Marine Blue②



「ぶはっ!」


 水面から顔を出し、停泊させていた小型漁船に固定した浮き輪にしがみつくと、蒼衣は数回激しくあえいだ。それでも焦って息を吸うばかりではなく、規則的な呼吸の繰り返しに努める。

 先週に梅雨も明け、昨日あたりから気温も一気に上昇。まだ七月にも入らないうちに三十℃を超える真夏日だ。蒼衣は思わず青空を仰ぐ。


「……こんな日はやっぱり、海に入るに限るな」


「んなこと言ってぇ、蒼衣お前、今年も春からずっと潜ってんじゃん」


 ほぼ同時に上がってきていた随伴の友人が、口からレギュレータを外すとあきれたような声でそう言った。


「付き合わされるオレの身にもなって欲しいぜ」


「一度もりように頼んだ覚えはないけどな。断ってんのに勝手についてくるんだろ」


「かーっ、なんだよその言い草、人が心配して来てやってんのによぉ。……で? 記録は」


 船に乗り込みながら毎度おみの軽口をたたき合う。キャップを脱いで派手に染め上げた金髪の水気をバサバサ払う涼太に問われて、蒼衣は口ごもった。


「……三十八・七メートル」


「相変わらずバケモンだな、同じ人間とは思えないね」


「ダメだ、またベストから遠ざかった。トシかなぁ……」


「やめろよジジ臭えぞ。オレたちまだ、花の大学生だぜ!」


「大学生はお前だけだろ、この留年野郎」


 能天気さにいらってつい小馬鹿にする口調になったが、涼太にくちげんで勝ったためしがないことを、蒼衣は直後に思い出した。


「就職浪人キメてニートになるぐらいなら、お前ももう一年大学生やっときゃよかったんだよ」


 屈託なく笑い飛ばされてぜつぽうを封じられた蒼衣は、反論の余地もなく帰りの運転を引き受けたのだった。



       ***



 沖から岸へと戻った蒼衣と涼太は、漁船を停めてアンカーを下ろすと陸に上がった。

 この船は蒼衣の実家のものだ。父が遠洋漁業を営む漁師なので、ほとんど戯れ用だった一番小さな船を、大学進学と同時に蒼衣が譲り受けた。必要な免許も拍子抜けするほど簡単に取れてしまい、それ以来乗り回して遊んでいる。

 レジャー性の強い浅瀬のダイビングも悪くないが、蒼衣はもっぱら沖に出て、ひたすら深海を目指すほうが性に合っているので、船の存在はありがたいものだった。

 涼太が女を乗せたいと言うのでたまに船を貸すのだが、どうやら素潜りに同伴してくれるのは彼なりのギブアンドテイクのようだ。顔に似合わず律儀な男である。付き合いはもう二十年近くになる。

 港から蒼衣の家まで徒歩十分ほど。熱されたアスファルトをビーチサンダルで踏みしめて緩やかな坂道を登る。焦がさんばかりに照りつける陽光をまばらに受け止める、斜めに伸びた木の青々とした屋根の下を通ると、もうすっかり夏の香りがした。

 木漏れ日の降る坂を抜け団地に入ったところで、涼太が不意に口を開いた。


「つーか蒼衣、トシってのは冗談にしてもそろそろ無茶はやめた方がいいんじゃねえか? マジで死ぬぞそのうち。オレだって毎日ついてやれるわけじゃないし」


「なんだよ今更。大丈夫だって。涼太のいないときは限界来る前に切り上げるようにしてるし。体調管理もちゃんとしてる」


「そういうことじゃなくて……ほら、お前……」


 涼太は一瞬だけ躊躇ためらってから、肌を焦がす陽光と同じくらい容赦のない言葉を放った。


「だからほら……働けよ! このまま一生フリーターとニートのハーフ状態続けるつもりか? もう後輩どもまで次々内定決めてってんぞ」


 まさか涼太にまで危機感をあおられる段階に来ていると思っていなかった蒼衣は、ふて腐れ半分内心ドキッとした。


「……うるせーな。大学五回生に言われたくねえ」


「いや、それがさ、かくいうオレも就職先決まったんだわ」


「はぁ!?」


 思わず今日一番の大声を出した蒼衣に、派手な海パン姿の涼太はきまり悪さ半分、得意げ半分に白い歯を見せて笑う。


「彼女の親父さんにあいさつにいったらさ、あのてら工業の社長さんだったんだぜ、信じられるか? 割とあるみようだから思いもしなかったけど、ラッキーだな。気に入ってもらえて、いいポストで働かせてくれるって」


 寺田工業といえばこのうみなり市随一の大企業。蒼衣も二年連続で受けて、もちろん落ちていた。


「ふっざけんなよ棚ボタ野郎! またそうやってしれっとなんの苦労もなく生きてくってのか! 社会なめんな!」


「お前に言われたくねえよ……ま、棚ボタは認めるけどな。彼女と三年間しんに付き合って来たのも、親父さんに気に入られたのもオレの日頃の行いの良さだろ」


 蒼衣はぐうの音も出なかった。確かに涼太はチャラく見えるが、恋人とは実に真剣に付き合っていたし、何より舌を巻くほどの社交力がある。致命的なバカと遅刻癖さえなければ、そもそも無事に単位を取って大学を卒業して、それなりの企業に就職できていたであろう男だ。


「……そっかぁ、ついに同期でニートは俺だけか」


「まあまあ、一応半分はフリーターだろ! 新しいバイト始めたんじゃなかったっけか、ほら、ピザ屋の」


「辞めた」


 涼太はそっと天を仰いだ。


「三日は続けたぞ、俺にしてはもった方だ。店長は愚痴っぽいし、少し早く入ったってだけで高校生が俺にタメ口だぞ? あんなレベルの低い奴らと働くなんて……」


「何度目だよそうやって辞めんの……ダイバーのくせに忍耐力なさすぎだろ」


「だって! 時給もクソ安いのにまかない前にタイムカード切られるし、手は油でギトギトになるし、客はずうずうしいし」


「結構普通だぜ、それ?」


 まだいくらでも羅列できたのに、涼太が本気であきれたようにため息をついたので蒼衣は不本意ながら口を閉じる。


「そんなんだから面接で落とされんだよ。滑り止めまで滑りまくったのは傑作だったな、ほら特にあれ、ずみ損保の面接。志望動機なんて答えたんだっけ」


 言わせるの何度目だ。思いながら蒼衣はあの日真顔で答えた通りのことを渋々口にした。


「……『御社なら職場として、俺の生涯をささげようと覚悟できるギリギリセーフのラインだったからです』」


「ぶっひゃっひゃっひゃっ! そりゃ落ちるわ! 腹いてえー! そもそもお前、滑り止めでさえ県内有数の企業ばっかだもんよ、強気すぎんだろ! 安住損保が滑り止めとか地元で聞いたことねえー!」


 そう言われたって、採用されても働きたいと思えない会社の面接になぜいく必要があるのか、蒼衣には分からなかった。

 大学受験の際も、蒼衣は、「滑り止め」と称して通う気もない私立大学を何校も併願する同級生たちが本気で理解できなかった。母も熱心に「滑り止め」受験を蒼衣に勧めた一人だったが、蒼衣には受験料も試験を受ける手間も、なにもかも無駄に感じられ、その提案を一蹴して地元の国立大学一本勝負に臨んだのだった。

 その大学も、ただ地元の海を離れたくなかったことと、そこの学生を名乗ることをプライドがぎりぎり許容したから選んだに過ぎず、卒業まで大学生らしい華やかな生活とは縁がなかった。涼太がすぐ隣の私立大学に進学してくれなければ、蒼衣の大学生活はいよいよ一人で海に潜るだけの毎日になっていたに違いない。


「とことん社会に向いてないよお前は。能力スペツクあるぶんそのプライドの高さがマジもったいねえ。去年はオレも笑ってられたけどよ、そろそろ置いてっちまうぞ。少しずつ、慣らしてけよ。世の中理不尽だらけだぜ」


 いかにも理不尽と縁遠そうな、要領のいい涼太に言われても説得力は感じられなかったが、「置いてっちまうぞ」という厳しい言葉に蒼衣はハッとさせられた。涼太にここまで言わせてはさすがに情けない。


「……そうだな。また、なにか新しいバイト探してみる」


「その調子だ。お前の場合、技術的に困る仕事はそんなにねえだろ。まずは一年もたせてみろ。働きぶりがよければ正社員として雇ってくれるかもよ」


「大学時代にバイトしなかったツケが回ったかな」


「はは、それはあるかもな。実家生の悩みってやつだ」


 そうこう話しているうちに二人は蒼衣の家の前に着いた。涼太の家はこの住宅街を抜けた先の、山のふもと付近にある。徒歩でいける距離だ。


「んじゃ、明日あしたからはしばらくダイビングお休みってことでいいな?」


「……だな、そうするよ。母さんが毎日どっから集めたんだって量の求人を用意しててさ、とりあえずそれに目を通してみるかな……。まあ、また連絡する」


「おうよ。またなー」


 涼太と別れ、やや気乗りしない気持ちはありながらも蒼衣は玄関扉のかぎをあけた。

 もうそろそろ、いや、とっくに、好きなことを犠牲にして働かなければならない年齢なのだ。

 今更になって、蒼衣は再び自覚する。

 このまま夏が終わらなければいいのに──そんな詮ないことを考えながら中に入った蒼衣は、玄関にれた男物の長靴が一組、少年のように脱ぎ散らかされているのを見つけた。


「……親父、帰ってきてるのか」


 本来なら素直にうれしい父の帰宅も、今回ばかりは頭痛の種だ。サンダルを脱ぎ、父の靴まで一緒に揃えてやりながら、蒼衣は無意識にため息をついた。


 ──面倒くさいことになった。

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