ドルフィン・デイズ!【角川文庫版】
旭 晴人/KADOKAWA文芸
第一章 Marine Blue
1
Marine Blue①
海が青い理由を知っているか。
両手ですくえば太陽の光を編み目のように乱反射させる、とても透き通った無色なのに。
なぜ海はあんなにも、深く幽玄な青なのか。
その理由は、潜れば分かる。
唇をすぼめ、段階的にめいっぱい空気を肺に
音が、低く鈍く、停滞する。
水面付近で頭を沈めた程度では、まだ海は突き抜けるようにクリアで、限りなく淡いエメラルド。それは幻想的な世界でこそあれ、あの幽玄な青を青たらしめる理由は見当たらない。
しかしひとたび
海は底が青いのだ、と。
蒼衣がダイビングにどっぷりハマったきっかけである。その〝黒〟とも言える青と目が合った瞬間、ぞあああああ、と連鎖的に肌が
吸い寄せられるように、頭と足の位置を入れ替えて、蒼衣は潜り始めた。
潜れば潜るほど、精密に深くなる青のグラデーション。その色彩と反比例するように、肉体は追い込まれていく。低下する水温。薄まる脳の酸素。水圧が起こす耳鳴り。
強烈な生と死の気配を両隣に感じながら、どこまでもどこまでも、青の果てを目指して潜り続ける。たったこれだけのことに、十三年も前から蒼衣は骨の髄まで魅せられていた。
素潜りは、タンクを使わずに、自らの力だけで息の続く限り潜水する、非常に危険な行為だ。フィンという足ビレを装着して潜るダイバーも多いが、蒼衣にはそれさえ煩わしい。
水着を除けば正真正銘の裸一貫だ。一応、すぐ側を、こちらはフィンをつけてタンクも背負った信頼に足る友人が付き添ってくれているので、蒼衣は安心して己の限界に挑むことができる。
ぐんぐん、ぐんぐん、
水深計搭載の腕時計が示す数値はマイナス三十一・一メートル。まだ、いける。あと、もう少しだけ。
高い水圧に肺が収縮していき、浮力が体感的にも落ちていくのが分かる。力を入れて水をかかなくとも、深い海底に吸い込まれるように、沈んでいける。
不意に全身の細胞が、けたたましく警笛を鳴らした。素早く未練を断ち切り、迅速に体を旋回させ、蒼衣は再び頭と足の位置を入れ替える。
見上げれば、
海の底から見上げるこの景色が蒼衣はたまらなく好きだった。海底が死なら、あの
太陽の光は白く見えるが、実際は微妙に異なる波長の、数えきれない色の光が寄り集まってできている。それが海に降り注ぐとき、ほとんどの色は少しも潜らないうちに水に吸収されてしまうが、その中でただ青色の光だけが、深く深く届いて水面下の世界を照らすのだ。
海を照らす光の色に青を選んだことは、神の最大の功績だと本気で思う。
この、青。下から飲み込もうとする青が、上で歓迎する青が、海のあらゆる青が、蒼衣に安心と
海の中にいるときだけ、蒼衣は不安も罪悪感も忘れて、ただこの強烈な色に
見えない力に足を
浮力に代わり、ずしりと蒼衣を襲う海底の引力。気を抜けば、刻一刻と白濁していく意識はたやすくパニックに陥るだろう。
海上へ帰るときこそ、慌てず、冷静に、力を抜いて一定のペースで、無駄のないフォームで、気を確かにもちながら少しずつ浮上していかなければならない。
フリーダイビングに必要なのは自然を愛する心、そして忍耐することへの敬意である──とは、本当によく言ったものだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます