすることで、僕らは大人ぶっていたのだ。これも、僕の現実逃避だ。自分はヒロシと難しい問題について議論している。だから、勉強しなくてもいいんだ。僕は、ただの甘えん坊だった。
そんな僕を、ヒロシは責めたりしなかった。彼は僕に、「勉強しろ」とは一言も言わなかった。その代わり、「あんまり酒は飲むな」と言った。彼は一口も酒を飲まなかった。
「この世から、戦争がなくなる日は来るのかな?」
「困難な道のりだ。だが、可能性はある」
「どんな?」
「例えばEUみたいに、緩やかに国境線を消していくことだ。国境が消滅すれば、国は両側に軍隊を配備して睨み合う必要はなくなる」
「EUは、うまく行くのかな?」と僕はヒロシに聞いた。
「それは、誰にもわからないよ」とヒロシは答えた。「何しろ、人類史上稀に見る試みだからね。矛盾点を上げれば、そりゃ腐る程あるよ。だけど僕らは、彼らを応援するべきだ。なぜならEUは、二度の世界大戦に対する深い反省から生まれたものだから」
ヒロシの話を、僕は理解している振りをした。偽って彼と話していただけだ。正直に言って、あの頃の僕はあまり頭が良くなかった。
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