Marine Blue⑤


 よくよく考えれば当然のことだ。


 関係者用出入り口から館内に入り、暗くほこりっぽい業務用通路を海原と並んで歩きながら、蒼衣はぼうぜんと思った。


 イルカのショーがどんなものだったか、記憶ははっきりしないが、一般人が誰でも簡単にできるものではないだろう。いかに父の紹介とは言え、そんなに簡単に雇ってもらえるわけがなかった。


 廊下を歩いたり角を曲がったり、階段を上ったりすること数分。蒼衣は殺風景な、十畳ほどの部屋に案内された。海原は言葉通り、採用試験の概要をかいつまんで説明してくれたが、心ここにあらずの蒼衣の耳にはなにも残っていなかった。

 その部屋には、眼科にあるような視力検査用のボードが壁際に用意されていた。促されるまま持参した履歴書を手渡した蒼衣は、ボードの正面に設置された丸イスに腰掛ける。そのまま簡単な視力検査が行われた。結果は最後に受けた数年前と変わらず、両目とも二・〇。


「うん。大吉さんに聞いてた通り、視力は問題ないね。今時メガネいらずの若者って珍しいから、大事にしなよ」


「はぁ……」


 蒼衣は目が良い。そういう家系というのもあるし、本もマンガもテレビも見ずに海にばっかり潜っていたせいもあるのかもしれなかった。詳しく測定すれば二・〇よりも高い数字が出ただろう。


「潜水する仕事だから視力は良いに越したことなくてね。最近はゴーグルタイプの眼鏡もあるし、それだけで不合格ってことはしないんだけど」


「へぇ……」


 気のないあいづちを連発するのもそろそろ限界に近かった。ただでさえ興味を失いかけていた職場に入るために、これから採用試験を受けなければならないのだから、やる気を出せという方が無理な話だ。

 蒼衣はすでに、帰りたかった。


うしお蒼衣君、今年で二十三歳か。大吉さんには学生時代お世話になっていてね。君にはずっと会いたいと思ってたんだ。来てくれてありがとう」


 履歴書に目を通しながら、向かいに座る海原が柔らかい物腰で話し始める。人付き合いの苦手な蒼衣でも、次第に彼にリードされるように、不思議と自然に会話できるようになっていた。


「いえ、こちらこそ」


「蒼衣君は、イルカが好きなの?」


 え、と蒼衣は当惑した。海原は軽く聞いてみたというような表情だったが、反射的に不必要に構えてしまったのだ。どうやら予告なく面接が始まったらしい。


「まぁ……好き、ですかね」


 もっとうまく噓がつければいいのだが、それは蒼衣の苦手分野であった。


「ふぅん。じゃあ、海は好き?」


 海原ににこやかに見つめられて、蒼衣は無意識に背筋を伸ばしていた。


「好きです」


「……なるほど。うん、よく分かったよ」


 海原は口元に含むような笑みをたたえて、大きく二度うなずいた。


「これからプールに向かうけど、なにか聞きたいことはないかい? なんでも答えるよ」


「え?」


 もう終わり? 蒼衣は面食らった。今まで受けてきた就職活動の面接は、長いもので三十分を超えるものもあったし、圧迫的な質問を畳み掛けられるようなことも珍しくなかった。こんな拍子抜けする面接は蒼衣にとって初めてだった。


「特にないかな?」


「えーっと……じゃあ、給料を教えてください」


 やらかした! さすがの蒼衣でも直後に思った。いきなり金の話なんてしつけにもほどがある。それでも、もはや蒼衣がこの職場で気になっていることと言えばサラリーぐらいしかなかったのだ。

 海鳴水族館。久しぶりに訪れてみて改めて、立派で華やかな建物だと思った。ましてイルカショーといえば水族館でも花形だ。知識と技術が必要な専門職でもあるわけだし、気にしないようには振舞っていたものの、給料はかなり期待していい額と見ていた。

 金が手元にあったからといって使い道など思い浮かばないが、単純に、給料は高ければ高いほどステータスになって蒼衣のプライドが満足するのだ。


「あれ、大吉さんに書類渡してなかったっけなぁ。あの人全部ポケットに入れてそのまま捨てちゃうからな……ごめんごめん、ちょっと待ってね」


 海原が手元の書類をガサガサやって、目当てのものを見つけたらしい。一枚の紙切れを机の上で滑らせて、蒼衣の正面に置いた。


「合格する前提だけど、これが蒼衣君の最初の時給だね」


 トン、とゴツゴツした指が示した箇所に目をやって、瞬間、蒼衣は心の底から絶句した。



 八百二十円(時間給)。



「…………………へ?」


 目を疑うとはこのことである。何度注意深く見直してもその数字は変わらなかった。時給八百二十円。


 ──はっぴゃく、にじゅうえん?


「まぁ、そういう反応になるよね。気持ちはわかるけど、どこの水族館も最初は似たようなものなんだよ。悪いね。研修期間が終われば五十円上がるからさ」


 馬鹿にしてんのか! 蒼衣は声も出ずただ目をひんいた。五十円アップで喜ぶなんて高校生じゃあるまいし。


「さて、疑問も解決したことだし、プールに行こうか。いよいよ本格的な試験が始まるよ。他の子も待ってるだろうし」


 さぞ楽しみだろうという満面の笑みで肩をバシンとたたいてくる海原に、蒼衣はもう相槌さえ打てなかった。


「……ん? 他の子って……?」


「あれ、大吉さんから聞いてない? そんなに大々的な求人はしてないのに、全国から志願の声が後を絶たなくてね。既に二十人は超えてるかなぁ……まあ今のところ全員不合格なんだけど」


