第7話
デートの日から、清香は一度も総一郎と電話をしていない。LINEでのやり取りは普通にしているけれど、電話は何かと理由をつけて、とっていない。
打ち込んだ文字でならいくらでも平静を装えるが、会話を直接してしまうと、簡単にぼろが出る気がしていた。
気にしなければ良いのだと、清香にも理屈では分かっている。総一郎と春香は同じ大学に通っているのだ。講義に関する相談かもしれない。姉と総一郎が電話で連絡をとりあうことに、待ち合わせをすることに、何もおかしなところなんてない。
けれど、春香と総一郎が会ったはずの月曜日、その翌日からだ。春香が何か話したいことがあるという視線を清香に向けているのがわかる。
朝練が無い日も早く家を出て、両親がいる間だけリビングでテレビを見て、部屋に戻ったら鍵をかけてすぐに寝る。そうやって、清香は姉を避けていた。
春香から、何か決定的な言葉を聞いてしまうのが怖かった。
金曜日の夕方。清香は制服から着替えもせずソファーに座り、ぼーっとテレビを眺めていた。春香は夜までアルバイトなので、早めにお風呂へ入ってしまえば顔を会わせずに済むはずだ。
玄関の方から人の気配を感じて、清香は顔を上げる。母が夕飯の買い物から帰ってきたのだろう。今日は時間が余っているので、料理を手伝うのも良いかもしれない。
「さて、清香、逃がさないわよ」
その声に驚いて、清香はソファーから飛び起きた。春香が、リビングの出入り口をふさぐように腕を組んで立っていた。そこを押さえられてしまうと、リビングからは台所と洗面所にしか行けない。
呆気にとられた清香の口から、ぽろりと言葉が漏れる。
「……どうして」
「ここにいるかって? ヘルプの交代要員さえ見つかるなら、アルバイトって結構簡単に休めちゃうのよ」
身長はほとんど変わらないのに、姉の立ち姿は清香と比べて大きすぎた。
「ああもう、それとなく聞く予定が、なんで追い詰めた悪党みたいな登場になっちゃうかなあ。清香が逃げるのがいけないんだからね」
春香はのしのしと大またで近づいてくると、清香の肩をしっかりと掴んだ。逃げようという発想は、清香の中からとっくに吹き飛んでいた。
「はい、ソファに座って。お姉ちゃんとお話しましょ」
琴留高校の生徒会で伝説のように語り継がれている女傑の笑顔を、清香は初めて正面から見た。膝から力が抜けて、ソファにぽすりと腰が落ちる。
清香のすぐ隣に、春香もまた腰を下ろした。
「うーん。何から話そうかな。別に私は、清香と喧嘩しに来たわけじゃないし、一方的に怒ったりするつもりもないのよ。登場の仕方が悪かったのは分かるけど、もうちょっとリラックスしてほしいかな」
春香がやわらかく笑う。いつもの姉の笑顔に、清香はおそるおそるうなずいた。
「ええい、うるさい」
テーブルの上からすばやくリモコンをとり、春香がテレビを消した。自分に向けられたわけではないと分かっていても、清香はびくりとしてしまう。
「あー、なんか、そんなに怯えられると話しづらいんだけど。ちょくちょく姉妹喧嘩とかしておくべきだったかしらね」
春香がぽりぽりと頬をかく。
「ねえ清香。私がここ数日、あなたに何を話そうとしていたか、わかる?」
ゆっくりと噛んで含めるように問いかける春香に、清香はうなずく。
最初に姉が言ったとおり、清香と喧嘩をしにきたわけではないのだ。
清香はもう分かりきっている答えを、ぽそぽそと口に乗せる。
「そういち……黒川先輩はお姉ちゃんと付き合うから、わたしとは別れるってこと」
「は」
春香が絶句した。
清香が一度も見たことのない、間の抜けた顔だった。まん丸に見開かれた目が、清香をただ見つめ続ける。
長い沈黙のあと、春香がため息をついた。
「ようやく全部繋がったわ。なるほど、だからね。そういうことね」
「お姉ちゃん?」
予想していた反応と違いすぎて、清香には春香の言っている意味がわからない。
「最初にまず否定しておくけど、私と総一郎が付き合うなんてこと、ないから」
春香がそう言い切る。しかし、清香は知っている。
「でも、月曜日に、二人で会ってたんでしょう」
「何で知って……」
姉の動揺で、清香の疑惑は確信に変わる。
「廊下まで、聞こえてたもの」
ひとたび口にしてしまった言葉は、あとからあとから、清香の中に溜まっていたものを引き連れていく。
「アルバイトを始めたのだって、黒川先輩と同じところにいたかったからでしょ」
清香は下を向いて、ぎゅっと手を握る。
「お姉ちゃんたちのこと、今でも高校の生徒会で伝説になってる。歴代最高のコンビだったって」
言葉と一緒に涙があふれてきて、握った拳の上にぽたぽたと落ちた。
「お姉ちゃんの方がわたしより綺麗だし、胸だっておっきいし、足だって速いし、頭だって良いし、ずっと長く黒川先輩と一緒にいる」
言えば言っただけ、清香はどんどんみじめになる。けれど、あふれ出る言葉を止めることはできなかった。
「黒川先輩はきっと、わたしよりお姉ちゃんの方が好きだもの!」
するりと、清香の背中に春香の腕が回された。
「お姉ちゃん?」
「ねえ、清香。…………事実と憶測と劣等感とを全部ごっちゃにして、ひとりで勝手に落ち込んでるんじゃないわよっ」
同時に、春香の腕に恐ろしいほどの力が込められた。
「痛っ、痛い」
「駄目よ、今日は放してあげない。今の台詞は、私にも、清香自身にも、誰よりも総一郎に対して失礼よ」
ぎりぎりと、春香に抱きしめられる。どれだけ逃れようとしても、少しも緩む気配はなかった。
「順番に行くわ。月曜日に会ってたのは、清香の様子がおかしいって相談されたからよ。あんたみたいにおくてな子が、いきなりキスなんかしてきたら、そりゃあ総一郎だって変に思うでしょうよ」
少しだけ、清香を抱きしめる力が緩んだ。
「バイトがあそこなのは、美味しいコーヒーと本が割引になるから」
春香が一言しゃべるたびに、腕に込められた力が少しずつ弱くなる。
「生徒会は……そうね。総一郎は最高の相棒だった。あいつがいなかったら、私が任期中にやろうと思っていたことの半分もできなかったわ」
春香の声は、やわらかい。清香はじっとその言葉に耳を傾けた。
「確かに、私の方が清香より綺麗かもしれない。胸だって大きいし、運動もできるし、成績も良いし、総一郎との付き合いも長いわ。でも、清香の方がかわいいし、料理もうまいし、音感だってある」
清香の背中に回されていた手が離れた。肩が掴まれて、背筋をまっすぐに伸ばされた。正面に、姉の顔がある。
「しゃんとしなさい。私の良いところとばっかり比べてどうするのよ。清香の良いところを伸ばして、清香の駄目なところを直していけば良いの。あんたは私じゃないんだからね」
春香がにっこりと笑った。
「何より、総一郎は清香の恋人でしょう。自信を持ちなさい。自分を好きだって言ってくれている人を信じられないなんて、失礼よ」
清香は、姉が何と言ってくれても、最後の言葉にだけはうなずけなかった。
「黒川先輩は」
「ストップ。総一郎のこと、名前で呼ぶって決めたんでしょう」
姉の言葉にうなずき、清香は言い直す。
「……総一郎さんは、私のこと、好きじゃないかもしれない」
「はあ?」
春香が呆れた声を出した。
「わたし、お姉ちゃんも、総一郎さんのことが好きなんだと思ってた。お姉ちゃんたちが付き合っているなら、わたしに勝ち目なんか無いって、わかってた。でも、まだ恋人同士ってわけじゃないみたいだったから。だから、お姉ちゃんより先に言えば、総一郎さんの恋人になれるかもしれないって……思って」
「それで、清香から告白したの?」
こくりと清香はうなずいた。
「……あの、へたれが」
低い声で春香が呟いた。
春香がスマホを取り出して、凄い速度で文字を入力していく。ちらりと見えた画面にはタクシー会社のホームページが映っていた。
「あ、もしもし。琴留タクシーですか? 一台まわしてほしいのですけれど。ええ、お願いします。住所は――」
最後までよそ行きの声で電話を終えたあと、春香がにっこり笑う。
「直接言った事はなかったかしら。清香。あんたは、私の自慢の妹よ」
姉の口調は、清香が人に春香を自慢するときのものと全く同じだった。清香は、涙を拭ってほほ笑みを返す。
「お姉ちゃんだって、私の自慢の姉なんだよ。知ってた?」
「知ってたわよ」
そして、十七年の人生で初めて、清香は殺気というものを実感した。
春香が凄絶な笑みを浮かべる。
「さあ、乗り込むわよ」
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