第3話

「お待たせ」

 言いながら、総一郎は清香の前にコーヒーを置いた。

「ありがとうございます」

 礼を言った清香は、ソーサーに乗ったミルクと砂糖に気づいたようだった。不満そうな顔をして呟く。

「……お姉ちゃんだ」

「正解。カフェオレとかもあったのに」

「黒川先輩とお揃いが良かったんです」

 清香の眉間によっていたしわは、すぐに消えた。その代わりに、得意げな表情で胸を張る。

「それに、特訓中ですから。ブラック……は無理でも、砂糖だけで十分です」

「うん、そりゃあすごい」

 総一郎は漏れそうになる笑いを必死に堪える。笑っては、悪い。本当はブラックのままで飲んでみせるつもりだったのだろう。

 清香は砂糖だけをコーヒーに入れると、スプーンでかき混ぜた。何度か息を吹きかけて冷ましたあと、一口すすりこむ。

 さっき消えたばかりのしわが、また清香の眉間に戻ってきた。

「……にが」

 小さな呟きを聞き取ってしまい、堪えきれずに総一郎は吹き出した。

「わ、笑いましたね」

「ごめん。いや、馬鹿にしているわけじゃなくて、その、かわいくて」

 たったそれだけの言葉で赤くなってうつむいてしまう清香に、総一郎はフォローを入れる。

「うちのコーヒーは濃い目に作ってあるから。苦めなんだよ」

 深煎りの豆で、抽出時間も少し長い。春香のことだから、そこら辺も見越してミルクと砂糖を大量につけたのではないかと総一郎は考える。

 なんとも悔しそうな表情で、清香はミルクを二つ追加した。改めてコーヒーに口をつけて、うなずく。

「これなら飲めます」

 飲めるであって美味しいではないあたり、まだまだ修行が足りていない。総一郎は自分のコーヒーを一口飲んで、ブラックを美味しく感じるようになったのはいつごろだったか思い出してみた。

「結局、飲み慣れるのが一番なんだよなあ。俺の場合、高校の生徒会時代の影響が大きい気がする。前任の先輩たちが残していった備品の中にコーヒーがあったんだけど、砂糖もミルクもついていなかったんだよ」

 最初のうちは苦い苦いと顔をしかめながら飲んでいた総一郎だったが、気がつけば缶コーヒーは甘ったるすぎて飲めなくなっていた。

「あ、お姉ちゃん……も、同じことを言っていました。誰も砂糖とミルクを買ってこようって言わなかったんですか?」

 清香が不思議そうな顔で問いかけてくる。

「誰か買ってくるだろう、って思ってたんだよ。明日には買ってきてあるはず、なんてにらみ合っている内に、生徒会役員はみんなブラックで飲めるようになってた」

 もしも誰かが思い切って砂糖を買ってきていたら、総一郎はまだコーヒーをブラックで飲むことができなかったかもしれない。

「それは、良かったんでしょうか、悪かったんでしょうか」

「良いも悪いも無いような気がするけど。なるようになっただけだから」

 そういえばと、総一郎はひとつ思い出したことがあった。

「ああ、でも春香は何か言ってたな。先輩たちはわざとコーヒーパウダーだけ残していったのかもしれない、とか」

 今に至っても、総一郎にはその言葉の意味が良く分かっていない。けれど、次期生徒会へ引き継ぐとき、春香は餞別と称してわざわざお徳用のコーヒーパウダーを買ってきた。もちろん、砂糖もミルクもなしで。

「春香のやることだから、ただの嫌がらせとか意趣返しとかでは無いと思うんだけど」

「お姉ちゃんのこと、信頼しているんですね」

 清香にそう言われると、総一郎としては反応に困ってしまう。総一郎が春香に一目を置いているのは確かだ。けれどそのことが清香を通して春香の耳に入ったとしたら、当分の間からかわれる気がする。

 しかし単純にそんなことはないと返せば、清香ががっかりする気もしている。春香のシスコンは度を越えているが、総一郎の姉妹観からすれば清香も十分にシスコンと言えた。

「信頼は言いすぎだけどな。すごい奴だよ、春香は」

 結局、総一郎は清香の喜ぶ方を選んだ。天秤にかかっているのが自分の恥なら、安いものだった。

 清香がコーヒーカップを包むように持って、にっこりと笑った。

「はい、自慢の姉なんです」

 やはり姉妹だ。笑い方も良く似ている。総一郎は思わず、顔が緩みすぎだと突っ込みをいれてしまうところだった。

 それにしても、一番良い笑顔を引き出せるのが春香の話題というのは、情けない。

 いや、共通の話題は、これから少しずつ増やしていけば良いのだ。案外デートというのはそのためにあるのかもしれないと、総一郎は気がついた。


   ◆


「あの、黒川先輩」

 清香は続きを言おうとして言いよどみ、一度コーヒーカップに口をつけて間をとってから、改めて総一郎に目を合わせてきた。

「し、下の名前で呼んでも、良いです、か」

 言いながらどんどん恥ずかしくなってしまったのか、最後の方はほとんど消え入りそうな声だった。

 清香の恥ずかしさが伝染して、総一郎まで顔が熱くなる。

「良いよ。呼んでくれると、嬉しい」

 桜井と苗字で呼んではどちらかわからないので、総一郎は初めて会ったときから清香ちゃんと呼んでいた。しかし、清香はずっと総一郎のことを先輩と呼んできている。呼び方を変えることは、清香にとってひとつの壁なのだろう。

「えっと、じゃあ、その……」

 清香が一度息を吸って、ためて、ゆっくりと言った。

「総一郎…………さん」

「はい」

 上目遣いの清香に目を奪われて、思わず淡白極まりない返事をしてしまった。総一郎は密かに恥じ入る。今このタイミングで、なんだい清香、なんて返すことができていれば、総一郎も自然に呼び方を変えることができたはずなのだった。

 総一郎はこういうとき、清香はやはりあの春香の妹なのだと実感する。告白も、今日のデートの約束も、名前の呼び方も、いつも行動を起こすのは清香だ。

「ど、どうしたんですか。難しい顔をして。あの、やっぱり嫌でしたか? 名前で呼ばれるの」

「違うんだ。ちょっと自分が情けなくなっただけ」

「総一郎さん……は、情けなくなんかないと思いますけど」

 まだ少しぎこちないが、清香は総一郎の名前を呼ぶ。決めたことを曲げないのは、清香の強さだ。

「清香ちゃんがそう言ってくれると、情けなくない男になれる気がするよ」

 清香の見ている総一郎は、きっと本当の総一郎とは全然違う。見栄を張っているわけではなく、彼女の理想に近づきたいと思った。

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