 聞いてないにもほどがある。

 蒼衣は採用試験の段階から寝耳に水なのだ。諸悪の根源は大吉だ。ろくに詳細も覚えていないのに紹介するなんて。


 ……いや、大吉のテキトーぶりは今に始まったことではない。蒼衣は思い直した。涼太や母の言葉にあせらされていたとはいえ、大吉の話を鵜吞みにするなんて早まったことをしてしまった、昨日の自分がバカだったのだ。


「そろそろ決めないとスケジュール的にもマズイんだけどなぁ。そういうわけで、頑張ってくれよ蒼衣君。さ、プールへ向かおう」


 蒼衣の気持ちなどお構いなしのように、海原は蒼衣の背中を押して無理やり視力検査室から退出させた。来た道を戻り、さっきとは違う角を曲がる。


 ──ここは、ブラックだ。ブラック企業というやつだ。


 ダンプカーのような馬力で背中を押されながら、蒼衣は泣きべそ半分に悟った。

 紹介してもらった翌日にもう面接だなんて、思えばそこからおかしかった。それほどまでに一刻も早くドルフィントレーナーの代理が欲しいということだろう。状況は切迫していると見た。


 その一方で、全国から話を聞きつけて訪ねてくれた二十人を軒並み突っぱねる非情さ。矛盾している。

 次々入社を志望して来るのをまるで当然のように思って、前途有望な若者をゴミのように捨てる。自分を落としてきた今までの企業と、ここもなんら変わらない。いや、それと比較したって給料が低すぎる。


 頼まれたって入ってやるものか。蒼衣は心に決めた。こんなところ、さっさと試験に落ちて帰ってやると。

 海原に背中をぐいぐい押されながら歩くこと数分。二人はやがて金属製の重い扉の前に到着した。海原が力を込めてそれを開く。


 瞬間、薄暗かった視界に鮮やかなブルーが飛び込んだ。


 屋内プールだった。背後の壁を除く三面は上半分がガラス張りで、その磨き抜かれた大窓から朝の陽光を室内へ導き、揺れる水面をきらめかせる。一辺二十メートルほどの正方形のプール。学校やスポーツセンターにあるようなものと異なり、かなり深さがありそうだった。


「イルカとのトレーニングに使うプールだ。プールと言っても、張ってあるのは海水だけどね」


 蒼衣はやさぐれていた気分の全てを、一瞬すっかり忘れ去った。

 うず、と全身の細胞がうずく。こうを突き抜ける潮の匂いが、蒼衣を海の男へとひようへんさせる。この全身が冷たい海水に沈むその瞬間を想像するだけで興奮した。


「水着は持ってきてくれたよね? 貸し出したいにもこれだけの人数分はなくて。そこの更衣室で着替えたらあそこに集合だ。もうみんな集まってる」


 海原の示す方を見ると、言う通りそこにはウェットスーツ姿の男女が六名、微妙な距離感で集合していた。あれが海原の言う〝他の子〟、即ち採用試験のライバルだろう。

 海原によると、採用試験の実施は二日おきで、今日で五度目。さすがにそろそろ合格者を出さないとまずい状況らしい。

 知ったことではない、自業自得だ。

 そう思いながらも、人を待たせていると思うと動きが機敏になるものだ。蒼衣は更衣室に入り手早く自前のウェットスーツに着替えると、最低限に手首やけんを伸ばしてから集合場所へ駆けつけた。


「よし、これで全員だね」


 プールのへりに集合してみて蒼衣がまず気づいたのは、事前に集合していた六名のうち採用試験を受ける者は四名だということだった。

 では残りの二名は何者だったかというと──今、整列した蒼衣たちと対面するように立って口を開いた海原の横に、その二名が並んでいる。三人ともオレンジ色のラインが入ったおそろいのウェットスーツ姿だ。海原はいつの間に着替えたのだろう。


「改めまして、この度は当館の求人にご応募いただきありがとうございます。当館のイルカチーム、リーダーの海原です。本日は、よろしくお願いします!」


 ハキハキと進行していく海原の礼に合わせて蒼衣たちも「お願いします」と声を揃えた。プールサイドのつぶつぶが裸足はだしに心地よい。


「副リーダーのくろだ。よろしく」


 海原のすぐ隣にいた男が低い声でそれだけ言った。蒼衣たちの挨拶もどもり気味になる。

 年齢は見た感じ三十前後。背は平均より低めだが、ウェットスーツが強調する引き締まった肉体と、自然な黒髪の一部だけ金色に染まった前髪が隠す、狼のような静かで鋭い眼光の威圧感は形容しがたい凄みがあった。

 まったく知るところではないが、こんな人が子どもに笑顔を届けられるのだろうかと蒼衣は心配になった。


 しかし、そんな黒瀬を差し置いて、蒼衣たち五名の視線を最もくぎけにしたのは、最後に残された女性だった。


しおなぎです。昨年入ったばかりの新米ですので、今日は私の方が勉強させてもらうつもりで見させていただきます。よろしくお願いします」


 清廉で、まだわずかに幼さの残る笑顔だった。ぴったりとしたウェットスーツに強調された細長くしなやかな四肢と女性的な曲線。後ろでひとくくりにされた長い髪は、つややかな烏のれ羽色。

 健康的に日焼けした小麦色の肌なのに、透き通るほどきめ細かい。冬のいだ海を思わせる、りんえた深い色彩のひとみ。背は高くないが、すらりと伸びた背筋と落ち着いたたたずまいはかんろくさえある。


 蒼衣はこれほど透明感のある女性に会ったことがなかった。

 同い年ぐらいだろうか。初めて見たときから正直目を奪われていたが、見た目の若さから受験者側の人間だと思い込んでいた。


「さて、自己紹介も終わったので、さっそく試験に移っていきましょう!」


 海原が笑顔で手を叩いた。

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