Marine Blue③


「おう蒼衣、ただいまおかえり!」


 リビングに入るなり、野太い声が珍妙な挨拶を投げかけてきた。


「……ただいまおかえり、親父。帰るなら連絡いれろよな」


「いつも言ってんだろぉ。このスマホってやつは俺にゃ難しすぎる。船の上で操作すると酔ってかなわんし」


 テレビ台前の大きなソファにどっかと深く座った活気にじみ出る大男。蒼衣の父親、だいきちである。遠洋かつお一本釣り漁業をなりわいとする彼は一年間の二百日以上を海の上で過ごす生粋の海の男だ。漁のプランによって期間もまちまちなので、大吉の帰宅はいつも唐突だった。


「もう八ヶ月近くぶりかしらねぇ。今回の漁はどうだったの?」


 母のなつが三人分のコーヒーを盆に載せてキッチンから出てきた。この様子だと、大吉が帰ってきたのはつい今しがたのようである。


「ああ、量はぼちぼちだが質のいい鰹が獲れた。次は東沖の漁場だな」


 蒼衣も詳しいことは知らないが、鰹一本釣り漁は夏場が東沖、それ以外の季節は赤道付近の南方漁場が職場となるそうで、大吉は年中こんがり肌を焼いている。

 作業着のそでをまくってむき出しにしたたくましい腕でコーヒーカップをひっつかみ、太いまゆを持ち上げて豪快に飲み干すその姿は、細身で顔の造作も中性的な蒼衣とは全く似ていない。

 唯一蒼衣が自分の顔に大吉の面影を感じるのは、大きくて鋭い目だけだった。


「蒼衣、せっかくお父さん帰ってきたんだし、ちょっとそこ座りなさい」


 ──ほらきた。


 L字型のソファの独立部分を指で示した夏子の口調は穏やかだが、その強気な態度は心強い味方を得たと言わんばかりだ。大吉の帰宅で蒼衣が恐れていたのはこれだった。


「……ソファが海水臭くなるよ。シャワー浴びて着替えてからでもいいだろ」


 口走った逃げ口上はあらかじめ用意していたものだった。夏子も納得したようで、つかの間の猶予を得た蒼衣は重い足取りでへと向かった。

 ちんたら三十分くらいはシャワーを浴びていたい気分だったが、その間に夏子が大吉に何を吹き込むかと思うと気が気ではない。結局十分そこそこで塩と汗を落とし、何も具体的な作戦が固まらないまま浴室を出た蒼衣は、洗濯機の上を見てせんりつした。

 用意した覚えのないタオルと着替えが、丁寧に畳まれて置かれている。迎撃態勢は万全ということらしい。往生際悪くもたもたと着替えたり髪を乾かしたりしてみたが、いよいよ先送りにも限界が来て、蒼衣は戦々恐々と二人が待つリビングへと戻ったのだった。



「おう蒼衣、母さんから聞いたぞ。働いてないんだって?」


 さすが、ど直球だな──座るのを待ちもせず豪快に本題を突きつけてきた大吉に、蒼衣は苦笑を引きつらせた。示された場所に大人しく座る。

 L字の長い方に大吉と夏子が並んで座り、ソファの独立部分に座る蒼衣と向き合う、という構図だった。

 蒼衣がついていたテレビに目線を逃がし言葉を探していると、すかさず夏子が電源を切る。一気に静まり返った室内の、重苦しい空気が蒼衣の双肩にのしかかる。


「ま、まぁ……バイトはいくつか始めてみたりしたんだけど、どこもあんまりいい職場じゃなくて」


「レベルが低いとかって言って辞めてくるのよ! 雇っていただいてるって気持ちがないんだからこの子は!」


 ──くそ、余計な補足を。


「いや、でも、やっぱジジイになるまで働くからには妥協したくないっていうか」


「そういうのは一人前になってから言いなさいまったく。数日かそこら働いただけで職場の全て見透かした気になって」


「いや……働いたことない母さんにそんなこと言われたくねえんだけど」


 夏子は二十一で蒼衣を身ごもり、それを機に大吉と結婚。大学は中退している。

 それからずっと家事だけやって生きてきた人間がなにを偉そうに──


「蒼衣」


 激化しかけていた口論を、大吉の一声がぴしゃりと黙らせた。蒼衣は完全にしゆくして、口を閉じるしかなかった。普段は陽気な父親だが、一度怒ると大人でも泣かせるほどの迫力がある。


「親に意見するのは立派だが、親を甘く見る奴はクソだ。覚えとけ」


「……はい」


「母さんも、抑えてやれよ。俺のいない間、ああ言えばこう言うクソガキのお守り任せっきりで悪いと思ってるけどな」


 今年で二十三にもなる自分がガキ呼ばわりされるのは不本意だったが、かと言って大人であるとは、蒼衣には逆立ちしても言えなかった。


「まだ続けてるんだな、ダイビング」


 瞬間、蒼衣は恐れた。本分を忘れさせる諸悪の根源として、ダイビングがやりだまに挙げられるのを。


「……悪いかよ」


 遊びに見えるかもしれないけれど、実際遊びなのかもしれないけれど、蒼衣はダイビングだけは、誰にも否定されたくなかった。ダイビングだけは違う。趣味とも特技とも言いたくないから、履歴書にもエントリーシートにも書けなかった。

