第4話

 話題に詰まるか、混んできたら出ようと総一郎は考えていた。しかし、店内が混む気配も、話題が尽きる気配もなかった。

 カフェコーナーはもともと買った本の座り読みスペースだ。コーヒーだけで二時間、三時間という客はざらにいるので、長時間居座ることに後ろめたさはなかったが、いくらなんでもずっと地下にこもりっきりの初デートでは味気ない。

「そろそろ行こうか?」

 タイミングを見計らって総一郎は提案した。清香もそうですねとうなずいて、立ち上がる。

 行こうか、とは言ったものの、実はこのあとはノープランの二人だった。

 返却口にカップを返して、カフェコーナーを出る。地下は半分ほどが飲食スペースに割かれているが、残り半分のスペースは普通の書店だ。主に娯楽小説やコミックなどが置いてある。

「何か買いたい本とかある?」

 総一郎が聞くと、清香は軽く首をかしげた。

「うーん、今は良いです。私が少女漫画のコーナーを隅々まで探索とかしだしたら、総一郎さんも困るでしょう?」

「確かに、それはちょっと辛いかなあ」

 漫画を読まないわけではないが、少女漫画となると総一郎にとっては完全に未知の領域だった。加えて、これがすごく面白いんですよと勧められたとしても、じゃあ読んでみるよとは言いづらい。

「映画……に行くには、ちょっと時間が足りないな」

 総一郎は店の壁にかかっている時計を確認しながら言った。桜井家に明確な門限があると聞いたことはないけれど、清香はまだ高校生だ。夕飯までには送り届けるのが礼儀というものだろう。

 とりあえずは店を出ようということで、二人は一階へ向かった。

「あれっ、黒川さんデートですか?」

 階段を上りきって一階に出るなり、総一郎は声をかけられた。良く見知った茶髪の青年が目を丸くしている。

「壁井、お前まだ入ってなかったのか」

 本来なら春香の代わりに地下のカウンター内にいなければならないはずの男は、決まりが悪そうに頭をかいた。

「いや、出掛けに病院から連絡があったんですよ。これでも急いで来たんで、勘弁してください」

 壁井は詳しく言わなかったが、病院という単語で総一郎には察しがついた。入院しているという壁井の祖母がらみの話なのだろう。格好や言動こそおちゃらけているが、仕事に対する姿勢はまじめな男だ。本当に急な話だったに違いない。

 くい、と袖を引かれて、総一郎は振り向く。清香が所在無げな表情になっていた。

「あ、すんません。お邪魔でしたね。彼女さんもごめんなさい」

 それに気づいた壁井が、ぺこりと清香に頭を下げた。そして、清香の顔を見て、首をかしげる。

「……どこかで見たような」

「阿呆、春香の妹だよ」

 総一郎は、いきなりナンパみたいなことを言いだす壁井に突っ込みをいれた。

 隣で清香が頭を下げる。

「お姉ちゃんがいつもお世話になっています」

「ああ。あー……だから、か」

 納得したという風に壁井は呟く。にこりと笑って、清香に挨拶を返した。

「こちらこそ。春香さんからお噂はかねがね」

「ど、どんな噂を流されているんでしょう」

 清香の笑顔が軽くひきつる。

「だいたい清香ちゃんの想像しているとおりだと思うよ」

 総一郎は苦笑しながらフォローを入れた。春香の妹自慢は休憩室でも日常茶飯事となっている。

「壁井、良いから早く中に入れ。遅れてるんだろう」

「そうでした。じゃあ、黒川さんも妹さんも、失礼します」

 壁井はぺこりと頭を下げたあと、スタッフオンリーと書かれた扉の奥へ消えた。

「……騒がしい奴だ」

「今の人が壁井さん、ですか?」

 清香の問いにうなずきを返す。

「そう。もしかして、春香から何か聞いてる?」

「えっと、顔を会わせるたびに告白してくる、って」

 壁井が春香に好意を向けているのは確かだが、さすがにそれは言いすぎだった。総一郎は壁井の名誉のために訂正してやる。

「いくらなんでも顔を会わせるたびってことはないよ。そうだな、おはようございますとお疲れ様ですの代わり、くらいかな」

「情熱的な人なんですね」

「空回りっぷりを見ているとちょっと不憫になってくるけどね」

 春香がこの書店にアルバイトとして入ってきて、一ヵ月たったころにはもうそんな感じだったので、かれこれ一年近くは玉砕し続けている計算になる。

「春香もなあ。もてるくせに誰ともつきあわないんだよなあ」

 昔から、春香狙いだという男子生徒の噂は数え切れないほど聞いたし、仲介も何度か頼まれたことがある。けれど、良い返事をもらったという報告は一度も聞いたことのない総一郎だった。

「お姉ちゃん、良く言ってますよ。私みたいにハイパーでグレートな女につり合う男なんて、そうそう転がっているわけないでしょう、って」

「あ、今のすごく似てた」

 さすがに姉妹だけあって、特徴を良く掴んだ物まねだった。

「似てましたか? うーん、本当はこういうのじゃなくて、しっかりしてるところとか、優しいところとか、そのあたりを似せたいんですけど」

 困ったように笑う清香につられて、総一郎も笑った。


   ◆


 総一郎は慎重に桜井家の前で車を停止させた。初心者マークはとっくに取れているが、隣に清香が乗っていると思うと、運転は自然と丁寧になった。ギアをパーキングに入れて、エンジンを止める。

「あ、お姉ちゃん帰ってきてる」

 車庫の中にある車を見て、清香が言った。

「春香の奴、車を買ったのか?」

 総一郎が聞くと、清香は笑って首を振った。

「違いますよ、たまにお父さんの車を借りているんです」

「ああ、俺と同じか」

 総一郎も今日は、頭を下げて親の車を借りてきていた。ガソリンを満タンにして返すのが条件である。

「そうですね。それに、お姉ちゃんが車を買ったとしても、停める場所がないからどこかに駐車場を借りないと」

「確かに」

 交通の便が悪いので、一家に一台は車があることが普通の地方だが、二台も三台も車を止められるような敷地はそうそうない。

「今日は、ありがとうございます。すごく楽しかったです」

 ワールドエンド・ブックストアを出たあとは、駅前にある総合デパートでいろんなお店を見て回った。

 好みを探るという目論見どおり、清香がかわいいと言っていた小物入れは、こっそりとスマホにメモしておいた。確か、誕生日は七月六日だったはずだ。

「うん、俺も楽しかった。また、一緒に遊びに行こうね」

「はいっ」

 清香が大きくうなずく。

 その嬉しそうな顔を見て、次はこっちから誘おうと、総一郎は密かに決意した。

 清香はシートベルトを外したあとも、なかなか車から降りなかった。もう少し話したいのかと、総一郎は清香の目を見る。

「えっと、その」

 総一郎の視線から逃げるように、清香は右に左に目をさまよわせたあと、決心したように小さくうなずいた。

「総一郎さん、五秒だけ、あっちを向いてもらって良いですか?」

「良いけど」

 意味が分からないまま、総一郎は窓の外を見る。背後から、すーはーと深呼吸をしているらしい音が聞こえた。

「もう、こっち向いても良いですよ」

 なんだったのかと、総一郎が首をかしげながら振り向いたのと、すっと清香の顔が近づいてきたのは同時だった。

 唇に、やわらかいものが触れる。総一郎は目を閉じることも、視線をそらすこともできなかった。キスされているのだと、遅れて理解する。

 それだけでも頭がまわらなかったというのに、上唇と下唇を割って、清香の舌が入ってきた。

 声にすらならない驚きで、総一郎は清香から体を離してしまう。心臓が顔までせり上がってきたのではないかというほど、耳ががんがんと鳴っていた。

 小さくあいた清香の口から、舌が見える。清香は一度口を閉じると、真っ赤な顔で、ぺろりと舌を出した。

「ど、どきどき、しました?」

 総一郎が何かを言うより早く、清香はするりと車を降りた。

「また、電話しますね」

 ばたん、と車のドアが閉められた。総一郎は清香を追って視線を動かす。玄関の前で振り返った清香と、目が合った。

 最後に小さく手を振って、清香は家の中へ姿を消した。

 数十秒前に起こったとんでもない事件を、総一郎はまだ信じられなかった。

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