Marine Blue⑥


 十分後。


 ストレッチを終えた五人の受験生は、海原の指示で全員プールに入水していた。波も生物の気配もないとはいえ、張られているのは海水。肌をでる冷たい水温と鼻孔をくすぐる親しんだ香りに、蒼衣は人知れず歓喜していた。深さは五メートルあるらしかったが、さすがにこんな職種を志願するだけあって、おぼれる人間は一人もいなかった。

 水面に浮かぶ程よい緊張感で引き締まった全員の顔を見回して、海原が笑顔で声を張り上げた。


「最初の試験を始めます。内容はとってもシンプルです。今から僕が合図をしたら、息の続く限り水中に潜ってください。そのタイムを測らせてもらいます」


 はい、と蒼衣以外の四人が気持ちの良い返事をした。ぼーっとしていた蒼衣も慌てて続く。


「全身が完全に水没したタイミングでそれぞれ計測を開始します。体のどこか一部でも水面から出てしまった時点で計測終了です。相対評価はしませんので、こちらで定めた基準タイムを超えて潜り続けていられれば、皆さん通過となります」


 他の四人が海原の話を聞き漏らすまいとする一方で、蒼衣は規則的な呼吸を繰り返しながら、自然体で水面に浮かんでいた。

 やっぱり水の中はいい。余計なことが何も気にならなくなる。潜ればもっともっと思考がシンプルになって、まるで誰もいない別の惑星を旅しているような、穏やかな心地になる。

 号令を待つかたわら、蒼衣は目を閉じた。たとえゴーグルをしていても、蒼衣は潜る直前必ず両目を閉じる。これは自分なりの作法で、武道で最初正面に礼をするのと似ている。もしくは、祈りをささげるようなものかもしれない。


「では、始めてください!」


 海原の号令に合わせて目を開いた。酸素を深く深く取り込む。数秒かけて肺を満たした後も、唇を閉じたり開いたりしながら更に空気を吸い込んでいく。肺が風船のように膨らんでいくのが分かる。全てが整うと、蒼衣はもう一度目を閉じて、水の底を目指し潜水した。

 真夏の海よりずいぶん水温が低く、顔を沈めた瞬間頰を張られたように目が冴えた。冬でも平気で海に繰り出す蒼衣にとってはむしろ、この水温は肌に合っていた。

 音が低く鈍く滞った水中の世界は、まるで時間の流れさえも遅くなってしまったように錯覚することがある。

 透き通ったれいな水だ。これなら外からでも、中を泳ぐ生物の姿がよく見えることだろう。水を美しく保つのは簡単なことではない。水質管理の徹底ぶりに、蒼衣は密かに感心した。

 するりするりと水をかいて、蒼衣は間もなくプールの底へ到達した。しりをつけ、あぐらをかいて上を見上げる。きらめく水面でもがく八本の足が見える。驚くことに、まだ誰も潜ってさえいない。


 全身が完全に水没したタイミングでそれぞれ計測開始。なるほど、つまり号令と同時に潜る必要は全くないわけである。むしろ全員よりなるべく遅れて潜ったほうが、心と体に余裕を持ってライバルを観察できる。

 そんな小細工にばかり頭が回るざかしさを、蒼衣は人知れずちようしようした。


 やがて一人、二人と潜り始め、号令が出てから三十秒ほど経ったところで全員の水没が完了した。体の一部でも水面に出てはならないというルール上、やはり全員プールの底まで潜ってくる。

 無呼吸でいると、不思議と頭が冴える。蒼衣の場合はもう中毒なのかもしれなかった。麻薬的な快感だ。息を止めて水の中にいる間、蒼衣は全ての束縛から解放された気分になれる。


 思えば、水の中でじっと座っているというのは初めての経験だった。なかなか悪くない。光る水面を見上げていると、生まれる生物を間違えたとさえ蒼衣は思った。息が永遠に続いたなら、ずっとこうしていたい。


 ぼちぼち気分が良くなってきた頃だった。蒼衣の次に潜ってきた女の子二人が、口元を両手で押さえて床をり、決死の表情で水面へ急いだのである。


 ──うそ、もう? まだ二分も経ってないのに。


 驚く蒼衣の目の前で、三人目も間もなく後を追った。四人目の男はそれから三十秒ほど粘ったが、顔を真っ赤にして遮二無二水面に急いだ。どういうわけか、底に座る蒼衣にお化けを見るような目を向けて。

 拍子抜けというか、不審に思うほどだった。ここからが気持ちいいのに。もったいない。どれ、と思いつきで仰向けに寝転がってみると、これが存外悪くなかった。

 それにしてもあの八本の足は揃いも揃って情けない。水底から、水面に浮かぶ彼らをくだしながら蒼衣は嘆いた。ただでさえ遅れて潜ってきたというのに、あいつらは合格する気があるのか、と。


 ──ん?