 ただ海さえあれば、蒼衣は本当になにもいらなかった。働きたくないわけじゃない、働くことで少しずつ、自分の生活から海やダイビングが排除されていくのが怖い。そうやって大人になっていくのが怖い。

 時間から逃げるように海に潜り続けて、とうとう時間に置き去りにされた。蒼衣が沈んでいる間に、周りはみんな前に進んでいた。浦島太郎の気分だ。置いてっちまうぞ──涼太の言葉が再び刺さる。


「悪いなんて言わねえよ。……年に数回。お前の顔を見るのはそれだけなのに、いつ帰ってきてもお前は俺より後に、れた体で帰ってくるんだ。いつからだ? ただいまおかえり、なんてバカみてえなあいさつが当たり前になってたのは」


 笑う大吉の表情はどこか切なげだった。


「俺のせいだな。ろくに遊び相手にもなってやれなかった。蒼衣、お前は見つけちまったんだよ。これさえありゃあ他になにもかもいらねえっていう圧倒的な快感をな」


「か、快感……?」


「ぶはは、なんだよそのウブな反応はぁ、えぇ? その調子じゃ女にさえ興味なかったか?」


 父親とこんな風に絡む耐性のない蒼衣は、赤面して顔を背けた。


「蒼衣。仕事なんざ義務なんだから、どうせならやりたいことやるに越したことはねえさ。けどお前は、自分がなに一つも不自由感じねえでいられる場所が、すぐ近くにあったもんだから、ずっとそこに潜りっぱなしで、ずっとずっと、おんなじもんばっか見てきた。だからやりてえことがなんなのか、分からねえ。分からなくてもいいとさえ思う」


 大吉の言葉は思いがけず、響いた。ずっと名前のつけられなかった感情の名を教えてくれたような、ずっと複雑な形に空いていた穴がピタッと埋められたような、そんな気分が去来して蒼衣は思わず口を開いた。


「……なんでそんな俺のことわかんだよ。ほとんど家にいないくせに」


「簡単だ。俺もガキの頃に釣りにハマって、そっからどっぷりだからな。まあお前と違うのは、それをすぐ仕事にできたことと、ちゃんと女ともよろしくしてたことだな」


 なあ母さん、と言いながら大吉は、隣に座る夏子の肩を抱いた。ぽっと頰を染める四十半ばの母親。


 ──いらんやりとりだ。


「俺だって……今日ちょうど、仕事探すつもりだったんだよ」


 言い終わって、なんと負け犬のようなセリフを吐いたのだろうと、蒼衣は屈辱で顔から火が出そうになった。

 本当に探すつもりだったのに、この口から出る言葉全てがあまりに薄っぺらく、なんの力も持たない。


「おお、そうか。だったら丁度いい」


「……え?」


 大吉の反応が予想と違って、蒼衣は目をしばたたかせた。


「ちっとむかしみのヤツから特殊な求人の話を聞いてな。視力、体力、それから泳ぎの力が求められる仕事なんだよ。蒼衣にピッタリだと思って詳しく話聞いといた。どうせお前のことだからまだ働いてないだろうと思ったしな」


 まぁ、と夏子が目を輝かせて両手を合わせ、蒼衣と大吉を交互に見つめた。ちょうど仕事探すつもりだった、と口走った手前、もとより断ることなどできない状況だ。

 しかしそれらを抜きにしても──泳ぐ仕事、か。

 興味を持てないと言えば噓になった。

 たとえつまらない職場でも、父の紹介で雇ってもらったとなれば責任感で長続きしそうな気もする。そんな打算も手伝って、蒼衣は大吉に頭を下げた。


「それ、紹介してよ。お願い」


「よかったぁお父さん! 蒼衣えらいわよ!」


「ああ、といっても臨時採用だけどな。俺とそいつの仲とは言え、使えなきゃ即切られる厳しい世界だ。本来、倍率は五十から百倍って言われてんだぜ」


 大吉の口から飛び出たスケールの大きい情報に、その特殊な求人への興味が膨らんでいく。自分の能力を余すことなくかせる天職は、間違ってもピザ屋なんて平凡なものじゃなく、やはりそういうアブノーマルな仕事に限ると、蒼衣は常々思っていた。

 運命の巡り合わせのように感じられて、初めて心から前のめりになる。


「なんて仕事?」


 緊張混じりにたずねると、大吉はしばらくうろ覚えの記憶を手繰り寄せるように虚空をにらみ、やがてたどたどしい発音でこう言った。



「──ドルフィントレーナー」

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