最終話

 やたらと顔の良い夫婦連れの客にコーヒーを出し終え、総一郎は店内を見回した。

 六時を少しまわったカフェコーナーは客の姿もまばらで、閑散としている。

 あと一時間もすれば夕飯をとるための客が増えてくるはずだが、この時間はたいてい暇なものだった。こういうときに手があいてしまうと、なんとなく居心地が悪くなる総一郎である。

 さっきまでは社員の黒木もいたのだが、ここは四人もいらないからと店長に追い出されてしまっていた。今頃は書店の方で品出しかレジ業務でもしているはずだ。

 カフェの仕事しか覚えていない総一郎からすると、人員が薄ければどこにでもヘルプとして入ることのできる社員は尊敬の対象だ。

 総一郎はもう一度、客の様子を確認した後、サンドイッチに使うグリルチキンの仕込みをしている店長に声をかけた。

「今のうちに三番を回しておきましょうか?」

 三番というのは休憩の符丁だ。ちなみに、二番がトイレで、一番は掃除である。

「そうだね。僕は最後で良いから、壁井君と相談して十五分ずつとっておいて」

「はい、わかりました」

 店長はいつも自分の休憩を最後に回す。もしも回ってくるまでに店が混んできたら、休憩なしのままでキッチン業務を続ける人だった。

 そう広くはない厨房を回りこんで、使用済みのグラスを次々と食器洗浄機にセットしている壁井に声をかけた。

 壁井は本来なら今日のシフトではないが、先日のヘルプの代わりに、春香から交代を申し渡されたという。

「壁井、三番回すぞ。先が良いか?」

 食器洗浄機を作動させてから、壁井は総一郎を振り返った。ちらりと洗い物の残りに目をやる。

「まだ残ってるんで、後で良いですよ。お先にどうぞ」

「了解。三番いただきます」

「はーい」

 店長にも同じように声をかけて、バックヤードへ入ろうとした。しかし総一郎が手をかけるよりも先に、扉の方から内側に開いた。総一郎はバランスを崩しかけて踏みとどまる。

 扉の向こうに、春香が立っていた。エプロンにバンダナという、いつものバイトスタイルである。

「あれ、今日は来れないんじゃなかったのか」

 春香は総一郎を無視して、するりと厨房の中へ入っていった。店長に声をかける。

「おはようございます。申し訳ないんですけど、店長。総一郎と私、交代してもいいですか」

「おはよう。人数の辻褄は合うから別に良いけど、壁井君じゃなくて?」

 不思議そうな表情の店長に、春香が頭を下げる。

「ありがとうございます。いやあ、総一郎がうちのかわいい妹を泣かせたので、軽く説教しようかなと。あ、来るなりで悪いんですけど、三番いただいて良いですか?」

「なっ」

 泣かせてなんかないと言いかけた反論は、振り返りざまに投げられた春香の視線に止められた。

「ああ、黒川君と妹さん、お付き合いをはじめたんだっけ。青春だねえ」

 にこにこと笑う店長は、快く春香に三番を許した。

 もう一度、ありがとうございますと店長に頭を下げた春香は、バックヤードへの扉の前まで歩いて、振り返った。あくまでも表情だけは笑顔で、総一郎をにらむ。

「顔貸しなさい」

 ぱたり、と静かにバックヤードへの扉が閉まった。

 事態を把握しきれない総一郎は、一縷の望みをかけて店長を振り向いてみた。

「女の子を泣かせちゃいけないよ」

 うんうんとうなずきながら言った店長は、もうそれ以上総一郎に取り合わず、食器洗浄器の方へ声をかけた。

「壁井君、洗い物が終わったら、トマトソースの予備をとってきてくれるかな」

「はーい」

「お客さんも来ないし、ゆっくりで良いから」

 指示を出し終えた店長は総一郎の方に向き直り、まだいたの、とでもいうように首をかしげた。

 総一郎はあきらめて、頭を下げた。

「お先に失礼します」

「はい、お疲れ様でした」


   ◆


 バックヤードの中は、店内と比べるとかなり照明を暗くしてある。裏の光がフロア側へ漏れないようにという配慮からだ。

 ただでさえ広いとは言えない通路は、返本用の段ボールなどが積みあがっていて、乱雑な印象を与える。

 事情を聞こうと春香に声をかけた総一郎は、先に着替えてこいと、一階のスタッフルームへ追い立てられた。

 二分で帰り支度を済ませて、総一郎はもう一度地下のバックヤードへ下りてきた。

「で、どういうことだよ」

 腕組みをした春香に問いかける。

「どういうことだ、はこっちが言いたいところなんだけど。清香の方からあんたに告白したんですってね?」

「う」

 総一郎は言葉に詰まる。次こそは、次こそはとタイミングを図っている間に、清香の方から告白されてしまったのだった。

「で、私の目の前に立ってるへたれは、なんて返事をしたのかしら」

「ありがとう、嬉しい、みたいな、ことを」

 なるほどなるほど、と春香は笑顔でうなずいた。つかつかと総一郎に歩み寄ってくる。やばい、と総一郎が思ったときには、腹に強烈な一発をもらっていた。

 春香の生徒会長時代、実力行使に出た不良たちを何人も沈めた膝蹴りである。

「あんたねえ、先輩達が残してくれたコーヒーパウダーから、何も学ばなかったの?」