 しまった、と思うにも遅すぎた。


「ぶはっ!」


 自らの過ちに気付くや否やロケットのごとく水面に顔を出した蒼衣に、どよめき混じりのかつさいが浴びせられる。


「すごい蒼衣君! 四分ジャスト! 今日までの受験者の中でダントツ最高記録だよ!」


「そんな勢いで飛び出してくるまで我慢してたとは……気合い入ってんな。その熱意高ポイントだぜ」


「すごい肺活量ですね、尊敬します」


 海原、黒瀬、凪が口々に絶賛する。蒼衣の胸中は一つだった。

 やらかした。



 凪の発表した基準は女性が一分四十五秒、男性が二分。女性陣に続いて上がってしまった男性一人が不合格となった。彼は悔しげに唇をみ、海原たちに一礼して退室していった。

 そんな彼には悪いが、蒼衣に言わせれば基準が低すぎだ。手を抜くにしても二分未満で限界がきたフリをするのは、さすがに恥ずかしくてやっていられない。

 続く試験、水中での運動能力と視野の広さを測るためのカラーボール拾いも、続く競泳も蒼衣は無難以上にこなしてしまい、その後不合格を言い渡される受験者は一人も現れなかった。

 蒼衣はうなだれた。全てかなり手を抜いて挑んではいるものの、プライドの高さが土壇場で邪魔をして、なかなか不合格になれないのだ。

 三段階の試験を通過した蒼衣たちは、海原の指示で一度プールサイドに上がっていた。他の受験者たちの息が上がっている中、蒼衣もまた、別の意味で非常に疲れていた。そろそろ本格的にまずい。このままでは、時給八百二十円でこき使われる奴隷となってしまう。

 ヘマをする芝居を真剣に算段していたとき、海原がこんなことを言いだした。


「皆さんお疲れ様です。次がいよいよ、最後の試験です!」


 緊急事態だ。蒼衣の顔から血の気が引いていく。

 つまり次が、不合格になるラストチャンス。いよいよ焦り始めながら、同時に最終試験の内容が気になった。また潜水能力を試されるたぐいのものなら、蒼衣に勝ち目、もとい負け目はない。


「最後の試験は、彼女たちとおこなってもらいます!」


 他の受験者たちが一斉に色めき立つ。どうやら「彼女たち」の見当がついていないのは、蒼衣だけらしかった。


 次の瞬間、プールサイドが一瞬かすかに振動した。プールの壁面の一部、分厚いシャッターになっていた部分が重い音を上げて開いていく。水が減るようなことはない。向こう側にも、同じ海水が満ちているのだ。


 長いトンネルの奥から、「彼女たち」は姿を現した。

 筆が紙の上を踊るような滑らかさで水面をなぞる、灰色のつややかな流線形。あいきようのあるつぶらなひとみ。シャープな鼻先。大きな口。顔に似合わないその迫力。

 遊泳、とはこの光景のことを言うのだと思った。水を切る動きはどこまでも流麗。海をすみとする者だけが、辿たどり着ける境地。

 それを導いてきたのが凪だった。四頭のイルカと並び、親しい友のように泳いでくる。イルカと目を合わせて微笑む姿は、まるで会話しているみたいに見えた。


「かわいいー!」


「かっけえ……」


 受験者たちが思い思いの感想をつぶやく中、蒼衣は──美しい、と思った。

 イルカが、ではない。凪がでもない。イルカと人間が並んで泳ぐというその光景そのものが、ひいてはイルカと彼女の間の目に見えないきずなのようなものが、まぶしく美しく感じられた。


 イルカを見たのは小学生以来だが、感動がまるで違った。自分の体はあの頃より大きくなったはずなのに、イルカが記憶より随分大きく見える。その存在感には敬意さえ覚えた。


 あれは蒼衣のあこがれる、海で生きる者の極致。理想形だった。

 もしかしたらこの瞬間から蒼衣は、イルカに、この職業に、既にあらがいがたい引力できつけられていたのかもしれない。


「最終試験は、イルカとのコンビネーション演技です」


 楽しげな笑みとともに放たれた海原の言葉に、蒼衣を含め受験者の間に激震が走った。

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