独白と悔想

 ミゲルから逃げ出し、ギルドから全速力で走りだした結果、どこだかわからない街外れまでやってきていた。足を止め辺りを見回すが昼間なのに人の気配はなく、心情を表したかのように荒涼な広場だ。


「これからどうしようかな」


 打ち捨てられているベンチがあったのでそこに横たわる。白い鳥が二匹天を舞っている。

 本来は街を出ていくつもりだったが、もう何かをする気力が残ってなかった。肉体的には何一つ問題はないが、精神的は満身創痍だ。

 持ち上げられた分、落とされたときのダメージは大きい。チートで無敵、理想の異世界生活が送れると考えたのに、与えられたのは今まで見ようとしなかった自身の在り方に向き合う機会だった。


「もう、なんだかどうでもいいや」


 得てして人間は精神的に追い詰めると自暴自棄になってしまう。何をするきになれずベンチに横たわったまま目を閉じる。


「目が覚めたら元の世界に帰ってかりしねーかな」


 そんなことはありはしないと確信しながらつぶやいてしまう。どうみても逃避でしかないことを呟き意識が沈んでいった。





 視界は白一色だ。それ以外何も見えない。


 これは夢だ。直観で分かった。明晰夢ってやつだろう。どうやらベンチで横になったまま眠りについてしまったみたいだ。

 夢ならこんなつまらない景色を変えたいがどれだけ念じても変化はしない。

 こんな何も見えなくて、何も聞こえない空間にずっといるなら起きた方がましだ。でも意識を覚醒させる方法が分からない。

 そんな空間にずっといるとぐるぐると頭の中でいろいろなことが廻る。夢だからか普段は無意識化にあるものが意識化させていく。

 ちょうどいい、混乱している考えを整理しておこう。


 そもそもどうしてこんな惨めな思いを抱いているのか。

 俺の起源と言うには大げさな過去を振り返ってみよう。




 まずはそう、学校の勉強が分かりやすいだろう。

 小学校に入学したばかりのころは学ぶことの一つ一つが新しく、授業が楽しいものだった。それが退屈で面倒なものに変化するのはなぜだろう。


 俺の場合はテストだった。勘違いしないでほしいがテスト自体を否定しているわけではない。

 点数が学習の習熟度を測るための絶対的なパラメータであるのならそれは自身の場所を確認し、次は何点を目指そうだとかの頑張りへの礎となる。

 それはゲームをやっているみたいで面白いものだ。


 でも往々にして点数とは相対的なものだ。自分でそうしているのか、教師、親がそうしたのかは覚えてはいないが他人との比較に使われてしまう。

 

 その結果生じるものはできる人とできない人の線引きだ。


 できない側に属してしまった瞬間に勉強とはつまらなくなってしまう。そんなレッテルを張られて頑張れるのはごく少数に限るだろう。


 さらに年齢が少し上がると、生まれつきの素養の有無に気が付いてしまう。

 勉強をしていないのに高得点を取るやつはどこのクラスにもいたと思う。明らかに自分よりも頑張っていない奴に負けたのだから最初は悔しい。

 でもそれが続くとそいつとは頭の出来が違うのだと結論付けるしかなくなる。これは覆しようもない事実だと思う。


 勉強以外にも運動だってそうだ。その世界は勉強よりもっとシビアかもしれない。

 中学では野球部のエースで四番だったやつが強豪校に進学しベンチにすら入れないなんてよく聞く話だ。さらに幼い頃から天才と呼ばれプロになっても活躍できるとは限らない。


 どこまでも線引きは続いてしまう。


 当然努力だって必要だろうが才能がいらないなんて嘘っぱちだ。


 他にも容姿なんてものは生まれつき差が出るものの最たるものだろう。かっこいい男は女と付き合う難易度がずっと低い。俺が好きだった女の子は軽薄だがイケメンな男と付き合っていた。

 内面を見ろ、なんて言わないさ。俺だってかわいい子と付き合いたいからな。



 これは十人いれば九人は共感してくれるだろう。そんな挫折経験というにはありふれた出来事を俺も当然のように経験した。



 英語教師が雑談でgift(ギフト) は才能という意味を持ち、giftの語源は天からの贈り物であると話していた。

 それを聞いてとても腑に落ちた。天から愛されている人間は最初から有利な特典をもって生まれる。初期ステータスが違っているんだ。

 では天から愛されなかった大多数はどうするのか。


 才能以上の努力をするのか。それは違う。

 何をやっても無駄だからと腐るのか。それも違う。


 答えは簡単だ。下にいる人間を見てそうならない程度の頑張りをする。


 その結果の俺だ。


 線引きは何も二種類に分けているだけではない。できない人間の中でもさらに細かく分けられる。

 頭のいい人がいるのと同じように悪い人も教室には必ずいた。


 上ばかり見て頑張るのは疲れるから、下を見てまだ俺はマシなんだと自尊心を保つ。


 はっきり言って屑の所業だと思う。違うお前は間違っていると言われるだろう。

 そんなはわかっている。

 でも本当に責める資格を持っているのはどれくらいだろうか?

 あきらめずに努力を続けられる奴に糾弾されるのはいい。叱責を甘んじて受け入れてやろう。

 でも違うだろ。むしろ頑張っている人に対して無駄なことだって嘲笑っているんじゃないのか。

 自分にはできないことを諦めてしまったことをしているのが眩しくて、みじめに感じる。だから己の心の平穏のために折れることを願っているんじゃないのか。


 認めてやる。俺はそうだ。努力している人間を見るのは辛い、自分と比較して恥ずかしくなる。だからやめてくれって思う。


 こうやって一部の人間を除き人は人生のどこかで本気で頑張るのをやめてしまう。生きることに不真面目になると言ってもいいだろうか。



 国語の教科書に山月記という話があった。内容を簡単にまとめれば詩人として名声を得ようとした李徴という男が挫折し、虎となってしまう。

 李徴は友人に虎になってしまったのは自尊心と羞恥心、そして怠惰のせいと語るのだ。


 実に身につまされる話だ。気に入らない点を挙げるなら俺みたいな人間がなるのは虎みたいなかっこいい動物じゃなくてダンゴムシみたいな日陰者だということかな。



 考えが少し逸れたな。ようするに言いたいことは


 生まれ持った素質とはとても理不尽なものである。


 どれだけほしいと願って売っていないし、作ることもできない。さらに持っている人間はその価値に気が付いてないことが多い。

 正直言ってムカつくし、俺にくれと言いたい。それを持つことで線引き向こう側にいけるのなら人生をもっと素晴らしいものになるはずだ。そう考えることは仕方のないことだろ。


 そんな天から愛されず、生まれつき何も持っていない俺がチートを望むのは自然なことだ。


 努力をせずに勝つのは気持ちがいい。

 人よりも優れていることが快い。

 凄い人間だと称賛されるのは誇らしい。



 才能がある人間が自然と得ることができる優越感に浸りたいんだ。

 だから想像のスキルを手に入れたときはめちゃめちゃ嬉しかったさ。これで線の向こう側にいけるんだってな。



 でもこの考えこそ逃避だってムラナカに気が付かされた。

 あいつらはどこまでも頑張れる人間なのだろう。だから俺みたいな屑は気に入らないし。罵倒をする。当然の反応だ。

 戦っているときは正反対の考えに拒絶反応が出て、見っとも無い反論をした。でも改めて思い返してみれば間違っているのは俺だ。認めるしかない。


 あきらめずに努力を続けられる奴の叱責は甘んじて受け入れるしかないのだから。


 それに才能もないのに純粋に前を向き続けるミゲルを見ているのが嫌だった。あいつから褒められると後ろめたくなってしまう。俺はお前の思っている人間じゃないんだって叫びたくなる。


 どこまでも俺はみじめだ。

 じゃあこれからどうするか。結論を出そうとしたところで意識が覚醒しようとする。目が覚めるみたいだ。


「あっ、起きたんだ」


 耳に心地良い声が夢の世界から俺を引き上げる。


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