 本気ではない。本気だったら今の一撃で気を失っている。それでも堪え切れずに腹を押さえて、くの字に体を折り曲げた総一郎の頭上から、呆れたような春香の声が降ってきた。

「誰かが砂糖とミルクを買ってくるだろうって思っていても、誰も買ってこなかったでしょう」

 清香とのデートでも話題になったことを、総一郎は思い出す。

 次期生徒会へ引き継ぐとき、春香は餞別と称してわざわざお徳用のコーヒーパウダーを買ってきた。もちろん、砂糖もミルクもなしで。

 春香のやることが、ただの嫌がらせであるわけが無いと言ったのは、総一郎自身だ。

「先輩たちは、自分から砂糖を買ってくる誰かにならなきゃいけないって伝えたかったんじゃないの?」

 新しいコーヒーを戸棚に置いた春香は、来年は誰か砂糖を買ってくるかしらねと、いたずらっぽく笑ったのだ。

「清香の彼氏はあんただけじゃない。コーヒーとか生徒会活動とかよりも、もっと分かりやすく、他の誰かなんていないのに……」

 そこで言葉を切って、春香は盛大なため息を漏らした。

「大サービスよ。朴念仁のあんたにも分かるように教えてあげる」

 腹の痛みが引かず、総一郎は顔を上げることもできない。

「女の子は一人残らず、一人残らずよ。好きな人から大好きって言ってもらえないと不安で死んじゃう病気にかかっているの。忘れるんじゃないわよ」

 下を向いたままの総一郎の視界から、春香の靴が消えた。次いで、背中に衝撃が走る。春香の平手が振り下ろされたのだ。

「わかったら、いつまでも悶絶してないでさっさと行きなさい。清香は雑誌コーナーにいるから」

 背中に残る熱が、腹の痛みを消してくれた。総一郎はひといきに体を起こす。

「すまん、迷惑かけた」

「高いわよ。報酬は、そうねえ」

 何を要求されるのかと、総一郎は体を固めた。

「あんたたちの笑顔で良いわ」

「……ありがとう。いってくる」

「はいよ、いってらっしゃい」

 振り向かずに歩き、総一郎はフロアへ続く扉を開けた。後ろから春香の声がした。

「ハグまでなら許す」

 きっと春香はにやにやと笑っているに違いない。総一郎は苦笑したあと、片手を上げて応えた。


   ◆


 すぐに連れ出してきてやるから、雑誌でも読みながら待っていなさい。清香にそう言い置いて、春香はスタッフルームの奥へと消えた。

 けれど、どの雑誌も手に取る気が起きず、清香はただ店内を歩きまわっている。

「清香ちゃん」

 不意に背後から声をかけられた。

 その声を聞き間違えるはずもない。清香は振り向きながら返事をした。

「総一郎さん」

 清香は心の中で春香に礼を言う。何度も何度も、気づかないところでも、清香は姉に助けられてきたのだと思う。

「ごめんなさい、電話に出なくて。わたし……」

「ストップ。俺からも言いたいことがたくさんある。けど、とりあえず出よう」

 言葉をまくし立てかけていた清香は、そう言われて、ようやく周囲を見る余裕を取り戻した。眠ってしまったらしい男の子を背負った男の人が、物珍しげに清香を見ていた。隣を歩いている綺麗な女の人は、奥さんだろうか。

 清香は顔を赤くすることも、視線から逃げ出すこともしなかった。余裕を持ってほほ笑みを浮かべる。

「今のストップ、ちょっとお姉ちゃんに似ていました」

 総一郎が、驚いたように目を丸くした。


   ◆


 店を出ると、あたりはすっかり夕暮れに染まっていた。バス停までの道のりを二人並んで歩いていく。どんな事情があっても、今日はただの平日で、家では母が夕飯を用意しているはずだった。

「ねえ、清香ちゃん」

「はい」

 総一郎が清香に声をかける。

「春香はいつも清香ちゃんのことを自慢していたよ。ちょっと恥ずかしがり屋だけど、すごく努力家で、こうと決めたことは絶対にやり通す強さを持っているって」

「それは、ちょっと褒めすぎだと思います」

 清香は赤くなってうつむく。隣で、総一郎が小さく笑ったのがわかった。

「去年の文化祭で、一年生なのにホルンのソロをやってたよね」

「は、はい」

 あまり上手いとは言えなかったけれど、頑張って演奏した。

 ホルンのパートリーダーが、部活動無遅刻無欠席のご褒美にと清香を推薦してくれたのだ。

「顔が真っ赤だったけど、ミスもちょっとしてたけど、ちゃんと最後までソロパートを演奏して、お辞儀してた。俺はあれを見て、ああなるほど、って納得したんだ。春香の言っていたとおり、すごくかわいい女の子だ、って」

 清香は右隣を歩く総一郎を振り向いた。ぱちりと目が合う。

 総一郎も清香を見ていた。

「一目ぼれだったんだ。あの日からずっと、俺は清香ちゃんのことが好きだよ」

 総一郎が笑う。清香の右手を、総一郎の左手が包んだ。

「大好きだよ」

 涙があふれそうになるのを堪えて、清香は笑った。

「私も、総一郎さんのこと、大好きです」

 バス停はもう、すぐそこだった。

 清香の手が、きゅっと握られる。

「一個分、歩こうか」

 清香は返事の代わりに、総一郎の手を強く握り返した。


  〈最終話・了〉

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