第5話
晩御飯を食べたあと、清香はリビングでネコ型のクッションを潰していた。たまにパンチをしてみたりする。とにかく何かに意識を集中していないと、奇声を発して床の上をごろごろと転がり出してしまいそうだった。
やり過ぎだったかもしれない。今日だけで、清香は向こう二年分くらいの勇気を全部使い果たしてしまった気がしている。
いや、先週末、総一郎に告白したときにも一年分くらいの勇気を使っているので、合計したら三年分ほどの前借りだった。
しかし、後悔はしていない。やり過ぎなくらいでないと、駄目なのだ。
「清香、お風呂あいたわよー。って、何してんの」
髪を乾かし終えたらしい春香がリビングに入ってきた。その視線は、原型をとどめないほどに歪んだ顔になっているネコ型クッションへ注がれている。
「これは、その、ちょっとした運動」
「壊さないでよ。それ気に入ってるんだから」
呆れたような声の春香に、わかってるよ、と返した。このクッションは去年、琴留高校の文化祭へ遊びに来た春香が買ったものだった。フリーマーケットで売られていたものに一目ぼれしたのだという。
「お風呂は……んー、次のCMになったら入るね」
別に真剣に見ていたわけでもないバラエティ番組だが、なんとなく立つタイミングではなかった。それまでの間、清香はもうすこしだけクッションを潰す。
「んで、デートの首尾はどうだったのよう」
などと後ろから抱き付いてくる姉に、要領を得ない報告をしていると、スマホが着信を告げた。清香のものではない。
聞き覚えのあるメロディ。メヌエット。いや、ラバーズコンチェルトだ。
清香の背中にかかっていた春香の体重が消える。清香は振り向いて姉を見た。LINEではなかったらしく、春香がスマホを耳にあてるところだった。
「かける相手間違ってない?」
「お姉ちゃん、さすがにそれは電話をかけてきた人がかわいそう」
人に電話をかけて、第一声でそんなことを言われたら、清香なら泣く。
清香の呟きが聞こえたのか、春香はちらりとこちらを見た。
「ストップ、ストップ。部屋に行くから、ちょっと待ちなさい」
春香は一度電話を耳から離すと、通話口を手で押さえた。
「清香。お風呂上がったら、お母さんに声かけてね」
わかったと清香が答えると、春香はよしとうなずいて廊下へ出ていった。
その背中を見送って、清香はテレビに視線を戻す。新しい洗剤がいかに良く汚れを落とすかというCMを、容赦なくリモコンで沈黙させた。
清香は一度自室へ戻り、お風呂に入るための着替えを用意する。準備万端ととのえて部屋を出ると、姉の部屋からさきほどの電話の続きらしい声が聞こえてきた。
「わかったわよ。じゃあ明日、バイトのあとで。場所はどこでも良いわ。それから、ちゃんと清香に電話してあげてよね」
会話の中に自分の名前が混じっているのを聞きとがめて、清香は足を止めた。止めなければ良かったと、後悔した。
「じゃあね、総一郎」
総一郎、と呼んだ姉の声に、清香は膝から崩れ落ちそうになる。壁に手をついて、なんとか体を支えた。ここにへたり込むわけにはいかなかった。今にも、電話を終えた春香が部屋から出てくるかもしれない。
電話を聞いてしまったことを、姉に知られるのは嫌だった。
そろそろと足を動かして、清香は階段を下りた。足音は、たてなかったと思う。
◆
清香は二回かけ湯をして、ざぶりと湯船に体を沈めた。顎までお湯につかって、ひざをかかえる。
「……どうして」
どうして、に続くものが多すぎて、そこから先は言葉にならない。
清香はもう一度、どうして、と呟いた。
脱衣所で、スマホが鳴った。着信音は翼をください。総一郎からだ。
サビに入ったところで、曲は止まった。しばらくして、また鳴り出す。
清香はぎゅっと目を閉じた。今はお風呂に入っているから、電話に出ることはできないのだ。清香はひざを強くかかえた。電話には、出られないのだ。
清香がお風呂から上がると、もう十一時をまわっていた。ずいぶんと長湯をしてしまったようだ。リビングでテレビを見ていた母に声をかけると、長風呂したいなら最後に入りなさいと言われた。
スマホの着信履歴は何度か総一郎からの電話があったことを主張していた。もちろん、遅い時間だったのでかけ返すことはしなかった。
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